渋茶のアカネ:カツオ先輩

 わけわかんない世界に放り込まれた気分。このアカネが『先生』なんだよ。もっとも照れくさすぎるからオフィスではなるべく呼んでくれないように頼んでるけど、外に出れば、

    『泉先生』

 もっとも、

    『渋茶先生』

 こう呼ぶのもいる。クソ、いつまでも祟るんだから。イイ加減、もっと華麗な呼び名を付けてくれてもいいのに、渋茶がはまりすぎて、誰も付けてくれないじゃないの。仕事もツバサ先生やサトル先生と横並び。事務所にアカネ用のホワイト・ボードが出来てるのを見てビックリしたもの。それでさ、それでさ、

    「これは受けられますかって」

 こうやって確認されるんだよ。依頼料だって桁違いで、アカネがホントにやってもイイんだろうかってのがズラリだもの。選んでるかって、冗談じゃない、どんな仕事だって引き受けてる。あんだけの給料もらってるんだし、歩合だって嬉しいし。ツバサ先生には、

    「よっ、働き者。給料増えたらカネ目当てに寄ってくる男がいるから注意しとけ」

 こうやって冷やかされてる。専属アシスタントも付くようになった。ツバサ先生に、

    「まだアカネにはそこまで・・・」

 そしたらホワイト・ボードを指でさして、

    「あんだけあるから必要」

 とにかくなんでも引き受けてるから、仕事の数だけだったらツバサ先生はともかく、サトル先生に迫る勢い。それもオフィスの生え抜きを回してくれて、

    「そこまでしてもらうのは・・・」
    「アカネに新人のトレーニングはまだ荷が重い」
 たしかに、三年目でいきなりだものね。まだトレーニングされてる方だったし。


 そういや本物のマスコミの取材が来た。ちょうどブレークした時に二度に渡る入院騒ぎや、姉ちゃんの結婚式、ひいばあちゃんの葬式が重なって無かったみたい。インタビューとかされるんだけどツバサ先生なんて、

    「嬉しいだろ、スターになった気分だろ、それ舞い上がれ、ソレソレソレ・・・」

 こういう時ってさぁ、慢心を戒めてお説教の一つでもしそうなもんだけど、

    「そうならないように鍛えといた」

 そうなんだろうか、よくわかんない。そんなオフォスの中でちょっと暗いのがカツオ先輩。サトル先生の弟子で四年目の先輩。暗いというか顔が引きつってる。

    「ツバサ先生、カツオ先輩が近頃変な気が」
    「あん、あれかい。個展の準備だよ」

 ついにカツオ先輩もそこまで来たんだと思ったけど、

    「サトルの温情だ」
    「えっ」

 ツバサ先生はアカネを連れて自分の部屋に、

    「見てみな」

 カツオ先輩の持ち味は透明感とでも言えばイイのかな、

    「これは・・・ちょっとスッキリしすぎてる感じが」
    「言いにくいのはわかるけど、これじゃスッカラカンだ」

 おかしいな、前に見た時は透明感の中にも情感がこもってる気がしたんだけど。ツバサ先生が言う通りスカスカとしか思えないよ。

    「完全に迷路の中に入り込んやがる。それも、もがけば、もがくほど悪くなってる」
    「アドバイスをしてあげれば・・・」
    「それならサトルがやってる。アイツは優しいからな。でもここまで来たら裏目だ」

 ツバサ先生が言うには、カツオ先輩のテクはもう十分だそう。それはアカネにもわかる。最後の課題はそのテクを活かして自分の世界を切り開くこと。そこでカツオ先輩は悶え苦しんでいるらしい。

    「でも、ここをこうやって、ここをこうすれば・・・」
    「アカネ、あんたの指摘は正しい。その通りにやればこの写真は良くなる。でもそれだけだ。プロはいつもそれを当たり前のように撮らなきゃ意味ないんだ。こっちを見てみな」

 あれ、動画だ。これはもしかして、

    「サキの動画だ」

 映研の時のも良く出来てたけど、段違いに上手くなってる。素人くささが無くなったと言えばイイのかな。

    「カツオのレベルになれば、アドバイスは聞くものじゃない、取り入れるものなんだ。サキは専門学校でのアドバイスを取り入れ、自分のテクとして活かしきっている」

 たしかにそんな感じがするけど、

    「根本がしっかりしているかどうかだ」
    「根本ですか?」
    「そうだ、自分がどう撮りたいかの理想としても良い。これが自分の世界でもある。カツオは完全に見失ってるよ」

 厳しいけどツバサ先生の話はよくわかる。写真はどんな完成型を頭に描き、それに少しでも近づく努力の側面もあるもんな。あれ? ほんじゃアカネの完成型ってなんだろ。

    「アカネのは特別だ。アカネには理想も完成型もない、あえて言えばもっと桁違いに高いところにある。こんな奴を初めて見たよ」

 褒められてるのかな。それよりカツオ先輩だけど。

    「個展で自分を見つけることが出来なかったら、カツオは終りだ」

 数日後にカツオ先輩に誘われて串カツ屋に。なんか嫌なシチュエーションで、サキ先輩の時のことがどうしても思い出されるんだけど。

    「アカネ君、君に会えて良かった気がする。サキも言ってたが、本当のナチュラルってこの世にいるんだと思ったもの。フォトグラファーの世界は、アカネ君やサトル先生、ツバサ先生みたいな化物が切磋琢磨するところだって」
    「アカネなんて、まだまだ駆け出しです」
    「そうだよ、アカネ君でようやく駆け出しの世界なのが、はっきりわかった。ボクが限界までの能力を発揮しても、その駆け出しのレベさえ遥かに遠いよ」

 どうしてサキ先輩も、カツオ先輩もあきらめちゃうの。

    「でも個展に成功すれば」
    「もちろん全力を尽くす。ボクの最後のチャレンジだ」
    「カツオ先輩なら必ず成功します」

 どうやって励ましたら、そうだ、

    「カツオ先輩、限界は自分でそう思うから限界になるって誰か言ってました。常に通過点と思えって」
    「その言葉は正しいが間違っている。世の中には、そうである人と、そうでない人の二種類がいる。アカネ君に取ってはそうだろうけどね」

 聞きたくない、聞きたくない、カツオ先輩はオフォスに入ってからどれだけ可愛がってもらったことか。サキ先輩が優しいお姉さんなら、カツオ先輩は信頼できる兄貴みたいなものなのに。

    「ボクには見えた気がする。自分の進む道が」
    「なにが見えたんですか」

 カツオ先輩はビールを味合うように飲み、

    「とにかく個展が終わってからだ」
 カツオ先輩の個展は開かれた。個展の評価方法は聞いたことがある。加納先生の時からの慣習で、弟子を認めれば師匠が受付をやり、認められなければ黙って去っていき、師弟の縁はそれで終りだって。

 アカネも会場に行ったんだけど、いつも温顔のサトル先生の目が怖ろしく厳しかった。サトル先生もあんな目をするんだと初めて知ったぐらい怖かった。サトル先生は写真を見終わると無言で会場から去って行った。思わず呼び止めようとするアカネの手をツバサ先生は握りしめ、

    「追ってはいけない。アカネも写真を見ればわかるだろう。サトルだって辛いんだ。自分の弟子がモノにならなかったのは全部師匠の責任だからな」
 また一人去っていっちゃった。アカネが入門した時には、あんなに上手に写真を撮っているとしか思えなかったサキ先輩や、カツオ先輩でさえフォトグラファーになれなかった。どれだけ厳しい世界に身を置いているか、また思い知らされた気分。

 カツオ先輩の姿は翌日からオフィスから消えた。なんとかしたかったけど、アカネではどうしたら良いかわかんなかった。サトル先生も、ツバサ先生も、スタッフもまるで最初からカツオ先輩がいなかったかのようにしているのが恨めしかった。薄情過ぎるんじゃない。一ヶ月ほどしてから、

    「おはよう」
    「カ、カツオ先輩、戻って来てくれんたんですね」
    「さすがに心の整理に時間がかかってね。サトル先生にお願いしてプロデュースの方で雇ってもらった。ま、しばらくは裏方の何でも屋だ。今日の仕事はアカネ君のアシスタンだ」
    「よろしくお願いします」
    「それはボクのセリフだよ」

渋茶のアカネ:騙されるもんか

 一ヶ月も休むと、

    『久しぶり』

 こういう感じがするもんだね。

    「おはようございます」
    「やっと元気になったねぇ」

 もうコリゴリだ。

    「そうだそうだ、サトル先生が呼んでたよ。出勤してきたらすぐに顔を見せて欲しいだって」
 ヤバイ、お説教かな。そりゃ、これだけ休めば注意の一つぐらいするだろうし。でも、ちょっと待て、ここは普通の会社じゃない。ここはオフィス加納なんだ。タダの注意ですむわけないだろ。絶対に何か企んでいるはず。

 そもそもサトル先生が呼んでるのが怪しい。こういう時はまず直接の師匠であるツバサ先生だろ。そりゃ、サトル先生は社長だから呼ばれても不思議無さそうだけど、わざわざサトル先生がまず呼んでるのを怪しいと考えないといけないんだ。

 サトル先生は悪ふざけに一番加担しなさそうに見えるんだけど、サトル先生が噛んだ時はそれこそオフィス加納を上げての悪だくみになることがあるのは、よ~く知っている。アカネだってダテに三年も働いてるわけじゃないからね。

 とはいえ行かなきゃならない。今回は手が込んでるな。行かずに逃げちゃう手をまず封じられているようなもんじゃない。とりあえずやられそうなのは、ドアをあけたらドッカン・パターン。

 古典的な黒板消しもあるけど、オフィス加納にはホワイトボードしかないから、バケツはありうる。でもバケツじゃプラスチックでインパクトが欠けるからタライ。それも金タライの線は十分すぎるほどありうる。それぐらいは調達するものね。いや、どこかで使ってたからあるはず。

 さてサトル先生の部屋のドアだけど・・・これは巧妙だ。外からじゃ仕掛けがまったく見えない。どれだけ準備してるんだ。まさかドアノブに電流とか、でもあれは前にやって一人死にかけたから禁じ手になってるはず。

 そうなると・・・わかったぞ、落とし穴だ。上からの攻撃にアカネの注意を向けておいて、足元を狙う作戦に違いない。問題はドアの前なのか、ドアを入ったところかで、落とし穴の幅も問題だな。簡単にはまたげない幅になっているはずだから・・・

    「アカネ、なにしてるんだ」
    「あっ、ツバサ先生、おはようございます。床に落とし穴を仕掛けられていないかと思って」
    「どこの世界にコンクリートの床をぶち抜いて落とし穴を作ったりするものか。わたしも呼ばれてるんだ、入るぞ」

 それでもやりかねないのがオフィス加納だから、ツバサ先生がどこを踏むかよく注意して、同じところを踏んでおこう。それなら罠はないはず。部屋に入るとサトル先生から、

    「退院おめでとう」
    「御迷惑をおかけしました」

 なんとかサトル社長の前まで罠にかからずに来れたぞ、

    「君はオフィス加納を退職してもらう」
    「えっ、どうしてですか。そりゃ一ヶ月も休んだのは悪いと思ってますが、いきなりクビはあんまりです」
    「その上で専属契約を結びたい」

 専属契約ってなんだ。

    「オフィス加納では一人前のプロになった者は幹部社員になってもらうか、プロとして専属契約を結ぶことになっている」

 それは聞いたことがある。

    「君には専属契約が適当であると言うのが判断だ。ぜひオフォス加納と契約を結んでほしい。契約条件だけど・・・」

 専用の部屋が与えられた上で、なにこの契約料とか、この給料。さらに仕事ごとに歩合だって。ここでツバサ先生が、

    「うちではそれしか出せないんだよ。だから他と契約するのも、独立するのもありだ、どれを選ぶかは自由だ」

 なんだよこの急展開は。ちょっと待て、話がおかしすぎる。やっとわかったぞ。今回の罠はアカネを舞い上がらせておいて笑い者にする計画に違いない。あぶない、あぶない、乗せられてしまうところだった。

    「もう、冗談ばっかり、アカネも病み上がりなんですから、からかうのもイイ加減にして下さい」

 そしたらツバサ先生はまじめくさって、

    「これが契約書だ」
    「そんなもの、いくらでも偽造しちゃうじゃないですか、アカネを舐めてもらっては困ります」
    「信じん奴だなぁ、アカネがどんな評価になってるのか知らんのか。これを見ろ」

 ポイと渡されたのが業界誌。なになに、写真界に超新星が現れるってか、その名前は、

    『渋茶のアカネ』

 だから渋茶は余計だ。

    「わかったか」
    「ええ、凄いものですね。ニセの業界誌までデッチ上げるとは」

 そしたらツバサ先生は眉間をピクピクさせながら、

    「お~い、マドカ、他のも持ってこい」

 マドカさんが

    『ドサッ』

 様々な週刊誌が十冊ばかり、

    「アカネの及川電機の仕事の評価だ。わかったか」

 うひゃぁ、こりゃすごいビックリした。

    「こ、これは・・・」
    「わかったか」
    「労作ですね。一ヶ月もこんなんやってたんですか!」

 部屋中が転んでました。ようやく気を取り直したサトル先生が、

    「ここで勉強しすぎているので、容易に信じられないのはわかるが、染まり過ぎだぞ。とにかくサインしてくれ」
    「イヤです。どうせ便所掃除三ヶ月とか、肩もみ半年とか」
    「どこにも書いてないだろ」
    「そりゃ、あぶり出し」

 でもまあ、これだけみんながアカネを担ぐために準備していたのを無にするのも悪い。悪ふざけにあえて乗って、笑い者になるのもオフィス加納。

    「わかりました、サインします」
 さてなにが起るかと思ってたら、そのまま部屋に御案内。その時にアカネは覚悟した。真の仕掛けはこの部屋にあるって。すべては浮かれたアカネが『自分の部屋』に入るための罠だったんだと。まさか吊り天井とか、床がせりあがるとか。

 でも入ってもなんにも起らなかったんだ。その時にアカネは真の恐怖に襲われた。今回の悪ふざけの根の深さに。ここまででも、まだ仕掛け段階なのだと。いったいアカネになにをする気なんだって。


 月末になってアカネはすべてがわかった。その日は給料日で引き落としに行ったのだけど、

    「ひぇぇぇ、ホントだったんだ」
 アカネの絶叫が銀行に轟きましたとさ。これぐらい用心しないとオフィス加納ではなにがあるかわからないんだよ。

渋茶のアカネ:病室にて

 うわぁ、良く寝た。あれ手にチューブが付いてる。なんか変なところにもチューブが。なんだ、なんだ、ここはどこ、私はアカネよね。うん、ここはアカネのアパートじゃない、どこだろう。

    「泉さん気づかれましたか」
    「え、はい、ここは」
    「病院です」
 えっ、あっ、そうか、そうか、及川電機のカレンダー写真が完成して、ツバサ先生に見せた後に、そうそう、残り半分を撮らせろって頑張ってるうちに倒れちゃったんだ。たしかカレンダー写真は合格だったよな。残り半分の返事は・・・あったっけ。

 とにかく、くたびれた。我ながら無謀なチャレンジ過ぎた気もするけど、なんとか出来た、終わったんだ・・・終わった! ヤバイ、終われば溜まっていた仕事が押し寄せてくるやんか。こんなところで愚図愚図してたら、

    『クラクラクラ』

 あかん起き上がられへん。

    「泉さん、まだ無理ですよ」
    「無理でも、なんでも、仕事に行かないと・・・」
    「無理なものは無理です」

 ホンマや、ぜんぜん体に力が入らへん。

    「アカネは病気ですか?」
    「寝不足と栄養失調です」

 がひぃ~ん。そういや、食べてなかった。最後に食べたのいつだっけ。腹減った、腹減った。しばらくすると、

    「アカネ、やっと気が付いたみたいだね」
    「どうしてサキ先輩が」
    「アカネが抜けちゃったから、動員されたんだよ。これでも社員だし」
    「すみません」

 しばらく話をしてたんだけど、どうも丸々三日も寝込んでたみたいで良さそう。

    「ツバサ先生も何度か来てたんだけど、伝言を頼まれてる。ゆっくり休めって」

 サキ先輩の方は順調みたいで良さそう。

    「オフィスで見せてもらったんだけど、凄い仕事だね」
    「でも、もうちょっと時間があれば・・・」
    「まだ良くなるとか」
    「だって表紙の写真でも・・・」

 どうしても不満が残っちゃうのよね。あれだってもうほんの少し、そう髪の毛一本程度深くすれば、もっと効果的だったのに。次のもそうなのよ、もう一センチ引くべきだった。欲を言えば、もう五ミリぐらい右にずらして・・・

    「アカネ、成長したね。サキなんか置いてきぼりにされちゃったのが、よくわかるわ。写真やめて良かったと思うもの」
    「まだまだ、サキ先輩の方が上ですよ」
    「動画ならね。でも写真じゃ話にならないよ」

 翌日になるとツバサ先生も顔を見せてくれた。マドカさんも一緒だったんだけど。いきなり、

    「アカネ先生」
    「だから『先生』と呼んじゃダメだって。オフォス加納では個展を開くのを許されて、そこで認められて初めて先生って呼ばれるって、サキ先輩やカツオ先輩に聞いたことがあるもの」
    「あははは、アカネに個展は不要だよ。あんだけの写真見せられて、個展を許すも許さないもあったもんじゃないよ」
    「でもまだまだ不満が・・・」

 ツバサ先生は笑いながら、

    「アカネの不満はわかる。表紙なら最後の踏込だろ。二枚目なら引きと右ずらしだろ」
    「そうなんですよ。よくあんな写真をツバサ先生が認めてくれたと思ってます。加納先生の作品には、そんな手落ちはなかったですから」
    「あれはわざとだろ。あえて外したんだろ。わたしの目は節穴じゃないよ。そこまでやれば加納アングルと同じになっちゃうから、外すことによる効果を狙ったんだろ」

 バレてた、さすがはツバサ先生だ。

    「イイと思ったのですが、やっぱり甘かったかなぁっと」
    「良くお聞き、そのレベルで話が出来る写真家はこの世でもほんの一握りだよ。片手もいないと思うよ」
    「あれぐらい誰でも見れば・・・」
    「加納アングルの本質がわかって、それにアレンジを加えられる奴なんて他にいるものか。とにかく早く元気になってくれ。仕事が溜まってしようがない」

 やっぱり。

    「溜まってますよね。商品広告」
    「ああ、たんまりな。渋茶のアカネの商売繁盛伝説は続いてるし」

 渋茶は余計だ。

    「スーパー大徳の特売セールも近いはずだし」
    「そうだよ。商店街の大売出しもあるし。幸福堂のもあるし、柴田屋さんも・・・」
    「十件ぐらい?」

 そんな訳ないよな。

    「百件近くあったかな」

 このまま入院してたら大変な事になる。

    「全部受けたんですか」

 ツバサ先生は悪戯っぽく笑われて、

    「とにかく早く帰ってくれないと困る」
    「はい、さっそく」
    『クラクラクラ』
    『ヘタヘタヘタ』
    「そんなに心配しなくてもだいじょうぶ。ゆっくり休め」

 アカネの入院は案外長引き十日もかかっています。姉ちゃんも見舞に来てくれたんだけど、

    「アカネ、これなら間に合いそうね」
    「なんにだよ」
    「私の結婚式」

 忘れとった。招待状も来てたけど、どっかに突っ込んだままだ。ふ、服がない。

    「ハワイだからね」

 あっ、そうだった。ツバサ先生に相談すると、

    「なに、ローマの時の服しか、まともなものはないのか」

 退院したらその足でドタバタと服を買うのに付き合ってもらい。

    「アクセサリーは、とりあえずわたしのを使ったらイイ。とりあえず、これで行って来い」

 四泊六日の姉ちゃんの海外挙式に付き合って日本に帰った途端に、

    「ひいばあちゃんが亡くなった」

 そう言えばまだ生きてたんだ。今度は喪服が・・・どうしてこんなに重なるんだよ。告別式も済んだ夜に、

    「うぅ、腹が痛い」

 トイレに一直線。病院に行ったら親族がずらっ

    「集団食あたりですね」

 仕出し弁当に当たったみたい。その中でもアカネが一番の重症みたいで、

    「入院」
 哀れ病院に逆戻り。七転八倒状態で見栄もヘッタクレもなく便器とお友だち。さすがに厄神さんでお祓いしてもらったけど、なんだかんだで一ヶ月も休んじゃった。

渋茶のアカネ:完成

 東京出張から帰られたアカネ先輩はそれこそ寝食を忘れる勢いでカレンダーに取り組んでおられます。いつもの陽気でお茶目な様子は完全に翳を潜め、眼はランランと輝き、殺気さえ漂う感じです。

 今は追い込みに入っているはずですが、カレンダー製作に使われている部屋には近づくのも怖いと誰もが申しています。マドカも足がすくむ思いが確かにします。中から聞こえるのは、

    「まだだ、まだ届かない、これじゃないんだ・・・」

 麻吹先生に様子を聞いたのですが、

    「アカネは一番困難な正解をみつけたよ。そっちには行かないと思ってたけど、最高の正解でもある」
    「どんな答えなんですか」

 そうしたら、麻吹先生は過去の及川電機のカレンダー写真を見るように言われました。探したらすぐに見つかったのですが、腰を抜かすほど華麗で美しい写真ばかりです。

    「ま、まさか、アカネ先輩は・・・」
    「そのまさかの道に挑戦してる」
    「いくらなんでも」

 後は何を聞いても、

    「今は待とう」

 ツバサ先生と休憩室でコーヒーを飲んでいる時にボサボサ頭のアカネ先輩が現れ、

    「ツバサ先生、お願いします」
    「出来たか。マドカもおいで、一緒に見よう」

 出てきた写真にマドカは目を剥きました。まさに絢爛豪華な写真です。それも浮ついた感じは全くなく、深い味わいさえ感じます。それだけじゃありません、写真から溢れだして来るもの、これはまさしく愛。

    「これがアカネの答えか?」
    「いえ、半分です」
    「残り半分を撮りたいか」
    「当然です。それでやっと完成します」

 まだ半分って、どういう事なの、

    「及川電機のカレンダーの仕事はこれで申し分はない」
    「ツバサ先生、それではルシエンの夢の半分も見れていません」
    「それは仕事ではないぞ」
    「いえ仕事です。クライアントの要望を満たすのがプロの仕事です」

 ツバサ先生はじっと考えて、

    「どうしてそう思う」
    「アカネにはわかります」
    「撮れるのかアカネに」
    「撮って見せます」

 アカネ先輩は鬼気迫る形相で麻吹先生をにらみつけ、

    「カレンダーの写真はルシエン三十年の夢です。どうして六十年の夢を叶えるのに躊躇われるのですか」
    「それはだな・・・」
    「そんな返事がツバサ先生の答えなんですか」

 椅子から立ち上がり窓辺に歩まれた麻吹先生は、

    「これはわたしの仕事だったかもしれない」
    「いえアカネの仕事です。ルシエンはツバサ先生ではなくアカネの手に渡っています」

 その時です。

    『ドサッ』
    「アカネ先輩」
    「マドカ、救急車を呼んで」

 程なくして、

    『ピ~ポ、ピ~ポ』

 病院の待合室で、

    「アカネ先輩だいじょうぶでしょうか」
    「だいじょうぶに決まってるじゃないか。寝不足と栄養失調だよ。たくメシぐらい食いやがれ。心配させやがって」

 そう言いながらホッとしている様子が良くわかります。

    「でも凄い写真でしたね。なんか圧倒されちゃいました」
    「ああ、期待以上だった。あそこまでやるとはな」
    「これが答えですか」

 麻吹先生は噛みしめるように、

    「答えか・・・今回の課題の答えは一つじゃないんだ。わたしが予想していた答えは違ったよ。それをアカネの奴、三段ぐらい飛び越えやがった。いや、もっとかもしれない」
    「それがあと半分ですか」
    「そうだよ、あそこまで行くとはね」

 なにか物思いにふけられていたようですが、パッと振り返るなり、

    「メシでも食いに行くか」
    「はい」
    「串カツ屋だぞ」
    「はい、御馳走になります」

渋茶のアカネ:突破口は

 遊園地の仕事の良いところは、仕事にかこつけて、乗り放題が出来る点よね。でもさすがに乗り過ぎた。しばらくは、もう行きたくない気分。何事にも限度があるもんね。それでもイイ気分転換になったし、締切も伸びたし。

 でもツバサ先生はニヤニヤしてたけど、どれだけ仕事が溜まってるんだろう。なんか段ボール箱でドカンと置かれて、

    『アカネ、こっちも頑張ってね』
 これやられそう。いや、ツバサ先生なら絶対やる。なんか背筋が寒なってきた。ツバサ先生は掛け値なしのアーティストなんだけどゼニ勘定もシビアなんだよな。そんな才能は両立しないはずなのに、なんの矛盾もなくあるものね。

 さてカレンダーの方やけど、一ヶ月の延長はありがたい。これはまさに棚からオハギ、じゃなかった、大福じゃなかった、なんだっけ、あんころ餅だったっけ、なんでもいいけどラッキー。

 それもこれもアカネ2のお蔭。あのカメラ凄いわ。使えば使うほどわかるんだけど、撮りたいものがダイレクトに撮れちゃうのよね。最初はアカネ1との違和感もあったんだけど、馴染んじゃうと手放せない感じ。これで撮りだした時にカレンダーの突破口が見えた気がしてるの。

 ネックも実はあって、レンズがパンケーキ一個しかないこと。ここもどうなるかと思ったけど、今となっては良かったと思うぐらい。かえって違う発想で撮れるって感じかな。それでも時間的に間に合いそうに無かったんだんだけど、一か月あればなんとか間に合いそう。その間に溜まる仕事は、この際、目を瞑ろう。

 よっしゃ、今日も頑張るぞ。だいぶイイ感じになってきてるはずなんだ。今日は天気も良いし兵庫津の方を回ってみるか。うん、うん、運河がキラキラ光る感じは使えそう。石橋もイイ感じじゃない。大仏も撮っとかないと。隣の本堂もシックでなかなか。西国街道も使いようだな。えべっさんもね。

 さてと、見てみるか。うんうん、かなり思い通りに仕上がって来た。これはちょっとアングルが甘かったかな。こっちは踏み込み過ぎか。光線の入り方をもうちょっと注意しとかないと。

    「アカネ、頑張ってるね」
    「ツバサ先生、お疲れ様です」

 ツバサ先生はアカネの写真を見ながら、

    「へぇ、ふ~ん、なるほど。そう来たか・・・」

 さらさらと見終わると。

    「真っ向勝負のつもりか」
    「色々考えましたけど、クライアントの要望はそこにあると思うのです」
    「どんな要望だい」
    「ルシエンの見る夢です」
    「なるほどね。間に合うか」
    「間に合わせます」

 ここで疑問に思っていたことを、

    「どうしてツバサ先生が撮られなかったのですか」
    「あん、アカネが弱気かい」
    「違いますよ。ルシエンの夢はツバサ先生が撮るべきだったのです」

 ツバサ先生がよそ見している間に、

    「おっとアカネ、お茶淹れて来たよ」
    「ありがとうございます」
    「ぐぇ、渋い。アカネ、入れ替えやがったな」
    「ごちそうさまです」

 ツバサ先生は極渋茶を渋い顔ですすりながら、

    「どうして、わたしが撮る方がイイのかな」
    「ルシエンはなんのために作られたのですか?」
    「そりゃ、及川電機がカメラ事業に参入するためだろう」
    「ツバサ先生はそうは考えておられないはずです」

 ツバサ先生はますます渋い顔になられ、

    「それはアカネの考えすぎだよ」
    「そうでしょうか」
    「そうだよ」

 そう簡単には教えてくれないか、

    「じゃあ、聞いてもイイですか」
    「イイよ」
    「どうしてあんなにルシエンに詳しいのですか」
    「ああ、あれ、浦島の時に及川さんに聞いたんだ」

 見え透いた逃げを、

    「でもツバサ先生ははっきりと、先生が知っているアカネ2と違うと仰いましたし、アルミプレートの下に刻まれてる文字も知っています」
    「そりゃ、あの時に及川さんがそのカメラを持って来てたからだよ」

 このぉ、ノラリクラリと。

    「じゃあ、加納先生と及川氏との関係もその時に聞いたと言うのですか」
    「ああ、そうだよ。冥土の土産にってさ。まだ元気だけどね」

 この古狸め。そんなものでアカネの追及を交わしきったと思うな。

    「では、どうして祝部先生を弦一郎と呼び、及川氏を小次郎と呼んだのですか」
    「ありゃ、間違ってだ」
    「違います。あれはツバサ先生が昔から知っていたからです。そう呼んだ時代があったからです」
    「だからアカネじゃなくわたしが撮るべきだってか」
    「そうです」

 ツバサ先生はまたお茶をすすって渋い顔になり、

    「アカネはわたしを誰だと思ってるんだよ」
    「この地球上で光の写真が撮れるのは加納先生ただ一人です」
    「悪いが、わたしも撮れる」
    「いえ今でも加納先生しか撮れません」

 困ったような顔をされたツバサ先生は、

    「加納先生が亡くなってからもう十年だよ」
    「いえ今も御健在です」
    「どうして、そう思うんだ」
    「サトル先生や古くからのスタッフはシオリ先生と呼びます」
    「ありゃ、わたしが第二の加納志織と呼ばれた時の名残りだ」

 そっちに逃げても逃がすもんか、

    「ツバサ先生はおかしいじゃありませんか。あれだけアカネたちには他人のコピーはいけないと言っときながら、先生は完璧すぎる加納先生のコピーで売り出してるじゃないですか」
    「成功したからイイじゃないか」
    「あれはコピーじゃなく、加納先生の続きだからです。外見は麻吹つばさであろうと、中身が加納志織であるから、何を言われても気にならなかったからです」

 ツバサ先生が黙っちゃった。でも今夜はなんとしてでも、

    「麻吹つばさは、鶏ガラの痩せっぽちの、緊張過剰の、ごくごく普通の高校写真部程度の技量の女の子でした。それがたった三年ちょっとで、世界の最高峰に位置するフォトグラファーになり、スタイルだってグラマー、度胸だって心臓にどれだけ毛が生えてるんだってぐらいのクソ度胸になっています」
    「・・・」
    「ツバサ先生、あなたは麻吹つばさではありません。麻吹つばさの皮を被った加納志織です。そう考えればすべての説明がつきます」

 どうだトドメだと思ったのですが、ツバサ先生は大笑いされて、

    「アカネはSF作家の才能があるよ。どうだい、フォトグラファーと小説家の二足の草鞋を履くってのは。わたしは加納志織ではない、麻吹つばさだ」

 くそぉ、状況証拠をいくら突きつけたって、最後に無理があるもんね。アカネだって、じゃあ、どうすればそうなるって聞かれたら沈黙するしかないもの。そんなことが出来る訳ないもの。じゃあ、じゃあ、せめて、

    「ツバサ先生、今度の仕事でお願いがあります」
    「代わりにわたしが撮るは無しだよ」
    「このカレンダーはアカネが撮ります。でもその時に・・・」

 ツバサ先生がどう答えるか。

    「なんじゃそりゃ」
 簡単には尻尾は出さないか。