ツーリング日和15(第18話)美味しいけど・・・

 食事時になっても不愛想な宿だな。だって料理を運んできても並べるだけで、料理の説明も聞かれない限り答えないんだもの。普通は料理を並べる時に世間話の一つぐらいするじゃないの。

 どこから来たかとか、どこを見て来たとかさ。そこからどこを見るべきかとか、お土産ならあそこで探すのが良いとかの話が盛り上がるものでしょ。そりゃ、やらなければならないものじゃないかもしれないけど、

「それも宿に泊まる楽しみの一つやもんな」

 もちろん尋ねれば答えてはくれるみたいだけど、こっちだって初対面じゃない。どうして客の方が座持ちしなければならないのかって話だよ。そういう雰囲気を作るのも接客業でしょうが。

 それでも味の評価は素直に美味しい。どれもしっかり手が入っているのがわかるもの。だけどそれを本当に評価できる人がどれだけいるのかな。ここのメニューは御主人がその日の漁港で獲れたものとか、市場で目に付いたもので日替わりで組み立てるみたいだけど、

「人は値段と材料費の関係を結び付けて考えてまうもんや」

 料理だから評価されるのは味のはずだけど、味の評価は主観が大きすぎるのよね。とくに外食ならコスパで左右されやすい。

「マイの口癖やんか。料理は心やってな」

 マイは神でさえひれ伏す異常な味覚を持ってるけど、美味に対する考え方は極めてドライで、食べる人がその値段と味で満足するかどうかがすべてみたいなところがある。もっとも、

「あの神をも凌ぐ味覚での味の評価やけどな」

 なのにコスパ重視なのよ。今日の料理の美味しさは、料理人が工夫を重ねた賜物なのはわたしやコトリならわかる。でもさぁ、そこがわからないとコストの比重が重くなるのが人だよ。マイならどう評価するだろう。

「あいつの店への評価もシンプルや。その値段のその料理で商いが成立しとるかどうかだけやんか」

 なのよね。なにが言いたいかだけど、この素材でこの味が出でせる点を評価できない人には、

「コスパの悪い献立に見えそうや」

 そう見せないようにする一つの手段が能書きとか蘊蓄なのよね。たいしたものじゃなくて、たとえば今日ならカサゴがメインのはず。カサゴはね高級魚なのよ。でもね、スーパーとかで売っているようなものじゃないから、カサゴが高級魚であるかどうかも知らない人も多いはずなのよ。

「知らんかったらタダの白身の魚や」

 だから説明をするんだよ。さらに言えばどうして今日はカサゴを選んだのかの理由もね。そうすることによって、客の今日のカサゴに対する先入観が出来上がるのよ。この先入観があるとないとでは、

「倍ぐらい味が変わるんちゃうか」

 能書きや蘊蓄を垂れまくるのが良いわけじゃないけど、せめてだよ、

『今日は良いカサゴが入りまして・・・』

 これぐらいはどこでも言うよ。そこでカサゴを良く知らない客なら、カサゴについての話が広がるし、そこで話が広がって客も期待して料理に臨めるのよ。

「純粋に味で勝負のつもりかもしれんが、あれは看板があってのもんや」

 看板効果も大きいのよね。看板はこの店なら美味しいものを必ず出すと思い込ませているのが大きいはずなんだ。だから料理の味の工夫を客も必死になって見つけようとするぐらいの関係かな。

「関西には少ないけど、東京では多いそうやな」

 客が味をわからなかったら見下すってやつだろ。それもおかしいとは思ってる。料理屋になにをしに行ってるって話になるじゃない。別に料理クイズをしに行ってる訳じゃないもの。自分でわかればそれで良いけど、

「教えてもらって美味しく感じてもノー・プロブレムや」

 もっと言えば大将の言葉に騙されて美味しく感じても、

「ノー・プロブレムや。客はな、その店に満足するために行ってるんやからな」

 マイの美味基準はこれを極限にまで推し進めたもの。マイはこうとも言ってたのよね。

「味がわかり過ぎる奴は不幸や」

 騙されたって美味しく感じて、自分が満足出来れば料理はそれで十分ってね。料理人はただ美味しい料理を作るのが仕事じゃなく、客を満足させる料理をいかに作れるかってやつ。

「それをマイが言うから途轍もなく重いわ」

 マイはほんじょそこらのグルメじゃない。料理のすべてを瞬時に精密分析できるぐらいの神の舌を持っている。その舌は女将をやっている関白園の水準を途轍もなく高くしている。あれだって、関白園の料理にはそれが求められているのを知ってるからだよ。

「平然と関白園よりフェリーのバイキング料理を上にするぐらいやからな」

 あれはフェリーというシチュエーションで客が何を望むかを判断の前提にしてるのよね。同じ料理でも食べるところで味と満足感がまったく違うのを知り過ぎるぐらい知ってるのよね。

「真の美味は一つやないと言い切るし、それこそ料理の神髄って言うもんな」

 それだけじゃない。真の美味はあるかもしれないと平気で付け加えるぐらい、

「それもこれも含めて楽しむのが料理だってな」

 話は少し逸れるけど、マイはあれだけの味覚を持ちながら他の店の料理の真剣な評価は滅多にしないのよね。わたしたちが知っているのなら福井の幸楽園で元弟子の英二の料理ぐらいかな。

「あれかってやったんは清次さんや。そやけどやらされた清次さんのプレッシャーは半端やなかったと思うで」

 言われてみればそうだ。それはともかく、

「この辺での店の評判は知らん。こっちは遠方から来た一見さんや。まあ店の造りからして目指してる路線はわかるけどな」

 そう見るか。それも生き方だけど、こんなところで成立するのかな。

「するんちゃうか。某グルメ漫画の店より来やすいし、値段も安い」

 となるとこの宿は、

「高級料理民宿や」

 そういう店にそういう心構えを持つ客だけを相手にする商売か。

「こういう店は関西には少ないな。どっちかいうと東京流儀に多い気がするわ」

 そんなとこはありそう。

「つうか、この宿全体がそうやろ。どっちか言わんでも東京流儀や」

 上手いこと言うね。こういう、ここまで来いの不愛想なサービスを有難がるところが東京人にはあるのよね。でもマイじゃないけど、そんな流儀でも商売として成り立っているなら文句はない。

「そやけど、次はけっこうや」

 わたしにもコトリにも合わないかな。