日曜閑話57

今日のお題は「斎藤三代」です。具体的は道三、義龍、龍興の3人になります。この中でとくに道三はとくに有名なんですが、一方で資料が乏しい面があります。ところが最近のwikipediaの充実は目を見張るようでチト興味がそそられたと言うところです。


道三2人説

今日の眼目は道三2代説です。2人説でも良いのですが、美濃を取ったのは1人の道三ではなく親子二代の業績と言う説です。とりあえずwikipediaより、

1960年代に始まった『岐阜県史』編纂の過程で大きく人物像は転換した。編纂において「春日倬一郎氏所蔵文書」(後に「春日力氏所蔵文書」)の中から永禄3年(1560年)7月付けの「六角承禎書写」が発見された。この文書は近江守護六角義賢(承禎)が家臣である平井氏・蒲生氏らに宛てたもので、前欠であるが次の内容を持つ。

岐阜県史は目次しか残念ながらネットでは読めないのですが、その内容の要約としてwikipediaには、

  1. 斎藤治部(義龍)祖父の新左衛門尉は、京都妙覚寺の僧侶であった。
  2. 新左衛門尉は西村と名乗り、美濃へ来て長井弥二郎に仕えた。
  3. 新左衛門尉は次第に頭角を現し、長井の名字を称するようになった。
  4. 義龍父の左近大夫(道三)の代になると、惣領を討ち殺し、諸職を奪い取って、斎藤の名字を名乗った。
  5. 道三と義龍は義絶し、義龍は父の首を取った。

先に白状しておきますが私の道三知識の大半は司馬遼太郎の「国盗り物語」です。司馬氏は文献を良く集めて書くことで知られていますが、ある程度アウトラインは似ています。大元の出身は妙覚寺の僧であり、長井氏に仕え、西村氏を名乗り、やがて長井氏を名乗るようになったです。この道三一代記の前半部分が道三の父の業績だったです。

ここで長井氏と斎藤氏 / KOJYO TANBOから長井氏と言うか後斎藤氏の系図を引用してみます。

実はこの系図も「う〜ん」てな所もあって、義龍の娘が六角義秀に嫁いだとなっていますが、この六角義秀自体が実在を疑われている人物です。六角氏は有名な承禎の祖父が氏綱なんですが、その後は弟の定頼が継いでいます。義秀は定頼の子ないし孫とされていますが、実在についてははっきりしないとなっています。また義龍が1527年生れ、実在したとして義秀が1532年生れです。結構歳が近いです。歳の差は政略結婚ですからある程度ありえるとしても、仮にも美濃国主の娘が六角氏の傍流に嫁ぐかです。


長井新左衛門尉

家系図によれば道三の父が妙覚寺の僧から還俗し松波庄五郎を名乗って美濃に仕官し、西村勘九郎となり、やがて仕えていた長井家を乗っ取り長井新左衛門尉になった事になります。ほいではこの長井新左衛門尉がいつ亡くなったかになります。これは道三の生年すら不詳ですから難しいのですが、ここでこの時代の美濃の支配者である土岐頼芸の動きをwikipediaから拾って見ます。

父政房には長男の頼武がいたが、政房は次男の頼芸を溺愛して頼武の廃嫡を考えるようになり、政房によって頼芸は小守護代長井長弘、長井新左衛門尉(斎藤道三の父)らに擁立され、兄の頼武も守護代斎藤利良の支持を受けたことにより、両者は対立して家督争いが起こり、永正14年(1517年)、合戦となった。

この戦いで頼芸側は敗れたが、前守護代斎藤彦四郎の助力も得て、翌永正15年(1518年)、再び合戦となり、頼芸側が勝利し頼武を越前に追放し、頼武方の勢力を一掃した。しかし、永正16年(1519年)、朝倉孝景の支援を得た頼武側が美濃に侵攻し、頼芸側は圧倒され頼武側が勝利し、頼武が美濃守護に就くことになったことで決着がついたと思われた。

しかし、頼芸は政権奪取を企て、大永5年(1525年)に再び挙兵し、美濃守護所の福光館を占拠した。享禄3年(1530年)には兄を再び越前に追放し、「濃州太守」と呼ばれて実質的な守護となった。その後、後ろ盾であった長弘、新左衛門尉らが相次いで死去したため、新左衛門尉の子規秀(後の斎藤道三)を重用し、勢力保持をはかったとされる。

土岐家の跡目騒動が起こっているのですが、年表としてまとめてみます。

頼芸 頼武 結果
1517 守護代長井長弘

長井新左衛門尉
守護代斎藤利良 頼武勝利
1518 守護代斎藤彦四郎
守護代長井長弘
長井新左衛門尉
守護代斎藤利良 頼芸勝利、頼武を越前に追放
1519 朝倉孝景 頼武勝利
1525-1530 頼芸勝利、頼武を越前に追放


これも良くわからん経過で、頼芸も頼武も勝ったり負けたりしているのですが、頼武が勝っても頼芸は美濃に留まっていそうなのに、頼芸が勝つと頼武を越前に追放しています。ここから考えると、頼武が勝った時には判定勝ちの和睦勝利ぐらいであるのに対して、頼芸が勝った時には軍事的に圧勝したぐらいの感じでしょうか。でもって長井新左衛門尉は一貫して頼芸支持に回ったとして良さそうで、その上で、
    その後、後ろ盾であった長弘、新左衛門尉らが相次いで死去
1530-1535年の間ぐらいでしょうか。道三の生年も不詳なのですが1494年説があり、これに従えば35-40歳ぐらいで表舞台に漸く登場した事になります。そうなると国盗り物語の前半にある京都の油商人から美濃の有力被官にのし上った痛快なエピソードは父の新左衛門尉時代のものであった事になります。もう一つこのお家騒動の対立構図ですが、「守護代斎藤一族)vs 小守護代(長井一族)」の構図もありそうです。結果は頼芸勝利により守護代斎藤一族の勢力が衰えたとも考えられます。

もう一つ、小守護代の長井一族ですが、こちらもお家騒動で勢力をすり減らした可能性があります。先ほど単純に「守護代斎藤一族)vs 小守護代(長井一族)」しましたが、頼芸側には前守護代の斎藤彦四郎がついたりしていますから、長井一族もまた一枚岩であったわけではなく、頼武側についたものもいたと考えるのが妥当でしょう。


もう少し詳しく追えないかとwikipediaを見てみると、

天文2年の文書に藤原(長井)規秀の名が見え始めることから、道三が父から家督を相続したのはこの頃と推定されている。 また公卿三条西実隆の日記にはこの年、道三の父が死去したとある。同年11月26日付の文書(岐阜県郡上市の長瀧寺蔵、岐阜市歴史博物館寄託)では、長井景弘との連署であり、道三が長井長弘殺害の際に長井氏の家名を乗っ取り、長弘の子孫に相続を許さなかったとする所伝を否定するものである。また、長井長弘の署名を持つ禁制文書が享禄3年3月付けで発給されており、少なくとも享禄3年正月の長弘殺害は誤伝であることがわかっている。しかし、この文書の後にほどなく景弘は死んだと考えられる。翌、天文3年9月付の文書(『華厳寺文書』「藤原規秀禁制」)では道三の単独による署名(つまり長井宗家を継承)があるためである。それ以降、景弘の名がどの文献からも見あたらないことから道三が景弘を殺害(もしくは急死)したと推定される。道三が殺害したどうかはともかく、道三は長井宗家の名跡を手に入れていれたとされる。

天文2年とは1533年です。この年に新左衛門尉が死亡したの公家の日記もあるところから、新左衛門尉の死亡年はこの年と私はしたいと思います。でもって小守護代家の長井宗家のほ方ですが、どうやら

  • 新左衛門尉を取立てのが長井長広
  • 長広の息子が景広でこれも小守護代
ここで長広の生存が最後に確認できるのが享禄3年(1530年)であり、景広の名前が公文書から消えるのが天文3年(1534年)のようです。斎藤家の名跡を手に入れたのはさらなるお家騒動があり、

天文4年(1535年)6月、父の17回忌を執り行い、自らの正統性を国内に宣言したため、兄の跡を継いだ甥頼純と対立し、朝倉氏、六角氏らが頼純側に加担したことにより戦火は美濃全土へ広がった。

この後に

天文7年(1538年)に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った。

ここまで守護代の斎藤利良は生きてたんだ。道三の生年を1494年として年表を組み立てると。

事柄 道三年齢
1517 第一次お家騒動 23
1518 第二次お家騒動 24
1519 第三次お家騒動 25
1525-1530 第四次お家騒動 31-36
守護代長井長広死亡(1530)
1533 父新左衛門尉死亡 39
守護代長井景広死亡
道三、小守護代になる
1535 第五次お家騒動 41
1538 守護代斎藤利良死亡 44
道三、斎藤氏を名乗り守護代になる


言ったら悪いですが、これだけお家騒動を繰り返せば土岐家も衰退すると思いますし、土岐家を支えた累代の重臣である守護代家の斎藤氏も、小守護代家の長井氏も衰えると思います。こういう戦乱の時代は、それに適した人材を得たところが勢力を伸ばしますが、道三の父である新左衛門尉にはその資質があったのだと考えられます。

新左衛門尉は伝説の智慧第一の法連房であったかどうか、また本当に京都の油商人であったかどうかは今となっては確かめるのが困難かもしれませんが、いわゆる余所者であったのだけは間違いないと考えられます。だって最初の名乗りが松波だからです。戦国期の人材登用はどうしても信長を思い浮かべてしまい、能力第一で出自を問わずの印象がありますが、実際はそうではありません。

基本は領国出身者であり、出自も問われます。新左衛門尉が活躍した時代は応仁の乱から戦国期に分類されるとは言え、土岐家の様な守護大名家で頭角を現すには余ほどの能力が必要と見ます。能力だけではなく、出自や門地や血縁・地縁を重視される中で支持を集め、勢力を伸ばすのは余ほどの手腕が必要だと言う事です。


もう一つ繰り返されるお家騒動ですが、戦国期の常識なら敗者は滅亡しそうなものですが、よくよく見なくとも跡目の双方に付いた実力者は死にもせず、また家も滅びることなく続いています。だからダラダラと5次にもわたる騒動が繰り返されているとは言えます。ただなんですが、「頼芸 vs 頼武」で考えた時に頼芸勝利時の頼武への処分が苛烈です。

これは新左衛門尉の策ではないでしょうか。戦国期に近い敗戦相手の処分を行おうとした形跡にも見えます。それに対し頼武側の処分はいかにも手ぬるく、室町期感覚の対応であった可能性があります。その対応の違いが最終的に頼芸側が勝利した原因にも見えます。もう少し言えば、頼芸勝利時の頼武側豪族の処分で新左衛門尉が勢力拡大に巧妙に利用したも考えられます。

第四次お家騒動の終了時には、双方に付いた斎藤家、長井家の有力者たちは所領を削減され、あるいは追放され、あるいは殺されして勢力を縮小させ、最後まで生き残っていた宗家の長井長広が死亡する頃には揺るぎないNo.2の地位を占めていたです。頼芸もごく自然に新左衛門尉を重用したです。

ついでですから道三の年齢から考えるとお家騒動に関る合戦には出陣していたと考えられます。道三は無類の戦上手であったとされますが、道三一代説では天与の才と説明せざるを得ないものでした。司馬遼太郎はそうしています。しかし二代説を取ると20年近く合戦場を駆け回っている歴戦の雄です。天与の才はもちろんあったと思いますが、これに豊富な実戦経験が付加されたものとする方が宜しいようです。


最後に残る謎は新左衛門尉がいつ美濃で仕官したかです。これがさっぱりわからないのですが、1517年の時点では既に長井を名乗っています。その前に西村勘九郎時代があったはずですから、やはり1500年ぐらいでしょうか。そうなると道三の出生年と微妙に絡んできます。道三は美濃に来る前に生れていたのか、それとも美濃で生れたかです。

ちょっと飛躍すると新左衛門尉が小守護代の長井長広に見込まれて、長井家の重臣名跡である西村の名前を継いだとされます。これだけでも当時的には容易ではないのですが、単に名跡を継いだだけでなく長井長広と姻戚関係を結んだと取りたい所です。つまり長広の娘なりを娶り、長井一族に組み入れられたです。おそらく西村家も長井の有力一族であったであろうです。

国盗り物語では、道三が美濃に来たときには西村家は実質滅んでいたとなっています。これについても何の確証も無いのですが、新左衛門尉を取り立てるあたり姻戚関係を結んで、西村の名跡を継ぐに相応しい格を与えるのはありそうなことです。でもって、道三はその時に出来た子供と言うわけです。新左衛門尉一代の間は長井長広を立てていた気配がありますから、原因はその辺ではないかとも考えています。


道三と義龍

道三はその後美濃を掌握し「美濃の蝮」と言われるのですが、道三と義龍との間には有名な伝説があります。頼芸健在の頃に愛妾の深芳野を貰い受け、その時に頼芸の子を既に孕んでいたです。このモチーフで歴史小説はよく書かれていますが、これについて確証と言える証拠はないとされます。ただ親子仲が悪かったのは確かで、義龍は長良川の合戦で道三を討ち取っています。

実はこの辺も一代説では説明が難しいところで、道三が一代で美濃を支配した英雄であれば、義龍に家督を譲って隠居したと言っても美濃の国人衆の支持は非常に強いはずです。親子喧嘩で合戦になろうとも、英雄道三への支持は厚いはずです。ところが雪崩を打って義龍側に国人衆は流れています。そこで義龍の頼芸落とし子説が生きてくるわけです。

しかし道三二代説になるとそんな無理をしなくとも良くなります。初代とも言える新左衛門尉は美濃に大きな地盤を築いたものの、新左衛門尉は小守護代の長井長広の下に甘んじています。そこから権力奪取に突っ走ったのは二代目の道三です。道三も有能ではあったのでしょうが、本格始動を始めたのが40歳頃からです。

そこから父の遺産を存分に利用して美濃の守護まで短期間で登りつめるのですが、かなり無理をしたです。No.3以下ならまだしも、No.1に余所者が就くのは好まれなかったです。とはいえ実力は抜きん出ていましたから美濃の帝王にはなりましたが、政治としては強権主義にならざるを得なかったです。合議制になるととてもまとまらなかった、もしくは道三の性格から合わなかったです。

道三は1554年に隠居していますが、これは還暦を機にと言う穏和なものではなく、これ以上道三支配が続くと美濃が治まらなかったんじゃないかと見ます。一方で義龍は道三のアンチテーゼ的な立場をとり、その姿勢が道三には気に入られなかった一方で国人衆の支持は集める関係になったです。つまり道三にすればやむなく義龍に家督を譲らざるを得ない状況に追い込まれたです。

だって平穏に隠居していたのであれば、そこから義龍追い落としなんて画策する必要は無いからです。隠居後も道三は権力欲に燃えていたんじゃないかです。義龍を追い落とし、もう一度権力を握ろうです。


義龍はどうもなんですが、斎藤の名さえ捨てたようです。母方の一色氏を名乗り道三と対決し、これを葬ります。ここで注目しておいて良いのは、義龍は一色氏を名乗っていますが土岐氏は名乗っていません。もし頼芸の落としダネなら土岐氏を名乗ると思います。美濃は道三が奪って斎藤家のものにはしましたが、道三の美濃支配は1542年に始まるとされ、そこから12年後の1554年に隠居です。

国人衆にも美濃は土岐の記憶が十分に残っている時期ですから、義龍も土岐を名乗るのが一番良いはずです。そうなると結論は義龍は土岐を名乗れなかった、つまり道三の子供であるです。義龍は道三の悪名のイメージが染み付いた斎藤から、やっとこさ母方の一色にしか逃げられなかったです。それでも改姓は自称ではなく、

義龍は尾張織田家との戦闘が続くなか京都の将軍家足利義輝より一色氏を称することを許され美濃守護代家斎藤氏より改名

私もこれは良く知らなかったのですが、これだけ義龍が斎藤のイメージを払拭しようとしたにも関らず、後世には斎藤氏の名前で流布されるとは心外だったかもしれません。


三代龍興

義龍は35歳で急死し、後は龍興が継ぐのですがまだ14歳です。南の尾張からは信長が連年の進攻を繰り広げている状態での家督相続です。龍興には非常に荷が重い状態であったと言えます。美濃の政治体制は、

    道三:恐怖独裁性
    義龍:重臣協議制
義龍が重臣協議制を採用したのは道三の独裁制に対する美濃統治体制の収拾の意味もあったとされます。ただ義龍は1554年に家督を継ぎ1556年に道三との抗争に勝って地位を磐石なものにしたものの、1561年に死亡です。つまり義龍政治と言っても最大で7年、道三死後と見れば5年ほどです。重臣協議制と言っても確立までもっていけなかったと見るのが妥当かと思います。

美濃の統治体制と言っても基本は鎌倉・室町以来のもので、各地に小豪族が割拠し、守護家と言ってもその旗頭に過ぎない状態です。つまりは守護家は権威はあっても、守護家直属の軍事力はさして大きくないです。もちろん新左衛門尉や道三時代にかなり大きくはしているでしょうが、それでも比較1位ぐらいのものと考えるのが妥当です。諸豪族の協力がないと美濃は統治できないです。

こういう先代からの重臣団と言うのは扱いにくいものです。また重臣団の意識として先代義龍も「オレらが守護にしてやった」も強く、かなり上か目線の対応をされた可能性を考えます。義龍の時代は露骨に現れなくとも、14歳の龍興相手なら結構露骨であったように考えます。義龍も後10年ぐらい時間があれば、もうちょっと違った形の補佐としての重臣団を龍興に付けられたかもしれませんが、時間が足りなかったです。

さらに美濃は戦時体制です。信長が南から飽くことなくピストン攻撃を加えてきます。これがとりあえず平時なら、上から目線の重臣団であっても、「そうせい公」で待つ事ができるでしょうが、信長と言う現実の前では負担は嫌でも龍興に圧し掛かります。道三はそもそも独裁制で戦上手したし、義龍も六尺五寸の個人的武勇だけではなく戦もなかなかのものでした。

つまり道三も義龍も危機となれば陣頭に立って相手を粉砕する能力があったわけです。これがあるから義龍も合議制を敷いても、最後の求心力を常に持っていられた考えます。しかし龍興にはそもそも無理な注文です。無理な注文ですが、信長はそういうのには斟酌してくれません。求心力ない状態で重臣団を率いると、「龍興、頼むに足らず」状態が醸されてしまうです。

またそういう孤独な状況に追いやられると、甘言を弄して近づく者をつい重用します。そりゃ、重臣団の上から目線の渋い言葉を聞かされるよりも、甘い言葉を聞いている方がずっと心も晴れ晴れして楽しいです。ただそれをやると重臣団の離反は促進されます。離反と言ってもすぐに信長に走るわけではなく、自領に閉じこもって守護家に協力しない姿勢をとるです。そういう姿勢を取られた時に、室町体制では手のうち様がなくなるところがあります。

龍興は1561年に家督を継いで1567年には稲葉山城を落とされ美濃から逃げ出さざるを得なくなります。さらに1573年に朝倉氏の客将として信長と近江で戦うものの戦死しています。


龍興が本当に無能であったかどうかは不明ですが、いくつかエピソードをあげておくと、

  • 龍興は畿内在住時、キリシタンを目指した。その記録が幾つか残っている。


    • ルイス・フロイスからキリスト教の宗儀・世界の創造などについて説かれると聴聞した事を逐一書き留め、次に教会へ姿を現した際にはその総べてを明白に、流暢に、一言一句の間違いなく反復することが出来たといい、教会の信者達はとても驚いたそうである。


    • ガスパル・ヴィレラに対して「人間がデウスによって祝福され、万物の霊長であると保障されて居ると師は言う。ならば、なぜ人間界にかくも多くの不幸が満ちており、戦乱の世は終わらないのか。万物の霊長たらんと創造されたのなら、なぜ人間の意志に世は容易に従わないのだろうか。こんな荒んだ世の中を一生懸命、善良に生きている者達が現世では何ら報いも受けられないのは、何故なのか。」と質問した。ヴィレラは龍興の疑問に対し、その総べてに納得がいく様な道理を上げて説明したと記録されている。


  • ルイス・フロイスは『日本史』に龍興について、「非常に有能で思慮深い。」と記録している。

ここから推測できそうなのは決してバカではないです。むしろ聡明の印象さえあります。ただし戦国武将としての能力となると未知数です。


あとがき

信長の天下取りは桶狭間の勝利はもちろんですが、飛躍したのは美濃攻略後です。美濃に地盤を据えた信長は義昭を擁しての上洛戦と言うマジックを成功させ、以後は天下統一のための血みどろの死闘で本能寺に到るです。では美濃攻略が容易であったかと言えば全然そうではありません。むしろ美濃攻略戦を通じて、信長も戦術戦略を進化させた末のものだと思っています。後斎藤氏の年表をまとめてみます。

後斎藤氏 事柄
新左衛門尉 1470-1517 妙覚寺僧侶、油商人を経て松波庄五郎として美濃の長井家に仕官
・長井家の家老の名跡の西村勘九郎となる
・さらに長井の姓を名乗るがこの時に長井長広と姻戚関係を結ぶ
・道三も出生
1517 第一次お家騒動
1518 第二次お家騒動
1519 第三次お家騒動
1525-1530 第四次お家騒動
1530 守護代長井長広死亡
道三 1533 ・小守護代長井景広死亡
・新左衛門尉死亡、道三家督を継ぐ
1535 第五次お家騒動
1538 守護代斎藤利良死亡
・道三守護代になる
1542 頼芸を追放し美濃国主に
1548 娘を信長に嫁がせる
義龍 1554 隠居、家督を義龍に譲る
1556 長良川の戦いで道三戦死
龍興 1561 義龍死亡、14歳の龍興が家督を継ぐ
1567 稲葉山城落城、美濃から落去


新左衛門尉のスタートを1470年としたのは死亡が1533年ですから、60歳ぐらいで死亡したとのアラアラの推測です。また長井長広と姻戚関係を結び、そこで道三が生れたとするのは私の推測です。道三は新左衛門尉から家督を継いで11年後に美濃を手に入れた事になります。でもって、その18年後に長良川で戦死です。道三の活躍時期はおよそ30年間ほどとなります。

信長の美濃進攻をどこから数えるかですが、1548年に道三の娘との婚姻により、美濃と終わりの間には小康期が訪れたとしても良いかと考えています。長良川では信長は道三の援軍に向かっていますから、この時からとすると1567年の稲葉山落城まで11年間を要しています。信長の美濃進攻も、義龍健在の時には事実上、歯が立たなかったのも史実としても良いかと思います。しかし龍興が家督をついでからでも6年かかっています。


美濃 vs 尾張は信長の父の信秀の代から延々とくり返されていますが、信秀は道三に負け続け、信長も義龍には勝てなかったです。信長にとって僥倖であったのは、悪戦苦闘の美濃攻略戦ではありましたが、本拠地尾張に外敵の進攻が訪れる危険性が低かったのはあると思っています。今川氏は桶狭間の大敗の後は駿河に引っ込んで、外征の機運は消え去ります。

伊勢は北畠氏ですが、ここも大国ではありましたが国の体制として尾張進攻を目指すような状態ではなかったです。徳川氏は信長と同盟を結んでいますが、徳川氏の立場として今川と手を組んで尾張に進攻する選択枝は乏しく、三河を固めるのと遠江の進出に専念するのが得策みたいな状況となっています。だから信長が美濃戦で負けても、傷口を回復させてピストン攻撃を繰り返せたでしょうか。

美濃は道三の強権独裁後の融和で外征の余力がなかった見ます。さらに美濃奪取の経緯から越前の朝倉、朝倉と固い同盟を結ぶ浅井、さらには南近江の六角とも敵対関係があり、尾張進攻なんてやりかければ、背後から攻め入られる関係も存在しています。ましてや対織田戦で敗北でも喫しようものなら、周辺諸国から土岐氏復興を旗印に乱入される危険が常にあったです。


もっとも信長にしてみても北の美濃は強大であり、美濃を放置して伊勢なりに勢力を伸ばすのは危険と判断したと見ています。伊勢で大敗でも喫しようものなら、美濃が攻め込んでくる怖れです。これもwikipediaからですが、

一色氏は織田信長の根本領地である尾張知多郡と海東郡の分郡守護や北伊勢半国守護を継承した家柄であり、義龍の目指す侵攻路は、それだったとされる

信長にしても現実に攻めてくる可能性が低い伊勢より、わざわざ一色氏の名跡を名乗って旧領回復を呼号する義龍がやはりイヤだったです。どうしても目の上のタンコブである美濃を手に入れないと勢力拡張が出来ないの判断でしょうか。これは父信秀の判断とある意味似ているかもしれません。


信長は美濃攻略戦において実地学習を行ったとの見方も可能かと思っています。美濃と尾張の優劣は、

項目 美濃 尾張
石高(太閤検地 54万石 57万石
兵制 室町体制 兵農分離
戦術 地形を生かした局地戦に強い 平地の決戦に強い
兵の質 強兵 弱兵
銭経済 尾張より保守的 強い


戦術について言えば尾張は平野であり、合戦は数が勝負になります。一方で美濃は地形が複雑であり、待ち伏せ、不意討ちなどの戦術が発展しやすくなります。信長戦術の基本は尾張生まれらしく、とにかく相手より数を集め圧倒するです。この戦術は基本的に変わっていません。とはいえ動員力があんまり変わらないので、これをカバーするために、
  1. 兵農分離による常備軍を城下に置いた
  2. 行軍速度を非常に高めた
これによって相手の数が少ないうちに襲い掛かることを可能とし、また農繁期に関係なく相手に襲いかかれる体制を築いたです。ただし、兵農分離体制にも弱点はあり、
  1. 農が養える兵しか動員できず、瞬間最大動員数では劣る
  2. 傭兵が主体となるため、忠誠心が劣る
兵数の不足は銭経済である程度補うにしても、対美濃戦となると、近所との合戦と違い不意討ちが効きにくいと言うのはあります。どんなに急いでも美濃進攻軍を編成しようとすればその情報は大軍ゆえに相手に漏れますし、どんなに急いで行軍しても迎撃体制を取られてしまうです。待ち受けられて美濃で戦えば戦術思想が単純な尾張軍は撃退されてしまうです。

それでも季節に関係ないピストン攻撃は、兵農分離が進んでいない美濃にとっては負担の大きいものであったのは間違いありません。動員されても防御戦では恩賞も知れていますし、自領の農業生産に影響します。そういう不満を押さえつけると言うか、言わせない求心力が美濃の国主には求められるです。義龍時代まではこれが揺るがず、信長も歯が立たなかったです。

直接の美濃戦でなかなか勝てないとなると、次に信長が学んだのは外交ではないでしょうか。家康との同盟もそうですし、浅井との婚姻政策もそうです。また龍興時代から盛んに行なった裏切り、切り崩し戦術もそうです。戦いを直接の戦闘だけに求めず、側面の戦術、それも国を超えての大きな戦略が必要と考え、それを実践したのが対美濃戦であったと思っています。

もちろん直接の戦術にしても、初期は大軍を率いて一挙に進攻を企てて撃退されていますが、やがて前進拠点を築き、そこを足がかりにジワジワと攻め込む戦術を展開するようになっています。そういう集大成が美濃奪取として実を結んだです。美濃の後の信長の戦略、戦術、外交は鮮やかなものですが、これらは美濃戦で痛い目にあいながら身につけたとも見れそうな気がします。


最後に歴史の”if”です。義龍が死んだのは35歳です。そのため14歳の龍興が登場せざるを得なかったのですが、もう少し長生きしたらどうだったでしょうか。せめて後10年ぐらい生きていたら様相はかなり変わっていたような気がしています。義龍健在であれば、いかに信長とて歴史のように美濃は取れなかった可能性が高いと考えます。

またそれだけ義龍が生きていれば龍興も24歳になり、義龍流の統治体制も確立していた可能性があります。つまり歴史にあるように、信長の切り崩し工作が容易に通用しなかった可能性です。戦略的には信長有利ですから、最後の勝利は信長にあったとしても、さらに時間がかかったです。つまり信長一代かかって、ようやく美濃を手に入れた程度になってしまうです。

信長の成長が遅滞すれば戦国期の様相は大きく変わります。戦国史は信長が台頭する事により、急速に天下統一への道を驀進し始めるのですが、信長が美濃戦で老いてしまえば、話は全然変わってくることになります。まあ、そうなればそうなったで、尾張以外に他の信長が台頭して代わりを務めてしまうかもしれませんが、そこまでの”if”となると想像がつかなくなりそうです。