無過失補償制度の続き

どうにも中途半端に情報が錯綜してソースの確認に手間取っているのですが、現在の論点は、

  1. 補償金が払われた時点で訴権はどうなるか。
  2. 病院評価機構が行なう審査とは脳性麻痺(CP)児の医療過誤の有無を判定する機関なのか、それともCP児であり補償金を支払う障害があるのかどうかだけを判定する機関なのか。
とりあえずこの二つの詳細の確報がつかめていない事かと考えます。昨日もそれについて相当議論があったようですが、読む限り誰もはっきりしたソースが提示された様子はないようです。予算の運用についても妥当論から懸念論まであり、損保会社が介在する事も是非があるようで、制度の全体像がもう少し細かいところまで出てこないと推測論に終始するかと思います。

今日のエントリーは若干視点を変えたお話です。この補償制度は一体誰のためにあるのだろうかということです。医師の本音の議論はどれだけ産科医への訴訟が抑制できるかにどうしても絞られます。報道や政府発表もその効果ばかりを強調しているような気がします。確かに産科医への訴訟問題がここまで問題にならなければ誕生しなかった制度でしょうが、そのためだけの制度ではないはずです。

建前と言われても構いませんが、私は本来の目的はCP児救済のはずだと考えています。不幸にしてCPとなってしまった子供の社会的救済への画期的制度であるという視点が絶対必要だと考えています。画期的かどうかはわかりませんが、従来の制度よりさらに充実した制度への発展として考えておく必要があると思います。そうしないとこの制度の構想が出た頃から常にある批判である「訴訟を金で買う」への説明にならないかと考えています。

補償制度の目的の一つに訴訟抑制があるのは確かです。ただその事のみの効果論ばかりを考えるのではなく、CP児に対しての社会保障効果がどうであるかの議論が必要なはずなのです。この点についての議論が余りにも不足しているのが、この論議の最大の欠点のような気がします。これだけの巨額の補償が行なわれるのですから、それがCP児本人についてどれだけ有効に利用されるかの議論が絶対必要です。

医師が私も含めて医療訴訟に対して過敏になっているのは認めます。ただ医師は病人に対しどれだけの事が出来るかを考えるのが本分です。国全体としての社会保障制度にどれだけ医療が関与するかは議論もあるかと思いますが、私は相当密接に関連した事柄だと考えています。

医師としてCP児に対して出来ることは、出来うる限りCP児の発生を抑制する事がまず第一の仕事となります。これについての産科医の努力は世界一の成果を残しています。どの国と比較しても胸を張れる成績です。それでもCP児は誕生します。不幸にして生まれたCP児に対しても世界一の保障をしてやろうと努力するのが医療者たる者の職務かと考えます。

今回の補償制度議論は支払いシステム論に傾いていますが、本来の目的であるCP児救済の視点をもっと強く医師はアピールするべきだと私は考えます。そうする事を医師は期待されていると考えています。医師は患者と共に病気と闘う存在であるという事を訴えなければならないのです。

医療崩壊後の復興再生議論が種々にありますが、復興再生のためには医師と患者の関係の復興再生の視点が絶対必要です。医療崩壊の原因の一つにこの関係の荒廃を上げられる論者は数え切れないぐらいいます。荒廃した関係を修復する起爆剤に焼野原論があるのですが、焼野原になったとしても無条件に荒廃した関係が改善されるわけではありません。下手すると今以上に荒廃した世界が待っている可能性も低くありません。

理想論と哂われるかも知れませんし、妄想患者と言われるかもしれませんが、無過失補償制度の金の力によって訴訟を押さえ込むのではなくて、CP児が誕生しても家族には充分な補償があるので安心でき、訴訟を起させる気を減らすように導く方が迂遠ですが永続的で有効な方法と信じます。そういう医師と患者の関係を再構築していかないと医療荒廃はますます進みます。

長い長い前置きでしたが、私は無過失補償制度の全面遡及措置の施行を要求したいと思います。生まれた日時によって補償の格差が生まれる制度は望ましいとはいえません。これから生まれてくるCP児に補償を行なう制度は出来そうですが、一方で既に誕生しているCP児を放置するのは医師として許しがたい状態です。既に生まれているCP児とこれから生まれるCP児の間に養育の苦労の差はありません。ここで差をつける理由は私には見出せません。

医師は医師の本分として、CP児のために遡及措置の全面施行を強く要求し、この制度が他の障害者に拡大を行なうのなら同様の遡及措置を行う事もまた要求しなければなりません。遡及措置を医師が大きな声を上げて要求する事が医師と患者の関係修復の小さな一歩になると信じます。