次回作の紹介

 紹介文としては、

 薄幸の少女ヒロコが高校で巡り合ったのが競技カルタ。弱小部であったが故に入部するやすぐに団体戦に駆り出されるも一枚も取れずに惨敗します。


 そんな弱小競技カルタ部に新顧問が就任します。顧問はカルタのイロハからヒロコたちに教え、3年の全国大会県予選に挑みます。最後の全国切符を争う一戦はヒロコを除いて2勝2敗。ヒロコは渾身の囲い手破りで逆転を狙ったものの無念のお手付きで敗退します。


 大学に進学したヒロコは県予選で戦った早瀬や片岡に誘われて大学カルタ会に入ります。ここも潰れかけで、会員は三年の梅園と二年の雛野の二人だけ。ヒロコたちが入ってようやく団体戦が出場できるようになったと喜ばれるぐらいです。


 このカルタ会は梅園が入会した頃は20人を超える会員がいたのですが、内紛のために梅園1人になり、翌年に入会した雛野と二人で守ってきたのです。梅園のカルタへの熱い思いを知ったヒロコは、必ずこの5人で復活させると誓います。


 カルタにかけた青春、そこに生まれる恋、その恋の行方はどうなるか。

 映画ちはやふるに触発されたもので、ヒロインがカルタに出会い、成長する物語を書いてみようと意気込んだ作品です。ただ意気込み過ぎて、私にしたら異例の期間がかかり、延々5か月もかかっています。期間が長いだけに作品も長くなり、これまでの作品の2倍になっています。

 とにかく苦労したのはカルタです。あまりにもカルタの知識が無さ過ぎたのです。だったら手を出すなと言われそうですが、手を出してしまったものは仕方ありません。カルタのルール、戦略、戦術など泥縄式に毎度のように覚えて行ったぐらいです。

 カルタは畳の上の格闘技と呼ばれるぐらい激しさを持つ競技ですが、同時に高度の戦略性が求められるゲームであるのを学習したのが収穫でしょうか。この部分は助かったところで、試合の駆け引きだとか、勝負どころの戦術に使えたので助かりました。もっとも理解するのに一苦労どころでなかったですけどね。

 それとカルタの段位制とか、級分け、それに伴う昇段システムとか、カルタ大会の概要とかも、なんとか理解出来ました。そっちを調べるのが、とにかく大変で、今回は珍しく近江神宮及びカルタの聖地とされる近江勧学館まで現地取材に行ってきました。

 とにかく力を入れ過ぎて、この作品が書きあがってから1ヶ月半ぐらいは、次の作品が書く気が起こらず、もう次が書けないのじゃないかと思ったほどです。ではお楽しみ下さい。

20201207152021

コロナは続くよどこまでも・・・

 コロナも1年越えましたが出口の見えにくい状況は続いています。年初はワクチンの期待が膨らみましたが、接種体制よりワクチン不足が応えているで良いでしょう。ファイザーだって、モデルナだってアメリカ優先になるでしょうし、アストラゼネカだってまず英国優先、次は欧州でしょうしね。

 これだけ世界中で一斉にウルトラ巨大需要が湧きおこったら、日本向けが遅れがちになっていまうのはやむを得ないでしょう。だって逆の立場で、国内向けの接種を遅らせてまで輸出したら、国民の怒りが爆発しますからね。

 昨年末からの緊急事態の再宣言はタイミングの問題はさておき必要だったと見ています。で、それなりに感染者数が減って解除されました。解除時期の是非も置いておきます。

 一番の問題は宣言が解除されれば、どうしたって人出は増えます。緊急事態だから自粛していた分が増えるのは当然ですし、増えなかったり、逆に減ったりすれば、そっちの方が仰天します。

 するとコロナはまた増加しています。マスコミあたりは、人出が増えた事と感染者数の増大の関係を嬉しそうに報道してますが、問題のキモは違うと考えています。キモは、

    この程度の人出の増加でもコロナは増える
 これじゃないでしょうか。現在行われている感染対策はコロナだけでなく他の感染症患者の数を劇的に減らしています。小児科開業医なんか子どもの感染症がお仕事の殆どですが、この1年の感染症患者の減り方はまさに驚異的です。もちろん成人もです。インフルエンザなんかこの冬はここまで1人も見ていないぐらいです。

 ここまで効果的な感染対策を行われてもコロナは抑えきれていません。抑えようと思えば緊急事態宣言で、さらなる自粛をプラスしないと無理だと言うことが判明したんではないかと考えています。

 とは言うものの、これだけの長期戦ですから正直なところ辛くなっています。そんな状況の中で具体策が求められる為政者は大変だと同情しています。

 あえて一つだけ提言すれば、人出の増加を誘発するような政策はやめた方が良いとは思います。でも五輪は絶対のようで、聖火リレーは始まってしまいました。別に聖火リレーを行わなくとも五輪は開催できるはずですが、やめると補償問題が発生するのでしょうね。

 そう言えばGoTo再開も常に政治課題のようです。さらに言えば総選挙も年内だったはずです。うちの県知事選もあります。手詰まり感をヒシヒシと感じています。

野村監督追悼試合

 3/29付読売新聞より、

現役から監督時代にかけての映像や、「野球は頭でするもの」「俺の野球人生最大の失敗は阪神の監督を引き受けたことだ」といった「名言」も大型スクリーンに流された。

 野村氏は選手時代は球史に燦然と輝く大打者であり、監督になられてからも南海で1回、ヤクルトで4回の優勝を飾った名監督です。こんな事は説明するまでもありません。

 そんな野村氏の阪神監督時代は野村氏にとって黒歴史と感じられたのはあると思います。どこの球団の監督であっても成績不振はファンの不満を呼びます。とくに阪神監督は風当たりが強いとはされますが、言い方は悪いですが、これはプロ野球の常識であり、それを知っての上で監督を引き受けられたはずです。結果は、

年度 試合数 勝率 ゲーム差 順位
1999 135 55 80 0 .407 26.0 6位
2000 136 57 78 1 .402 21.0 6位
2001 140 57 80 3 .416 20.5 6位
 もちろん補強であるとか、球団からのバックアップとか、野村氏の思う通りにならない部分は多々あったと想像されます。ですがプロ野球監督の評価は残酷ですが結果がすべてです。3年連続最下位の成績の監督が解雇されるのは当然かと思います。

 この試合は野村氏追悼試合として行われ、選手、監督、コーチは野村氏の功績に敬意を表し、対戦相手の阪神もすべて野村氏のヤクルト監督時代の「73」を背負って出場しています。阪神だって野村氏に敬意を表しています。そんな記念試合に、

    俺の野球人生最大の失敗は阪神の監督を引き受けたことだ
 この発言は野村氏が生前に口にされていたのは存じています。正直なところ、そうやろなとは思ってはいます。生前に野村氏が口にされても、阪神ファンとしてもお気の毒だったと思ってはいます。ですがTPOってあるじゃないですか。

 少なくとも対戦相手が阪神の時は控えるべきかと存じます。読売は「名言」としていますし、私だって野村語録の一つと認識していますが、追悼試合に協力している阪神に失礼すぎると感じます。

 野村氏は偉大な野球人ではありますが、聖人君子ではありません。人としては負の部分があるのは知られています。たとえば南海球団との確執です。ですが、そういう事への言及は追悼試合で控えるではありませんか。もう少し言えば、野村氏を語る番組であえて出さないぐらいの配慮をしますし、野球ファンとしてもそれで良いと思っています。

 ヤクルト広報部がどういう意図をもたれて出されたか知る由もありませんが、阪神の感情を逆なでした結果をもたらした気がしています。

競技カルタの段持ち

 次回作は競技カルタを扱ったのですが、持っていた知識が映画のちはやふる程度だったので大変でした。色々おもしろかったのですが、競技カルタも日本の競技らしく段級制があります。ですが他の武道とか、書道とか、囲碁や将棋、算盤とかとは、かなり趣が違うのをちょっと紹介しておきます。

 習い事の段級は通常の場合、級位の上に段位があります。パターンとして、十級から始まって一級になり、その上に段があるぐらいです。級の数とか、呼び名とかは差があるにしろ、級位を極めて段位になり、段を持っていればかなりの腕前ぐらいのイメージでしょうか。

 しかし競技カルタでは他の習いごとにある級位がありません。ですが級はあります。競技カルタの級とは戦えるグループ分けになります。近いものなら将棋の順位戦をイメージすれば良いかと思います。具体的には、

    E級無段 → D級初段 → C級二段 → B級三段 → A級四段以上
 ちなみに八段まで昇段規定があり、九段と十段もありますが、これは功労賞みたいな位置づけになっています。競技カルタにも名人やクイーンのようなタイトルもありますが、これに参加できるのはA級になります。ですから競技カルタで一人前とはA級四段になったぐらいかもしれません。

 それとこれも競技カルタ独特の気がしますが、個人種目はトーナメントです。決勝まで進んだ者が優勝、準優勝となるのはどこでも同じですが、準決勝進出者は三位決定戦を行いませんから三位です。ここまではどこも同じですが、準々決勝進出者を四位にするのです。

 もっと興味深かったのは昇段規定です。公認大会の成績で昇段が決められるのですが、級によってトーナメントの規模が変わります。

    E級:16人
    D級:32人
    C級:64人
    B級:64人
    A級:128人
 こうなっています。たとえば大会にE級の参加者が32人いれば、E1、E2とトーナメントは分けられます。それぞれのトーナメントで優勝すればE級優勝になり、一つの大会に複数のE級優勝者が生まれる事になります。

 それでもって、昇段基準がB級までは三位入賞になっています。そうE級ならトーナメントを2回勝てばD級初段に昇段です。

 E級無段は平たく言えば誰でも参加できます。かなり強い人もいるでしょうが、弱い人もいるわけで、クジ運が良ければ初段昇進のハードルはそんなに高そうな感触はなさそうでした。もちろんカルタをやったことはありませんから、規定上の印象です。

 これはD級初段から、C級二段でも3回勝てば昇段できますから、ここまでの昇段は他の習いごとに較べてかなり甘い気がします。ですがB級になると難度が上がりそうです。E級とD級で絞ったメンバーで4回勝つ必要があるからです。

 これがA級四段に昇段となると、

  • B級優勝
  • B級準優勝2回
 将棋で例えると奨励会から四段に昇進するぐらいのイメージを持ちました。そのせいかもしれませんが、映画ちはやふるでも段の話はあまり出てこなかった気がします。これはE級からB級は段と級が一致しており、カルタ競技者では実力を段より級で表現する慣例があるのではないかと見ております。

 これがA級五段への昇段基準になると、

  • A級優勝1回
  • A級3位入賞3回
  • A級得点8点
  • A級勝数20勝
 昇段するには公認大会に参加する必要があるのですが、A級大会となると四段以上がすべて参加して来ます。可能性で言えば名人とかクイーン、準名人、準クイーン、さらに元名人・・・五段以上の実力者が参加して来ます。

 これは競技カルタのタイトル戦参加資格の問題が絡んできます。ごくシンプルにはA級大会の成績上位者にタイトル戦参加資格が与えられるからです。それがA級得点になり、このシステムの説明は省略しますが、要するに1回戦に途轍もない強豪と対戦する可能性もあるのがA級大会になります。

 六段になると準名人、準クイーン、七段は名人、クイーン、八段は名人・クイーンを2期になります。他にも昇段基準がありますが、とにかく四段以降の昇段基準はシビアで、まさに段違いの実力差があると思えば良いはずです。

 こういう競技カルタの段位による強さ感覚を理解するのに、少々時間がかかった次第です。

バリ伝のラルフ

 バリ伝はバイク漫画の金字塔の一つですが、便利になったもので当時の作品の背景をある程度調べられます。連載時は余程のバイク好きで、バイク雑誌を読み漁るレベルじゃないと知りえなかったと思っています。私もそこまでのバイク・フリークじゃなかったですし。

 WGP編でグンがフレディ・スペンサーになぞられ、ラルフがケニー・ロバーツになぞられてるのは有名ですが、登場するライダーやマシンは、1987年をモチーフにしています。グンの方は完全にオリジナルで良いと思いますがラルフはどうなんだです。

 WGP編の渋い脇役の一人がケニー・ロバーツです。ラルフの所属するラッキーストライク・ヤマハの総監督です。実際にそうだっかですが、やはりそうでした。ランディ・マモラもラッキーストライク・ヤマハに所属していますし1986年に3位、1987年に2位の成績を収めています。ですからラルフのミスのために大怪我を負うのは創作です。

 ではランディがラルフのモデルかと言えば違和感が残ります。ラルフはWGPに途中参戦の新人です。これに対しランディは1979年からWGPに参戦している一流ライダーです。

 ではラルフもまったくの創作かと言えば、違う感じがします。ケニーは1985年にマールボロ・ヤマハでウェイン・レーニーとアラン・カーターで250ccで参戦しています。ウェイン・レーニーも1990年からWGP500で三連覇した名ライダーですが、1985年からはAMAスーパーバイクに参戦、WGP500に戻って来るは1988年です。

 微妙なタイミングですが、連載時の設定ではウェインはモデルにされていなかったと考えます。ウェインのレース・スタイルはレイニー・パターンと呼ばれる先行ぶっちぎりスタイルですが、反面としてドッグ・ファイトではライバルのケビン・シュワンツに譲るところがあります。

 バリ伝の連載は1991年まで続きますから、作者もウェインやケビンのレースを参考にした部分もあるはずですが、ラルフがウェインをモチーフにしているかと言えば違う気がします。

 注目したいのはマイク・ボールドウィンです。マイクはAMAスーパーバイクで4回優勝、鈴鹿八耐でも3回優勝していますが、WGPへの参加は1986年からで、所属はケニー率いるラッキーストライク・ヤマハです。これってラルフがアメリカで大活躍していて、ケニーに呼ばれてWGPに参加したエピソードに似ている気がします。

 ここももう少し調べるとマイクは1971年と1975年にスズキから、1985年にHRCホンダからWGP500に出場し、とくに1985年には11位に入っています。しかしwikipediaには、

世界グランプリにはケニー・ロバーツ率いるヤマハのチームから参戦し、1986年には500ccクラスでランキング4位の成績を挙げた

 こうなっています。1985年以前はどうもスポット参戦だったようです。もう一つ興味深いのは1986年の鈴鹿八耐にケニーと組んで、チームラッキーストライクで参戦していることです。それと1986年にマイクを選んだ理由についてケニーはwikipediaより、

マイクを選んだことに関して、周囲の人々は不思議がった。ケニーによる人選の基準は、ライダーがレースに臨む姿勢である。ケニーが必要としているライダーとは、常に今よりも速く走れるライダーになりたいという向上心のあるライダーである。マイクはそのようなライダーであった

 なんとなく、この辺りからラルフをケニー門下の俊英として描いた気がしています。登場人物の設定は1987年ですが、作者は1986年ぐらいからグンのライバルの設定を構想していたはずで、マイクにケニーを重ね合わせてラルフ像を作り上げて行った気がします。

 このマイクですが1986年の活躍の評価は高かったようで、wikipediaより、

そのまま最も成功するアメリカ人レーサーの一人になるかと思われた

 作者もその評価を耳にしていた可能性はあります。しかし1987年のWGP開幕戦の鈴鹿で転倒リタイヤ。続くスペインでもリタイヤ。この時の怪我は大きかったようで、その後は目立った活躍もなくレースを去っています。

 これは穿ち過ぎかもしれませんが、マイクの転倒をバリ伝のランディの転倒に重ね合わせたのかもしれません。おそらく連載当時のバイク好きならラルフが誰をモチーフにしていたかは、すぐにわかったのかもしれませんが、あれから30年、ググってもわかりませんでした。

 バリ伝のラストはグンがWGP王者になって終わりましたが、フレディの影を背負ったグンに、それから王者の活躍が約束されているかと言われれば影を感じた人もいたのではないでしょうか。

 ラルフもこれから好敵手として翌年以降も立ち塞がる見方も出来ますが、フレディ vs ケニーは1983年でケニーは引退していますし、ラルフのモチーフがマイクなら、これもすぐに消えて行った事になります。作中でHRC監督の梅田は「天才の輝きは短い」と言っていましたが、これはグンだけでなくラルフにも言っていた気がしています。