余波というより津波

奈良事件は福島事件と並ぶ大事件であると感じています。他にも堀病院事件からの助産師問題や川崎こんにゃくゼリー訴訟もありますが、今年の医療界の大事件としては双璧だと思います。福島事件以来、医療問題を追っかけている者にとっては出来る限り書いておきたい重大事件です。同じテーマが長く続いていますが、あくまでもこれはブログですから、私の興味が一番向くものを追いかけさせて頂きます。

これだけの大事件ですから、当然影響は出て来ます。現時点で分かっている大きな影響を2点書きたいと思います。まず1点目は奈良県の動きです。事件後、あれだけ周産期の救急体制の不備を叩かれれば反応せざるを得ません。いつもながら問題を指摘された段階ではなく、問題が顕在化し事件となるまで動かないのがもどかしいですが、動かないよりずっとマシとは言えます。詳細はいつも引用させて頂いているある産婦人科医のひとりごとを参照してもらえればと思います。

具体的には奈良医大のMFICUを3床から6床に拡張し総合周産期母子医療センターとして格上げするもののようです。もちろん整備する方針に異論はありませんが、箱を作っても人がいないと意味がありません。産科医不足は既に全国的な問題です。尾鷲の問題を持ち出すまでも無く、奪い合いの様相も出てきています。どこから捻出するかと思えば、奈良医大の派遣病院を撤収して捻出するプランのようです。

それぐらいしか捻出先はないでしょうが、素直に考えて噴出する問題がすぐに頭に浮かびます。

  1. 産科志望者が減少し、さらに医局入局者が減少する中で、大学がそれでも派遣維持している病院は地域の中核病院として欠かせないところが多くなっています。そこを撤収すると言う事はその地域の分娩施設が消滅する事を意味します。地域上げての反対運動が起こる事も容易に考えられます。地域エゴと言ってしまえばそれまででしょうが、分娩施設の減少ぶりはそういうレベルではありませんから、難しい問題になるような気がします。


  2. 医局の人事権は急速に低下してます。もちろんそうするように皆様が努力した結果です。教授命令とは言え一昔前のように誰もが「ご無理、ごもっとも」と聞く時代ではなくなっています。これは漏れ聞く噂ですが、奈良医大の勤務環境は、給与、職場条件ともお世辞にも良好とは言えないようです。勤務条件が劣悪な職場に教授の鶴の一声でどれだけ集められるかへの疑問です。1.の問題にも結びつきますが、撤収目標にされた病院がそれなりの条件を出して引き止めにかかったら、医局を辞めるデメリットを簡単に越えそうだということです。べつにその病院でなくとも産科医というだけで引く手あまたの状態ですから県の幹部の思惑通り進むかは疑問です。
誤解して欲しくないのですが、奈良県が泥縄であっても周産期医療の整備に乗り出した事を批判しているわけではありません。是非やるべきだと考えています。ただし時期が遅すぎるという事です。遅いという意味はこんな不幸な事件が起こった事と、現在の産科危機の中で産科医を集める難しさからです。せめて数年前ならこのプランは粛々と進んでいたでしょうが、現在では非常に難しくなっているという事です。数年前なら一つの分娩施設を撤収しても影響はさほどでなかったでしょうが、現在では一つ閉鎖すると、周辺の産科施設に直接影響を及ぼし、広範囲のドミノ閉鎖になりかねないからです。

たくさん寄せられたコメントやTB、またリンクされた方の声の中に、奈良在住の方のこんな声がありました。

    「あんな門(平城宮遺跡の朱雀門を指すと思われます)を作るぐらいなら、病院を整備すればよかったのに」
ゴメンナサイ、どこからだったか分からなくなってしまったので、リンク元は今となっては不明ですが、上記のような意味の主張でした。これだけなら恣意的な切り出しになりますが、前段で全国でも総合周産期センターが整備されていない数少ない県の一つであるという話を受けての発言です。



もう一つの問題はいつもコメントを寄せていただく勤務医様からのレポートです。個人的にはこちらの方が遥かに衝撃的な内容です。勤務医様の事を少しだけ紹介しておきますと、数多いコメントを読ませていただく限り間違い無く勤務医です。その発言内容も時に過激になりますが、最前線の現場の状況というか空気を的確にレポートして下さっています。また東京の大学病院の外科に勤務しておられ、それなりの地位におられる事も信用できると考えています。匿名の情報ですからどれだけ信用が置けるかはコメント内容だけになりますが、私は信用します。

コメントを頂いたのは昨夜のことですが、改めて再掲します。

ついに始まりましたよ。
一人で救急指定病院で当直(バイトという立場で)の応援は嫌だとうちの医局の医師たちが拒絶し始めました。だったら医局を辞めるそうです。続出しているようです。入局説明会で実はこういった病院での当直はあるかと研修医の先生方が質問が続出し、紛糾しました。来月からそちらの病院(複数ですが)にお断りせざるをえません。
少なくとも個人病院で救急指定の看板をおろすという話は今月になり増えてきました。それがいいですと新聞を読まない連中以外もう誰も止めません。
転送を断っても警察から事情を聞かれ 書類送検の可能性ありでは仕方ないです。救急センターの集約化といっても都内の大病院の救急センターで小児科や産婦人科の先生たちが加わっているセンターは知りません。もう人を出している余裕もなくなってます。
こういったケースでどういう風に治療すべきか方針を明示できる産科の医師もいないそうです。

考えようによっては今まで噴き出さなかったのが不思議なくらいでしたが、ついに噴き出したという印象です。そうなるとは数多い医者が指摘し、そうならないように早急に手を打たなければならないと力説していた問題です。医療を支えるのは人です。数多くの人が集まって行なうのが医療です。極端な話、一から十まですべて人が加わらないと出来ないのが医療です。

こう言う事は医療に限った問題ではありません。どんな職場であってもそこで働く人間のモチベーションが低下すれば、そこでのいわゆる生産効率は低下します。頭数をそろえただけでは職場は成り立ちません。専門職であればあるほど従事する人間の技術や経験が必要であり、そういう人間が意欲を見出して働ける環境の構築が重要です。こう言う事はどこの職場であっても求められるものと思います。

医療の場合、医師は医師であるというだけで無条件に高邁な使命感を持つことを要求されます。医師であればそれは当然と考え、むしろ誇りにしていました。その使命感と誇りが36時間連続勤務も、週3〜4回に及ぶ当直(実質夜勤)も、無制限に続くオンコール体制も、休日出勤も可能にしたと考えています。一部にはそんな無謀な事を続けてきた事がそもそも間違いだの批判もありますが、そうしないと医療が維持できなかったからです。医師にとって医療を維持する事は何にも変えがたい至上課題であるからです。

厚生労働省が自ら行なった試算でも、現状の医療体制を労働基準法に準拠して整備すれば、今の2倍の医師が必要と言明しています。医師もいきなり職場環境を労働基準法に合致したものにしろとは要求した事はありません。せめてもう少し余力のある体制にしてくれと要求したぐらいです。ところがそれすらも整備されていません。言い方は悪いですが、医師のモチベーションにつけこんで放置したのが実情です。

医者は専門馬鹿の側面があり、医療以外の世事には関心が低い人が多いものです。それでもネット時代の到来と共に医療を取り巻く環境、自らの労働環境の劣悪さを知るようになります。とくに医療訴訟などの医療を取り巻く環境の厳しさには関心を寄せざるを得なくなっています。旧来のように医者の使命感、誇りに従っているだけでは、いつ何時思いもよらない訴訟地獄に巻き込まれるか判らないことも知りました。

そういう医師の感情の変化が何をもたらすかは誰でも予想がつくものです。そうならないように対策を行なう時間はあったはずですし、その危険性を憂慮する声も医療界ではずっと上がっていました。結局その悲鳴は誰も聞いてくれなかったとしか言い様がありません。

コメントして頂いた話の怖さを敢えてピックアップしておきたいと思います。

  1. 東京の大学病院で起こった事。
  2. 研修医だけではなく、現役の医師にもその声が広がっている事。
  3. ほとんど誰もその要求に対する説得に有効な手段を持たない事。
この事が勤務医様の大学だけの特殊事情なのか、それとも他の大学にも火の手が広がっているのかはわかりませんが、私は特殊事情と思えません。

奈良県が総合周産期センター建設に踏み切ったのは奈良事件の余波です。一方で勤務医様の大学で起こった事は余波というより津波です。悲しいのは今回でも外部に見えるのは余波のほうであり、より医療界に深刻な影響を及ぼす津波の方は見えないだろう事です。ついに大崩壊へのテンカウントが始まったように感じます。