西宮神社地形と門の向きの考察

JSJ様のレスを考えている内にコメ欄じゃおさまらなくなり、エントリーを立てます。幾つか論点があるのですがランダムにやらせて頂きます。


洗戎川

まずは

古地図では、西宮港の西端から西宮神社の方向に川が流れ、その先は道路になっているように見えます。
更に、緑色の地図ではその道が二股に分かれ、西側の道は南門に接続するようです。
この2本の道は、元々川だったものが埋め立てられたか、暗渠になったものではないでしょうか。

確認すると洗戎川(あらいえびすがわ)というらしく、平成20年7月洗戎川水系河川整備計画があるので引用してみます。

 洗戎川は、夙川、東川に挟まれた両河川の扇状地を流れ、河口の西宮港から大阪湾へ注ぐ、流域面積は0.8k?、河川延長約1.5kmの二級河川である。
 河川勾配は緩く国道43号線より南側では約1/1000である。
 洗戎川は法廷河川上流端の国道2号から市街地内を直角に曲がりながら流れて、西宮神社下流で暗渠となる。国道43号線付近で下水道の洗戎川雨水幹線と合流し、暗渠の流路は市道の地下をほぼ真南に流下する。建石町から再び三面張の開渠となり、直角に曲がりながら最下流の酒造地帯を流れて西宮港から大阪湾に注ぐ。川幅は下流の開渠部で6m程度であるが、その他の部分は狭小である。

(中略)
 洗戎川流域の地質は、流域北部のニテコ池周辺は凝固度の低い礫、砂、粘土からなる大阪層群、段丘礫層などの洪積層であり、ニテコ池の南側は主として夙川の氾濫により形成された沖積層である。

ニテコ池が水源地であるようで、ニテコ池からでも河川延長は3kmぐらいってところで良いようです。平成20年7月洗戎川水系河川整備計画の地図を示します。

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現在の洗戎川の流路は人工的に角々と曲がっているのが確認できます。かつてはどうだったかですが、西宮神社付近の明治期の地図を示してみます。

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見にくいのは遺憾とするところですが、私の読み取る限りでは、洗戎川は北から西宮神社に突きあたり、そこから神社に副って西側に回り込み、「市庭町」って書いてあるところを通って南下している様に見えます。前回の時に明治期の湿地帯の地図を示しましたが「どうも」西宮神社は気持ちだけでも微高地で、そのために洗戎川はこういう流路を取っていたんじゃないかと推測します。これが西宮神社の前身とも言える広田神社の摂社である浜南宮時代の創建時にはどうであったかは確認しようもありませんが、わざわざ川の流路を曲げてまで神社を作るとは思いにくいですから、昔からおおよそこんな感じであった可能性はあります。


さて洗戎川の水源地であるニテコ池には伝承があるようです。Forest of talesのニテコ池からですが、

明治37年(1904)、ゴードン・スミスが西宮の友人タダマツという男の案内で、ネテトテコイ池と呼ばれる池の端にヤマシギを探しに出かけた時のことだった。

(中略)
この話に登場する「ネテトテコイ池」は、現在の「ニテコ池」のことと思われる。
それは、西宮神社の土塀に使う土をここから運び出す時、「ネッテコイ、ネッテコイ」とかけ声をかけていた事から「ニテコ池」と名付けられたといわれているからである。
「ネテトテコイ」とは、つまり「練って取ってこい」の意ではなかったのだろうかと思われる。
また、「ニテコ」とはアイヌ語で「森林の水溜り」を意味するらしい。

ニテコ池から西宮神社の大練塀のための原料が採取されたの伝承は他にもあるようですが、これが創建の時なのか、定期的に必要であった修理の時なのかは判然としないものがあります。つうか大練塀自体の由緒も西宮神社HP

大練塀が最初に建てられた年代についての文献は残っていませんが、昭和二十五年の大修理の際、築土の中から宗銭三枚、元銭一枚が発見され、これによって室町時代に建造されたものと推定されます。

おいおい4枚の銭で推定とはチト粗い気がしますが、元は1271年から1368年までの王朝ですから13世紀以降なのは確実でしょう。ここで考えたいのはニテコ池が大練塀建設のために掘られた穴から形成され、そこから洗戎川が出来上がったどうかです。アイヌ語説も出ていますが、伝承では明治期には地元の人間はニテコ池とは呼ばず「ネテトテコイ」もしくは「ネッテコイ」と呼んでいた可能性がありそうだぐらいです。ですからニテコ池から大練塀の原料の粘土なりを掘りだしたのは事実の気もします。そのためにニテコ池は拡張されたかもしれませんが、それ以前より洗戎川は存在していたと私は見たいところです。


ニテコ池の伝承はこれぐらいにしますがJSJ様の、

創建当時の西宮神社は川の西岸河口部にあったのだと思います。
本殿のすぐ東側に川が流れていて、現在の南門がその河口だったと考えたいです。
すなわち舟で川を遡るのが本来の参道だったのではないでしょうか。
ところが川は次第に東へ移動し、現在の表大門の前を流れている時に
その頃には海岸も遠のいていたために、新たに鳥居を建て、そこにつなぐ参道を整備したのでしょう。
時は流れ、川は更に東へ、今の今津総合グラウンドのところまで移動し(Google Mapは川の名前が分らないのが最大の不満です)
西宮神社と市街も現在のようになったのではないでしょうか。

これに関してですが洗戎川が現在の表大門を流れていたかどうかを否定する材料を持ち合わせませんが、

    時は流れ、川は更に東へ、今の今津総合グラウンドのところまで移動
これは否定的な気がします。西宮市の河川・水路にある西宮市内の主要河川の図の一部を引用します。

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今津総合グラウンドを流れる川は東側と津門川が合わさったものですが、水系が洗戎川と異なります。仮に可能性があるとすれば、洗戎川が移動したのではなく東川が西から東に移動して津門川に合流するようになったはまだあるかもしれません。東川の沖積によってそうなった可能性は否定できませんが、そこまで豪快な河道移動が浜南宮が出来てから起こったかどうかは私は疑問です。


境内の変遷

JSJ様の

西宮神社の境内を見ると、今は南宮神社があるところに、かつては本殿から南門にまっすぐ延びる参道があったのではないかと想像したくなります。

更に、西宮神社の南辺に西国街道が走り、かつては浜南宮と呼ばれていたということからすると、創建当時は文字通り海辺だったのではないでしょうか。
つまり海岸砂丘上を街道が通り、その北側に接して神社が建てられたのではないかと。

まずなんですがこの辺りは「山陽道西国街道」と考えて良く、古代の官道のうち大道は海岸勢沿いを可能な限り直線に走っていたのは近年の研究でわかってきています。浜南宮の呼び名は伊達でなく、本当に浜に面して建てられていたのは御意です。ここでポイントと考えているのは浜南宮と戎社との関係です。古代の伝承分野になるのですが、もともとは広田神社の摂社として浜南宮が建てられたと考えています。そいでもって建てられた時には山陽道に面した南門が正門だったんじゃなかろうかです。そこに後から戎社が祀られた前後関係です。大雑把にいうと、

    浜南宮は広田神社の摂社であり、戎社は浜南宮の摂社
その後に戎信仰が強まったと考えたいところです。戎信仰については傀儡師との関連があれこれ研究されているようですが、浜南宮の摂社に過ぎなかった戎社の存在感が強まったってところです。どれぐらい強まったかというと広田・西宮両宮史の研究

古来、広田神社は本社を始め南宮、えびす社の三社からなり、三位一体のお社であった。平安後期、鎌倉、室町時代にかけて、この三社に参詣することを「西宮参詣」又は「西宮参詣日」と称していたことは、古文書によって実証される。

戎社は平安後期にはその比重が相当重くなっていることが判ります。まあ傀儡子の出し物がある戎社に人気が集まったなんて想像もできます。戎社はおそらく浜南宮の北側に位置していた可能性が高いと推測しています。とはいうものの元々の家主は浜南宮ですから、人気が高くなった戎社のために新たな大門が作られたぐらいを想像しています。つまり、

    南門・・・浜南宮の表大門
    東門・・・戎社の表門
これももともとの東門は通用門程度であったのが、戎社の隆盛に伴い大きくなったぐらいの見方です。西宮神社も戦国の戦火に見舞われますが西宮神社HPより

通称赤門(あかもん)と云われる表大門は、桃山建築の遺構をのこし、その左右に連なる大練塀(おおねりべい)と共に、重要文化財に指定されています。

文三年(一五三四)の兵火により尽く焼失した境内建物も一部修復されていたようですが、慶長九年(一六〇四) から同十四年にかけて豊臣秀頼公の奉献によりこの表大門始め本殿拝殿等全て元に復したと言われています。

秀頼による再建の時に東門が戎社のための表大門として整備され今も残っていると考えたいところです。ただこの時の本殿は江戸期の初めに失われた気配があります。

三連春日造(さんれんかすがづくり)と云う珍しい構造の本殿の屋根が望まれます。江戸時代寛文三年(一六六三)に四代将軍家綱の寄進になる国宝の本殿

政治的な意味だったんでしょうか。でも既に家綱の時代ですから、失火でもあったのかもしれません。でもって注目したい境内図がありました。昭和10年発行吉井良秀氏発行「西宮夷神研究」より、

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これは戦災前のものになりますが、江戸期もそうであった、つまり家綱が本殿を再建した時の配置と同様と見て良いでしょう。現在とビックリするほどの違いはありませんが、もともとは南門の真北に南宮神社(浜南宮)はあったんじゃなかろうかです。それと大練塀があるからややこしくなるのであって、昔の浜南宮は練塀などなく南門あたりに鳥居があって、そこから直にお参り出来たんじゃなかろうかです。これが戎社が西宮神社のメインになるにつれ隅っこに追いやられてしまったぐらいの見方です。

秀頼の再建の時には戎社同様に南宮神社も焼失していたと考えて良く、秀頼が再建した時に戎社中心になり、本来の母屋である南宮神社は片隅の末社みたいな状態になったぐらいです。ただ南宮神社は広田神社に取っても大事な摂社であり、かつての鳥居からの参詣路の確保と、これを戎社参詣のメインルートにしないぐらいの妥協が為されたぐらいを想像します。まあ全部想像ですが、傍証になるのが明治の最初に起こった広田神社と西宮神社社格紛争ではなかったかと思っています。

西宮神社は「西宮神社」の名前で広田神社から一旦分離していますが、そのあと不思議な事に大国主西神社に改称しています。これは憶測ですが西宮のままでは広田の摂社に戻される懸念を抱いたためではないかと思ったりします。なんと言っても相手は最高社格と言っても良い官幣大社だからです。なぜに戎社を使わなかったかですが、戎社もまたコチコチの広田(ないしは南宮)の摂社であったからとみたいところです。そこで無関係の大国主西神社に改称してしまったぐらいを考えています。これが裏目にまた出るのは西宮神社の由緒をお読みください。