21年目の1.17

あの日も寒かった。

本当に寒かったかどうかですが、ネットは便利なものであの日の天気が検索できます。最高気温が8℃、最低気温が1.4℃となっており5時46分なら1.4℃ぐらいと考えて良いでしょう。あの日の天候の記憶も曖昧になっており、雨は降ってなかったと思うのですが、晴れてた記憶と、曇りだった記憶が混在しています。これも確認すると9時時点で曇り、15時時点で晴れと記録されています。つまりは晴れも、曇りもあった事になります。ただ午後の晴れは異様な空であったのは今でも記憶しています。

もう2度と見たくはないのですが、神戸のあちこちで大火が起こり、風はあんまりなかったのか煙は真っ直ぐに天まで達し神戸の空を覆っていました。漠然と雪も降っていた記憶があるのですが、たぶんあれは火の粉が降っていたんでしょう。火事の風景として異様だったのは、通常ならそんだけの火事が起これば何十台もの消防車がサイレンを鳴らしながら走り回る音が神戸中に響き渡るはずですが、不思議なぐらい静かだったのが忘れられません。消防署も被害を受けていたでしょうし、同時多発の大火に戦力不足はどうしようもなかったでしょうし、火災現場に駆けつける前に倒壊した家屋からの救助に忙殺されたとも聞いた事があります。なんとか火災現場に到着しても水道設備がガタガタになっており、放水したくともその水がなく、水の出ないホースを握りしめて悔し涙に暮れた話も聞かされたものです。

当時、私は高台に住んでおり、とくに長田の大火が良く見えました。昼間も凄かったのですが、夜になっても火勢は収まらず、見ているものの実感としてどこまで燃え広がるのか、いや私の住んでいるところまで押し寄せないか強い不安に襲われたのは白状しておきます。夜の火事は近く見えるといいますが、本当に近く感じたものです。実際は相当距離が離れており、到底私の住むところまで押し寄せるはずもなかったのですが、あの日の情報は目に見えるものぐらいしかなく、ひたすら怖かったのを覚えています。


震災は当日も怖かったですが、後に続く日々も辛かったと記憶しています。私は幸いな事に被害は軽微でした。いや本当の被災者に較べると無傷として良いかと思っています。家は健在で、仕事場も健在だったからです。そんな無傷の被災者でも何が辛かったかというと、被災現場を生で毎日見なければなりませんし、本当の被災者の話も聞かされます。当時は感覚的に麻痺しているような感じもありましたが、ある種のトラウマとして残っているのが判ったのが東日本大震災の時でした。

繰り返し流される悲惨な映像を見ているうちに感覚がおかしくなるのをはっきり自覚しました。これが話に聞くトラウマって奴なんだろうかです。私程度でも起こるのですから、本当の被災者はもっと凄いんだろうとヒシヒシと感じた次第です。こればっかりは棺桶まで御同行するんだろうとあきらめています。どうしようもありません。


1.17は神戸では特別の日で、この時期になると地元紙も防災を書きたてます。それは当然かもしれませんが、あれから21年、防災は進んでいるのだろうかは正直なところ疑問に思っています。そりゃ21年前よりは整備された個所は格段に増えたでしょうが、次が起こった時に「大丈夫」にはならんと思っています。それと防災にはマクロとミクロがあるわけで、21年前のミクロの私は幸運でした。しかし次のミクロはどうなるかは誰にも予想できません。逆目になることも十分にある訳で、あれから21も歳を重ねた私には辛すぎるものになるのは必至です。

あんな経験は一度でも十分すぎます。個人的に次の防災より、「次」が私の生きているうちに起こらない事をひたすら祈っています。