神奈川帝王切開賠償訴訟

2007年3月1日付毎日新聞より。

大和市立病院損賠訴訟:出産後に障害、市に1億4250万円命令−−地裁 /神奈川

 ◇担当医の過失認める

 大和市立病院(大和市深見西)で97年に仮死状態で生まれた男児(10)=東京都町田市=が手足のまひなど重い障害を負ったのは、同病院の担当医師が適切な時期に帝王切開しなかったためとして、男児と両親が大和市を相手取り損害賠償を求めていた訴訟で、横浜地裁は28日、同市に計約1億4250万円の支払いを命じる判決を言い渡した。三木勇次裁判長は「担当医は速やかに帝王切開の準備を始めなかった」と過失を認めた。

 判決によると、母親は97年2月24日午後9時ごろ、胎児の心拍数が一時的に低下する症状が表れ始め、同40分にも再発したため担当医師が帝王切開を決定。午後11時ごろ、帝王切開男児が生まれたが、手足のまひや発達遅滞の後遺症が出た。

 三木裁判長は「午後9時ごろには既に胎児の心拍数が一時的に低下する症状がみられ、帝王切開の準備を始めるべきだった」と指摘。さらに「帝王切開決定から実施まで約1時間16分要し、遅きに失した」と述べた。【伊藤直孝】

エッセンスをまとめます。

  1. 夜9時に一時的に胎児心拍が低下し、9時40分にもう一度起こった。
  2. 9時40分の時点で産科医は帝王切開を決断した。
  3. 1時間16分後に出産した。
  4. 児は低酸素性脳症による重い後遺症が残った。
あくまでも記事からのみですが、この判決のポイントは
  1. 帝王切開決定から出産まで1時間16分は時間がかかりすぎている。
  2. 9時の最初の徴候の時から手術準備にとりかかっていたら、もっと時間が短縮できたはずだ。
  3. 時間が短縮できたら低酸素性脳症は起こらなかったはずだ。
記事からだけなので判決内容は憶測に頼らざるを得なくなりますが、判決が望んだ医療体制は次の二つかと考えます。
  1. 9時の時点で帝王切開を即座に決断するべきであった。
  2. 9時の時点で要注意状態であったので、その時点から手術に必要なスタッフを即座に招集し、万端の準備をして9時40分を待つべきであった。
児心音の低下は胎児仮死の徴候として重要です。9時の時点の児心音の低下が、どの程度でどれぐらい続いたのかはこの記事ではわかりませんが、産科医の判断は「回復したから様子を見よう」であったかと考えます。この程度のことは分娩経過中にしばしばあります。児心音の低下は胎児仮死のサインではありますが、それが即帝王切開突入のサインと同じ意味でなかったはずです。

また仮死の可能性のあるときの帝王切開手術に必要なスタッフは、産科医、前立ちをする外科系医師、手術室看護師、小児科医、麻酔担当医が必要です。夜の事ですから、外科系医師は外科当直医で賄っても、手術室看護師、小児科医、麻酔担当医は緊急招集をかける必要があります。

9時40分に手術決断を下してから、出産まで1時間16分。このうち手術室に入り麻酔を行い、手術に取り掛かり、児が娩出されるまで少なくとも20分はかかります。そうなれば手術決断から手術準備完了まで1時間足らずで完了した事になります。これはどう考えてもそんなに遅いものではないと考えます。院外にいるスタッフを呼び寄せるのですから、自宅に連絡を入れ、状況を説明し、了承し、着替えて駆けつけるのにそれぐらいは要しても不思議ありません。誰もが病院近所に住んでいるわけではないからです。

ここでa.の判断を強要されるのであれば、産科現場は今後大混乱になります。「児心音の低下=即帝王切開」のJBMとなり、経過を見るという裁量は分娩では今後一切なくなります。児心音の低下が起こった瞬間に問答無用で帝王切開に突っ走らないと産科医の責任となります。

b.でも大混乱必至です。児心音の低下が起こった瞬間に、いついかなる時間であっても上記スタッフは緊急招集がかけられ、院内で手術準備万端で待機しておく必要があります。今回の事件では40分後の児心音低下で手術の決断を下していますが、もし次が起こらなければ分娩までひたすら待機です。これは相当な負担と考えます。

それとこの判決では重大なことをもう一つ指摘しています。帝王切開決定から児の娩出まで「1時間16分」は遅すぎると言う指摘です。そうなると他院への搬送も非常に制限される状況になります。自院では帝王切開およびその後の児の治療に不十分であると判断された場合、搬送先を探し、救急車で搬送し、搬送先病院で帝王切開手術を行なえばこれも「1時間16分」ぐらいは十分かかります。いったい何分ぐらいなら「遅すぎない」のでしょうか。「1時間16分」は遅い事はJBMとして明示されましたが、何分以内の分娩ならJBM的にOKなのかは藪の中です。

最後に早ければ「低酸素性脳症」が防げたかの問題があります。遅いよりも早いほうが防げた可能性が幾分でも高いことは認めます。ただし間違っても「起こらなかった」とは医療関係者なら誰も言えません。児心音の低下が無くとも重症仮死がおこる可能性は幾らでもあり、児心音低下が起こった瞬間に出産させても低酸素性脳症が起こっていた可能性は相当高いと考えます。法曹用語でよく使われる「高度の蓋然性」の「高度」とはここまで指すのかと驚かされます。

もう一つだけこれは読売の記事ですが、裁判長の指摘として、

心拍数が低下した時点で、病院は帝王切開の準備をする義務があったが、怠った。夜間、麻酔科医らが常駐しておらず、医師を呼び出すなど出産まで1時間以上かかった。

麻酔科医は「常駐」しているのが常識だの指摘も行なわれているようです。麻酔科医が常駐している分娩施設なんてどれほどあるのでしょうか。常駐していない施設が不備であると言うのなら、助産所なんて論外の極致の施設になります。助産所からウントコセと搬送して「1時間16分」以内に帝王切開手術を行なえなければもちろん同罪でしょう。そんな充実した施設は病院でも出来るところはごくわずかです。

早ければ「ひょっとして」防げたかも知れない程度の時間差で、ここまでの巨額の賠償とはまた産科崩壊を加速させる判例になるでしょう。この判決報道を読んで心が折れた産科医の声が聞こえてくるようです。詳細情報が手に入ればまた分析したいかと考えています。