てな主張をされている方がおられるそうで、それは誰かは存じ上げません。どこかで小耳に挟んだは話であって、そういう主張が本当にされているかどうかもわからない話としておきます。この主張は文言が、
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医療訴訟を起す患者はクレーマーばかりでない
クレーマーの比率が「all」か「almost」だけで相当意味合いが違います。「all」と主張するからには「a few」いや「only one」でもクレーマーが存在すればこの主張は根底から崩れる事になります。後出しで「例外もある」と言うのなら、最初から「all」ではなく「almost」としておく必要があるんじゃないかと考えます。主張をするときに聞き手にインパクトを与えるために単純化する事は常套手段ですが、医師がもっとも神経を尖らせている医療訴訟問題に「all」を使うレトリックは如何なものかと感じます。
それでもあえて「all」が成立する論拠を考えて見ます。考える上でクレーマーの定義が問題になるのですが、医療訴訟がらみの問題なので、
- 理不尽な「言いがかり」をつけてくる
- 医師側の説明に聞く耳を持たない
- 高額の賠償請求を要求する
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金のためではなくすべて信念で行なっている
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自分の主観を確信し、一切の説明を受け入れない人
- 理不尽な「言いがかり」をつけてくる
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絶対正義に基ずく誰に恥じる事がない主張である
- 医師側の説明に聞く耳を持たない
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絶対の正義である主張に反論など存在するわけが無い
- 高額の賠償請求を要求する
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正義の代償であり当然の要求である
この精神のあり方の問題に話が展開すれば「all」理論は非常に強力になります。他人の精神の在り方を客観的に判断する方法など皆無です。ここで仮にすべての医療訴訟の原告にアンケート方式で「訴訟の目的は」と聞いたところで、回答に「すべては銭のため」なんて書く人は皆無かと考えられます。しかし「all」理論の一つの裏付けぐらいにはなり、「証拠がある」との主張は可能になります。
ここでこういうタイプの人をクレーマーかどうかの判定基準を
こういう風に二分法で考えていますが、この二つの関係は水と油のように反発しあうものでなく、渾然一体となって不即不離の関係と考えています。「純然たる金のため」なんて人が殆んど居ないのと同様に、「純然たる信念のため」の人も非常に少数派であると考えています。金と信念のバランスは原告により相当変わるでしょうが、相当「信念」の比重が高い人でも、今後の生活費の確保も必要と言う「金」のため部分があっても決して非難されるものではありません。また「金」部分の比重の高い人でも、発端に医療事故が無い限り行動は起さないわけですから、その時の不快な感情が「信念」の基に幾分かはなっているはずです。
ここで精神の在り方は原告サイドの考え方です。上記したように精神の在り方を客観的に判定する方法はありません。「純然たる信念」なのか「純然たる金」なのかを見抜く方法は医師にもありません。被告である医師が判定する基準は、目に見える行為で判定します。別にこれは医師だけではなく、他の職種でも同様かと考えています。行為がクレーマーであれば、精神の在り方がどうあろうとクレーマーと判断するという事です。
訴訟段階に至って、原告側に外見上のクレーマー行為があると判定し、なおかつこのクレーマー的行為は原告側の精神の在り方が「純然たる信念」であるから「クレーマーではない」なんて、そんな複雑でなおかつ余裕のある考え方をもつのは不可能だろうと考えています。さらに言えば当事者でもそうであろうと推察されますから、第3者であって事実関係だけで判断する者には
これ以上の考えをめぐらすのは事実上不可能と考えています。溝は果てしもなく深いと感じるお話でした。