カーフェリー

 カーフェリーもかつては身近なものでした。明石大橋が出来るまでは淡路まではカーフェリーでしたからね。淡路と本州を結ぶ航路もたくさんあって、私が乗った事があるものなら、明石からの国道フェリー、須磨からのもの、西宮から出る甲子園フェリー、さらに深日から出る大阪湾フェリーもありました。

 橋が出来て当然のように無くなって行き、今も残っているのは明石からのジェノバ・ラインのみです。よく生き残ってると思いますが、原付で淡路島ツーリングをしようと思えば、唯一の航路になります。

 原付目線で見ると四国に行くのも簡単じゃなく、ジェノバ・ラインで淡路島に渡っても鳴門海峡を渡れるフェリーが絶滅しています。陸路だけで四国に渡れるのは、本四架橋のうちで、しまなみ海道のみです。が、しまなみ海道を走ろうと思えば、尾道まで高速利用無しで到着する必要があります。

 だったらフェリーになりますが、まずは高松に行けるジャンボ・フェリーがあります。小豆島はその点は便利で、神戸からも、姫路からも、岡山からも、高松からもフェリーがあります。ですから小豆島から高松のコースも組めます。

 他はオレンジフェリー。これは大阪南港と新居浜、東予を結ぶものです。しまなみ海道を走りたいのなら東予行きが思い浮かびます。ただし、しまなみ海道を往復にしないと尾道からの下道地獄が待っています。

 後は和歌山まで行けば南海フェリーで徳島に行けます。徳島には東京からのフェリーも到着しますが、原付で徳島に行くのは一苦労ってところです。

 ある若い女性モト・ブロガーが東京から徳島にフェリーでツーリングに来ていましたが、その若さに驚かされました。スーパーカブで徳島から室戸岬を回って高知で宿泊。翌日は四国カルストから、西予市から八幡浜市を抜けて海岸線を北上。おそらく道後あたりに宿泊。

 翌日はしまなみ海道を走り、岡山の直島泊。そこからがさらに若さの爆発で京都泊、その次は驚きの高山泊で、翌日には東京に帰っています。あれ見てると行けそうな気だけはしましたが・・・無理ですね。三十年若ければ行けたかも。。。

斉明天皇を湯之谷温泉に入れる

 石鎚山の麓に湯之谷温泉と言うのがあり、ここにかつて斉明天皇が入浴した伝説が残されています。ホンマかいなってところですが、それのちょっとしたムックです。

 愛媛と言えば道後温泉ですが、ここには天皇クラスの入浴記録が伊予国風土記逸文に、

  • 景行天皇とその皇后
  • 仲哀天皇と神功皇后
  • 聖徳太子
  • 舒明天皇と皇后
  • 斉明天皇と皇子
 このうち日本書紀にもあるのが、舒明天皇と斉明天皇です。書紀を信じれば斉明は2回行ったことになります。ただ舒明が行ったのは、

十二月己巳朔壬午、幸于伊豫温湯宮

 これはユリウス暦の1月に伊予の温温宮に行ったとなっており、

夏四月丁卯朔壬午、天皇至自伊豫

 これはユリウス暦の五月に帰って来たとなっています。五月に帰って来るのはともかく、ホンマに1月に大和から伊予に旅行した、それも斉明と一緒にと思わないでもありませんが、書紀にはそうなっています。温泉ツアーで虚偽の記録を書いても仕方ありませんから信じることにします。

 斉明が二度目の伊予に行ったのは温泉ツアーのためではありません。百済が新羅に滅ぼされたために、百済復興のための遠征軍を送るためです。斉明は九州の朝倉宮に大本営を移すために瀬戸内海を西に進むことになります。この百済遠征の結果が白村江になります。

 西に進む斉明ですが、

御船西征始就于海路。甲辰、御船到于大伯海

 まず海路で大伯海に到着したとなっています。これは現在の岡山県邑久郡と言いたいところですが、平成の大合併で消滅しています。現在なら牛窓のあたりぐらいで良さそうです。言うまでもないですが、難波津から牛窓まで一気に来れるとは思えません。ここではイベントがあり、

大田姫皇女産女焉、仍名是女曰大伯皇女

 大田皇女がここで大伯皇女を産んだから記録に残されたで良さそうです。しっかし、出産を控えた皇女も連れて行ってるんですね。次が、

御船泊于伊豫熟田津石湯行宮

 伊予の熟田津に船を停泊させ石湯行宮に行ったとなっています。熟田津比定もいくつか説があるようですが、石湯行宮は道後温泉とするのが定説です。斉明も温泉ツアーに来たのではなく、戦争に来ているのですから、伊予からの軍事支援の要請のためとする説もありました。伊予の石湯行宮から斉明は、

御船還至于娜大津

 娜大津は博多なのですが、問題の部分は、

    還至
 これは「還し至る」ぐらいに読み下すのでしょうが、通説では元の航路に戻したと解釈するようです。そうなれば、斉明の伊予訪問は予定外の行動であったとも解釈は可能です。

 ここなんですが大伯海から熟田津に直航したと思いにくいところがあります。斉明が大伯海から西に進むにしろ、山陽沿岸を選ぶはずです。そうなると、どこかでしまなみ海道を通り抜ける必要があります。どこを斉明が通ったかですが、大山祇神社に斉明が献上した禽獣蒲萄鏡が国宝として残されています。

 これは素直に大三島に停泊し必勝祈願を行ったと考えたいところです。そこから道後温泉に寄り道したから「還至」と解釈出来ない事もありませんが、斉明が軍事支援の要請のためにわざわざ伊予に立ち寄るかです。

 伊予は天皇が温泉ツアーを行うほど大和王権に親しい国です。だから、それ以外の目的で伊予に立ち寄った可能性もあるのじゃないかと考えます。当時の軍事行動で重視されるのは兵士の動員や武器兵糧の調達はもちろんですが、神の加護がそれと等しいぐらい重要とされたはずです。

 大山祇神社は越智氏が創建したとされ、越智氏は今治の小市国造の同族です。さらに斉明は舒明と伊予の温泉ツアーをやっています。ですから石鎚山に必勝祈願のために立ち寄った可能性もゼロとは言えないと考えます。

 さて斉明が入浴した石湯ですが、石から割れ出るように温泉がわき出していたとも、岩風呂みたいになっていたとも解釈できますが、湯之谷温泉は冷泉なのです。冷泉であっても泉は神聖視されていましたから、その泉に斉明は入浴したのではないかと考えます。

 冷泉を温めるのに、手っ取り早い方法は焼いた石を放り込む事です。だから石湯だったと。細かい事を言えば舒明が入浴したのは温湯宮であり、斉明が入浴したのは石湯行宮です。この違いは、

    宮・・・・・常設
    行宮・・・仮設
 これぐらいの差があります。斉明は石鎚山に必勝祈願をするにあたり霊泉で身を清めたが、水が冷たかったら石焼風呂にして入浴したぐらいです。

 無理がテンコモリですが、斉明を湯之谷温泉に放り込めたので個人的に満足しています。

ナビの限界

 旅もの小説のちょっとした苦労話です。バイクそれも原付2種で西に走る設定を考えていました。ナビと言う便利なツールがあるので出発地点と到着地点を入れればポンのはずでした。ところがギッチョン、一筋縄にはいかないのに苦労させられました。

 中型バイク以上なら話は簡単です。そうですね、阪神高速から第二神明、加古川バイパス、姫路バイパスから山陽道もありますし、新神戸トンネルを抜けて三木東ICから山陽道もあります。つうか、この二択ぐらいじゃないかと思います。

 ですが原付は高速を走れません。ならばとナビ条件を高速・有料道路不可にしてみます。ですが、それでもダメなのです。有料道路不可でもナビは加古川バイパスに誘導します。理由は無料開放になっているからです。

 原付は有料であろうが無料であろうが、高規格の自動車専用道路は走れないのです。ならばと自転車設定にしたら設定不能になり、徒歩設定も正直なところ、それはちょっとでした。

 うまりって程ではありませんが、ナビには原付が走れない道路を識別する能力がないのです。これは困ったとなり、ググってみると、そういう体験をした人のブログがありました。

 ナビに頼ると原付が走れない道に誘導するので役に立たなかった経験談です。その人も苦労して走り抜けたようですが、加古川、姫路あたりははそういうところのようです。

 まあ有料道路を原付が走れる否かは日常的な問題です。入り口までたどり着いて「やられた」の経験ぐらいは私でもあります。事前にしっかり調べておかないと、料金所まで来て立ち往生になりかねませんから、ご注意ください。

ロータリー・エンジン

 ちょっと都合で調べたのですが、思い起こすとエンジンの構造とかを勉強したのは中学の技術以来で、理解するのに一苦労させられました。まず内燃機関はオットーサイクルで働くのですが、これは辛うじて覚えていました。

    吸気 → 圧縮 → 膨張 → 排気

 4サイクルエンジンがわかりやすくて、

  1. ピストンが下がると混合気が送り込まれる
  2. ピストンが上がってくることで圧縮される
  3. ピストンが上がりきったところで膨張(爆発)
  4. 膨張によりピストンが下がり、次にピストンが上がる時に排気

 大昔に試験に出た気がします。ロータリーは繭型のハウジングの中をおむすび型のローターが回転する形式ですが、ローターが三角形なので3か所の燃焼室が出来ます。これがクルクル回るのですが、

  1. まず吸気が行われる、
  2. 次に回ったところで圧縮が行われる
  3. そこで点火され膨張が起こる
  4. 排気が行われる
 ローターが1周するうちにオットーサイクルが終了するのがロータリーになります。これが3つの燃焼室で同時進行で行われるので、最初の燃焼室では吸気が、次の燃焼室では圧縮が、さらに次の燃焼室では膨張が行われている事になります。

 ここまでなんとか理解するのも一苦労だったのですが、エンジンの回転数の話が出てきます。レシプロエンジンはピストンによる上下運動を回転運動に変える必要があるのでクランクシャフトを回します。4サイクルエンジンならピストン2往復、つまりクランクシャフト2回転に1回で爆発が起こります。

 ロータリーエンジンでは、ローターが1回転する間に3回の爆発が起こりますが、この間にレシプロではクランクシャフトに該当するエキセントリックシャフトが3回転します。つまりエキセントリックシャフト1回転につき1回の爆発が起こります。

 この事により理論値では4サイクルエンジンにくらべ2倍の出力を得られるとなっています。他にもテンコモリあれこれ説明があったのですが、細かい技術的な説明はお手上げでサジを投げています。


 ロータリーの出力は同じ排気量なら理論値で2倍ですが、実際のところは1.5倍程度になるようでレシプロとの排気量換算でロータリー係数として1.5が掛けられます。たとえば1000CCのロータリーならレシプロで1500ccと同じとするものです。どうしてそんな換算をする必要があるのかのはっきりした根拠が見つからなかったのですが、

    ロータリーエンジンは、おなじ排気量のレシプロエンジンより高出力で燃費が悪い傾向があるため、実際の排気量で分類するとレシプロエンジンと不公平が生じる。
 おおよそこんな理由になっているようでした。わかったような、わからないような理由ですが、レースならまだしも理解可能です。レースはカテゴリーがあり、参加車の条件を公平にする必要が生じます。F1ぐらいがわかりやすいですが、かつてターボ全盛時代がありました。

 今はなくなったのはレースではターボ係数が存在し、これが実に1.7だそうです。ここまでの係数が掛けられるとNAに太刀打ちできなくなったぐらいの理解で良いと思います。

 ですが、ここで違和感を感じてしまった次第です。エンジン出力を上げるためにターボは今も頻用されます。日本では少ないですがスーパーチャージャーもあります。市販車をターボで出力アップを行っても排気量の扱いは同じです。エンジン回転数あたりの爆発で比べるにしても、これも今は少なくなりましたが2サイクルエンジンなら、1回転につき1回の爆発になります。

 最近のターボは昔のターボに較べて燃費は各段に良くなっているそうですが、かつてのターボ車は出力アップの引き換えとして燃費は良くないものでした。2サイクルエンジンも然りです。

 どうしてロータリーだけここまでの冷遇を受けたのだろです。ロータリーエンジンにも様々な欠点がありますが、本来はかつてのターボ車のような魅力をもつはずだったものの気がします。

 ここも今のエンジンは高出力から、燃費重視まで様々なエンジンが存在するので話が見えにくくなりますが、かつて、そうですね、私の父親の時代の排気量の認識は、

    排気量が大きい方がパワーが強い
 これは今でも究極では同じのはずです。世にロータリーエンジンが送り出された時はもっとそうだったはずです。つまり1000ccなのに1500ccと同じパワーを持つエンジンです。その代わり1500ccより燃費は落ちるぐらいです。これってターボ車が登場した時のコンセプトと同じとしか思えません。

 ロータリーの欠点は様々にありますが、あれだって改良の余地はあったはずです。つうか、レシプロ並みの開発資金と情熱を傾けていれば変わった可能性は十分にあると思います。

 調べているとエレジーを感じてしまいました。

天照放浪記

 これまでも旅行中に元伊勢とある神社を見かけたことがありますし、そこにかつて天照大神が祀られていた云々の由緒も読んだことがあります。正直なところ「あ、そう」ぐらいの感想しかなかったのですが、必要があって少し調べてみました。

 天照はシンプルに高天原の最高神と解釈して良いはずですが、これまた当然のように古代は宮中に祀られています。それがそうでなくなったのも日本書紀にあり、

天照大神・倭大國魂二神、並祭於天皇大殿之内。然畏其神勢、共住不安。故、以天照大神、託豊鍬入姫命、祭於倭笠縫邑

 読み下すのが大儀なので大意にしますが、天照大神と倭大國魂は天皇の御殿に並べて祀られていました。しかしその神の勢いは強く、一緒にいるのが不安になりました。そこで豊鍬入姫命に託して、笠縫邑に祀ることにしました。これが崇神天皇六年の話ですが、天照が結局どうなったかですが、

離天照大神於豊鍬入姫命、託于倭姫命。爰倭姫命、求鎭坐大神之處而詣菟田筱幡筱、更還之入近江國、東廻美濃、到伊勢國。時、天照大神誨倭姫命曰「是神風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也、傍國可怜國也。欲居是國」故、隨大神教、其祠立於伊勢國

 豊鍬入姫命から天照大神は離れたので倭姫命に託した。倭姫命は天照の鎮座する地として菟田の筱幡に詣った。さらに近江、美濃、から伊勢へと巡った時に「ここが気に入った」とした。

 倭姫命が具体的にどう回ったかについては皇太神宮儀式帳にあり、

  1. 美和御諸宮
  2. 宇太乃阿貴宮
  3. 佐々波多宮
  4. 伊賀穴穂宮
  5. 阿閇柘殖宮
  6. 淡海坂田宮
  7. 美濃伊久良賀波乃宮
  8. 桑名野代宮
  9. 鈴鹿小山宮
  10. 壱志藤方片樋宮
  11. 飯野高宮
  12. 多気佐々牟江宮
  13. 玉岐波流礒宮
  14. 宇治家田田上宮
 この次が現伊勢神宮です。なるほど元伊勢が量産されるわけです。ではでは豊鍬入姫命はどうなのかですが、これが調べきれなかったのですが、丹後にある元伊勢籠神社の社伝が興味深く、

神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮の地眞名井原に匏宮(よさのみや)と申して豊受大神をお祀りして来ました。その御縁故によって第十代崇神天皇の御代に天照大神が倭国笠縫邑からお遷りになり、天照大神と豊受大神を吉佐宮(よさのみや)という宮号で四年間ご一緒にお祀り申し上げました。

 これを信じれば豊鍬入姫命は笠縫邑から丹後に来たことになります。この社伝のどこが興味深いかですが、豊受大神の故郷になるからです。豊受大神と言われてもピンと来ない人が多いかもしれませんが、伊勢の外宮の祭神です。ですが私も豊受大神が出てくる神話を存じません。

 天照と並んで祀られるぐらいですから、派手な神話的なエピソードがあっても良さそうなものですが、どうにもなさそうです。ならばどうして豊受大神が伊勢の外宮に祀られたかですがwikipediaより、

伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比治の真奈井(ひじのまない)にいる御饌の神、等由気太神(とゆけおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、外宮に祀るようになったとされている

 これが雄略天皇22年の話となっています。色んな解釈があるようですが、単純に天照と豊受が仲が良かったぐらいでしょうか。仲が良かったからこそ丹後で一緒に暮らした時期もあり、伊勢の外宮に呼び寄せたぐらいです。


丹後国風土記逸文

 豊受大神の由来が丹後国風土記逸文にあります。原文が見つからなかったので久田勘鴎氏のブログより引用します。

丹後国風土記逸文……丹波郡比治の里にある、比治山頂の真奈井という泉に8人の天女が舞い降り、水浴びをします。ここに老夫婦が来て、こっそりと天女一人の上着と裳を隠してしまいます。7人の天女は天上に上がりますが、乙女一人が、体を泉に隠して恥らっていました。天女は老夫婦の子供となって十年余になります。この間、天女は万病に効く酒を造り、財産を蓄積し、老夫婦に与えたため、家は豊かになります。すると、老夫婦は天女に「お前は私の子ではないから出て行け」と言うようになりました。天女は、今更天に帰れないと各地をさまよい、竹野郡船木の里の奈具の村に留まりました(社に鎮座しました)。豊宇加能売命(とようかのめのみこと)のことです。

 いわゆる羽衣伝説の一つですが、残された天女が天に戻れず地に住んだになっているのが特徴でしょうか。ここもぶうっちゃけで強引に考えると豊受大神は丹後の神聖家系の豪族だったんじゃなかろうかです。そこに倭を放り出された豊鍬入姫命が落ち延びて行ったぐらいです。

 落ち延びて行ったのか、預けられたのか、訪ねて行ったのかは不明にしろ、何かを頼って豊鍬入姫命が丹後に行ったのはありえそうです。この縁が巡り巡って豊受が外宮に招かれる結果に結びついたぐらいです。


依代

 さてですが、天照が放浪して各地に元伊勢を残す原因はなんだろうです。それも書紀には書いてあって、

    然畏其神勢
 ほんじゃ、神勢ってなんだです。ここは素直に、御神託じゃないかと思います。そう、卑弥呼の世界です。天照は最高神ですから、天照の信託は政治的にも重要と言うか、それこそ絶対であってもおかしくありません。こういう神託は政治的に操作される事が多いのですが、操作しきれない神託が乱発されてしまったぐらいでしょうか。

 神託をするのは巫女であり、

    天照大神 = 豊鍬入姫命
 こうなっていたぐらいです。邪魔だからと殺せば祟りが怖いので、宮中から離しても、やっぱり信託が行われ困り、どこか気に入って神託を行わなくなる地を探し回ったぐらいの気がします。

 依代である巫女は豊鍬入姫命から倭姫命に変わっても猛威をふるい、倭姫命が依代機能を失う、または亡くなって後継者がいなくなったのが伊勢だったなんて気がしています。