明智光秀ムック4

光秀の越前時代については「遊行三十一祖 京畿御修行記」から称念寺門前に10年間住んでいたのだけはわかりますが、その次に記録に現れるのは永禄六年諸役人付の足軽衆末席になります。この間がどうなっていたのかは推測するしかないのですが、JSJ様の指摘を参考に再構築してみます。


称念寺門前の10年間

とにかく10年間は長いのがまず問題です。称念寺の寺伝には寺子屋をやっていたとなっていますが、時代的に寺子屋なんて成立するかどうかは正直なところ疑問です。歴史小説や時代ドラマでは兵法指南としていますが、これも時代的にどうかと思うのと、やるのだったら顧客である武士が多い一乗谷でやるべきじゃないかってところです。ただ寺子屋や兵法指南説を否定してしまうと光秀が食べる手段がなくなってしまいます。前回は光秀の器量を称念寺住職が買って援助した説を立てましたが、それでも10年間は余りに長いのが実感です。

それでも光秀が称念寺の援助を受けていたのは「遊行三十一祖 京畿御修行記」から明らかなんですが、もっとストレートに考えるべきかもしれません。称念寺だって10年間も居候させるのは長すぎますから、光秀が時宗の僧侶になったとしてしまえば話の通りが良くなります。食べるために僧侶になるのは、この時代ならありふれた処世法です。具体的には、

  1. 時宗僧は遊行しますから、称念寺を根拠地に各地の時宗寺院を利用しながら全国各地を見て回れた(光秀の見識は広かったとするのが定説)
  2. ある時期まで光秀は本気で僧侶になるつもりだった(だから10年)
  3. 礼法や古典教養は僧侶時代に身につけたものもあったはず(寺は当時の学習機関の側面もあり)
称念寺に流れ着く以前の出自になんの記録もありませんが、美濃出身の武家だったのは肯定しても良い気はします。


朝倉家及び義昭との関係

光秀が朝倉家家臣であった記録は綿考輯録(細川家記)にもありますが、細川家記の光秀に関する記載のモトダネの少なからぬ部分は明智軍記からの転載ともされています。ほいじゃ明智軍記が信用できるかといえば、怪しいところがテンコモリあり、つまりは不明ってところです。実は光秀が朝倉家と言うステップがあるのを前提にすると、義昭の足軽衆になった理由の説明が非常に煩雑になります。逆に言えば無かった方が説明がスッキリする部分が多々あります。

永禄の変後に義昭は六角・浅井・斎藤・織田の四氏連合による上洛を企画しています。これは結局挫折し永禄9年に金ヶ崎に転がり込むのですが、その後も上洛企画の実現のために奔走を続けています。義昭が頼りたい本命は謙信だったようですが、謙信も対武田戦、対北条戦で手いっぱいで実現していません。一方で信長は美濃の稲葉山城をを永禄10年に手に入れ勢力を増大させています。義昭と信長の関係は永禄8年から9年の企画が挫折後も断続的に続いていたと見るのが自然です。そりゃ企画が挫折したのは信長のためではないですから、義昭もわざわざ敵に回す必要はありません。

この信長外交を担当していたのが藤孝、和田惟政、大草公広などとされていますが、義昭が書状を送る時に常にこのクラスが小牧山なり岐阜に行っていたとは思えません。このクラスが使者に立つのは、それなりに重大な外交上の問題が生じた時とする方が自然です。とくに金ヶ崎時代の前半は、書状を送るにしても時候の挨拶プラスアルファ的な軽めのものも少なくなかったと想像されます。その程度の書状であれば、もっと軽格の使者が立てられたと見たいところです。

そういう使者として時宗僧であった光秀が選ばれたんじゃなかろうかです。この辺は美濃出身である点も選ばれた理由であったかもしれません。ただなんですが腐っても次期将軍候補の使者ですから、名目上の身分を与えたと想像したいところで、それが足軽衆であったと。この辺の推測をもう少し広げれば、

  1. 書状を義昭が書く
  2. 書状の趣旨を藤孝に説明して信長に送るよう命じる
  3. 藤孝が光秀に趣旨を伝える
  4. 光秀が信長に持っていく
義昭の使者ですから足軽衆の軽格であっても引見する可能性は十分にあり、その時に書状の内容についての質問や、義昭の近況などを信長が尋ねていても不思議ないってところです。当初は単なる臨時雇いぐらいであったかもしれませんが、使者として使えば有用であることがわかり、書状の内容がかなり重めのものまで光秀に託すようになったぐらいを想像します。この辺で藤孝が光秀の才能を見出したぐらいのストーリーです。信長もまたそうであったとしても不思議ありません。外交では使者がどれだけ見聞できるかが大きなポイントになるからです。


永禄六年諸役人付

永禄六年諸役人付が義昭により作成された時期の推測には幅はありますが、私は金ヶ崎から岐阜に付いてくるメンバーの整理の意味もあった気がします。上級職の奉公衆はほぼ全部来るにしても、足軽衆以下は臨時雇いが多かったぐらいの想像です。その時に光秀は正式に足軽衆として武家に復帰する決断をした可能性はあります。元が武家なら最初からその気であったかもしれませんが、岐阜に付いていくことで名目上の足軽衆から、公式の足軽衆になったぐらいです。

この辺は藤孝の推挙もあったかもしれませんが、おそらく義昭からすれば顔さえロクロク見たことがない程度の存在で、付いてくるというのなら名簿に書き加えさせたぐらいの存在ぐらいだったかもしれません。その辺が永禄六年諸役人付に「明智」とだけしか書かれなかった原因の気がします。まあ、想像を広げれば時宗僧としての光秀は「○阿弥」であった可能性が高く、名簿に書くときに「誰だっけ」になり、だれかが「たしか元は武家明智と言っていたはず」ぐらいはあるかもしれません。


信長と光秀

永禄六年諸役人付の時点では義昭の足軽衆ですが、信長公記より

六条合戦の事永禄十二己巳正月四日三好三人衆並に斎藤右兵衛大輔龍興、長井隼人等、南方の諸牢人を相催し、先懸の大将、薬師寺九郎左衛門、公方様六条に御座侯を取詰め、門前を焼き払ひ、既に寺中へ乗り入るべきの行なり。爾処、六条に楯籠る御人数、細川典厩、織田左近、野村越中、赤座七郎右衛門、赤座助六、津田左馬丞、渡辺勝左衛門、坂井与右衛門、明智十兵衛、森弥五八、内藤備中、山県源内、宇野弥七。

これは永禄12年に三好側からの反撃を受けた六条合戦の様子を書いたもので、ここに出てくる光秀が信長公記の初出になります。義昭が岐阜に移ったのが永禄11年7月、上洛戦が同9月ですから、六条合戦は義昭が上洛してから4ヶ月後に起こった事になります。太田牛一は織田方(幕臣も含んでいるはず)の大将を列挙していますが、この中に光秀が入っています。そうであればまさか光秀は足軽衆ではないはずです。小さくとも一手の兵を率いる大将ぐらいに昇進していると見るのが妥当です。そうであれば光秀が信長に仕えたのは、義昭が岐阜に着いてかなり早い時期であったとするのが自然です。

細川家記では光秀は信長から5000貫与えられたとしていますが、5000貫を無理やり石数に換算すれば1万石ぐらいになり200人程度の部下を持っていた可能性はあります。もっと少なくて100人以下だったかもしれませんが、下級武士の足軽衆クラスから、上級武士の士官になっていたと見て良さそうです。いつ信長が光秀を仕官させたかの信憑性の高い記録はないと思いますが、永禄11年7月時点では義昭の足軽衆であったはずですから、大抜擢に近い感じもします。

信長の能力主義は徹底していたそうですから、それぐらいはやっても不思議ないのですが、六条合戦の時期で光秀の軍事的才能を認めていたかどうかはチト疑問です。光秀が軍事的才能を示す機会としては六角攻めがありますが、それよりは他の才能に着目して信長は光秀を抜擢したとした方が良い気がします。光秀が時宗僧であり、義昭の使者の役割を担っていたとするのは仮説に過ぎませんが、この仮説が当たっていたら、光秀の外交能力を信長は買い、京都外交の責任者として抜擢したとしたいところです。

京都外交のための外交官としての抜擢なら、細川家記の5000貫は説得力が出てきます。いくら才能があっても、格が低ければ京都外交は難しくなります。信長の判断として5000貫ぐらいの重みを付ける必要があると判断してもおかしくないところです。重臣クラスではないにしろ、中堅の有力家臣ぐらいの位置づけでしょうか。

それと光秀は信長に仕えた後もしばらくは義昭との両属状態であったとするのが定説です。これも本当はどうであったかを確認できる1級資料が見当たらないのですが、信長が光秀を中堅士官クラスにしたのなら、将軍家も足軽衆のままではバランスが悪いの判断ぐらいはまず出てきそうなものです。さらに光秀が織田家の京都外交担当官になれば、将軍家といっても信長の武力・財力に完全におんぶに抱っこ状態ですから、信長とのパイプとして光秀の存在が大きくなり、将軍家としても光秀の格を上げてぐらいは考えられます。

そりゃ、光秀が足軽衆のままでは、織田家の代表として義昭を訪れてもまともに口さえ利けないでしょうからねぇ。