ツーリング日和15(第8話)しおかぜライン

 朝食を済ませて出発だ。あれっ、インカムは合わせないのか。コトリも何か察したか。インカムは合わせたら話も出来て楽しいけど、その代わりにこっちの会話も筒抜けになるからね。

 あの二人の情報を得るにはインカムを合わせた方が良いけど、それよりわたしとの話を聞かれる方が良くないの判断だろう。そうしておく方が今回に限っては正解の気がする。用心に越したことはないものね。

 今日はまず宿から北上して、日向水道の手前で右に曲がり久々子湖の北側を通り早瀬川を渡る。ここが久々子湖と日本海がつながっているところになるけど狭いね。

「平安時代はパカっと開いとってんやろな」

 そこから久々子湖の東側を少し南下して、これで三方五湖とお別れ。海の方が市街地になるから、この道はバイパスみたいなもののはず。

「不自然なぐらいまっすぐやもんな」

 道なりに走って行くと国道二十七号に突き当り小浜に向かって走る。前回の時のような歴史ムックツーリングじゃないから国道二十七号をひた走り、国道八号にぶち当たったら左折して北上。でもさぁ、気比の松原ぐらい寄ってやった方が良かったんじゃない。

「コトリのプランに合わせてもらう」

 冷たいな。国道八号は金ヶ崎城と手筒山城の間ぐらいのトンネルを抜けていくのだけど、

「尻啖え孫市で司馬遼太郎が思い描いとった木の芽峠からの道やけど・・・」

 あれからもコトリは執念深く確認してたみたいだけど、木の芽峠から敦賀に下りて来た道は手筒山の麓を回って気比神宮に行くで良さそうだって。考えれば古代だってそうのはず。言うまでもないけど山中越も丹後街道だって気比神宮に通じてない方が不自然だ。

 手筒山城は木の芽峠を抑える位置にあるから信長も真っ先に落としたのかもしれない。ここももう少し想像したら、手筒山城が落ちて木の芽峠への退路を塞がれ、そのために一乗谷からの援軍が期待できなくなったから金ヶ崎城も開城したで良い気がする。

 だけど金ヶ崎の退き口の時に、手筒山城が木の芽峠を抑える機能があったかは疑問とコトリしてた。そりゃ、信長公記には手筒山城の攻防戦で千三百七十人を討ち取ったとしてるぐらいだもの。

 この数もかなり盛ってる感じもあるけど、時間こそ短いけどかなりの激戦で、激戦だから城の機能は落ちて使い物にならなくなっていたとしてもおかしくない。だって浅井の離反を知ったのはたった二日後ぐらいの話だもの。

「機能しとったら秀吉が殿戦やるのは金ヶ崎やのうて手筒山城やろ。手筒山城におってこそ、撤退してくる他の部隊に挨拶したり、朝倉軍が撤退する信長軍を追撃するためこの城が邪魔やから攻められるのがわかるやんか」

 二つの城は近いけど、金ヶ崎城では木の芽峠を抑えられないし、秀吉に二つの城を守るほどの兵力はなかったはず。

「そやから、司馬遼太郎は地理を完全に勘違いしとったんちゃうやろか」

 完全って?

「木の芽峠はどこを通ってるかや」

 国道八号のこの部分は敦賀街道とも呼ばれるけど、この敦賀街道は明治になって出来た道なんだ。つまりは戦国時代にはなかったってこと。敦賀街道は高速が出来るまで福井平野と敦賀を結ぶ唯一の幹線ルートだったのよね。

 司馬遼太郎が尻啖え孫市を執筆している時もその状態だよ。一方でもともとの古代北陸道でもあった木の芽峠はクルマが走れる道にはならず、さらに道としても廃ってしまっていて、

「そやから司馬遼太郎は木の芽峠に行ってるとは思えん。佐柿ですら怪しいからな。福井平野から山越えぐらいは知っていても、その道はどこかで敦賀街道に下りて行って金ヶ崎城の北側に通じてると思い込んでしもたんちゃうか」

 もっとも撤退する信長軍の部隊が、秀吉に部下の精鋭を貸し与えるシーンは甫庵信長記がネタだから、そこを脚色しただけの可能性も残るけどね。トンネルを二つ抜けてしばらく走るとシーサイドロードに。向う側に敦賀半島が見える敦賀湾の東側だ、

 ひやぁ、これ気持ち良いじゃない。シーサイドロードもあれこれ走ったけど、絶景ロードになる条件はシンプルで、いかに海が良く見えるかなのかのよ。そう、海が近いだけなら単なる海岸線の道だもの。

 残念なところは海に近いはずなのに松林はまだしも、高い堤防で完全に視界が遮られているのもある。それだけ海が荒れた時の波が高いのだから仕方がないけど、ツーリングコースとしたらイマイチになってしまう。

「しおかぜラインって方に行くで」

 あそこを左だな。これは、これは良いよ。海が近いし、道路は低いし、堤防も低いから見晴らし最高じゃない。手前に見えるのは敦賀半島だけど奥に見えるのは、

「丹後半島や」

 道は快適だし、コトリの歴史講釈も炸裂しないから最高だ。

「聞こえてるぞ」

 だいじょうぶ。気にしてないから、

「気にするのはこっちや」

 福井県にはラインが付く道が三つあるらしいけど、これでレインボーライン、エンゼルラインに続いて三つ目も制覇だ。そうそうこのしおかぜラインだけど、距離自体は十キロ足らずで、

「次のトンネル抜けて突き当たったら左や」

 らじゃ、ほう、トンネルを抜けたらすぐに橋があって、渡ってすぐの信号だな。この交差点がしおかぜラインの終点で良いみたいだ。ここからは漁火街道に名前が変わるけど、こっちもシーサイドロードとしてなかなかだ。

「ちょっと休憩や。道の駅に入るで」

 こりゃまた立派な道の駅だ。巨大な屋根付きのエントランスと言うか駐車場があるのは雪国からかな。道向かいにあるのは越前がにミュージアムで、温泉から体育館まであるのか。立派なレジャー施設になってるのね。

 ここまで一時間ぐらいか。休憩代わりに土産物も漁って・・・やっぱりツーリングはこうでなくっちゃ。こういう道との出会いがあるからツーリングはやめられない。道の駅から十五分ぐらいで、

「このトンネル抜けたら停まるからな」

 呼鳥門トンネルって書いてあるけど、潜ってみると、

「右側の駐車場に入るわ」

 神社の駐車場みたいだけど、ま、いっか。そこから歩きになったけど、ここって確か、

「ユッキーも来たことあるんか」

 さすがにないよ。昭和の家族旅行、それもクルマで福井は遠すぎた。あの頃だって名神は開通してたけど、米原からはそれこその北国街道での山越えで、

「そやったな。わざわざ敦賀まわって敦賀街道走る奴は珍しかったんちゃうか」

 コトリは来たことあるの。

「あるで。あの時は学生やってんけど、ダチの乗ってる軽自動車が高速走るとうるそうて、うるそうて・・・」

 北陸道は出来てたそうだけど、八十キロも出すとクルマの中で話も出来ない状態になったぐらいの代物だったそう。当時の軽ってそんなのが普通だったものね。

「そやったな。エンジンは壊れるか思うぐらいガンガンにうるさいし、ハンドルはビリビリくるし、車体はミシミシ言うし、分解せえへんか怖いぐらいやった」

 そ、それは当時でもかなりオンボロだと思うよ。たまりかねたコトリたちは、わざわざ敦賀で下りて越前海岸を北上したんだとか。呼鳥門と言っても鳥が通り抜けるわけじゃなくて、この道が一九五八年に県道として開通した時に当時の県知事が命名したもの。

「その後に県道から国道に格上げされて、国道で唯一の天然トンネルとして使われとってんや」

 その後は自然崩落とかがあって今のトンネルに付け替えられて今に至るか。崩れ落ちなきゃ良いのにね。その時にしおかぜラインも走ってるよね、

「あの頃は河野海岸有料道路でケチッて走ってへん」

 ここで健太郎と愛子が不思議そうに、

「コトリさんって幾つなんですか?」

 ああ、若そうに見えるけど、生きてるのが不思議なぐらいのBBAよ。

「他人のことを言えるんか! もうすぐ順送りで逆転や」

 まあそうだけど、この歳まで生きているコトリは初めてだから新鮮だけどね。さてと次に目指すのは、

「三国湊や」

 それじゃわからないでしょうが! せめて東尋坊の方に行くって言いなさいよ。でもまぁ、歴女のコトリの気持ちもわかる。歴史に何度も登場してくる有名な港だものね。室町時代にも三津七湊の一つに数えられたところだからね。江戸時代にも西廻航路、いわゆる北前船の隆盛とともに栄えたのだけど、

「河口港の宿命と、鉄道との競争に敗れて今は昔や」

 三国湊の後継として福井港はあるけど、申し訳ないけどローカルな港だものね。そういう港は多いけど寂しいのは寂しいね。

「十三湊よりマシやけどな」

 だったよね、あそこは十三湖になってたものね。