医療費抑制政策の根源を考える

麻生発言を考えるをエントリーした時にある程度調査したのですが、今回は復習編みたいなものです。医師数抑制政策の政府の動きは確認する限り、

年月 政府の動き
1982.9 医師数抑制を閣議決定
1984.5 「将来の医師の需給に関する検討委員会」設置
1986.11 「将来の医師の需給に関する検討委員会」報告
1993.8 「医師需給の見直し等に関する検討委員会」設置
1994.11 「医師需給の見直し等に関する検討委員会」報告
1997.6 医師数を抑制する旨の閣議決定
1997.7 「医師の需給に関する検討会(1998)」設置
1998.5 「医師の需給に関する検討会(1998)」報告
2005.2 「医師の需給に関する検討会(2006)」設置
2006.7 「医師の需給に関する検討会(2006)」報告


1982年9月の閣議決定がスタートになります。以後の検討会はその閣議決定に従っての「結論ありき」の御用会議と言っても差し支えありません。1997年6月の2度目の閣議決定も気になるのですが、どうにも詳細が殆んど分からないので最初の閣議決定の経緯を考えます。1982年9月の閣議決定もいきなり瓢箪から駒みたいに決定された訳ではありません。もちろん閣議決定をするための元の答申があります。

1981年に鈴木善幸政権での「増税なき財政再建」路線達成のために作られた第二次臨調(土光臨調)の第三次答申です。その内容は文部省資料である医学部入学定員削減に関する答申等について(抜粋)に書かれています。

○ 昭和57年7月 臨時行政調査会「行政改革に関する第3次答申」

    医療従事者について、将来の需給バランスを見通しつつ、適切な養成に努める。特に、医師については過剰を招かないよう合理的な医師養成計画を樹立する。
○ 昭和57年9月 閣議決定「今後における行政改革の具体化方策について」
    医療従事者については、将来の需給バランスを見通しつつ養成計画の適正化に努める。特に医師及び歯科医師については、全体として過剰を招かないように配意し、適正な水準となるよう合理的な養成計画の確立について政府部内において検討を進める。

読めば明らかなように土光臨調の答申に基づいて閣議決定が為されています。もう一つ補足資料を上げておけば、厚労省資料によると

1982(昭和57)年には、医師については、全体として過剰を招かないように配意し、適正な水準となるよう合理的な養成計画の確立について政府部内において検討を進めることが閣議決定(「今後における行政改革の具体化方策について」)され

おそらくですが、土光臨調の第三次答申が医師数抑制のみを答申したはずもなく、「今後における行政改革の具体化方策について」の中の一つとして閣議決定されたと考えるのが妥当です。27年も前の話ですから、記憶に頼らざるを得なくなりますが、この医師数抑制政策についてはさしての異論もなく決定したかと存じます。

もし覚えておられる方がおられればコメントを頂きたいのですが、この閣議決定以前に世論とまで行かなくても、医師世論程度には「医師過剰論」が十分浸透していました。当時はまだまだ医師ではありませんでしたが、父(医師)からも「お前の時代は医者が余るから大変だ」と言われた記憶はありますし、医学部時代も講義中に同様の趣旨の発言を聞いた事があります。

さらに言えば当時は勤務医が余りそうになっている時代でもありました。「余る」と言う表現に違和感を感じるかもしれませんが、医師過剰論の影響で開業はリスクが高いの意識が広がり、勤務医志向が強くなっていたからです。そのために勤務医のポストの不足感が広がり「医師が余る」は開業医だけでなく、勤務医にも共通して広がっていたと思います。

ここら辺も微妙で開業医数がある程度になり、その前の時代より開業すれば間違い無くウハウハ時代がそろそろ終わりかけている観測が広がっていたのはあります。とくに1983年の診療所への税制が変わってからは、その意識が強まったと考えています。税制の変更は1982年の閣議決定の後ですが、それ以前から毎年のように槍玉に挙げられていたので、いつ変更されてもおかしくない状態であり、実施されると開業の魅力が大いに減じると意識されていました。当時の勤務医と開業医の棲み分け感覚の一つに、

    勤務医は名誉を取り、開業医は富を取る
名誉を損ねてまで取る開業のメリットが減じたら、勤務医志向が強くなったとも考えられます。この勤務医の名誉感覚は現在とは違うというより異質に近いものがあります。今でも勤務医は意識として開業医を一段低く見る傾向(理由は様々ですが)がありますが、当時は見下していたと言っても感覚的に間違っていないかと思っています。見下している開業医になるためのメリットが少なすぎるという感覚といえばよいのでしょうか。

なにぶん今と違い、情報の広がりが狭い時代ですから、私の見聞がどれほど大勢を反映しているのか自信がありませんが、医師数を抑制すると言っても医師すら反応は乏しく、漠然と「それで良いんじゃないか」の共通認識があったように感じています。つまり土光臨調が第三次答申を出すより先に医療界に先にそういう空気が醸成されていたかと思います。決して寝耳に水の閣議決定で大騒ぎではありませんでした。


ここで日医がこの時にどういう動きをしたかです。日医が1982年時点以前にで医師数抑制の大キャンペインをやっていたかと言われるとかなり疑問です。

日医にとって医師数抑制は開業医抑制につながり、自らの権益を守る事につながりますが、実際のところ当時は地域によって開業医の不足感がある地域さえあったかと記憶しています。さらに当時の地区医師会の力は強大で、新規の開業のコントロールは、ほぼ出来ていたしても良いかと思います。そのうえに勤務医志向の高まりもありましたからなおさらです。それよりも難関化が著しかった医学部に自らの子弟を入学させる事の方が関心が強かったと考えられます。

どういう事かといえば、積極的に開業規制を医師数抑制(入学定員削減)までするメリットと、子弟の医学部入学のさらなる難関化を天秤に掛ける状態であれば、積極的に動くほどのモチベーションは生まれにくいかと考えます。せいぜい医師数抑制に関しては、消極的賛成ぐらいの態度であったと考えるのが妥当かと思われます。あくまでも私が見聞した範囲で、どう思い起しても、どう探しても日医が医師数抑制の音頭を積極的に取った形跡は見当たりません。


そうなれば日医以外の誰かが医師過剰論を作り、これを浸透させた事になります。誰であるかは古い話なので難しいところですが、ありきたりですが、やはり厚生省側から出た話と考えるのが妥当です。それまで一県一医大政策を推進し、医師増産路線であったのを変えるためには、一個人が私的に動いたのでは到底不可能です。個人であっても大きな団体をバックにしなければ不可能で、医師の団体である日医が積極的に動いていないと仮定すれば厚労省しかありません。

厚労省にとって医学部定員の削減は省益には関係しません。大学医学部は文部省管轄だからです。一方で医師数抑制は医療費抑制に資すると考えられ、省益に合致します。医師数の抑制にいかに熱心だったかは証拠は幾らでもあり、これは2007年の予算委員会の安倍元首相及び柳沢元厚労相の答弁でもハッキリ分かります。これも閣議決定の方針に忠実に答えただけの解釈も可能ですが、厚労省の省益にかなっていたからこそのものとも解釈も可能です。

省益という観点から見れば、1982年の閣議決定から検討会が何度も行われ、医学部定員数の削減が打ち出されていますが、削減はユックリとしか進んでいません。なぜにユックリであったかは他にも事情はあるかと思いますが、文部省の省益に反していたがための密かな抵抗とも見ることも可能です。一方の厚労省は執拗に医学部定員削減政策を継続しています。厚労省の省益に反するならば、たとえ閣議決定があろうとも実行運用段階で骨抜きにしていく手法は官僚には十分あるからです。


一口に厚労省と言っても、大臣主導とは思えません。厚労相ポストは内閣の中でも伴食ポストとされています。自公政権公明党の大臣が座っていた事でも明らかです。最近で有名な厚労相としては、首相になった小泉純一郎も当時は傍流での年功序列であり、菅直人も自社さ連立のおこぼれ任命です。現在の舛添大臣も社保庁の大混乱のために回ってきたポストに過ぎません。ちなみに1982年の閣議決定時点での厚生大臣は森下元晴ですが、この人物は9月の閣議決定には参加していますが、同年の11月26日には大臣の座を去っています。在任も1年足らずです。

では大臣以外に医師数抑制政策に力を揮った人物が当時の厚労省にいたかになりますが、1人だけ可能性のある人物がいます。吉村仁氏です。wikipediaしか情報源が無いのですが簡単に経歴をまとまめると、

経歴
1930 広島県にて出生
1953 東大法学部卒業し厚生省に入省
1957 厚生省医療課にて国民皆保険制度に尽力
1979 社会保険庁長官
1982 厚生省保険局長
1983 「医療費亡国論」発表
1983 厚生省事務次官
1986 退官


医療費亡国論の吉村仁氏を持ち出すのは今さら感がアリアリですが、この簡単な経歴からでも色々考えさせられる事はあります。1957年の医療課時代の国民皆保険制度の施行は大事業でした。それまでの自由診療からの大転換ですから、一片の通達でノホホンと遂行できるものではありません。これも常識ですが日医にはカリスマ医師会長の武見太郎氏が豪腕を振るっていた時代であり、日医が伝説通りに強かった時代でもあります。

吉村氏が国民皆保険制度の厚労省側の実行部隊の一人であったのは間違い無く、政界工作にも奔走したのは事実としてよいでしょう。おそらくですが、吉村氏も有力な実行部隊として厚労省をまとめ、理論武装を作り上げ、それでもって難事と考えられた国民皆保険制度を実現したとして良いと考えられます。これは厚労省的にも偉業であり功績として認められたと考えられます。

官僚の出世システムは椅子取りゲームのサバイバル戦争ですから、国民皆保険の功績で出世レースを生き抜き事務次官まで勤め上げたと考えますし、それだけではなく吉村理論が厚生省の医療政策の根幹になったと考えるべきかと思います。吉村氏が「医療費亡国論」を発表したのは1983年ですが、これはエリート官僚として、この意見を世に問うものでなく、それまでの成果の集大成と、これからの厚労省の取るべき指針として発表されたと考えるのが妥当です。

「医療費亡国論」が厚労省の方針に反するものであるなら、その後の事務次官昇進はありえるはずがなく、「医療費亡国論」は厚生省の方針そのものであると考えられます。つまり吉村氏が国民皆保険制度の推進の過程で確立したであろう「医療費亡国論」路線は、厚生省から厚労省に続く中で絶対の指針として受け継がれていたと考えます。

ではいつ頃からかになりますが、国民皆保険制度が確立したのは1961年とされます。あくまでも推測ですが、この時期には吉村氏の厚生省内での評価は非常に高かったと思います。とは言えこの時の吉村氏はまだ30歳ぐらいですから「将来の厚生省を背負って立つ者」みたいな位置付けかと考えます。30歳ぐらいでは厚生省内で大きな力を揮えませんが、屈指の理論家であり実行段階でも抜群の能力を示したのですから、年齢を重ねるにつれ大きな勢力を築いていったとしても良いと考えます。

そういう吉村氏が次のターゲットにしたのが医師数の抑制ではないでしょうか。一県一医大政策の医師数目標は、医師の需給に関する検討会報告書(2006)によれば、

最小限必要な医師数を人口10万対150人

これが具体的にどう経過したかといえば、

出来事
1970 医師数を人口10万対150人とし、これを昭和60年を目途に充たす決定が行なわれる
1973 一県一医大設置が推進される
1981 医学部定員が8360人まで増加
1983 医師数人口10万対150人を達成


吉村氏の理論の中に「医師数増加 = 医療費増大」があったと考えます。増え続ける医師数に危機感を感じた吉村氏は1970年代の後半から「医師過剰論」のタネをまき始めたのではないかと考えます。医師が人口10万人当たり200人を越えると大変な事になるとの考えは、医学系の雑誌にもしばしば掲載された記憶があります。1970年代であれば吉村氏も40歳代になっており、自在に手腕が揮えるようになっているはずです。当時の世論構成は今とは比較にならないぐらいマスコミ支配が完璧な時代でしたから、厚生省の有力官僚として巧妙に情報操作すれば十分に可能です。

1979年に社会保険庁長官になっていますが、その頃には厚生省内の吉村派は完全に主流派として濶歩していたとしても不思議ありません。そして閣議決定のあった1982年には要職である厚生省保険局長に就任しています。土光臨調において医師数抑制政策がどれだけの時間がかけられたかは不明ですが、正直なところ短時間であったであろうと考えます。他に重要政策が目白押しの中、1年や2年で答申を三次まで重ねているのですから、下手すると1日、いや他の議題と抱き合わせで短時間で決まったとしてもおかしくありません。

短時間でそれまでの医師増加政策を抑制政策に変えるためには、それまでの周到な準備と、地位に応じた発言力の大きさと、理論武装が必要です。この3つを併せ持ち実行できる人間は吉村氏しかいないと私は見ます。世論も、政界も、医師さえも医師過剰論に同調させた吉村氏の手腕であったと考えます。吉村氏は個人の能力や手腕だけではなく、吉村学校と言われるぐらい後継者育成に熱心であったとされ、吉村理論はその後も厚生省、厚労省に濃厚に受けつがているとするのが自然です。

奇しくもと言うか、そのためかは分かりませんが、1982年に日医のカリスマ武見太郎氏が会長の座を降りています。武見太郎氏も四半世紀に渡り医療界を支配してきましたが、武見太郎氏亡き後に医療界をリードしたのは吉村氏とその後継者であったとしてもよさそうです。私は現在の結果をもって吉村氏を貶めようとは思いません。当時の判断としては一つの見識であり、これに反論し論駁しようとする人は殆んどいなかったのではないでしょうか。

ただ後継者たる厚生官僚が吉村理論をドグマ化したのではないかと考えてはいます。どんな優れた人間がどんな優れた理論を打ち立てようが、社会学では絶対とか永遠はまずありえません。誰にも予想不可能な変化を起すのが社会です。ある時点で優秀な理論であっても時が過ぎれば陳腐化することも珍しくありません。そういう意味で1997年の2回目の閣議決定のときに、医療側にも厚労省側にも既に人材が枯渇していたのが今となっては惜しまれます。

武見氏も吉村氏も現在では評価の功罪が相半ばする人物ですが、両氏とも意見をまとめ上げるカリスマ性と実行力、そして何より明確なビジョンを持っていたと考えます。両氏がもたらした医療については、後の結果論から評価するのは必ずしも正しくないと思っています。とくに吉村氏は1986年に退官し、その2年後に死亡しています。吉村氏の理論に基づいた医師数抑制政策の結果と言うか、変化を見る事なしに亡くなっています。個人的には1997年の二度目の閣議決定に際し、どういう考え、どういう意見を持っていたかを聞きたいところです。

武見氏もなく、吉村氏もおらず、さらに誰も新たなビジョンや理論をもって、次の世代の医療を考える者、実行する者がいなかったのが、1997年の2回目の閣議決定ではないかと私は考えます。物事が悪い方に進む時は得てしてこんなもので、絶対の岐路の時点に適切な人材に恵まれず、破滅まで驀進してしまいます。次の岐路は今なんでしょうが、それともまだ先なんでしょうか、それとも通り過ぎてしまい手遅れなんでしょうか。結末を見ることだけは私でも出来そうです。