私憤と公憤

ツイッターでもブログでも意見を主張するモチベーションの一つに憤りがあります。ある出来事、またそれを伝える記事に対する憤りです。通常は批判記事になるのですが、憤りが強いほど力の入ったものになりやすい傾向は確実にありそうに思っています。言うまでもなく私もそうです。ですから憤りで書く事自体は肯定します。

この憤りですが分けると私憤と公憤の部分はあります。きっかけの出来事に対して起こった憤り自体は私憤と公憤が入り混じったものですが、主張としてまとめる時には分けておくのが必要だと考えます。


私憤にもいろいろタイプはあるでしょうが、当人が抱いた不快感情である事も多いと考えています。先週も少し紹介しましたが、飲食店の対応が不快であった経験は誰しもあると思っています。この不快感情が私憤になるわけです。ストレートに私憤を爆発させれば、

    あの店員は許せない → あの店も許せない → 悪口を言い触らしたろ
このままの感情で文章化し主張にすれば、それこそ聞くに堪えない悪口雑言のオンパレードになります。それで当人の気が済めば、それも一つですが、それでは確実に向こう傷を受ける事になります。たとえばどんな向こう傷かと言えば、主張した当人もそういう悪口雑言を振りまく人物と見なされると言う事です。そういうリスクを織り込み済みで主張されるのならとやかく言いませんが、たとえネットでもある程度の看板を背負った人間なら無視し難いデメリットと思います。

また悪口を言うにしても、私憤の目的はそれこそ「あんな店、潰れてしまえ」があると思っています。そのためには悪口の共鳴者が増えてくれる必要があります。ところが不快感情である私憤を強烈に練りこんだ文章は感情に強力に反応する人間がいる一方で、逆に強く反発する人間も多数作り出す懸念が大です。私憤の主張はどこまで行っても諸刃の剣じゃないかと思っています。


ここでなんですが、私憤を公憤に置き換える作業を行えばどうなるかです。公憤に置き換えるとは状況の一般化に通じます。手前味噌ですが、これも先日例に挙げたカウンター内の雰囲気の悪い店です。そういう店で不快な思いをしたのは私憤ですが、そういう店を類型化してとらえ、そういう店の存在が客一般にとって迷惑だに置き換えれば広い意味の公憤に転じます。

客の飲食店に求めるサービスとして、楽しい雰囲気で食事したいと言うのは一般化は可能と考えます。そういう雰囲気をぶち壊す類型として「カウンター内の雰囲気が悪い」は多くの共鳴を集めやすいですし、そういう主張を行ったからと言って主張者の人格を疑われたりしないと考えます。中にはカウンター内の険悪な雰囲気が「好き」と言う人もいるかもしれませんが、そういう人物でも「悪い雰囲気が美味の元」までは反論しないと考えるからです。


ただなんですが、私憤に較べて公憤は感情の温度がどうしても下がります。文章内の感情はある種の劇薬で、これが濃すぎると諸刃の剣になるのは上述した通りですが、あまりに薄すぎると主張自体を読んでくれなくなります。理由は「おもしろくない」「読む気がしない」です。広く関心を集めるためには、あえて私憤をある程度前面に押し立てる手法を取る時もあります。

もちろん「ある程度」であって、私憤の感情による刺激を与えた後に、これを巧みに公憤に置き換えていくのが不可欠であるのが言うまでもありません。かなり難しい代物で、感情による刺激と公憤に置き換える技法がよほどバランスが取れていないと感情が勝り、その感情部分に予期せぬ反発が生じやすくなります。私程度なら感情は抑えまくってやっとバランスが取れるという感じでしょうか。


もっと凝った手法に成ると、私憤を公憤に置き換えた上で、これを一般論化して社会問題として提起すると言ったものがあります。これのよく出来たものは感歎させられます。私憤により自らの感情が掻き立てられ、その掻き立てられた自分の感情がスムーズに公憤に転じます。公憤の感情は温度こそ私憤より低いものの、保温能力は高いですから一般論化された社会問題を注目せざるを得なくなるです。

私の見方・考え方ですが、私憤の感情は強烈なスパイスであり、これを程よく中和して整えるのが公憤であり、味を記憶させてしまうのが一般論化された社会問題みたいな感じです。そういう文章を書きたいと常々思っていますが、そうは簡単に書けるものではなく、まだまだ修練が足りないといつも思っています。


今日は何を書きたいかのか薄々感づいていている人も多いかもしれませんが、乙武氏騒動の感想です。主張の是非なんかに触れるとヤケドしますから、手法論についての感想だけで、余りにも私憤部分が強く出すぎたと思っています。この刺激が強すぎたので「おそらく」乙武氏が構想していたであろう公憤に転化し、一般的な社会問題に持ち込むのがスムーズにいかなかったのだろうと推測しています。

私も教訓として自戒しなければならないと思っています。