続々医療事故究明機関設置構想

昨日は医療側がこの機関に求める理念として、

    審査結果は今後の医療に直接フィードバックされる医学的整合性を持つものでなければならない。
としました。次に求めるものは審査結果の透明性というか、いかにオープンなものにするかが重要だと考えます。密室で審議し、当事者にのみ審査結果を伝える様なものであってはならないと考えます。密室で審議する部分はある程度しかたがないにしろ、審査結果の詳細は広く公開されなければならないと考えます。中途半端な情報公開であるなら、またぞろマスコミが「シロかクロか」のみに焦点を合わせてプロパガンダするのは必至であり、この機関の理念がどうであれプレ裁判所にさせられてしまう懸念が強いからです。マスコミにとってこういう機関の理解は、シロクロ判定機関以上のものを求めても無理であり、またそれ以上のもののとして理解しようともしないからです。

先ほど密室審議はある程度しかたが無いと書きましたが、審議段階から医者も含めて多くの部外者が口を出すのは、混乱のタネにしかならないと考えるからです。たとえばBBS形式で意見募集などをすれば大炎上してしまい収拾が付かなくなるんじゃないでしょうか。それゆえに審査結果は選ばれた委員が責任を持って出すべきだと考えますし、結果を出すまでは部外者は介入しない方がベターかと考えます。

昨日のエントリーで審査の過程は司法的慣習でなく医学的慣習に基づくべきとし、さらに審査結果も司法的整合性よりも医学的整合性を優先すべしとしましたが、審査結果についても医学的慣習に基づいて扱われるべきだと考えます。つまり審査結果を出すのは選ばれた委員であるにしろ、その審査結果は司法判断のように神聖不可侵ではなく、第3者による自由な批評を許されるべきだと考えています。

こういうものに選ばれる医者側の委員の顔ぶれはおおよそ想像がつきます。もちろんその中にも高い見識を持つ高潔なメンバーは含まれるでしょうが、逆に机上の空論を振り回すトンデモもまた少なからず含まれます。医学で難しいのはこのトンデモが振り回す理論でさえ、ある一定の正当性があると言う事です。「理屈や理論は間違っていないが、出来るものならやってみろ」的な理論と御理解いただければと幸いです。ところが医者なら誰しも冷笑するトンデモ理論は非医療関係者には受けが良いと言う現実があります。

非医療関係者の心情は理解できなくもありません。こういうところに選ばれる委員ですから、トンデモとは言え立派な肩書きを持っています。さらに理論の是非とかトンデモ性について判断する知識もありません。ある原因の究明でトンデモ委員が「こんなものは救えて当たり前だ、○○治療をすれば良かっただけじゃないか」と主張し、他の医師の委員が「そんなものは現実的に出来るものじゃない」と論争になった時、その医学的是非は非医療関係者には皆目検討が付かないと言っても過言ではありません。非医療関係者だけではなく医師であっても専門が違うと分からない事があります。

審査委員のメンバー構成はまだまだ未定のようですが、全員が医師と言う事は可能性として低く、非医療関係者も含まれると考えます。非医療関係者が意見の是非を判断する目安は発言者の肩書きになる事は容易に予想されます。非医療関係者には医学的論議に参加するだけの知識はありませんから、最終判断は非医療関係者でも判断できる肩書きになってしまうと言う怖ろしい現実です。

なんと言っても密室ですから会議の流れはどう転ぶか分からず、出された結果がトンデモ理論に基づいたものになっている可能性が十分ありえます。だからこそ事後検証は必須だと考えます。出来るだけ幅広く意見を求め、その審査結果が現実の医療と乖離していないかを検証するべきだと考えています。またそういう再検証があると言う事が、トンデモ理論の横行の抑止力になると考えます。

再検証時には出来るだけ幅広く意見を募るためにネットの活用が相応しいと考えます。多忙な前線の臨床医がノンビリ会議に付き合っている時間がないからです。ネットであれば空き時間を利用して多くの参加者が出ることが期待できます。

こんな込み入った再検証システムが必要なのは昨日定義した理念に基づいてのものです。審査結果が現場の医療に直接フィードバックされなければならないからです。審査結果は当該事件のシロクロだけに用いるのではなく、今後の医療にどう反映させていくかを重視して為されるべきだと考えます。当該事件に限局してのシロクロ判断に重点が傾けば、審査内容や結果の医療へのフィードバックは軽視され、ひたすらシロかクロかの結果だけで大騒ぎするものになり、クロとされた側がひたすら不信感の塊になる事が予想されるからです。

もちろんどうやったってシロクロ結果が最重視する傾向に陥ることは予想されますが、一番基本のスタンスだけはしっかり固めておかなければならないと考えます。