天使のコトリ:台風一過

 ハワイで過ごして二週間が過ぎた頃に綾瀬専務からミツルに連絡がありました。ほとんど片付いたから、そろそろ帰ってきてくれです。もっとも、

    「この際だから、もうちょっと居ても良いぞ」
 明るい声で言われたそうですが、そうそう遊んでばかりでは申し訳ないので、荷物をまとめて帰国しました。出社して綾瀬専務や高野常務に話を聞かせて・・・いやお二人は既に副社長と専務に昇進されています。とにかく大変な騒ぎだったようです。

 社長は私たちがハワイに出発した日の朝に緊急の取締役会を招集しています。綾瀬副社長によると、前副社長は翌月の定例取締役会に向かってクーデター計画を進めていたようですが、これに対して先手打って逆襲をかけたみたいな感じでしょうか。ただ粛清人事を断行するにも大義名分が必要なはずです。

    「クレッセントを使ったんだよ」
 クレッセントとは前副社長の肝煎り事業で、高齢者向きの新たな高級ブランドを狙ったものです。この事業には反対意見も多かったのですが、前副社長が押し切るような形でスタートしています。とにかく評価がイマイチの前副社長が失地回復、起死回生をかけたのではないかの噂もありました。

 ところが大苦戦。原因は最初に『高齢者向き』を謳ったのが失敗で、逆に反発をくらったぐらいです。何度かテコ入れが行われましたが、目先の売り上げに走ってしまい、クレイエール・ブランドと食い合う迷走状態です。私も経営分析を何度もやっているので知っています。

    「前副社長がクーデターに走ったのも社長の椅子が欲しかったのはもちろんだが、クレッセント事業の失敗を覆い隠すのも目的だったと見ている」
 社長はクーデター計画を知る前からクレッセント事業の撤退を考え、そのための調査を密かに進めていました。その調査の過程で不明朗なカネの動きをつかんでいたそうです。最初はクレッセント事業の赤字を覆い隠すための粉飾決算とか、副社長が私腹を肥やしているのではないと見ていたそうですが、結果的にはクーデター計画の資金源にしていたことになります。
    「今回のクーデター計画がなくとも前副社長には退いてもらうつもりだったのだ。それなりの花道を用意して穏便に済ます予定だったのだが、クーデターとなれば戦争だから粛清になった」
 緊急の取締会の席上でクレッセント事業の失敗の指摘と不明朗なカネの流れを暴露され、責任を追及された前副社長は、社長のスキャンダルを持ち出して抵抗したそうですが、不明朗会計の証拠の前では他の出席者の支持を得ることなどできず、その場で代表取締役も解任され退職に追い込まれています。その後に粛清人事が断行されたのですが、驚いたことに本社の半分ぐらいの人間がいなくなっています。そんなに前副社長派って多かったのか聞いてみたら、
    「そんなにはいなかったが、この際、人事と組織の大幅刷新をかねて断行された」
 『そんなには』と綾瀬副社長は言いますが、あの鬼瓦部長までいなくなっています。鬼瓦部長は中立派だったのですが、新人の頃に前副社長に目をかけてもらっていた時期があったそうです。そのため前副社長から誘いがあったのですが、鬼瓦部長は断られています。
    「それだったら部長は問題なしじゃないのですか?」
    「いや、我々にその動きを通報しなかったのは問題だ」
 これだけの理由で鬼瓦部長は名古屋支社に左遷気味の横滑りとなっています。鬼瓦部長だけではなく総務部次長も巻き添えの形になって福岡支社に異動です。社長はやる時には徹底してやる怖い人だと聞いていましたが、背筋に薄ら寒いものが走る思いです。権力闘争ってここまでやるのかの怖さといえば良いのでしょうか。

 鬼瓦部長の異動は私に思わぬ余波をもたらしています。組織改革の一環として、総務部から情報調査部が分離独立する事が決まっています。社長が前に仰っていた腹案はどうやらコレのようで、クーデター計画がわかる前から構想が練られていたようです。

 この部署は従来、コトリ先輩がチーフで、私とサキちゃん、一つ下のミドリちゃんの四人で担当していたのですが、情報調査部長にはコトリ先輩が抜擢される予定だったようです。ところが鬼瓦部長と次長が粛清人事で本社からいなくなり、ここでさらにコトリ先輩まで総務部から抜けられると総務部の機能低下どころか機能不全も危惧されたのです。

    「総務部長には小島君になってもらう。小島君がいくら優秀でも総務部と情報調査部のかけもちは無理だからな」
 コトリ先輩が部長なら総務部は安泰でしょうが、
    「そこでだ、新設の情報調査部には結崎君にお願いしたい」
 えっ、えっ、えっ、なんで、なんでって、アタフタしていたら、
    「そりゃ、そうなる。小島君が抜けたなら情報分析のトップは課長の君しかおらんじゃないか」
 あっ、そういえば肩書は課長だったんだ。とかいう前に、もともと四人しかいなかった上に、実質的に情報分析やってたのは私とコトリ先輩で、サキちゃんとミドリちゃんはサポート役なのです。繰り上がったら人事的にも実務的にも肩書的にも私が部長になるのは理屈ですが、いくらなんでもです。
    「それと情報調査部は大きく育てる方針だ。将来的には、情報分析部、調査部、企画部を従える経営戦略本部にしたい。とはいえ、とにもかくにも人を育てないとならない。まずは従来からの君の業務を代替できる人材の育成が目的だ」
 指導育成と聞いて目眩がしています。だってまだ二十五歳の小娘ですよ。課長になったのだって、訳の分からないお手盛り人事みたいなもので、管理職の経験自体が無いじゃありませんか。
    「あの佐竹君を顎で使ったのだから、管理職としての適性は十分ある」
    「でもあれは、部下として使ったというより、コンビみたいなもので」
    「その点は社長にも『くれぐれもよろしく』と頼まれている。私と高野専務でバックアップするから安心したまえ。君はとにかく情報調査部の育成にさえ専念すれば良いようにする。他には一切負担をかけないと約束する」
 前から疑問だったのですが、本社の情報分析担当は以前がコトリ先輩一人、私が加わって二人になったら先輩はヘルプで抜け抜けになってしまい、今度は私一人みたいな状態です。サキちゃんとミドリちゃんはサポート役で分析は担当していないからです。
    「・・・その程度の仕事のためにわざわざ情報調査部が必要なのでしょうか」
 そしたら副社長も専務も、
    「ぶははは」
 腹を抱えて大笑いです。
    「その程度だって。そりゃ、君は小島君の仕事しか見たことがないから、そう思うかもしれんが・・・結崎君は支社に情報調査室が既に設置されているところが多いのは知っているね」
    「はい」
    「たとえば東京支社の情報調査室は二十人を越える一大セクションだ」
    「そんなにいるのですか」
    「それでだな、本社の仕事量は支社全てを合わせたものの三倍以上は軽くある。それなのに本社に専門の情報調査セクションがなかったのは、小島君や君が一人で余裕でこなしてしまっていたからだよ」
    「そうなんですか」
    「質だって高い、いや我が社の宝と言って良いほど高い。支社がやっているレベルとは桁が違うのだ。君が小島君と並んで課長なるぐらいの功績は、これだけでも余裕で挙げてるのだよ」
 実感ないけどなぁ。
    「これまで小島君や君に頼り切って我々は仕事をしてきたが、君たちの能力を情報分析だけに縛り付けるのは、宝の持ち腐れであると社長はお考えだ。これは小島君が君の成長によって自由に動ける時間が増えて思い知らされた。あれだけの能力は他に活用したいのだよ」
    「でも、それなら従来通り情報分析は私がやれば・・・」
    「我々は小島君の能力の本当の活用法を知るのに、かなりの遠回りをした。同じことを君にはしたくないのだ。君の部下には支社からの選り抜きの精鋭七人を配属させる。七人で君の仕事をすぐに肩代わりさせるのは難しいと思うが、目標は一年で五割、三年で十割だ。相当高い目標だが頑張ってくれたまえ」
 課長だって重すぎる肩書なのに、今度は部長ってなによ。それも新設部で指導育成なんて肩の荷が重すぎるじゃないの。だいたい指導育成なんてされたことはあっても、やったことなんてないんだもの。

 あれこれ遁辞を構えてみましたが、社長も含めて名実ともにトップ・スリーからの直接要請を拒み切れるはずもなく『うん』と言わされちゃいました。でも不安がテンコモリ。社長がいかに怖い人かは今回思い知らされましたから、情報調査部設立に失敗したら降格左遷は十分あり得ます。

 降格したって別に構わないんだけど、左遷となるとミツルと離ればなれになってしまいます。それだけじゃありません。そういうレッテルを貼られた女は嫌がられて捨てられるかもしれません。いや、絶対捨てられる。

 やっぱり頑張って『NO』って拒否しておいたら良かったかも。でもそうやって拒んだら、拒んだで、また違うレッテルが貼られてしまうやんか。貼られたら、やっぱりミツルに嫌われて捨てられてしまう。うぇ〜ん、逃げ場がないじゃないの。どうなっちゃうんだろう。どうして、どうして私はこんなものに次々と巻き込まれちゃうんだろう。どこか間違ってる気がする。そうだお祓いに行ってこようっと。