ノーベル賞からの雑談

山中教授おめでとうござます。こういう話を聞くと「やっぱりエライ」と思う反面、自分にそんな隠れた才能が実は眠っていなかったかを妄想します。これでも私も医師ですから、選ぼうと思えば研究の道を選ぶ事はできました。選ばなかった、もしくは試さなかった理由は単純明快で「好きじゃなかった」です。どうにもやる気が起こらなかったです。

大成するにはある程度「好き」と言う要素も必要でしょうから、全然気乗りしなかった研究は試そうが、進もうがきっと芽は出なかったであろうとしておきます。昔から言うじゃありませんか「好きこそ物の上手なれ」って。

ほいじゃ、もう一歩進路を引いて、医師以外の志望はどうであったかです。医師以外に考えた職業といえば弁護士。この理由も単純で母方の祖父が弁護士だったらだけです。とはいえ司法試験の難しさはトンでもなく、本棚に飾ってあった百科事典みたいな判例集(だったと思う)を「とりあえず暗記」なんて話を聞いた瞬間にあきらめました。なんの事はない、医学部でそれぐらい暗記させられたのですが、パッと見のボリュームにサッサと白旗を振ったと言うところです。

もうちょっと非現実的な希望なら考古学者です。ツタンカーメンとか、マヤ遺跡発掘の影響でしょうか。シュリーマンも影響はあったとは思います。ただその手の本を読んでいると実に大変。とりあえずカネがないと言うか、カネを集める才能も必要なのは子供心にも察せられました。でもってカネがなければ、実に地味なお仕事です。こりゃ本でも読んでいるぐらいが、自分にはお似合いです。

最後は未だに執念深く追っかけているのですが小説家。これについてはささやかながらブログで叶えています。ただし、自分の力量は自分が一番良くわかります。とてもカネになりそうな才能はありません。それなりに書くのは可能ですが、それ以上でもそれ以下でもありません。こんなものを目指さなくて本当に良かったと思っています。



子供の頃に「誰でも隠れた才能がある」と良く言われたものです。私も初心な時代はあったわけであり、「きっとあるはずだ」と無邪気に信じていました。しかしこの歳になって思うのは、必ずしもどころではなく、殆んどはそういう天才的な天分は存在しないです。

個人的に秀才と凡人はかなり近いと思っています。秀才とは凡人に「努力する才能」があるかどうかの差と思っています。秀才レベルには「努力する才能」さえあれば達する事ができるです。「努力する才能」の恵まれ方にも相当のムラがあり、その結果が秀才と凡人の差になっているのだろうです。この「努力する才能」も適用が多彩であり、「誰にも隠れた才能がある」とは、自分が努力できる方面の才能を見つけることであり、それが見つけることが出来れば秀才レベルに達する事が可能であるではないかと思っています。

天才・秀才と並び称される事はありますが、天才と秀才の間には絶対的な溝があると感じています。そうですねぇ、映画「アマデウス」の中のモーツアルトサリエリの差と言えば良いでしょうか。サリエリがいかに努力しようがモーツアルトになれないです。さらに秀才が悲しいところは、秀才レベルに達すると、天才との才能の差が見えてしまうというのがあります。どうしても追いつけない絶対的な差です。


では天才であれば人生バラ色かと言えば、どうなんでしょう。私は間違っても天才ではありませんから、天才が感じる幸せがそもそも何かがわかる筈もありませんが、世俗的な成功に基準を置けば微妙と思っています。芸術分野が特徴的で、天才は時代を超えてしまいます。超えるが故に生きている時代には評価されないは良く聞く話です。

今でこそルノアールは誰もが認める大画家ですが、生きている間は確か1点しか売れなかったのは有名なエピソードです。日本であれば松村呉春はどうでしょうか。呉春は最初与謝蕪村に学び、蕪村の死後に円山派になり、やはて四条派として生きている間は大成功を収めています。しかし現在の評価としては蕪村が格段どころか、較べるのも愚かなぐらい上位に来ます。

蕪村は天才であり、呉春は秀才に過ぎなかったです。ただし生きている間の世俗的な成功は逆に桁違いです。

秀才は基本的に現在の世の中で一番能力を発揮します。天才は現在でも発揮される事(たとえばスポーツ分野)もありますが、下手するとその時代には合わないは多々あると思っています。ですから秀才は世俗的な成功を収める可能性は高く、天才は時に死後とかに漸くその才能が認められるがあると思っています。

いや、そう思いたいだけかもしれません。そう思うメリットは、生きている間が楽しい方が嬉しい(この時点でコチコチの凡人的発想であるのは笑ってください)。また死後にひょっとしたらドカンと評価される(いったい死後に何を残すつもりなのかは聞かないで下さい)かもしれないの夢(と言うより妄想)が持てるです。


雑談ですから話は飛びますが、田淵幸一が言った話が興味深かったです。前にも紹介したエピソードの様な気がするのですが、まあ良いとします。田淵は1969年に阪神に入団し主力打者として活躍し「伝説の長距離砲」のニックネームが残る大打者です。もっとも「がんばれタブチくん」の方が妙に有名になっているのは御愛嬌です。それでも通算本塁打数474本は半端な記録ではありません。

その田淵のどこかのインタビューか何かの言葉ですが、プロ野球は天才の集団であると評しています。一軍でレギュラーを張る様な選手は皆天才であり、そうでない選手は天才ではそもそもなかったです。さらにその中でスター選手になれるものは大天才であるです。でもっていかにも田淵らしい言葉で、

    天才は練習しない
もし大天才が人並みに練習なぞしようものなら、超天才になってしまうです。そんな超天才が王や長嶋であり「オレは練習しなかったからたんなる大天才だった」です。これは判りやすいお話と思ったものです。

とりあえず秀才型の選手でもアマレベルではそれなりの実績を残せますし、それが評価されてドラフト指名される事があります。しかし元が秀才レベルでは、二軍に燻って終ってしまうです。確かに華々しくドラフト1位で入団しても、鳴かず飛ばずで消えていってしまう選手は決して珍しくありません。あれはそもそも天才でなく、秀才に過ぎなかったです。真の天才であればあっさり一軍に昇格し、ロートルレギュラーを追い出してスタメンにトットと名を連ねてしまうと言えば良いでしょうか。


ここからの連想ですが、監督が変わるだけで目覚しく強くなるチームがあります。そういう監督は采配も見事ですが、それより案外のポイントは選手をキチンと練習させたにあるんじゃないかです。プロ野球は球団による戦力差は確かにありますが、ビックリするほどの差では無いと思っています。弱小チームが名監督に率いられてほんの数年で強くなる秘訣は

    練習嫌いの天才集団を練習させる技術に長けている
練習しない天才を練習させればドカッとレベルアップが可能であるです。しばしば「名選手、名監督ならず」とされますが、あれは練習しない名選手が監督になっても、練習が必要の発想が出てこないからじゃないかです。まあ、天才とは例外少なくわがままな個性派ぞろいですから、これを練習させる手腕だけで相当なものが必要なのは確かだと思います。


ともあれもう歳ですから、自分ができる範囲の事だけやれば満足する事にします。今さら他の分野に打ち込むには遅すぎるです。それより何より現実の本業の経営を切り回すだけ目一杯ですし。。。こっちの才能も天才とは言えませんねぇ、残念ながら。そのうえ秀才にもなれそうにないのが辛い。