名大病院事件の報告書

正式には「名古屋大学医学部附属病院を受診した高齢女性が、その翌日他院に搬送され死亡した事例」と医療事故調査報告書の概要と言います。チト長いので今日は単に報告書と呼ばせていただきます。それと解説の前に亡くなられた患者の冥福を謹んでお祈りします。


事例の概要

初診時の状況ですが、

平成21年2月10日14時30分頃、増悪軽快を繰り返す腹痛と一時的な嘱吐を主訴とする患者さんが名大病院救急外来を受診した。総合診療部所属(当時救急部・集中治療部ローテーター)、当日救急外来担当の臨床経験3年目の医師が診察を行い、腹部所見の診察、血液検査、胸部・腹部単純レントゲン写真撮影を行った。反跳痛や筋性防御などの腹膜刺激症状は明らかではなく、血液検査、レントゲン検査から、重篤な急性腹症の所見はないと判断、もともと便秘傾向であったことから便秘症による腹痛の疑いと診断し、涜腸処置を行った。やがて反応便あり、自覚症状はすっきりした感じにはならなかったが、症状は落ち着いていたため、便秘薬で様子を見ることとし、症状の増悪あれば受診するようにとの説明の下、17時頃に帰宅となった。

平成21年2月10日は火曜の平日です。時刻的にも14時30分ですからごく普通の日勤帯である事が確認できます。主訴である「増悪軽快を繰り返す腹痛と一時的な嘱吐」がいつから始まったか不明ですが、当日朝ないし前日夜ぐらいからあったぐらいと考えます。この時に行った検査が、診察のほかに血液検査と胸腹部のX-pとなっています。

患者は70歳代の女性となっていますが、担当医が検査結果から考えたのは、

来院時の検査で、脈拍増加、白血球低値、血色素値高値などの異常を示しているが、いずれも目立たないものであり、CRP値(炎症反応)も陰性である。担当医はこれらの異常を認識していたが、堰吐による脱水と判断し、急性腹症と捉えることはなかった。異常所見に留意していたという点では、診療プロセス自体には問題がない。

腹痛には様々な地雷疾患の可能性があるというのは、日々是よろずER診療を読めば時に震え上がりそうになりますし、高齢者でなくとも小児でも手強い主訴です。診断を考えるときには、報告書にも書いてありますが、

  1. 急性腹症
  2. その他(下痢、便秘の類)
急性腹症の定義も広いのですが、この報告書の使い方は単純な便秘であるとか下痢でないぐらいで使っているようようです。ここの鑑別が第一関門になるのですが血液検査はさしたる所見はなかったようです。X-pでもさしたる所見がないと判断した担当医は便秘症の診断の下に浣腸を行い、患者を帰宅させることになります。もっとも単に帰宅させただけではなく、
    症状の増悪あれば受診するようにとの説明の下、17時頃に帰宅となった
14時30分頃の受診となっていますから、検査も含めて2時間ぐらいは経過観察を行ったことになります。この後の経過は簡略にしますが、患者の腹痛はその後も続き、翌朝の7時30分に家人の前で意識消失が起こり、15時41分に死亡となっています。死亡原因は、

病理解剖の結果、S状結腸(回盲部から145cm、肛門から40cmの部位)に15×10mm大の穿孔を認め、穿孔部には腫癖、憩室や炎症性変化を認めない。それ以外に死因となる病変を認めないことから、S状結腸穿孔性腹膜炎が死因と考えられる。正確な穿孔時期の特定はできないが、症状の推移から振り返ると、名大病院受診時にすでに穿孔していたと考えられる。

胸腹部X-p所見

問題になったのは初診の担当医が急性腹症でないと判断した要素のうち、胸腹部X-p所見になります。これが現物を確認しようが無いので報告書からになりますが、初診の担当医は異常をまず認めていません。報告のために検証した結果ですが、

  • 病因・死因カンファレンスにおいて、外部専門医から腹部単純レントゲン写真において、後方視的にみればフリーエアーの存在が疑われるとの意見が述べられ
  • 調査委員医師4名の見解は、消化器疾患を専門としていない研修医のレベルでは読影困難な所見ということで一致した。

現物が無いのであれですが、余程微妙な所見であったと推測されます。画像所見と言う事になりますが、これもあからさまの所見と微妙な所見はあります。あからさまな所見を見落としたら完全なる見逃しですが、微妙な所見は医療関係者の表現で「取る(取らない)」の問題になります。この取る(取らない)の境目がはたまた微妙でして、同じような所見でも医師によって見解が分かれるのも日常茶飯事です。

実はそれ以前の段階もありまして、取る(取らない)以前に認知しているかどうかがまずあります。つまり微妙な所見の存在に気付くかどうかです。医師なら気がついて当然と言われそうですが、そうとは私レベルでは言い切れないところがあります。画像を読み取る前に「ありそうか」それとも「なさそうか」の条件があるかどうかで発見率はかなり左右されると考えています。

極端な例をあげますと、今回の画像所見は胸腹部X-pです。しかし今回注目しているのは症状からして腹部の方です。腹部はかなり力を入れて読むでしょうが、ついでに写っている胸部の方にたまたま異常があっても、微妙なものほど見落としやすいものです。これには「まさか」の思い込みが当然入るからです。試験問題的に胸腹部X-pの「どこか」に異常があるとの前提で読影するのと、ついでに写っているので目を通す程度のところでは確実に差が出ます。

今回の腹部にもさらなる前提があります。X-pを撮影するまでに診察が行われているのですが、その時点で急性腹症の可能性を強く抱くかどうかで差は出ます。報告書時点の読影は言ったら悪いですが、異常がある事も、さらにどこに異常があることも全部知った上での読影です。これだけの条件で、微妙でも実際に存在する異常が見つけられなかったら余程のボンクラです。

実戦での読影心理は微妙で、事後の検証とは逆で、診察時のイメージが強く影響します。診察時に何かありそうだと強く思いながら読影するのと、たぶん何も無いと思うが念のために見ておくではかなり条件が違います。初診時の担当医は、

帰宅に際し、担当医は救急専門の上級医に経過を簡単に報告したが、担当医は“重篤な疾患はない”と認識

診察時の印象は「無さそうだ」が強かったと推測されそうです。つまり取る(取らない)の微妙な所見の認知以前の段階であったと考えます。なぜに取る(取らない)の話を出したかと言うと、報告書にある

急性腹症の診療経験を有する臨床医であれば、本例にみられた異常に気付いた可能性は高く、確定診断のために腹部CT撮影を指示したものと思われる。

これは「急性腹症の診療経験を有する臨床医」であればX-p上の異常所見を発見できたの意味ではないと考えるからです。微妙な所見はベテラン医師でも見逃す時は見逃すと思っています。診察時点で何かありそうとか、ただの便秘で片付けるには違和感が残るの感触を抱く確率が高いという意味と受け取ります。

そういう感触が強いと、X-p上の取る(取らない)レベルの微妙な所見が発見しやすくなるだけではなく、見つからなくとも

    X-pではハッキリしないが、症状的にスッキリしないからCT検査もやっておこう
こうなると私は思います。所見を取れたら言うまでもないですが、取りきれなくても「どうも違う」の感触です。3年目の研修医がそのレベルにまだ達していない事だけは報告書からわかります。これも言っておきますがCTまで進んでも結果的なハズレの方がむしろ多い事は付け加えておきます。

もちろん実際のその日の患者の状況がどうであったかなんては、これだけの情報量ですから、なんとも言えません。あえて拾い上げれば

    やがて反応便あり、自覚症状はすっきりした感じにはならなかったが、症状は落ち着いていたため
これはX-p上で所見なしと判断し、便秘症の診断の上で浣腸した後の判断ではありますが、この時点でどういう感触を抱いたかがラストチャンスであったかになりそうな気がします。ただ偉そうに書いていますが、私だって同じシチュエーションで絶対に見逃さないという自信はまったくありません。怪しいと思って病院まで送り込んでも「何の事はない」は今でも経験していますし、逆に大丈夫だろうと判断したら、その後に急に悪化してアタフタする事もあります。

私が幸いであったのは、結果的な見逃しが致命的な大事につながらなかっただけとしても良いかもしれません。現実としてセンサーを過剰に上げすぎると根こそぎ重検査状態に陥りますし、低すぎると単なるヤブです。安全と言うか、致命的な見逃しを防ぐためのマージンの取り方は医師の日々の課題と言うことです。


今後の名大病院の対応

報告書では、

  1. 名大病院の救急部長職は前任者の逝去後、空席となっておりましたが、全国公募による選考を行い、平成22年2月1日より、新たな救急部部長を配属しました。
  2. 救急部の教員数、および専属医師数を増加し、救急体制を強化することとしました。
  3. 従来の教育システムに加え、ローテート研修医師や救急部への派遣医師に対する新たな教育・修練システムを導入しました。
  4. 一部の夜間帯を除いて、救急部専従医師の最終評価により患者帰宅とすることを取り決めました。
  5. 従来の集中治療部を救急・内科系集中治療部(Emergency&MedicallCU)と外科系集中治療部(SurgicallCU)とに分割し、機能を分けることとしました。新救急部長が救急・内科系集中治療部長を兼務し、救急患者の入院対応や経過観察に救急専従医師が責任をもって対応できる体制としました。

悪くはないと思います。それでも医師はいつかは1人で診察し、誰にも相談できずに判断を行なわなければならない日が来ます。若手の勉強中の医師にオッサンからのアドバイスとしては、聞けるうちは怒鳴られても聞く事かと思っています。つまりは自分の力量の見切りです。ここまでは、どんなベテラン医師が見ても同じ結論である領域の冷静な判断能力です。

自分の力量を超えたと感じた部分については、その点の確認を指導医なりに常に行っておく心がけです。力量が低いほどその領域は広くなり、時にうるさがられたりもあるかもしれませんが、そこを上手に頼るのも若手医師のお仕事のうちと思っています。一度聞けば、そこの領域の力量は飛躍的に広がりますから、次はその領域の判断は自分で出来るようになると言う事です。

中堅・ベテラン医師と若手の医師の違いは様々にありますが、ベテランになるほど身の程を本当に良く知っています。生齧りの知識や経験だけでは決して無理押しせず、力量を超えたと判断すれば驚くほどアッサリ助力を要請します。知らない、出来ないを恥とせず、出きる事と、出来ない事の見切りがシビアだと言う事です。

私だって若手と呼ばれた時代がもちろんありました。医師になってある時期になると変なプライドや根拠のない自信が出来て暴走しそうになった事もあります。そこで「ちょっと待て」と指導してくれた指導医師、また治療が迷走しそうになった時に軌道修正に尽力して頂いた先輩医師の手助けがあって、なんとか今でも医師として生き残っています。

指導側に望むのは、若手医師が不安や疑問を持ったときに、これに的確に対応できる体制を敷く事に尽きると思います。そうする事が、若手医師の力量を伸ばし、また若いが故のミスを防止したり、問題化しなういちのリカバリーに通じます。今回の問題は大きな痛手でしたが、これを大きな反省材料にして名大救急部のさらなる前進を期待します。


蛇足の感想

綺麗事を並べるだけで終っても良かったのですが、正直なところ厳しいと言うかキツイの感想を持っています。初診の担当医の診察は報告書を読む限り、とくに問題とするところはないように感じています。結果として微細なX-p上の所見を見落としたのが問題になってしまいましたが、消化器専門医以外では(いや「でも」)一定の確率で起こる事を完全否定できる医師は少ないと思います。

大学病院、それも平日の日勤帯ですから消化器専門医でも探し出す事は可能でしょうが、そうでない病院なら消化器専門医自体がいない事もありえますし、救急と言っても種々雑多な診療科の連合軍で支えているところは珍しくもない形態です。それこそ精神科医まで動員されているところもあります。

また日勤帯であればまだ助力を求める医師は比較的見つけやすいですが、夜間休日であれば、それこそ応援もなく1人で支えているなんて事も珍しい状態とは言えません。その気になれば呼び出し可能でも、ちょっと違和感を感じるぐらいで呼び出すのは、それなりの決断が必要になると言う事です。ましてや非常勤での当直バイトなんかになればなおさら状態になります。

患者死亡は重大な事ですし、防ぐのに努力を重ねるのは当たり前ですが、それがここまでの「新聞沙汰」にされるとなれば、これからの医師に求められるものの巨大さに眩暈がする気持ちになっています。そうなれば余計に若手医師には手厚いバックアップ体制が望まれるわけですが、そういう方向性になっているかと言えば、必ずしもそうなっていないように感じるのは私だけでしょうか。

もちろん今の状況を必ずしも良く知っているとは言えませんし、見ようによっては私の時代よりバックアップ体制は手厚いのかもしれません。その一方で、医師に求められるものは格段に重くなっており、差し引きすると、どんなものだろうかと言う事です。本当に厳しい時代を若い医師たちは生きている気がします。