聖典と奥義書と使徒の呪縛

厚労省HPの平成20年6月10日付大臣会見概要からで、まず記者質問です。

 「安心と希望の医療確保ビジョン」について改めて伺いたいのですが、大臣がビジョン懇談会を立ち上げられた目的、問題意識の部分を改めてお聞きしたいのと、とりまとめはいつ、どのような形で行われるのかお聞かせ願いますか。

「安心と希望の医療確保ビジョン」は厚労相肝煎りの会議ですが、とりあえずこの質問に対して厚労相は、

 私は、やはりお医者さんの数が不足していると思います。偏在しているだけという方もおられますけれども、例えば、一週間に80時間とか90時間働いているわけです、皆勤務医が。そうすると、まともな勤務時間に直すだけで倍にしないといけないでしょ。そうすることを全く考えないでとにかく偏在しているだけだというのは私は認識は誤っているし、やはり医療の現場が崩壊している。経済学者が経済合理的に言うとこれだけカットできる、カットできると言うけれども、そういう方々に言いたいのですけれども、一度でもいいから医療現場に行ったことありますか。見たことありますか。医療や介護の現場。そんな市場経済原則だけ振り回して済むような問題ではありません。

 役所もそうです。例えば、経済財政諮問会議の民間議員もそうですよ。紙と鉛筆だけで計算してこれだけでできるというのは、こんな簡単なものはないです。私は、基本的に現場を見てやっているので、その現場の医療崩壊とうことをこのまま放っておいたのでは日本全体が駄目になる。目先の、明日産婦人科が閉鎖されるからどこかの大学からそこに一人産婦人科のお医者さんを連れてきてなんとか閉鎖を止めているのです。だけど、そんなことをすればするほど、そんなに強制的に行かされるのは嫌だよと若いお医者さん言うでしょ。だから、長期的に構造的なビジョンを作って、10年計画でこんなに医療体制を良くしますから、どうか皆さんお医者さんになってくださいよ。

 今苦しいかもしれないけど、先に光が見えますよということをやりたいので長期ビジョンをやったのです。ですから、これはきちんと議論をして現場を見ていただいて、どちらが正しいかというのを堂々と戦ってやらないといけないので、不退転の決意でこれは望みたい。国会が1週間延びるようですし、私は今原爆症の問題、それから長寿医療の改革、改正問題、年金問題、いっぱい抱えていますので、その交通整理をしていまして、なかなか時間の設定ができないので、早ければ今週中、しかし、国会が延びましたら来週くらいになるかもしれません。それでできれば数値も出して、これでいきたいということを申し上げて、それが内閣の全体の意見になるように努力をしますというのが今の状況です。

原文は段落のないデカイ塊で読みにくかったので、3段落に編集しています。いろんな評価のある厚生労働大臣ですが、このコメントを読む限り意欲だけは伝わってくるように思います。とくに与党の大切なサポーターである「経済財政諮問会議の民間議員」様にまで喧嘩を売るような内容が含まれていますので、その意気込みの凄さが分かります。もっともここまで発言して次の内閣改造(あればですが・・・)に生き残れるか、大臣の政治生命はどうかなどの余計な心配もしたくなるぐらいです。見る人によったら「クビが近いので最後っ屁」みたいな評も出るかもしれません。

大臣への皮肉を書くのが今日のエントリーの趣旨ではありませんし、大臣が意欲を見せてくれているのは素直に喜ぶべきかと思います。問題は実現するしないの問題はさておき、どんな内容かになります。たしか前に内容をすっぱ抜いた報道記事があったようにも思いますが、探してもすぐに見つかりませんし、覚えてもいません。正直なところこの件についてはあまり知らないのです。そうなると議事録と格闘しなければなりません。

このビジョン懇談会(会議)は既に9回開催され、第9回は5/30に行なわれています。一方で議事録は4/21の第7回が最新公開となっています。第1回から全部読み上げて論評するのが筋ですが、議事録は正直なところ読むのが猛烈に苦痛です。努力はしかけましたが、ウンザリして第7回をそれも斜め読み程度でしか読めていませんが、ここから会議の雰囲気を探ってみたいと思います。

まず会議の出席者です。これは何回分かを見直しましたが、レギュラーの委員はどうやら、

どうやらこんな感じで、必要に応じて参考人も呼ばれるスタイルのように思われます。

第7回の大きなテーマは医師不足の程度はどれほどかと、どうやってそれに対策を考えるかの議論に多くを費やされています。漠然と医師は不足しているの認識は拡がっていますが、具体的な対策となると「○○人足りない」をデータとして示し、足りない分を「△△として対応する」にして初めて予算が計上され政治として動き出す事になります。現在でも偏在説が根強く残るぐらいですから、医師不足対策のスタートラインとして非常に重要な部分かと思われます。

不足数の議論でイニシアチブを取ったのはどうやら矢崎委員のようです。長い長い発言なので興味のある方は議事録原文をお読みください。とりあえず矢崎委員の基本認識は、

 しかし、10数年前に医療ニーズが頭打ちになるというような予測だったのですが、10数年前に、後で述べるいろいろな要因によって医療ニーズが急激に増加したために、そのギャップが埋まらず、絶対数はこのように不足しています。将来、どうなるかという予測ははなはだ困難で、今回起こったいろいろな要因がないとすれば、おそらく将来、医師は過剰になるだろうということです

矢崎委員の主張する「10数年前」とは医療費亡国論に基づいた医師数抑制政策の事かと考えられます。当時の予測は必ず「余る」であったのですが、現在は予測を大幅に上回る医療需要が発生し「不足」しているとしています。別に変な認識ではなくこれまでの経緯を説明しているだけです。その上で、10数年前の予測が現在外れたことを引き合いに出し、現時点で将来の予測を行なうのは、

    はなはだ困難
「はなはだ困難」と言う主張は前例があるので理解可能な主張ですが、「はなはだ困難」であるのなら「余る」予想も「不足」する予想も五分五分という事になるかと考えます。それこそ将来のその時点になって見なければ「わからない」が基本認識になるはずです。ところが「はなはだ困難」としながらも矢崎委員の将来への予測は、
    おそらく将来、医師は過剰になるだろうということです
もっとも前提はあり
    今回起こったいろいろな要因がないとすれば
どうやら「いろいろな要因」が起こるかどうかは予測不能であるから、現時点で考えるのならば、現在の医療環境が変わらない前提で考えるべきであると主張しているように感じます。もちろんトンデモ主張と難じる気はありません。これはこれで一つの考え方ですが、「いろいろな要因」の一つは現在でも芽を出し、葉を茂らせつつあるように考えています。

例えば救急問題一つにしても、方向性として24時間デパート診療が確実に進められつつあります。これ一つの需要だけでも「いろいろな要因」として、医療需要の増加、必要医師数の想定に多大な影響を及ぼします。もう少し具体的に言えば24時間デパート診療のために交代勤務制が推進されただけで莫大な医師数が必要です。先日も試算してみましたが、全国9000の病院の半分に夜間・休日に内科系・外科系の医師一人ずつを交代勤務として配置するだけで、新たに3万人弱の医師が必要となります。

厚労省の推進政策である在宅医療も新たな医師需要発生の要因となります。在宅医が受け持てる患者数は、往診と言う形態のために自ずから限られます。在宅患者から次の在宅患者への移動時間はバカにはならず、施設で集団として診察するのと較べると能率の面において非常に劣ります。簡単に言えば100人の入院患者を診察するのと、100人の在宅患者を診察するのであれば、必要医師数は「入院患者 << 在宅患者」になる事は自明です。ここにも新たな医師が必要となります。

そういう「いろいろな要因」がありそうだと思うのですが、矢崎委員は予測不能として「余る」を基本に据えて考えるべきだとしているようです。次の矢崎委員の発言はこの考えをベースにして読むと分かりやすくなります。

 先ほど申し上げましたように、ギャップが埋まらなかったわけです。国民皆保険の導入のときに急に8,000人にしましたが、ずっと埋まらなかった。しかし国民から医師不足という声はそんなに大きくならなかったわけで、これは先ほど申しましたが、10数年前にいろいろな医療に対する国民の目が厳しくなって、それで医師不足のギャップが大きくクローズアップされたというところがある。

 現状は、このように絶対的に不足しているのです。私が申し上げたいのは、医師の定員をもし倍にしても、これは10年ぐらいかかるわけです。さらにその医師が育って一人前になるのは15年、だから25年ぐらいかかるわけです。そのときはどうかというと、今度のように大きな医療ニーズが国民皆保険の導入と、それから10数年前から始まった高齢化と医療の高度先進化によって、医者あるいは専門家によって医者がたくさん必要になったと。そういう状況でニーズがそのままありますが、これがさらにもう一段また増えることがなければ、この将来係数です。そうしますと、要するにクロスするところがわずかに1、2年ぐらい10%を増やしても1年ぐらい短縮するだけで、喫緊に充足することは起こらない。

 そうしますと、その後はどんどん実勢と乖離してしまうということがあります。一度増やした定員はなかなか削減できない。アクセルを踏んでもブレーキは仕掛けることができないので、私は定員数をどのぐらい増やしたというよりは、増やすということによって、この絶対数の解消はできないのではないかと。ですから先ほど申し上げましたように、医療ニーズが赤字になっているのは、1つは高齢者の入院医療のニーズが増えていて、これを削減できない。そうかといって、いま入院している患者さんを在宅医療に移行するにもなかなか難しいという点があるので、私はこのギャップの部分の大きな部分は、関連職種のスキルミックスで埋めてもらいたい。

開業医の診療所の先生方に頑張っていただいて、病院、病診連携を活用して、入院患者さんをフォローアップする。いままでどんどん救急から入院医療に移行する患者さんを何とか整理するための高度な機能を持った診療所の開設とか、そういう今あるスタッフで何とか解決する方法をまず見つけるのが先決ではないかと思います。即ち医学部定員増というのは、目の前にある大きな仕事を片付けなくては、といってストレスがいっぱいたまっているところに、極端に言うと精神安定剤を処方するようなもので、仕事を何とか整理するというのが第一ではないかということで、これはなかなか実施するのは難しいかもしれません。

また、いろいろな財政的な支援も必要かと思いますが、このギャップを埋めるにはまずそこを考えないと、このグラフでご覧のように、大臣のご質問のどれぐらい増やしたら現状が改善するかというのは、解のない方程式を解くような部分でもあるのかと思います。

少々長いのですが、あえてまとめると、

  1. 医学部定員増加で対応しても、その効果が現れるのは相当先であり、すぐには「充足」しない。
  2. 医学部定員増加数が効果が現れる頃には医療情勢は「余る」になっているはずで、余剰医師の扱いに困る時代が訪れる。
  3. 高齢者の入院医療が大きな問題と考えるが、スキルミックスにより在宅医療に移していく事が重要である。
  4. 医学部定員増など精神安定剤みたいなものである。
このあたりが主張としてのまとめになっている様な気がします。ここも個人的には入院治療から在宅医療に移行すれば人手が何故緩和されるかがよく理解できないのですが、薬剤師・看護師などがスキルミックスで「2級医師」のように働く事により、医師の必要数が削減できるとしているように私は読めました。私の議事録読み込みが不足しているかもしれませんので、誤解があるようなら御指摘お願いします。

ここで出てくる「グラフ」ですが、元のデータは医師の需給に関する検討会報告書からのようです。

ちょっと見にくいグラフですが、予想される医療需要に対し現在2万人不足しているとし、
  1. 現在の医師定員で、2021年にこれを満たす
  2. 新医師確保対策(395人増)で、2020年に上回る
  3. 過去最大定員まで増加させれば、2019年に上回る
なおかつなんですがこの推計は、
    医師の労働時間に一定の制限(診療、教育、会議等の時間を週48時間に制限)を加える前提で推計した
この予測で考えるのならそもそも医学部定員増なんて不用とも思えます。ただ前にも取り上げましたが、医師の需給に関する検討会報告書のさらに元データである「医師の需給推計について(研究総括中間報告)」では
  1. 前回は2010年より定年70歳を設けると推計していたことに対して「医師・歯科医師・薬剤師調査」における現在の回答状況及び就労状況にかんがみ今回は設定していない。
  2. 女性医師の労働量の重み付けについて前回0.7と設定していたことに対し、今回は設定していない。
前回の医師の需給に関する検討会報告書は平成10年に出されていますが、この時より女性医師の戦力は3割増し、また70歳以上の高齢医師もすべて同等の戦力として増やされています。それでも足りない医師数が2万と言うことです。この報告書は平成17年に調査が開始され、平成18年に中間報告として出された長谷川敏彦氏の「医師の需給推計について(研究総括中間報告)」が統計上のベースになっています。

この中間報告と言うのが何回も読みましたが厄介と言うより難解で、グラフとかを多用して詳細そうに見えますし、結果は羅列してありますが、結果を導き出した基本データが殆んど不明な内容です。私はお世辞にも統計に強いと言えませんが、ある程度統計計算に慣れ親しんだ方でもサジを投げた代物です。ただ私の覚えている限り、医療需要の計算はあくまでも平成17年当時の医療情勢に基づいて行われたものです。救急医療の増大とか、在宅医療の影響はほとんど考慮されていなかったんじゃないでしょうか。

とは言うものの医師の需給に関する検討会報告書は国費を費やして作られた公式の医師需給の聖典であり、医師の需給推計について(研究総括中間報告)は奥義書とも言うべきものです。既にお気づきの方も多いと思いますが、矢崎委員の発言はこの聖典と奥義書を基に行なわれています。ここでこの検討会の委員をもう一度ご覧下さい。

池田康夫慶應義塾大学医学部長
泉 陽子茨城県保健福祉部医監兼次長
内田健夫社団法人日本医師会常任理事(第13回〜)
江上節子東日本旅客鉄道株式会社顧問
川崎明徳学校法人川崎学園理事長、社団法人日本私立医科大学協会
小山田恵社団法人全国自治体病院協議会長
水田祥代国立大学法人九州大学病院
土屋隆社団法人日本医師会常任理事(第1〜12回)
長谷川敏彦日本医科大学医療管理学教室主任教授
古橋美智子社団法人日本看護協会副会長
本田麻由美読売新聞東京本社編集局社会保障部記者
矢崎義雄 (座長) 独立行政法人国立病院機構理事長
山本修三社団法人日本病院会会長
吉新通康東京北社会保険病院管理者、社団法人地域医療振興協会理事長
吉村博邦北里大学医学部教授、全国医学部長病院長会議顧問

矢崎委員は座長として参加しているわけですから、聖典と奥義書の内容については「絶対に正しい」と主張しなければならない立場におられる事が分かります。矢崎委員にすれば自分が座長を務めた御用会議の結論は絶対ですから、あくまでもこの予測に基づいて医療政策は行われなければならないと徹底抗戦されるかと予測されます。また基本的な資料を作成する事務方も、当然のように奥義書のデータを基にした資料を量産します。なんと言っても唯一の公式の需要予測になるからです。

現在の医師数はおよそ26万人とされ、2万人の不足といえば7.7%程度になります。仮にこの2万人が満たされていたら医療崩壊は起こらなかったのでしょうか。聖典ではそうなっていますし、およそ10年後にはこの不足分は自然増により解消され「余る」事になっています。当たり前といえば当たり前ですが、聖典の内容は「医療は大丈夫」の結論で作られており、審議が行われた平成17年時点では今から考えれば嘘のように平穏な時代でした。

聖典に基づく限り医師不足対策は何も行なう必要は無く、黙って手を拱いて見ておくのが一番の良策の結論しか出てきません。さすがに大臣は会議の最後で矢崎委員の主張に柔らかな反論を行なっていまが、数値の基になる資料が奥義書である限り、大臣の意気込みとは別に期待が持ちにくいのではないかの感想を抱いてしまいました。もちろんこれは第7回会議であり、この後の2回の会議を積み重ねてどう変わったかは分かりません。医師がこの先に希望が持てる議論になっているように祈ります。