金ヶ崎の退き口雑談 その2

 岐阜を出てから若狭に進むまでの信長の足取りを信長公記より、

月日 事柄
2/25 岐阜出陣、赤坂泊
2/26 常楽寺着逗留
3/3 相撲興行
3/5 上洛
4/14 能興行
4/20 京都出陣
 旧暦なので月末が何日なのかがわからないですが調べると、
  • 2月は2/29が月末
  • 3月は3/30が月末
  • 4月は4/30が月末

 こうなっています。岐阜から常楽寺まで2日で到着していますが、

  • 相撲興行は常楽寺に到着して8日目
  • 能興行は上洛して40日目
  • 京都出陣は能興行から17日目
 ざっとですが、岐阜を出陣してから60日ぐらいしてから若狭に向かって動き出した事になります。この信長の動きは朝倉を油断させるためとなっていますが、この間、信長軍はどうしていたかの疑問が出てきます。金ヶ崎の退き口に動員された兵力は一説には3万です。

 3万は大げさとしても1万を越える大軍ぐらいは言っても良いと思いますが、大軍は存在するだけで食べるのです。信長が岐阜から遠征軍のすべてを連れて来ていたら、それだけで2か月分の兵糧の調達が必要になります。

 それといくら信長が閑日ぶりをパフォーマンスしても、それだけの大軍が南近江なりにウロウロしていたら周辺諸国は警戒しない方が不思議です。

 なんにも記録に残されていないので推測するしかないのですが、出した答えとしては平凡で、

    軍勢は逐次動員された
 最初に信長に同行した兵力はたいした事はなかったのではないかです。岐阜から動員して急行させれば、それこそ能興行の日ぐらいからでも間に合うのじゃなかろうかと言うことです。

 京都の信長は将軍館の落成祝いの一連の行事に出席していたと推測されますから、信長が連れてきている軍勢は、それに参加しているゲストの護衛ぐらいに見られるぐらいだったぐらいです。これは祝賀行事が長引くほど周辺諸国は、

    行事が終われば信長は岐阜に帰るだろう
 こういう観測が広がるぐらいです。それと信長は京都を出てから6日目に敦賀に攻め込んでいますが、信長が京都を出て北上したの知らせが一乗谷の朝倉義景のところに届いたのがいつかになります。当時の情報伝達は人が動く時間に依存します。

 それと金ヶ崎の信長でさえそうでしたが、第一報で即座に反応するのは難しいと見て良いと思います。続報を受けながら決定を下すとなれば、一乗谷から敦賀は近くありません。

 そんな事をあれこれ考えていました。