送検を考えてみる

題材は3/10付読売新聞です。

ロス手術高3死亡 心臓外科医を書類送検/業務上過失致死容疑で

 水戸済生会総合病院(水戸市双葉台、早野信也院長)で2004年、「ロス手術」と呼ばれる心臓手術を受けた鉾田市の高校3年石津圭一郎さん(当時18歳)が2日後に多臓器不全で死亡した問題で、県警捜査1課と水戸署が、執刀した心臓外科医の男性(47)を業務上過失致死容疑で水戸地検書類送検していたことがわかった。

 捜査関係者らによると、大動脈弁が正常に閉まらず、心臓に血液が逆流する「大動脈弁閉鎖不全症」と診断された石津さんに、医師は04年7月、肺動脈弁を大動脈弁に移植し、肺動脈弁は人工血管などを縫いつけて代用する難度の高いロス手術を行った。ところが、医師は切除した肺動脈に適合しない人工血管を使ったうえ、人工血管と肺動脈の縫合部付近に狭さくを生じさせ、血の流れが悪くなり、右心不全に起因する多臓器不全を引き起こし、2日後に死亡させた疑い。医師は「人工血管の選択は適切で、狭さくも手術中に回復させた」と容疑を否認している。治療には、一般的には大動脈弁を人工弁に付け替える「人工弁置換手術」が行われるが、血液を固まりにくくする薬を飲まなくて済むなどの利点があるロス手術が選択された。県警によると、医師はロス手術の経験が1例しかなかった。

 石津さんの両親は06年、病院を運営する社会福祉法人恩賜財団済生会」と医師を相手取り、計約1億1000万円の損害賠償を求めて提訴し、現在、水戸地裁で係争中。病院は「書類送検についてまったく把握しておらず、過失があったかも聞いておらず、コメントできない」としている。

 「多少は息子の無念を晴らせた気持ち」――。圭一郎さんの父親の洋さん(53)が鉾田市内の自宅で読売新聞の取材に応じ、心境を語った。

 1月末、県警の捜査員から、書類送検の準備が整ったという報告を受け、妻の百美子さん(50)と、すぐに遺影が飾られた仏壇に報告したという。「長く、苦しいつらい時間だった」と振り返る一方で、捜査の状況などを報告し続けた県警に対しては「良くやってくれたという思いでいっぱい」と感謝する。

 ただ、担当医や病院に対しては「あんな医者がいるのも許せないし、それを見抜けなかった病院の責任も重い」と怒りをあらわにする。手術前の「海外でロス手術の経験が20〜30回ある」という担当医からの説明が、事故後には「あれはロス手術の後の処置経験の回数だった」と変わり、「聞いていれば手術は頼まなかった」と語気を強めた。

 明るい性格の圭一郎さんは高校で吹奏楽部に入部したり、バンドを組んだりしながら、高校生活を楽しんでいた。

 「手術が終わったら思い切り抱きしめようと思っていたが、出来なかった。それが悲しくて悔しい。民事裁判もきっと見守ってくれていると思う」と話すと、そっと仏壇に手を合わせた。

解説

「明確な過失の立証には至らなかった」。県警は医師の過失を認定する一方、心臓外科医ら7人の専門家の意見では、明確な過失が裏付けられなかったとする意見を付したうえで、医師を書類送検し、処分を水戸地検の判断にゆだねた。医療過誤に詳しい加藤良夫・南山大教授によると、産婦人科医が逮捕され、無罪になった福島・大野病院事件以降、術者の判断ミスや微妙な手技ミスについて、検察は起訴を慎重に判断する流れになっており、今回の事故で水戸地検が起訴の判断を下すかどうかは微妙だ。

 ただ、警察はすべての医療事故を書類送検するわけではない。重大な事故でも、反省し、再発防止策が取られていれば、書類送検されないケースもあるという。県警が手がける医療過誤の案件は数十件に上る。そうした中で送検された重みを、医師も病院も真剣に受け止める必要がある。(小林泰明)

亡くなられた患者の御冥福をお祈りするとともに、問題になっているロス手術の適用の是非等はなるべく回避しておきたいと思います。民事でも係争中ですから、不十分な知見での安易な憶測は出来るだけ控えたいと考えるからです。それと鬼門の法律論ですから、私の思い違い、勘違いがあれば御指摘よろしくお願いします。書かなくても突っ込まれますが、一応お断りしておきます。

まずなんですが、

業務上過失致死容疑で水戸地検書類送検していたことがわかった

書類送検と言う言葉が正式には無いそうです。マスコミが多用される用語だそうで、本来は検察官送致の事になります。書類送検と言う意味は身柄送検に対して使われる言葉のようで、

    身柄送検:被疑者の身柄と証拠書類を検察官送致する
    書類送検:証拠書類のみを検察官送致する
こういう風に分けて考える時に書類送検と言う言葉が使われるようです。身柄送検と書類送検のシチュエーションの違いは様々でしょうが、警察が逮捕権を行使したときに身柄送検が行なわれると考えても良さそうです。これは赤旗からですが、

 新聞に出るような刑事事件の場合、警察が被疑者を逮捕し、取り調べののち逮捕から48時間以内に本人の身柄と取り調べた書類などを検察に送ります。これを送検といい、内容を明確にするために「身柄送検」という場合もあります。

この送検は刑事訴訟法に基づくものであり、

第246条

 司法警察員は、犯罪の捜査をしたときは、この法律に特別の定のある場合を除いては、速やかに書類及び証拠物とともに事件を検察官に送致しなければならない。但し、検察官が指定した事件については、この限りでない。

「速やかに」の解釈の一つが、赤旗にある逮捕から「48時間以内」になっていると考えます。この48時間についてはケース・バイ・ケースや手続き上の様々な手法もあるかと思いますが、一つの原則ぐらいに解釈します。身柄送検するような場合は、ある程度罪状が明確な場合と考えていますが、警察が捜査したからと言って、常に48時間以内に送検できるわけではありません。「疑い」や「告訴・告発の受理」によって捜査した場合は必ずしも「速やかに」になりませんし、容疑者の逮捕まで捜査が進まない事も多々あります。それでも警察には刑事訴訟法246条にあるように、

    司法警察員は、犯罪の捜査をしたときは、この法律に特別の定のある場合を除いては、速やかに書類及び証拠物とともに事件を検察官に送致しなければならない。
犯罪捜査に着手したからには原則として送検しなければならないとなっています。とくに医療関連では被疑者の特定だけは容易なので、迷宮入りで被疑者も特定できないという事はありません。そういう場合にこれも赤旗からですが、

 これにたいして、犯罪がおこなわれたと疑われた事件についても、被疑者を逮捕することなく、任意の取り調べだけですます場合や、被疑者が分かっていても逮捕にいたらない場合、あるいは被疑者死亡の場合などもあります。こういった場合でも、起訴・不起訴などの判断を検察官に求める必要があるとして、警察から検察にたいし、事件の一件書類を送付することがあります。これが「書類送検」です。

身柄送検の場合はかなり容疑が濃厚と解釈しても良いですが、書類送検の場合は手続き上の一段落を付けるためにも行なわれる事があるということです。もちろん書類送検だから起訴されないと言うものではありませんが、書類送検の場合はそういうケースも多々含まれるという事です。警察がいかなる理由であっても犯罪捜査に着手すれば、刑事訴訟法246条に基づいて検察官送致(送検)になるのは当たり前になります。

送検が行われないのは刑事訴訟法246条の但し書きにある、

    但し、検察官が指定した事件については、この限りでない
この但し書きの適用がどれほどの範囲で行なわれるかは法律の素人であるため不明ですが、一般には微罪の時にありうるとされています。ですから読売記事のように「業務上過失致死」みたいな大きな容疑では刑事訴訟法246条の但し書きは余り適用されないように考えます。


ところで業務上過失致死は刑法211条に規定され、

第211条

 業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、5年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰金に処する。重大な過失により人を死傷させた者も、同様とする。

この「5年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰金」刑相当の時効は刑事訴訟法によれば、

第250条

 時効は、次に掲げる期間を経過することによつて完成する。

  1. 死刑に当たる罪については25年
  2. 無期の懲役又は禁錮に当たる罪については15年
  3. 長期15年以上の懲役又は禁錮に当たる罪については10年
  4. 長期15年未満の懲役又は禁錮に当たる罪については7年
  5. 長期10年未満の懲役又は禁錮に当たる罪については5年
  6. 長期5年未満の懲役若しくは禁錮又は罰金に当たる罪については3年
  7. 拘留又は科料に当たる罪については1年

これに基づいて考えれば3年5年です。そうなれば2004年の事件ですから、既に時効が成立しているとも考えられそうですが、ここはややこしくて、被害者が犯罪であると疑ってから時効の起算が始まるというのがあります。遺族は2006年に民事訴訟を起していますから、この前後に告訴告発等があり警察が犯罪捜査に着手していれば、時効成立寸前の送検かと考えられます。

    御指摘があり、業務上過失致死傷の懲役又は禁固は5年「以下」であり、これは5年「未満」でなく、10年未満の時効5年が適切のようです。謹んで訂正させて頂きます。申し訳ありません。
そうなると送検時期だけ考えれば、犯罪捜査を疑って捜査はしてみたけれど、十分な証拠を固められず、時効成立が近づいたため刑事訴訟法の手続きを終わらせるために形式的に書類送検をした可能性も出てきます。この辺も法律の素人ですから分からないところですが、医療事件の場合、被疑者は特定されていますから、被疑者が特定されたまま時効にしてしまうのは警察としてあまり宜しくない事情があるとも考えられます。

もっとも捜査は時効成立寸前まで要したが、嫌疑は濃厚の書類送検もあるとは考えます。これについても読売記事は、

「明確な過失の立証には至らなかった」。・・・(中略)・・・心臓外科医ら7人の専門家の意見では、明確な過失が裏付けられなかったとする意見を付したうえで、医師を書類送検し、処分を水戸地検の判断にゆだねた。

これって警察の嫌疑の立証が十分でない証拠そのもののように考えられます。この7人の専門家は言うまでも無いですが、警察が任意で嫌疑を立証するために選んだ専門家であり、そういう警察が選んだ専門家を7人並べても「過失の裏付けなし」です。今回は医療事件の中でも高度な分野の過失の有無を問うたものであり、その専門家の裏付けが得られなかったのは大きなポイントです。

記事では

県警は医師の過失を認定する一方

ここも警察が犯罪捜査を行い送検するときに、たとえ嫌疑が不十分で過失の立件が出来なくとも、警察として過失を認定せずに送検することは極めて異例であるとされます。そんな事をすれば警察の実績に非常によろしくないとの認識です。不十分な立証で嫌疑が不十分であっても、警察としては「過失あり」として送検し、起訴するかどうかは検察の権限ですから幕引きにするのが慣例と聞きます。

ここで例によって識者が読売記事に登場するのですが、

医療過誤に詳しい加藤良夫・南山大教授によると、産婦人科医が逮捕され、無罪になった福島・大野病院事件以降、術者の判断ミスや微妙な手技ミスについて、検察は起訴を慎重に判断する流れになっており、今回の事故で水戸地検が起訴の判断を下すかどうかは微妙だ。

検察官が起訴するかどうかは刑事訴訟法の、

第247条

 公訴は、検察官がこれを行う。

第248条

 犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる

こういうのを起訴便宜主義と言うらしいですが、福島大野病院事件を持ち出さなくとも検察官が起訴するには躊躇われると考えます。日本の刑事訴訟において起訴からの有罪率が非常に高いのが一つの特徴とされます。つまり検察側としては、起訴するからには必ず有罪を勝ち取らなければならないの暗黙の合意があると考えて良いかと思います。もう少し言えば、起訴して無罪にでもなろうものなら検察官の経歴に傷が付くと考えても良いかもしれません。

この事件では警察が3年の間に7人の専門家に調査を依頼しても過失の立証が出来ていません。そうなれば検事が起訴し有罪を勝ち取るためには、警察が選んだ以外の専門家による過失の立証が必要です。さらにそれは警察が選んだ7人の専門家の鑑定を覆す必要さえ出てきます。そういう専門家のアテが検察官にあればともかく、無ければ公判の維持が非常に困難になります。微妙どころかあえて起訴すれば「イチかバチか」以下のものになると考えるのが妥当です。

個人的には警察が既に7人のうちに選んでいなければ、検察官が望む鑑定を書いてくれそうな心臓外科医を知っていますが、この医師が証人尋問に耐えられるかどうかは疑問です。前に検察側の証人に立った時は反対尋問でズタズタにされて粉砕されていましたし、ズタズタにされた材料は何回でも使いまわし可能です。それでもこの心臓外科医の鑑定に賭ける勇気と言うか、無謀さが検察官に果たしてあるかです。

もちろん最後の判断は検察官が行ないますし、あくまでも記事情報だけの判断ですからどうなるかは分かりません。


最後に読売記事ですが、

ただ、警察はすべての医療事故を書類送検するわけではない。重大な事故でも、反省し、再発防止策が取られていれば、書類送検されないケースもあるという。

もう一度刑事訴訟法を記しておきます。

    第246条

     司法警察員は、犯罪の捜査をしたときは、この法律に特別の定のある場合を除いては、速やかに書類及び証拠物とともに事件を検察官に送致しなければならない。但し、検察官が指定した事件については、この限りでない。
警察が捜査を行なうというのは警察が事件性・犯罪性の可能性を認めたからであり、正式に捜査を始めれば刑事訴訟法246条に従う事になります。そういう状況下で警察が送検しないのは、
  1. 特別の定のある場合
  2. 検察官が指定した事件
「特別の定」が「重大な事故でも、反省し、再発防止策が取られていれば」に該当しないと私は考えますが如何でしょうか。司法の仕組みとして現場の犯罪捜査にあたる警察と、捜査結果を判断して公訴を行ない罪状を問う検察を機関として原則として分離していると考えます。つまり現場の捜査に当る警察が裁量で、「これは送検しないでおいてやろう」の恣意的な裁量権を極めて小さくしているのが日本の司法だと解釈します。そういう観点で不思議な読売記事です。