朝は野天風呂も考えたけど、内風呂にした。野天風呂は景色は良いけど、やっぱり恥しいもの。へぇ、温かい方が加熱してあって、ぬるくて乳白色の方が源泉なのか。これは檜風呂みたいだけど気持ちイイ。お食事処に加藤さんと行ったのだけど、あの二人が待ち構えていやがった。
「あちゃ、まだか」
「なにしてるのよ」
ほっとけ。そんな簡単なものじゃないでしょうに。
「簡単やで」
「入れるだけじゃない」
それが朝一番の会話か! ホントにエレギオンHDの社長と副社長なのかな。とにかくモロで下品すぎる。女の恥じらいを知らんのか。だけど加藤さんは慣れてるみたいで気にもせずに、
「今日でっけど・・・」
今日のツーリングコースの確認に余念がない感じ。
「・・・その南ルートの起点に行こうと思たら、この別荘地みたいなとこ抜けなあかんってことか。行ったことあるか」
「前に一度ありますわ。かんなり細いとこでっけど、なんとかなると思いま」
加藤さんならだいじょうぶのはず。宿からは加藤さん、エル、あの二人組の順で出発。
「コトリが三番目で」
「わたしがしんがりよ。紹介を省略しないでね」
細かいな。まず昨日宿まで来たダートを戻り、高峰高原ホテルのところで北に向かう道に入る。しばらくは二車線の快適な道だったけど、
「しばらく狭い道になりまっせ」
てか、狭い、細い、ダート、そのうえヘアピンの三拍子じゃない。ひぇぇぇ、なんて道を走るのよ。エルが転んだら責任取ってよね。
「責任ぐらいでエエんやったらナンボでも」
冗談言ってる場合じゃない。こんなとこ本当に走れるの。
「走れるのだけは、たぶん」
たぶんじゃダメ。なんとか転ばずに舗装道路まで出たけど、ここもガチの一車線。前からクルマが来たらアウトじゃない。
「こんなとこあんまり走らんはずでっけど」
だから『はず』じゃダメだって。そんなことを言ってるうちに、これって別荘なの。
「住むには不便そうやし、妙にこじゃれてますやんか」
とは言うものの、建っている家はまばらも良いとこで、空き地らしきところは草ボウボウじゃない。軽井沢の別荘開発の一環で造成こそされたものの、あんまり売れなかったんだろうな。ふへぇぇ、それでもこんなところにホテルまであるのか。
「ここだけやのうて、ペンション村かってありまっせ」
やっと出た。二車線の目もくらむような広い普通の道だ。森の中の迷子にされそうだったもの。
「つぎの角を左ですわ」
なんか小さな看板にパノラマラインって書いてある。でもさぁ、こういうものって、
『〇〇パノラマライン』
こうするものじゃないのかな。だって日本中にパノラマラインってありそうじゃない。それでも道路は快適そうだ。もっとも、さっきまでの迷路に較べたら、どこでも快適なようなものだけどね。なんか突然開けて来たけど、
「わぉ、これが噂のキャベツライン」
「ちゃいまんがな、つまごいパノラマラインや」
あははは、見渡す限りのキャベツ畑なのか。レタスとか白菜もあるのかもしれないけど、エルには同じように見えそうよね。つか、畑にキャベツが植えられてるのを初めて見た気がする。
「キャベツ畑と言えば」
「赤ちゃんね」
欧米では赤ちゃんがキャベツから生まれるって話がある。そうだな、日本ならコウノトリが運んでくるみたいなものかな。
「コトリの友だちにヤバイ日に生でやってもて、コウノトリが来たらマシンガンで撃ち落とすって言うてたのがおったな」
「ダメよ、特別天然記念物だから捕まっちゃうよ」
比喩と現実をゴッチャにしてどうするのよ。それにしても広いし、こんな風景、ここに来なくちゃ見れないはず。
「こんな風景と言えば」
「値崩れしたらトラクターで踏みつぶす」
あのねぇ、よくそんなもの思いつくよ。もっともエルだってキャベツのニュースはそれしか知らないようなものだけど、ここがその舞台なのか。
「もうちょっと素直な見方が出来まへんか」
でもキャベツならではの風景かもしれない。キャベツって背が低いし、整然と並べて植えてあるじゃない。向うの山とかが遮るものなく見えるのよね。道は緩やかなアップダウンがあるから、丘陵地帯になるのだろうね。
「♪キャベツ、キャベツ、高原キャベツ」
「ユッキー、変な歌はやめてくれ」
十五分もすればキャベツロードを走り抜けて、
「だから、つまごいパノラマラインって言うてまんがな」
そうだっけ。
「この交差点を抜けたら北ルートになりまっさ」
さっきまでが南ルートか。続いてるのだから、わざわざ分けなくても良さそうだけどね。
「ちょっと休憩しまっさ」
「絶対休憩するって思った」
「外すわけあらへんやろ」
はぁ、えっと、ここは愛妻の丘だって!
「そやで、ここは叫ぶスポットやねん」
「それも奥さんに愛してるってね」
あのぉ、このマスツー集団で既婚者はいないじゃない。
「既婚予定者がいるじゃない」
「とっと行って叫んでこい」「
「ハグ台も使い放題よ」
冷やかされながら叫び台に。前に見えるのは浅間山なのか。それに見渡す限りに広がるキャベツ畑。ちゃんと愛の鐘もあるから鳴らして、景色を楽しんでいたのだけど、
「エルさん、ここは叫んでおかんと」
今日は仕事じゃなくてツーリングだよ。そしたらいきなり、
「地の果てまでお供させて下さい」
や、やらかした。これでまた冷やかされるじゃない。でもね、でもね、嬉しい。もう確信しても良い。加藤さんもエルに好意を持ってくれている。そうじゃなくっちゃ叫べるものか。エルも心の中で叫んだよ。
『どこまでも付いて行かせて』
へぇ、これがハグ台か。足形のところに立ってハグするんだろうな。予定通り冷やかされながらキャベツじゃなかったパノラマラインを北上。なるほど北ルートと南ルートはちょっと様相が違うな。南ルートはキャベツ畑の丘陵地帯を走り抜ける感じだけど、北ルートは点在するキャベツ畑を抜ける林間コースって趣だ。
「万座ハイウェイは残念ね」
「ほんまやで小型が不可ってなんやねん。プリンスホテルを買収したろか」
「それイイかも」
おいおいなんて物騒な話をしてるのよ。自分たちのバイクが通れないからって買収ってやり過ぎじゃないの。
「そやけど万座ハイウェイはプリンスホテルの私道やから、買収したらルールは変え放題や」
「百億円もあれば買えるのじゃない」
「バブル期じゃあるまいに。半値八掛け二割引から、もう一回半値八掛け二割引がスタートラインでも高過ぎる買い物や」
「そうだよね」
マジかよ。そういう事ってわけじゃないけど、道の駅草津に。時刻はまだ十時ぐらいだよ。ふ~む、ここがあの有名な草津温泉なんだ。
「そうだよ、お医者様でも草津の湯でも」
「惚れた病は治りゃせぬや」
温泉に入ったぐらいで恋の病が治るものか。だって病気じゃないも~ん。それにしてもお土産を買い込むな。
「エルさん。また登りだから気合入れてね」
「なにしろ国道最高地点やからな」
グェ、二千百七十二メートルもあるのか。
「心配せんでも草津で千二百メートルありまっから、千メートルほどです」
な~んだ千メートルか・・・なに言ってるのよ六甲山より高いじゃない。どうもこんなところを走ってると感覚がおかしくなっちゃうよ。とりあえず気合を入れよう。そうそう昨夜の加藤さんだけど、大変なことを口走ったのよね。
『わてがエルさんと名前呼びさせて頂いてるだけで、どれだけ畏れ多いことか』
加藤さんがエルを名前呼びしてる理由は単純で、出会った時にエルとしか名乗ってないから。なんとなく苗字を名乗りたくなかったし、苗字を名乗れば苗字呼びされちゃうじゃない。だから名前呼びされてること自体は嬉しいぐらい。
でもさぁ、加藤さんのあの言い方なら、かつてエルを苗字呼びしていた時代があることになっちゃうのよね。そうじゃなきゃ、おかしいでしょ。名前しか知らないのに名前呼びさせて頂くって言うはずないもの。
でもどうしてエルの苗字を知ってるのよ。そんなのおかしすぎる。おかしいのはもっとあって、エルの過去のどの時代を知っていたら、
『どれだけ畏れ多いことか』
こんなセリフが出て来るのよ。エルは陰キャブスの地味子だもの。陰キャブスの地味子がどう転んでも畏れ多いはずないじゃない。昨夜は過去のいつかに会っていたと思ったけど、そんなはずがある訳ないんだよ。
そうなると加藤さんはエルを誰かと間違ってるとしか考えられない。だけど、これもおかしいのよ。もしそうだったとしたら、その間違えてる相手も名前がエルになっちゃうもの。それに間違えるぐらいだから、エルの容貌はどこか似ているはずなんだ。そうじゃなければ間違うはずがない。
だけど、だけど、それだっておかしいんだ。加藤さんには高校時代のマドンナがいて、今だって心のマドンナとして鎮座していて、それ以外の彼女はどうしても受け付けられないって言ってたもの。
そりゃ、心のマドンナの名前がたまたまエルで、その子に似てるって言うのも無理やりなら考えられないこともないけど、加藤さんの心のマドンナはどこをどう聞いても超絶美少女、エルは陰キャブス。これをどうやったら間違えるかの話になっちゃうのよ。
謎はドンドンこんがらがるけど、加藤さんはエルに好意を持ってると思うのよ。そうじゃなきゃ、あれだけのお世辞がポンポン出るはずないし、愛妻の丘であんなこと叫ぶ必要はないじゃない。あそこは黙って景色だけ楽しんでも誰も文句は言わないシチュエーションだったもの。
これって加藤さんがエルに向けてる好意ってラブじゃなくライクだとか。名前だけタマタマ同じだから、たったそれだけの理由でライクの好意を向けてるとかなの。やっぱり加藤さんはなにかを隠してる気がする。
だって、だって、エルが受け取ってる加藤さんからの好意は、どう考えてもラブなのよ。これだけは疑いたくない。これさぁ、エルの独りよがりかもしれないけど、塩尻で中山道の取材やめちゃったじゃない。あれも仕事を中断してでもエルとの時間を作ろうとしたんじゃないかと思ってるぐらいなのよ。
「そろそろ行くで」
「いざ日本国道最高地点で愛を叫ぼう」
こいつらお気楽だ。