シノブの恋・倶楽部の名誉

 ここは甲陵倶楽部の会議室。今日は臨時の理事会です。

    「黒田君、今回の失態の責任をどう取るつもりかね」
 尋ねているのは跡部大吉。跡部家は政治家の一族として知られ、跡部大吉も衆議院議員を十期勤め、与党総務会長、政調会長から文科相、総務相を歴任しています。議員時代は『剛腕』『寝業師』とも呼ばれた実力者。

 地盤を息子の太郎に譲ってからは甲陵倶楽部の理事長に就任しています。未だに政界に隠然たる影響力を持つと怖れられ、うるさ型の多い甲陵倶楽部であっても理事長にあえて逆らう者はいません。

 議題は団体戦での北六甲クラブに対する敗北。甲陵乗馬倶楽部は正式には付属の馬術会であり、黒田理事はその会長を兼任しています。

    「先に言っておく、スポーツ競技であるから勝ち負けについては問わない。それは全力を尽くした選手への侮辱になるからだ。白田君も、栗岡君も、松本君も慣れない貸与馬戦でベストを尽くした。悔しい敗戦ではあるが、これは受け止めなければならない」

 跡部理事長の声は野太く迫力があり、聞く者の心を震え上がらせます。

    「黒田君と北六甲クラブの小林社長との間に長年の確執があるのは聞いておる」
    「確執と言うほどの・・・」
    「そのために試合を君の私的な報復に使ったのは問題だ」

 跡部理事長は試合の結果ではなく、試合に込められた意図を問題にしているのは明白です。そう馬術会の看板と、名称をその勝負に賭けたことです。

    「結果として小林社長の温情で看板は奪われず、名称も残ったが、あの時に約束の履行を迫られたらどうするつもりだったのかね」

 黒田理事は返答に迷いました。求められている回答は潔く受け入れてウンコ・クラブになるか、突っぱねるかです。これは倶楽部の品位問題に関わります。

    「そんな約束は無視すれば終わりますし・・・」
    「あの約束は市内の乗馬倶楽部の役員会議で為されたものだ。それを平然と破ると君は言うのかね」

 老いても跡部理事長の眼光は鋭く、黒田理事は背中にベットリと冷汗をかきます。

    「黒田理事は私的な諍いに馬術会の名誉を安易に賭けた。これだけで引責辞任は当然である。さらにだ、信義に基づいた約束を守らないとした。これはなにより品位を重んじる我が倶楽部の会員の資格問題に抵触する」
    「ちょっと待ってください。たかが親善試合の結果一つに・・・」

 抗議の声を上げかける黒田理事の声を、跡部理事長の野太い声がねじ伏せます。

    「黒田理事は会員除名が相応しいと考える。異議のある者はいるか」

 怒りを含んだ跡部理事の声に黒田理事さえ声が挙げられず、そのまま承認可決され、黒田理事は退席を余儀なくされます。

    「これで終りとはいかない。伝統ある甲陵倶楽部の名誉は奪われたままだ。なんとしてもこれを取り戻さないといけない」
    「ではリベンジ・マッチを」
    「それしかないが、北六甲クラブの三番手の腕前は驚異的だ。松本君でさえ大差で敗れておる。返り討ちに遭えば恥の上塗りになる」

 あの試合を見に行った理事の脳裏には、怪物的な快走を見せた姿が映ります。勝てるかと言われれば、それこそ時の運になります。ここで安易な提案をし、再び敗れるような事態になれば責任問題が発生します。静まり返る会議室ですが、ある理事が思いついたように、

    「理事長。帰って来ております」
    「そ、そうなのか・・・だが」

 跡部理事長の表情に曇りが、

    「理事長のお言葉通り、失われた名誉の回復は必要です。松本君でも難しいとなれば他にはいません。ここは理事長が自ら要請する以外にはないかと」
    「ワシがか? 他に手はないのはわかるが、厄介じゃな」

 数日後、理事長室にて、

    「失礼します」

 入って来たのは若い女。

    「・・・どうだ、やってくれんか」
    「そんな座興のような勝負に出ろと仰られるのですか」
    「そうだ、甲陵の名誉が懸っておるのだ」

 その女は冷やかな表情で、

    「名誉? 理事長、あなたはどうなのです。あの試合のあることは周知されております。なにを賭けているのかもです。止めることも可能であったにも関わらず、黙認し、あまつさえ会場まで足を運ばれておられるではありませんか。まだ理事長でおられるのが不思議なぐらいです」

 痛いところを突かれた理事長でしたが、

    「辞めることだけが責任の取り方ではない」
    「黒田前会長に全責任を押し付けるのがそうですか」

 さらに追い打ちをかけるように、

    「辞任されずに理事長職にしがみつき、この私にリベンジ・マッチをさせ、御自身は傷つかれないところで高みの見物をするのが甲陵の品位とでも。よくもまぁ、これで品位を口実に会員除名など出来るものだと感心します」
 ここまで言われた跡部理事長は怒りで顔がどす黒くなります。ところが女の方はどこ吹く風で出された紅茶をゆっくりと楽しみます。その態度に怒り心頭の跡部理事長でしたが、ここで怒鳴れば女は理事長室から出て行くだけです。

 そうなればリベンジ・マッチは出来ず、理事会での自らの面目を失うことにもなりかねません。理事長室に気まず過ぎる空気が満ちたところで女が、

    「条件によっては座興へのお付き合いも考えて宜しいかと」

 跡部理事長は不愉快さを押し殺すように、

    「どんな条件だ」
    「会長杯への招待です」

 会長杯とは馬術会内部の大会。

    「あの大会は馬術会会員にのみ参加資格がある」
    「そんなことはありません。かつては外部からの招待選手も参加しております」
    「それは大昔の話だ」

 理事長室のショウ・ケースに飾られた金杯こそが会長杯です。

    「先の団体戦では名誉として看板と名称を懸けて敗れております。リベンジをするならこれに匹敵する名誉を用意する必要があります」
    「それが会長杯だと言うのかね」
    「大会規則の第一条を御存じですね」

 大会規則第一条は不思議な内容で、

    『金杯の誓言は永遠に不変なり。何人もこれを変えること能わず』

 こうなっています。

    「第一条にある金杯の誓言とはそもそもなんだ」
    「あの金杯は一九三二年のロサンゼルス・オリンピックの西竹一男爵の障害飛越優勝を記念して作られたもの。金杯の台座に彫られている馬はウラヌスです」
    「だと聞いておる」
    「当時の会員であった鷲尾伯爵はこれに感銘してこの金杯を寄贈し、甲陵倶楽部から次のメダリストが出ることを願いました。あの金杯の台座の裏にはこう刻まれています。
    『この金杯に馬術会の名誉を込める
    これが守られぬ時は
    潔く贈呈し
    その栄誉を称えよ』
    そう、外部からの招待選手に敗れるような事があれば金杯は贈呈するとしています」

 跡部理事長は思わぬ話に驚きながら、

    「それが金杯の誓言か」
    「当時の馬術会は鷲尾伯爵の意志を受け、国内の強豪をあえて招き熾烈な戦いを行っています。あの西男爵さえも招待しようとしたほどで、これが会長杯のデュエロの伝統になっております」
    「それがどうして」
    「金杯流出を惜しんだ甲陵倶楽部理事会が馬術会に命じ百年前に外部招待を中止させたからです」

 女は跡部理事長の目を真っ直ぐに見据えながら、

    「外部招待を再開し、金杯を懸けてのデュエロこそ、名誉を取り戻すリベンジとして、もっとも相応しい舞台と賞品かと存じます」
    「もし、敗れて金杯を失えば」

 女は嘲笑うように、

    「たいした事は起りません。外部招待をあえて再開させ、金杯を失った責任問題を問われるぐらいです。そうですね、理事長のクビが飛ぶ程度でしょうか」
    「なんだと。理事長であるこのワシのクビを懸けろと言うのか」

 女は軽蔑を隠しもせず、

    「北六甲クラブの小林社長は、あれだけ不利な条件でも名誉のために敢然と勝負を受けておられます。それなのに理事長は金杯一つを惜しみ、理事長職にあることに連綿とされる有様。勝負はやるまでもないかと」

 女の言葉は相手が跡部理事長であっても辛辣を極めます。

    「理事長は倶楽部の名誉とか伝統がお好きですが、やられている事は、百年前に金杯流出を怖れて外部招待を中止した理事会と同じ。あの時に金杯の名誉は既に失われております。どうぞ腐りきった名誉と伝統とお戯れください」

 跡部理事長はここまで侮辱された記憶が思いだせない程でしたが、リベンジ・マッチを行うには、どうしてもこの女が必要であり、腹を括ることにします。

    「わかった。金杯の名誉を取り戻すためにも外部招待を復活させよう」
    「御英断と存じます」

 ここで跡部理事長に一つの疑問が、

    「外部招待をするのは良いとして、会長杯は自馬戦だ。そもそも参加しないのじゃないのかね」
    「そこでもう一つ条件があります。北六甲クラブから招待するのは三番手ではなく二番手の騎手にしてもらいます。そうすれば必ず参加してきます」

 跡部理事長は少し考えてから、

    「君でもあの三番手騎手には勝てないとか」

 女はソファから立ち上がり、跡部理事長を見下ろしながら睨みつけ、

    「私とメイウインドを侮辱することは、理事長であっても許されません」

 跡部理事長でさえ身じろぐほどの迫力です。

    「座興に参加する条件は以上です」

 後は振り返りもせずに女は靴音だけを残して部屋から出て行きました。その姿を見送りながら跡部理事長は、

    「いつもの事とはいえ、なんて女だ」