進路と適性と親心みたいな雑談

私も娘がいますから進路については人並みに心配しています。ま、同じような悩みを持つ親も多いもので、そんな話がチト花咲いた次第です。なんちゅうか

    遊んでないで勉強しないと後悔するのは自分だぞ
自分の親に散々言われたセリフを子供に言っている自分に歳を感じるみたいなところでしょうか。その点は順送りなんですが悲しいと言うか、寂しいところです。そういう雑談をしながら、進路と適性について思いついた事をちょっとまとめてみます。前にもやった気がするのですが、まあ良い事にします。


社会人とは

たいした定義ではないのですが、社会人になるとは自立して食っていけるようになる事だと考えています。もっと単純化すれば何かの仕事に就き、その収入で自立するでも良いと思います。そこにスムーズに移行させるように親としてはやきもきする訳です。どうせ仕事に就くのなら、少しでも良いところに就いて欲しいは多くの親が願っていると思っています。私も当然そう願っています。

そこで進路と適性になるのですが、これは少し違う意味合いがありそうに感じています。違いとは求められる能力が微妙に違うとすれば良いでしょうか。ここももう少し具体的に説明すれば、

    進路・・・目指す職業に就く能力
    適性・・・職業に就いてから活躍する能力
こんな感じです。


進路

職業も様々にあるのですが、その職業に就くにはクリアすべきレベルがあります。わかりやすいのは医師で、医学部に進学し、国家試験に合格して医師免許を得ることです。ここをクリアしないと医師にはなれません。弁護士なら司法試験でしょうか。クリア・レベルに達する因子は、

  • 天分
  • 努力
この2つの因子の合計がクリアレベルを超える事が必要になります。ある程度、医師を念頭に置いて話を進めますが、他の職業については適当に脳内置換してください。天分に恵まれた者はいわゆる下駄を履いているようなもので、非常に天分に恵まれた者は高下駄どころか竹馬に乗っているようなものです。逆に天分が乏しい者はその差を努力で埋めなければなりません。

でもってなんですが、学業への努力がクリアレベルに反映する職業なら、努力次第でなんにでもなれる事が多いとしても良いかと思います。クリアレベルは決まっており、そこにさえ達すればクリアできるからです。クリアの仕方はラクラクと大きくクリアしようと、ギリチョンで辛うじてクリアしようと結果として同じだからです。

だから親は学業成績がクリアレベルに反映する固い進路を子供に勧めると言うか、下手するとそれ以外の進路を押し潰そうとすると思っています。ココロは進路さえクリアすればなんとか食っていけるだろうです。


適性

これは芸術とかスポーツがわかりやすいかもしれません。これらの分野では進路と適性がほぼ一致しています。趣味ならともかく仕事として食っていくつもりなら、そもそも進路と言う区別は無く、いきなり適性勝負になると思っています。つまりは天分剥き出しの世界です。

あくまでも喩え話ですが、スポーツで頭抜けた奴はクラスで1人や2人はいます。ところがそういう連中がスポーツ校とかに進学すると、頭抜けた奴の集合体になり、その中でさらに頭抜けた奴がいます。その頭抜けた奴が全国に行けば、これまた同じような頭抜けた奴の集合体になり、その中で今度は怪物が出てきます。その怪物が世界に行けば、怪物集団になり、怪物でさえ驚く化物がいる感じです。食うためにはせめて怪物になる必要があり、頂点近くを目指すのなら化物にならないと無理な世界ぐらいの感じです。

芸術やスポーツはそんな感じと理解していますが、一般的な職業はそこまで求められません。とりあえず進路は学業的な努力でクリアが大方は可能ですし、進路をクリアすればそれなりに普通は食っていけます。怪物や化物的な才能は必ずしも求められないです。ただなんですが、職業に就いてからの適性はそれなりに影響します。

進路をクリアして職業に就く能力と、職業についてから伸びる能力は重なる部分も確かにありますが、異なる部分も多々あります。重なる部分は進路をクリアすればある程度共通に持っているにしろ、重ならない部分の差は職業に就いてからバカにならない差として現れます。ま、ここも簡単に言えば出世として差がついていくとすれば良いでしょうか。

出世と言う表現はプラスとマイナスのイメージはありますから、職業的な成功とした方が良いかもしれません。職業について成功しなくとも食ってはいけますが、成功した方がより楽しく人生を送る事が出来るぐらいのニュアンスです。


二つの才能のアンバランス

進路に用いられる天分と、適性に対し用いられる天分ですが微妙にニュアンスが違います。進路に用いられる天分はクリアすべきラインを楽に超えられる能力になります。クリアラインは固定されていますから、足りない分は努力でも補えますし、ラインさえ超えれば広い意味で適性へのスタートラインはオールスクエアです。資格試験があるような職業なら、満点で越え様が、ギリギリであろうが合格に差は無いという事です。一方で適性への天分は芸術やスポーツに似ているところがあります。努力だけでは補えない圧倒的な差です。

こうやって考えるとよく言われる「自分の適性に合った職業選択」は重要になるのですが、人の天分は様々です。そこで簡単な表を作ってみます。

シミュレーション 進路の天分 適性の天分
A.
B. ×
C. ×
D. × ×


ちょっと「×」は良くない表現かもしれませんが、単純化するためにこうさせて頂いています。

A.のケースは典型的な優等生タイプです。学校時代から学業に秀で、社会人になってからも順調に実績を積み上げていくとすれば良いでしょうか。このタイプは羨ましいですが確実に存在します。こういう連中には進路段階では努力で対抗できても、適性が問われる社会人になれば、悔しいですがどうやっても追いつかない感じになります。

B.のケースもままあります。これも程度の差が大きいのですが、進路段階で悪戦苦闘を強いられ、それこそ刻苦勉励の末に辛うじてクリアみたいな感じです。その代わり職業に就いてしまえば天分が十分に発揮され花開くみたいな感じでしょうか。これは進路の天分は劣っていても、適性の天分に恵まれていた結果と考えています。

A.やB.のケースは結果としてまあ良いのですが、C.となってくるとシンドクなってきます。C.は進路の天分に恵まれていますから、学校時代は華やかなものです。A.のケースとそこまでは同じだからです。問題は適性が問われる社会人になってからです。芸術やスポーツと違いますから、進路の天分の中で適性の天分として活用できるところもあり、食ってはいけますがパッとしない存在になります。

パッとしなくともその地位に満足すれば問題ないのですが、ネックになるのは学生時代の栄光です。これは社会人になってからの落差が大きいほど、最後のプライドとしてしがみつきたくなるのが人情で、場合にょっては非常に扱い難い人物になります。いわゆる「すね者」です。親戚の中にもその傾向がある人物がいますが、非常に気を使います。たぶん「出来るはずなのに出来ない」経験が屈折の澱の様に蓄積されてるんじゃないかと思っています。ある意味、不幸な人生です。

D.もまた不幸なところはあります、懸命の努力で進路はクリアしたものの、やはり適性も乏しくてパッとしないです。こういう人物もC.のケースに似たところがあって、懸命の努力で進路をクリアした事のみがプライドになり、ちょっと気難しい時があります。


才能は秘められたものでなってみないとしょせんは「わからない」

上のシミュレーションで適性の天分が乏しいとはしましたが、これはあくまでも就いた職業への天分です。他の職業への天分については不明です。ただこの不明と言うのが人生最大の課題でありテーマであるような気がしています。C.のケースなんて本人はもちろんの事、周囲だって適性があるのを信じて疑っていないわけです。D.のケースだって、努力中は称賛こそされ、「お前には向いとらん」とはされないと思います。努力中の人間は「自分はB.である」と固く信じているわけだからです。

どの職業を選ぶかは本当に微妙なもので、本人の意志が一番のように思われますが、そんな単純なものではないと思っています。親兄弟の影響、交友関係の影響、教師のアドバイス・・・もろもろのエッセンスで決まっていくわけです。どこまでが本当に自分の意志であったかなんて、自分の事を考えても曖昧至極なものです。そうそうは「自分はこれになりたい」なんて誰の影響も受けずに決められている人間はさほど多くないんじゃないかと思っています。

なるための進路は努力でまだカバーできますが、なってしまった後に本当に適性があるかどうかなんて「なる前にはわからない」だと考えています。もちろんダメだったらやり直せば良いも一つの考え方です。これはC.のケースなら比較的容易かと思いますが、D.のケースならかなり難しいんじゃないかと思っています。それにやり直すと言っても、若い時に感じたほど人生は無限じゃないと言うのがここまで生きてきた実感です。やり直しは時間だけを考えてもかなりリスキーな選択です。


もうちょっとシミュレーション

それでもなんですが、芸術やスポーツなどと違う進路と適性の2段階がある職業は、進路さえクリアすれば食うには食えます。今日やったシミュレーションは単純化のために中間を省きましたが、天分の恵まれ方はもっとシームレスです。つまりは適性の能力にしても「そこそこ」レベルが現実には多く、まあなんとか社会生活は困らずに送れるケースの方が多いと思っています。現実にもう少し近づけてシミュレートすると、

適性の天分 短評
順風満帆
それなりに満足
人生こんなもの
× 扱いに困る


1番多いのは○ないし△ぐらいで、限られた◎を眺めながら「あいつは出来が違う」と他人事にしてしまう感じでしょうか。本当にキラキラと天分が輝く者はいるもので、ある意味スポーツや芸術と似ていますが、あまりの差に自分と較べるなんて気さえならない感覚とすれば良いでしょうか。「アイツはアイツ、オレはオレ」で割り切って対応出来てしまうぐらいです。

逆に×の存在は本当に扱いに困ります。あくまでも仕事の上だけですが「居るだけでも邪魔」みたいな感じです。本人の努力や誠意を認めても、「アイツはこの商売に向いてない」と陰に回ってブツブツ不満を垂れまくる感じです。悪いとは思うのですが、仕事の足を毎度のように引っ張られると実際のところ困ると言うところぐらいです。


親も経験でしか語れない

それでもですが×だって食っていけるわけです。これが社会人としての最大の評価ポイントではないかと思っています。目指して成ってはみたものの残念ながら適性は乏しすぎただけのお話です。今日のお話は前置きが長すぎて趣旨がわからなくなっていますが、親として子の進路をどう考えるかです。たとえ結果として適性が乏しくとも、進路さえクリアすれば食ってける職業にどうしたって進めたがるです。

少々絵が上手かろうが、運動が得意であろうが、歌が上手であろうが、その道のプロを目指させる選択は出来るだけ避けたくなるです。私も知らず知らずですが、いわゆる固い職業の志向であれば妙に安心してしまう傾向はあります。悲しいですが、しょせんは小市民と言う事のようです。

全般的には固い職業に勧めたがる傾向のある親ですが、根源的には自分の体験がすべてのように思い直しています。子育てと言うか、進路選びなんて他に参考材料があんまりないからです。自分の経験が成功体験なら、それを踏襲させようとします。失敗体験なら、その失敗を避けて、自分が横目で見ていた成功体験者に近い道を進ませようとしているんじゃないかです。まあ、反面教師と言うのもありますけど、成功体験も失敗体験も結果として同じような方向に収束してくるみたいな感覚です。


さて自分は親としてどうするかです。成るようにしかならないと半分ぐらいは腹を括っています。恥を忍んで言えば、上の娘は通常コースから早々に脱落しちゃいまして、遠回りしながらなんとか戻って来ようとしている感じです。あれを見てると、世の中の受け皿は案外大きくて深いもんだと学習した次第です。あれでもなんとかなるのなら、親としては見守るしかないのかもしれません。これも経験したから判っただけのお話にすぎません。

つう事で見守るための資金作りとして今日も仕事だ! あと15年ぐらいは元気で稼がないとあきまへんなぁ。それはそれでまたシンドイけど、自分が食うためでもありますから、世の中そんなものだと言うところのようです。子がなんとかなる頃には、人生の最終コーナーを曲がったんだともっと痛切に感じるのだと思っています。親ってそんなものの気がします。