ツーリング日和7(第20話)鶴ヶ城とアームストロング砲

 東山温泉から道すがら会津武家屋敷に寄って、

「ここも完全再現なのね」

 さらっと見て鶴ヶ城へ。どっちも近いのよね。ここも再建天守だけどさすがに立派なもの。

「あそこが小田山ね・・・」

 鶴ヶ城の泣き所だって。あそこから鶴ヶ城までわずか一・五キロぐらいしかないし、小田山は三百七十メートルぐらいあるんだって。もっとも鶴ヶ城も標高二百メートルぐらいあるから標高差は百五十メートルぐらいだそう。

 それでも小田山から鶴ヶ城を見下ろせるのは一目瞭然だよ。あそこに官軍が大砲並べて鶴ヶ城に撃ち込んだのか。あそこからなら城内はきっと丸見えだったはず。

「そんなに当時の大砲は飛んだの?」

 幕末の主力大砲は四斤山砲だそう。輸入品だけじゃなく国産品もあって比較的手に入れやすかったで良さそう。国産の方が性能は落ちるそうだけど、四斤山砲の最大射程距離は二千六百メートルもあるんだって。

 小田山から鶴ヶ城まで千五百メートルなら十分に届くし、とにかく城内に落ちれば良いのなら的だってデカい。城内のどこかを狙うにしても、撃ちながら照準を変えるのは出来るものね。

「そうや。それとやけど小田山からはつるべ撃ちやけど、鶴ヶ城からの反撃は無理や。つまり撃たれ放題になってまう」

 そうなるのか。四六時中、砲弾の雨を好き放題に降らされたら、たまったもんじゃない。

「何門ぐらいあったの」

 諸説があるそうだけど十五門としてるのが多いそう。また資料によっては長距離砲が五門となってるらしけど、

「アームストロング砲の威力ね」

 そういう説と言うか話が今も残ってるみたい。なんか名前を聞いただけで強力そうな大砲だよ。当たればそこいら中が吹っ飛ばされたんだろうな。

「そやけど幕末のアームストロング砲の実態はわからんことが多すぎるねん」
「佐賀藩が国産化に成功したのよね」
「それは怪しすぎる」

 アームストロング砲は、現在の大砲の直接の先祖みたいな画期的な強力砲なんだって。それ以前の大砲との最大の違いは後装式であること。つまりは大砲の根元から砲弾を押し込むスタイル。

 アームストロング砲の前は、方向から砲弾をゴロゴロと押し込んで撃ってたんだ、イメージとしては火縄銃と同じで良いはず。

「後装式も画期的やが、それだけやない」
「わかった施条式」
「四斤山砲も施条式や」

 施条とは砲腔に溝を刻んで飛んでいく砲弾に回転を与えるものだそう。そうすると射程距離が伸びるのと、より真っすぐ飛んでくれて命中率が良くなるとか。

「密着式の砲弾や」

 砲弾は火薬の爆発で飛んでいくのだけど、これはより正確には爆発したガス圧に押し出されて飛んでいくそう。この時にガス圧が高いほどよく飛ぶのはわかるけど、

「アームストロング砲の砲弾は砲腔より少しだけ大きく作ってあったんよ」

 えっ、そんなもの飛び出ないじゃない。

「いや出るんよ。砲弾が大きくなっとる部分は鉛やねん。鉛は軟らかいから砲身に食い込むやんか。そうしたら火薬のガス圧はどこにも漏れへんから高まって、ものすごい勢いで撃ちだされることになる」

 同時に砲身に密着してるから砲弾の回転も良くなるんだって。実際に撃てたんだから、そうなんだろうけど、

「この仕組みもアームストロング砲の独創やない。すでに銃では出来とった。アームストロング砲の最大の発明は砲身や」

 ユリでもそんな撃ち方をしたら砲身にすっごい負担がかかるのはわかる。耐え切れなかったらドッカンになってしまうもの。

「その通りや。だから佐賀藩には無理や。あれは当時世界最高峰の製鉄技術があったイギリスやから作れたんや」

 砲弾もそうだって。砲身の内腔より少し大きな砲弾と言っても、少しでも大きすぎたらドッカンだもの。それに打つたびに内腔に鉛が残ることになるそうで、それを除去する潤滑器が付けられてるそうなんだけど、そんな精密技術が佐賀藩にあったかどうかもむっちゃ疑問だって。

「じゃあ、アームストロング砲は幻」

 幕末にあったのは間違いないそう。佐賀藩でコピーしようとしたのは事実として良いそうで、未だに本当に作れたかどうかの論争があるぐらいだって。それはともかくコピーするには本物がなかったら無理だものね。

「本物のアームストロング砲は何門あったの」

 これもまたわからないそう。佐賀藩が購入したアームストロング砲は六ポンド砲説と九ポンド砲説があって、どちらかを買ったか、それとも両方買ったの説もあるらしい。さらにもっと多数のアームストロング砲を購入したの説まであるらしいけど、

「一番信憑性があるのは慶応三年の長崎運上所の記録で、アームストロング六ポンド砲五門及び九ポンド砲五門、その他の野戦砲三門、砲種不明十門となっとる」

 六ポンド砲と九ポンド砲で合わせて十門か。結構あったんだ。

「ほいでな明治元年に佐賀藩主が上京した時にアームストロング六ポンド砲二門、四斤山砲二門、十二インチ砲となっとる」

 上野戦争も会津戦争も慶応四年だから、この二つの戦争で使われたアームストロング砲は最大で六ポンド砲が三門で九ポンド砲が五門か。

「そやけど上野戦争で使われたのは六ポンド砲が二門となっとる。佐賀藩も本国のアームストロング砲を根こそぎ持って来んかったんやろ。他にも理由があると思うけど」

 動乱の時代だから本国の防衛も重要だものね。

「でも威力は絶大でしょ。薩英戦争で薩摩の砲台吹っ飛ばして、鹿児島市街を半分ぐらい焼き払っちゃったじゃない」

 薩英戦争のアームストロング砲は実際にも強力だったそうだけど、

「あの時に使われたのは四十ポンド砲と百十ポンド砲や」
「それって桁違いの大きさじゃない」

 砲弾の威力は、砲弾が飛んで行って当たった時の破壊力と、爆発した時の威力の二つがある。薩英戦争の百十ポンド砲弾は五十キロぐらいあるから当たったところはぶち壊されるし、砲弾も大きいから爆発の威力も強い。

 これに較べたら六ポンド砲弾は二・七キロ、九ポンドで四キロだって。ちなみに四斤山砲の砲弾も四キロ。百十ポンド砲弾に較べたら豆鉄砲みたいなものなのよね。炸薬量も砲弾の大きさに比例するけど、

「アームストロング砲弾の方が頑丈に作らないと行けないだろうから、九ポンド砲でも四斤山砲の砲弾より炸薬量は少なくなるよね」

 さらに言えば黒色火薬の時代だって。つまりは花火と一緒。今の手榴弾より威力が落ちるだろうって。その証拠にあれだけ撃ち込まれても鶴ヶ城の天守閣は崩れてないのよね。壁とか屋根瓦が崩れてるところはあるけど、骨格はビクともしなかったそう。

 さらに言えばまだ着弾信管はまだなかった時代だから、導火線に火をつけて撃ち込むダイナマイトとか手榴弾みたいなもの。砲弾は飛んで行ったとこにまず当たり、おもむろにドッカンするイメージで良いかも。

「天守閣が崩れなかったのは、当たった砲弾が突き刺さらずに跳ね返されてドッカンだっから?」

 もしアームストロング砲が威力を発揮したんやったらそこかもしれないって。初速は四斤山砲を凌駕してるから当たった時の威力も強いじゃない。だから天守閣の壁に突き刺さった可能性もあるかもしれないぐらい。

「それってもしかして」

 薩英戦争の時にイギリス艦隊は三百六十五発を発射したそうだけど、二十八回の発射不能が起こって、一門がドッカンやらかしたらしい。薩英戦争でイギリス艦隊が撤退を余儀なくされたのはアームストロング砲を後半で使えなくなったからともされてる。

「鉛の問題は大きいてな。潤滑器があっても砲身に残るからガシガシと削り取らなあかんねん。これをちょっとでもサボるとドッカンや。それと四十ポンドや百十ポンド砲になると、尾栓の構造がまだ不十分やってん」

 佐賀藩のアームストロング砲が実戦で確実に使われたと考えられてるのは上野戦争と会津戦争だけだそう。それどころか、これっきりで歴史の舞台から消え失せてしまってるんだって。

「理由は二つ考えられる。戊辰戦争に送られたのは二門やから、上野と会津でドッカンやらかして失われた可能性や」

 でもまだ八門残っているはず。

「明治元年に持って来たのが二門や。そやから佐賀藩の試射中にドッカンやらかした可能性もあるし、輸入砲弾が無くなってもたんもあるかもしれん」

 こんなもの推測ばかりになるのだけど、砲のコピーは無理でも砲弾のコピーは佐賀藩もやったんじゃないかって。だけど砲弾も高い精度の工作技術が必要だし、作ったら作ったで試し打ちも必要。それをやってるうちにドッカンで失われたかもって。

 これはついでとしてたけど明治政府もアームストロング砲方式の後装砲を作ろうとはしたそう。参考としてクルップ砲とかも輸入してるけど、鋼材の調達も技術的難点もテンコモリで日清戦争までには作れなかったそう。

「もし小田山がなかったら、会津戦争も西南戦争の熊本城になった可能性はあるよね」

 それはあるかも。幕末から明治初期ぐらいまでは、日本式の城の防御力は当時の大砲の威力に耐えられたぐらいは言えるよね。

「まあな。会津戦争の時の官軍砲は五十門ぐらいあって二千八百発ぐらい撃ち込んだとなっとる。これは日本では空前の規模としてエエやろ」

 そんなに! まさに雨あられ。

「そうやけど籠城戦は守ってばかりじゃ勝てん。熊本城を守り切れたのは東京からの援軍が期待できたからや。会津にそんな援軍は期待できんやろ」

 会津も援軍は待ってたんだって。だけどその望みが潰えたから開城したんだとか。もし援軍の期待無しで頑張ったらどうなるかだけど、攻撃してる方があきらめて帰ってくれるか、

「打って出て城外決戦で蹴散らすぐらいしかあらへん」

 城外決戦については会津戦争では籠城前の野戦で蹴散らされてるものね。コトリさんに言わせると城外決戦で勝てる物なら籠城なんかそもそもしないって。会津の場合は追い込まれての籠城だものね。

「幕末のアームストロング砲の存在意味ってなんだったんだろう」

 コトリさんに言わせると政治と戦略だって。あれだけ威名が轟いたのは、そんな強力な砲を佐賀藩が持ち、なおかつ国産化しているアピールのはずだって。そんな強力な砲を駆使できる佐賀藩の地位は特別なものになり結果として、

「薩長土肥になれたのか」

 そうつながるのか。お蔭であんな中途半端なところに佐賀県が成立したぐらいかな。