渋茶のアカネ:完成

 東京出張から帰られたアカネ先輩はそれこそ寝食を忘れる勢いでカレンダーに取り組んでおられます。いつもの陽気でお茶目な様子は完全に翳を潜め、眼はランランと輝き、殺気さえ漂う感じです。

 今は追い込みに入っているはずですが、カレンダー製作に使われている部屋には近づくのも怖いと誰もが申しています。マドカも足がすくむ思いが確かにします。中から聞こえるのは、

    「まだだ、まだ届かない、これじゃないんだ・・・」

 麻吹先生に様子を聞いたのですが、

    「アカネは一番困難な正解をみつけたよ。そっちには行かないと思ってたけど、最高の正解でもある」
    「どんな答えなんですか」

 そうしたら、麻吹先生は過去の及川電機のカレンダー写真を見るように言われました。探したらすぐに見つかったのですが、腰を抜かすほど華麗で美しい写真ばかりです。

    「ま、まさか、アカネ先輩は・・・」
    「そのまさかの道に挑戦してる」
    「いくらなんでも」

 後は何を聞いても、

    「今は待とう」

 ツバサ先生と休憩室でコーヒーを飲んでいる時にボサボサ頭のアカネ先輩が現れ、

    「ツバサ先生、お願いします」
    「出来たか。マドカもおいで、一緒に見よう」

 出てきた写真にマドカは目を剥きました。まさに絢爛豪華な写真です。それも浮ついた感じは全くなく、深い味わいさえ感じます。それだけじゃありません、写真から溢れだして来るもの、これはまさしく愛。

    「これがアカネの答えか?」
    「いえ、半分です」
    「残り半分を撮りたいか」
    「当然です。それでやっと完成します」

 まだ半分って、どういう事なの、

    「及川電機のカレンダーの仕事はこれで申し分はない」
    「ツバサ先生、それではルシエンの夢の半分も見れていません」
    「それは仕事ではないぞ」
    「いえ仕事です。クライアントの要望を満たすのがプロの仕事です」

 ツバサ先生はじっと考えて、

    「どうしてそう思う」
    「アカネにはわかります」
    「撮れるのかアカネに」
    「撮って見せます」

 アカネ先輩は鬼気迫る形相で麻吹先生をにらみつけ、

    「カレンダーの写真はルシエン三十年の夢です。どうして六十年の夢を叶えるのに躊躇われるのですか」
    「それはだな・・・」
    「そんな返事がツバサ先生の答えなんですか」

 椅子から立ち上がり窓辺に歩まれた麻吹先生は、

    「これはわたしの仕事だったかもしれない」
    「いえアカネの仕事です。ルシエンはツバサ先生ではなくアカネの手に渡っています」

 その時です。

    『ドサッ』
    「アカネ先輩」
    「マドカ、救急車を呼んで」

 程なくして、

    『ピ~ポ、ピ~ポ』

 病院の待合室で、

    「アカネ先輩だいじょうぶでしょうか」
    「だいじょうぶに決まってるじゃないか。寝不足と栄養失調だよ。たくメシぐらい食いやがれ。心配させやがって」

 そう言いながらホッとしている様子が良くわかります。

    「でも凄い写真でしたね。なんか圧倒されちゃいました」
    「ああ、期待以上だった。あそこまでやるとはな」
    「これが答えですか」

 麻吹先生は噛みしめるように、

    「答えか・・・今回の課題の答えは一つじゃないんだ。わたしが予想していた答えは違ったよ。それをアカネの奴、三段ぐらい飛び越えやがった。いや、もっとかもしれない」
    「それがあと半分ですか」
    「そうだよ、あそこまで行くとはね」

 なにか物思いにふけられていたようですが、パッと振り返るなり、

    「メシでも食いに行くか」
    「はい」
    「串カツ屋だぞ」
    「はい、御馳走になります」

渋茶のアカネ:突破口は

 遊園地の仕事の良いところは、仕事にかこつけて、乗り放題が出来る点よね。でもさすがに乗り過ぎた。しばらくは、もう行きたくない気分。何事にも限度があるもんね。それでもイイ気分転換になったし、締切も伸びたし。

 でもツバサ先生はニヤニヤしてたけど、どれだけ仕事が溜まってるんだろう。なんか段ボール箱でドカンと置かれて、

    『アカネ、こっちも頑張ってね』
 これやられそう。いや、ツバサ先生なら絶対やる。なんか背筋が寒なってきた。ツバサ先生は掛け値なしのアーティストなんだけどゼニ勘定もシビアなんだよな。そんな才能は両立しないはずなのに、なんの矛盾もなくあるものね。

 さてカレンダーの方やけど、一ヶ月の延長はありがたい。これはまさに棚からオハギ、じゃなかった、大福じゃなかった、なんだっけ、あんころ餅だったっけ、なんでもいいけどラッキー。

 それもこれもアカネ2のお蔭。あのカメラ凄いわ。使えば使うほどわかるんだけど、撮りたいものがダイレクトに撮れちゃうのよね。最初はアカネ1との違和感もあったんだけど、馴染んじゃうと手放せない感じ。これで撮りだした時にカレンダーの突破口が見えた気がしてるの。

 ネックも実はあって、レンズがパンケーキ一個しかないこと。ここもどうなるかと思ったけど、今となっては良かったと思うぐらい。かえって違う発想で撮れるって感じかな。それでも時間的に間に合いそうに無かったんだんだけど、一か月あればなんとか間に合いそう。その間に溜まる仕事は、この際、目を瞑ろう。

 よっしゃ、今日も頑張るぞ。だいぶイイ感じになってきてるはずなんだ。今日は天気も良いし兵庫津の方を回ってみるか。うん、うん、運河がキラキラ光る感じは使えそう。石橋もイイ感じじゃない。大仏も撮っとかないと。隣の本堂もシックでなかなか。西国街道も使いようだな。えべっさんもね。

 さてと、見てみるか。うんうん、かなり思い通りに仕上がって来た。これはちょっとアングルが甘かったかな。こっちは踏み込み過ぎか。光線の入り方をもうちょっと注意しとかないと。

    「アカネ、頑張ってるね」
    「ツバサ先生、お疲れ様です」

 ツバサ先生はアカネの写真を見ながら、

    「へぇ、ふ~ん、なるほど。そう来たか・・・」

 さらさらと見終わると。

    「真っ向勝負のつもりか」
    「色々考えましたけど、クライアントの要望はそこにあると思うのです」
    「どんな要望だい」
    「ルシエンの見る夢です」
    「なるほどね。間に合うか」
    「間に合わせます」

 ここで疑問に思っていたことを、

    「どうしてツバサ先生が撮られなかったのですか」
    「あん、アカネが弱気かい」
    「違いますよ。ルシエンの夢はツバサ先生が撮るべきだったのです」

 ツバサ先生がよそ見している間に、

    「おっとアカネ、お茶淹れて来たよ」
    「ありがとうございます」
    「ぐぇ、渋い。アカネ、入れ替えやがったな」
    「ごちそうさまです」

 ツバサ先生は極渋茶を渋い顔ですすりながら、

    「どうして、わたしが撮る方がイイのかな」
    「ルシエンはなんのために作られたのですか?」
    「そりゃ、及川電機がカメラ事業に参入するためだろう」
    「ツバサ先生はそうは考えておられないはずです」

 ツバサ先生はますます渋い顔になられ、

    「それはアカネの考えすぎだよ」
    「そうでしょうか」
    「そうだよ」

 そう簡単には教えてくれないか、

    「じゃあ、聞いてもイイですか」
    「イイよ」
    「どうしてあんなにルシエンに詳しいのですか」
    「ああ、あれ、浦島の時に及川さんに聞いたんだ」

 見え透いた逃げを、

    「でもツバサ先生ははっきりと、先生が知っているアカネ2と違うと仰いましたし、アルミプレートの下に刻まれてる文字も知っています」
    「そりゃ、あの時に及川さんがそのカメラを持って来てたからだよ」

 このぉ、ノラリクラリと。

    「じゃあ、加納先生と及川氏との関係もその時に聞いたと言うのですか」
    「ああ、そうだよ。冥土の土産にってさ。まだ元気だけどね」

 この古狸め。そんなものでアカネの追及を交わしきったと思うな。

    「では、どうして祝部先生を弦一郎と呼び、及川氏を小次郎と呼んだのですか」
    「ありゃ、間違ってだ」
    「違います。あれはツバサ先生が昔から知っていたからです。そう呼んだ時代があったからです」
    「だからアカネじゃなくわたしが撮るべきだってか」
    「そうです」

 ツバサ先生はまたお茶をすすって渋い顔になり、

    「アカネはわたしを誰だと思ってるんだよ」
    「この地球上で光の写真が撮れるのは加納先生ただ一人です」
    「悪いが、わたしも撮れる」
    「いえ今でも加納先生しか撮れません」

 困ったような顔をされたツバサ先生は、

    「加納先生が亡くなってからもう十年だよ」
    「いえ今も御健在です」
    「どうして、そう思うんだ」
    「サトル先生や古くからのスタッフはシオリ先生と呼びます」
    「ありゃ、わたしが第二の加納志織と呼ばれた時の名残りだ」

 そっちに逃げても逃がすもんか、

    「ツバサ先生はおかしいじゃありませんか。あれだけアカネたちには他人のコピーはいけないと言っときながら、先生は完璧すぎる加納先生のコピーで売り出してるじゃないですか」
    「成功したからイイじゃないか」
    「あれはコピーじゃなく、加納先生の続きだからです。外見は麻吹つばさであろうと、中身が加納志織であるから、何を言われても気にならなかったからです」

 ツバサ先生が黙っちゃった。でも今夜はなんとしてでも、

    「麻吹つばさは、鶏ガラの痩せっぽちの、緊張過剰の、ごくごく普通の高校写真部程度の技量の女の子でした。それがたった三年ちょっとで、世界の最高峰に位置するフォトグラファーになり、スタイルだってグラマー、度胸だって心臓にどれだけ毛が生えてるんだってぐらいのクソ度胸になっています」
    「・・・」
    「ツバサ先生、あなたは麻吹つばさではありません。麻吹つばさの皮を被った加納志織です。そう考えればすべての説明がつきます」

 どうだトドメだと思ったのですが、ツバサ先生は大笑いされて、

    「アカネはSF作家の才能があるよ。どうだい、フォトグラファーと小説家の二足の草鞋を履くってのは。わたしは加納志織ではない、麻吹つばさだ」

 くそぉ、状況証拠をいくら突きつけたって、最後に無理があるもんね。アカネだって、じゃあ、どうすればそうなるって聞かれたら沈黙するしかないもの。そんなことが出来る訳ないもの。じゃあ、じゃあ、せめて、

    「ツバサ先生、今度の仕事でお願いがあります」
    「代わりにわたしが撮るは無しだよ」
    「このカレンダーはアカネが撮ります。でもその時に・・・」

 ツバサ先生がどう答えるか。

    「なんじゃそりゃ」
 簡単には尻尾は出さないか。

渋茶のアカネ:東京出張

 アカネ先輩と麻吹先生がなにやらもめています。

    「堪忍して下さいよ。アカネに時間がないのはツバサ先生が一番良く知ってるじゃないですか」
    「だから、気分転換と思って」
    「でも一週間は困ります。締切が迫ってるのですから」
    「ああ、それ。わたしが頼んで一ヶ月延ばしてもらってる」
    「でも、そんな事をしたら、他の仕事が回らなくなります。どうせ溜まってるんでしょ」

 ここでマドカも呼ばれて、

    「アカネと一緒に行ってやってくれ。アカネは東京に不慣れだし」

 一週間の東京出張の命令です。マドカは助手兼ガイド役みたいです。新幹線の車内でアカネ先輩は物思いにふけっておられました。

    「やはりカレンダーの仕事が気になられますか」
    「あれは東京出張中は忘れることにしてる。ツバサ先生も気分転換だって言ってたし」

 さすがの割り切りです。

    「では東京での仕事についてですか」
    「それは行って見ないとわからないし」

 たしかに、

    「では何をお悩みですか」
    「東京の食い物って不味いというじゃない。アカネは食べないとパワーが出ないから、それをどうしようと思って」

 そんなことをここまで深刻に悩むものかと思いましたが、

    「マドカがちゃんと案内します」
    「それは助かった」
 マドカには楽しみがあります。それはアカネ先輩の仕事ぶりが見られる事です。どうやったら、あんな写真が撮れるかの秘密がわかるかもしれません。麻吹先生がマドカをアカネ先輩の助手にされたのも、きっとその目的もあるはずです。


 依頼されたお仕事は遊園地のポスターとパンフレット写真及びHP写真のリニューアルです。

    「えっと、えっと、東京って広いな。どこにあるん」

 しっかり案内させて頂き遊園地の事務所に。そこからアカネ先輩はとにかく遊園地の中を歩き回られます。もちろん遊具にも乗られるだけでなく、売店や食堂も。

    「マドカさん。せっかくだから撮ってみて」
    「アカネ先輩に見て頂けるのですか」
    「そんな大層な。アカネのヒントになればと思って」

 アカネ先輩はパンフレットにあれこれ書き込みながら、ジェット・コースターなんて五回も乗られています。

    「う~ん、う~ん。ここのポイントは・・・やっぱりあそこか」
    「予算からしてサクラは雇えないとすると・・・」

 ホテルに帰ってから、アカネ先輩はマドカの写真を見て、

    「うんうん、そう撮るよね。わかるわかる」

 ひたすら褒めておしまいです。翌日になにをするかと思ったら、事務所でまず交渉。それから園内に来ている人に交渉。写真撮影での顔出しOKの了解を取っています。そのうえで係の人と一緒にジェットコースターを登り始め。

    「お願いしま~す」

 なるほど、あそこから撮れば迫力ある写真が撮れます。いやまあ、あんな怖いところに良く登れるものだと感心しますが、どこも『えっ』ってポイントを探し出して、次々に撮影を進めます。夜になって、

    「これは、イマイチ」
    「これは、ありきたり」
    「これは、ボツ」

 マドカからすると、どれも迫力満点の素晴らしい写真なのですが、アカネ先輩は気に入らないようです。翌日も、翌日も、翌日もあれこれ撮影ポイントを変えて撮り続けます。それでも合格になる写真はわずかで、

    「アカネ先輩、これなんかイイと思うのですが」
    「それはね・・・」

 その写真の欠点というか、気に入らない点を次々と、

    「・・・マドカさん、遊園地の写真のポイントは、見ただけで乗ってみたいと思わせる事と、動きを写真の中に盛り込む事なのよ」

 麻吹先生も撮影現場に入ると『妥協』の二文字が無い人ですが、アカネ先輩も麻吹先生と同じぐらい、下手するとそれ以上に無いかもしれません。

    「この写真惜しいけど、右から三番目の子の表情が死んでる」

 自分の理想とするイメージにするためには何度でも撮り直されます。まるまる一週間全部費やして、

    「こんなもんで許したろ」

 そこには遊園地の迫力と楽しさが溢れだす作品が出来上がっています。帰りの新幹線で、

    「マドカさんゴメン。予定では一日ぐらい休みにして、マドカさんも家に帰ってもらうつもりだったんだけど、ちょっと欲張って全部使っちゃった。ホンマ言うたら二日ぐらい余裕とって東京見物もしたかった」

 そんなことは気にもなりません。マドカにとってこんな勉強になる取材旅行はありませんでした。アカネ先輩は煌めく才能をお持ちですが、もっと凄いのはその才能を振り絞る努力を惜しみもしないところです。帰ってから麻吹先生にもマドカの写真を見てもらったのですが、いつものように指摘の山を築かれた後に、

    「アカネは凄かったろ」
    「はい、あそこまでされてるのに感動しました」

 麻吹先生は椅子の背もたれで大きく背伸びしながら、

    「アカネみたいのは初めて見た。普通にテク伸ばせばマドカの写真みたいになるんだよ。プロとして食うためには、そこから自分の世界を切り開くのが大きな壁になるのだが、アカネには壁がなかったんだ。すうっと、単なる通過点みたいに通り過ぎて行ってしまいやがった」
    「そんな感じに思います」
    「その上だよ、壁をすうっと通り過ぎた意識さえなくて、あるはずの壁を探し求めて、ドンドン突き進んでやがるんだ。どこまで進むか考えただけで空恐ろしいぐらい」

渋茶のアカネ:マドカの経験

 マドカが写真に魅せられたのは写真好き父の影響もありましたが、父に感化された兄が近くの写真教室に通いだした時に、一緒に入れて頂いたのが始まりとなります。兄の方は中学に入ると陸上部に熱中してしまいましたが、マドカの方は写真に熱中しました。大学生になってからも写真熱は続き、各地のコンクールで多くの賞を頂いたりしております。次第にプロになる事を考えるようになり、父母とも相談したところ、

    「マドカさんの思う道を進みなさい」

 こういう温かい了解を頂きました。写真教室の先生にも御相談させて頂いたところ、赤坂迎賓館スタジオ勧められました。赤坂迎賓館スタジオは名門ですし、

    『東京一厳しい』
 こういう評価で有名なところございです。ここに入門し鍛えて頂ければプロへの道が開かれるともアドバイスを頂きました。ここへの入門審査は厳しく、写真知識を問われる筆記試験、屋内・屋外で、それぞれ一日かけて行われる実技試験、さらに筆記・実技の二つの試験を合格した者に対する面接試験が行われます。マドカは難関を突破し無事入門することが出来ました。


 赤坂迎賓館スタジオの育成方針は、

    『カメラマンたるもの写真道を極めるべし』
 こう謳われております。具体的には礼儀作法はもちろんのこと、家事一般が完璧に出来る事が目標となっております。マドカは礼儀作法こそ小笠原流を学んでおりますが、家事については疎く精進が必要と感じた次第でございます。

 礼儀作法と家事一般の修得のために入門生たちは先生のお宅に通うことになります。そこでは洗濯・掃除・炊事、庭の草引きから、犬の散歩、子守りまで厳しく鍛え上げられました。マドカも不慣れなことが多かったですが、これこそ写真道の始まりとひたすら修業に励まさせて頂きました。

 先生の自宅修業での成果が認められると待望のスタジオ勤務に昇格となります。ここでもまず先輩方の付き人として厳しく仕込まれます。事務所の掃除はもちろんのこと、あらゆる雑用を命じられます。スタジオでは一般教養と称されていましたが、その最高位置は先生へのお茶くみになります。

 事務所での一般教養が十分に身に付いたと認められると撮影機材の整備が許されます。これも少しでも不備があれば厳しく叱責されるだけでなく、一般教養の修得が不十分と見なされ掃除からやり直しになることも珍しくありません。指導法は、

    『見て覚えられないものにプロの資格なし』
 マドカも懸命になって頑張りました。機材整備が認められると、ついにスタジオのアシスタントに昇格となります。マドカは三年目でアシスタント見習い補佐になれましたが、同期でトップという思いがけない成績となっております。


 いよいよカメラマンとしての勉強が始まると夢を膨らませていたマドカでしたが、先生に呼び出されたのです。入門以来、

    「おはようございます」
    「おつかれさまでした」

 これ以上の会話の記憶がないぐらい雲の上の人でございましたから、緊張しながら先生の部屋を訪れました。

    「新田君、君は優秀だね」
    「とんでもございません。まだまだ修行が始まったばかりの未熟者です」
    「プロを目指すために君に特別授業を行う」
    「ありがとうございます」

 そう仰られると先生は椅子から立ち上がり、マドカの背後に回られます。

    「新田君、君は女性だ。女性としての能力を十分に発揮できるトレーニングが必要だ」
    「あ、はい」
    「そこでだが、魚心あれば水心ありという言葉を知ってるよね」

 先生は背後からマドカを抱きしめ、その手がマドカの胸にかかった瞬間に、

    「エイッ、ヤッ」

 マドカはカメラにも熱中していましたが、小学校の頃から護身術として合気道を学んでおりました。中高六年間は合気道部で主将も勤めさせて頂き恥ずかしながら四段となっております。本格的な実戦は初めてでしたが先生は、

    「こんな事をしてタダで済むと思うな」
 赤坂迎賓館スタジオは退職を余儀なくされてしまいした。父母はこれを機に写真の道はあきらめたらどうだろうかと忠告を頂いたのですが、マドカの決心は揺らぐことはありませんでした。

 しかし他のスタジオに入門希望を出させて頂いても、どこも断られてしまいます。爺やと婆やが調べて頂いたところでは、赤坂迎賓館スタジオの先生から、マドカは入門を断るようにの要請があるらしいとしていました。

 さすがに途方に暮れそうになったマドカですが、最後の希望をオフィス加納に託すことにしました。ここは世界の巨匠である加納先生が開かれたスタジオで、日本中の写真を志す者の聖地のようなスタジオです。

 ただ入門が非常に厳しいのも有名で、マドカのような未熟者には手が届くところでないと思っておりました。入門希望を出させて頂いても返事はなく、半年が過ぎ、やはり駄目かと思いかけていた頃に面接試験の連絡がありました。

 関西には修学旅行で京都や奈良こそ訪れたことはありますが、神戸は初めてですし、もし入門となれば家から離れて暮らすことになります。父母も爺やも婆やも大変心配されましたが、マドカの固い決心についに折れて頂きました。

 神戸に到着し、憧れのオフィス加納を見た時には胸躍るものがありました。一方で赤坂迎賓館スタジオでも多くの入門希望者と、あれほど厳しい入門試験があったのですから、オフィス加納ではどれほどの試験が行われるのか身の引き締まる思いもございました。

 受付で来意を告げると控室ではなく応接室に案内して頂きました。信じられない事に入門希望者はマドカだけだったのでございます。さらに応接室に現れたのは社長でもある星野先生と麻吹先生なのです。これから何が起るかと身を固くしてましたが、簡単な面接と、実技を見るための三十分ほどの写真撮影だけあり、

    「弟子にしてもイイよ。でもこれだけは言っとくね。弟子になったからってプロになれる訳じゃないからね。それで良ければ付いて来な」

 あっさり合格し、あの麻吹先生の弟子になれたのです。オフィス加納は別世界のようなところです。マドカは朝早くから出社して掃除をしたのですが、他のお弟子さんが誰も来られないのです。それでも一生懸命掃除して、買ってきた花を飾ったりしたのですが、スタッフの方々が出社してくるとちょっとした騒ぎになってしました。

    「おい、どうなってねん、これは」
    「花だぞ、花」
    「ここはどこのオフォスだ」
    「会社を間違えたかと思った」

 麻吹先生は出社してくると、

    「お~い、マドカ、悪いけど機材の準備頼む」

 麻吹先生自ら声をかけて下さったのです。それはもう張り切って、心を込めて手入れしました。そしたら先生は自らチェックされ、

    「ちょっと遅いけど、とりあえず合格だな」

 そしたら次の日にはいきなりスタジオ入りなんです。

    「なにをすれば良いのですか」
    「アシスタントを頼む」

 オフィス加納に入ったのは麻吹先生の撮影現場を見れるのも期待の一つだったのです。見れたのは感動でしたが、とにかく猛烈なスピードで動き回られ撮影されます。マドカは唖然とする思いで必死で付いて行こうとするのですが、

    「マドカ、そうじゃない」
    「こら、そこにいたら邪魔」
    「もたもたしない」

 やっているのはアシスタントじゃなく撮影の邪魔にしかなっていません。悔しくて、情けなくて、思わず涙ぐんでしまったら、

    「泣くな、止まるな、動け」

 これが連日なのです。もう申し訳なくて、申し訳なくてアカネ先輩に相談させて頂いたのです。アカネ先輩はマドカより四つ下の二十二歳。麻吹先生の弟子になられて三年目でございます。

    「アカネでイイよ、年下だし、まだ三年目だし」

 マドカは年上ですし、他のスタジオの勤務歴が三年ほどありますが、ここでは新米です。口が裂けても呼び捨てなんて失礼なことが出来るはずがないじゃありませんか。でも心の広い方で、マドカが何回お願いしても、

    「マドカさん」

 どうしても呼び捨てにしてくれません。撮影現場での醜態をお詫びして、まずは見学から始めたいと相談しても、

    「アカネもここから始めたし、もっとひどかったよ」

 アカネ先輩にはあれこれ教えてもらったのですが、ここでは先生の家どころか、オフィスの掃除も弟子の仕事ではないのです。そうお茶くみすらです。飛び上るほど驚いたのは麻吹先生や星野先生がお茶を淹れてくれるだけではなく、

    「ツバサ先生、薄いですよ」
    「そうですよ,茶っ葉のケチりすぎ」
    「そんなんじゃ、誰もお嫁にもらってくれませんよ」

 思わず飛びかかって投げ飛ばしてやろうかと思ったぐらいです。無礼にも程があるじゃありませんか。でも、

    「そうかい、ふだんアカネが渋すぎるの出すから薄めとかないと」
    「ツバサ先生、そこまで言うのだったらアカネの新兵器を・・・」
    「それはやめてくれ」

 そうなんです。ここではごく普通の会話なのです。近頃は少し慣れましたが、先生相手に軽口がなんのためらいもなく飛ぶのです。アシスタント業務では連日の悪戦苦闘なのですが、麻吹先生は、

    「マドカ、良く見ておくんだよ。あの場合はこう動くんだ。わかるか、わたしがこう撮ってるだろ、そうだったら・・・」

 そりゃもう、手取り足取り、丁寧な指導がみっちり入ります。ここでのアシスタント修業は。単にアシスタント業務を覚えるのではなく、カメラマンとして撮影する時にどう考えて、どう動くのかを叩きこまれているのです。半年ほどしてようやくドタバタがマシになったぐらいの時に、

    「マドカもやっと動けるようになったからギアあげるよ」

 そうなるのはアカネ先輩から聞いてはいましたが、聞くと実際にやるのでは大違いです、ここから四ヶ月ぐらい死に物狂いで頑張ったら、

    「じゃあ、いつものペースで宜しくね」
 早送りの動画のような猛烈な撮影ペースです。一年以上かかって、なんとかこなせるようになった次第です。ここまで体験してわかったことがあります。それはアカネ先輩がいかに出来る人かということです。

 アカネ先輩は三年目と言いながら、一年目は秋から入門されています。それも大学を中退していきなりでございます。マドカが一年以上もかかったアシスタントも、わずか半年足らずでマスターされ、二年目には麻吹先生とともにヨーロッパに長期の撮影旅行にも出かけられておられます。

 さらに二年目の終り頃には早くも指名依頼の仕事が舞い込んでおられるのです。三年目に入ると指名の仕事がますます増えただけでなく、

    『渋茶のアカネ』

 と言えばオフィス加納の三人目のエースとして誰からも認められています。あれこそ天才としか思えません。マドカからしたら、

    『アカネ先生』

 こう呼ぶのが当然なんでしょうが、アカネ先輩はそれこそ拝み倒すような勢いで、

    「それだけは呼ばないで。オフィス加納で先生と呼んでイイのはツバサ先生とサトル先生だけ。アカネなんて話にもならいなんだから」
 そのアカネ先輩の写真ですが、まさに創意工夫に富んでいます。いや富み過ぎてるものばかりです。どこをどう考えたら、こんな発想が出て来るのか感心するしかないのです。

 それもテクニックが鼻に付くようなものじゃなく、ナチュラルにひたすら楽しさが画面から噴き出す感じなのです。そこまでの写真が撮れるというのに、怖ろしいほど謙虚な方です。自分の写真を、

    「あんなものはアイデアだけで笑いを取ってるだけ。それだけの価値しかないよ」

 あれはアイデアだけではありません。この仕事ではなにを撮らなければいけないかを即座に見抜かれ、それにいかにインパクトを与えるかを考え抜き工夫を重ね上げたものです。麻吹先生にも聞いたのですか、

    「マドカもよく見てるね。アカネは自分では全くと言って良いほど意識してないけど、猛烈な速度で成長して、既に一流の域に入ってるよ」
    「どうして意識されないでしょう。あんなに凄い写真が撮れますのに」

 麻吹先生はニヤッと笑われて、

    「マドカは赤迎の時に自分より下手な先輩がいただろう」
    「えっ、その、あの」
    「ここじゃ、マドカが入るまでアカネが一番ヘタクソだった。アカネが見てるのはわたしとサトルなんだよ。これを追い抜くまでたぶん意識なんかカケラも持たないと思ってる」
    「それって」
    「それもアカネの武器であり、長所だよ。最近ではわたしやサトルでさえ、通過点と思い出してる感じさえある」

 麻吹先生や星野先生が通過点だって、

    「もちろん、やすやす抜かさせる気はないけど、アカネはすでにわたしのアングルの秘密を見抜けるぐらいになってるし、かなり使いこなせるようにさえなってるよ」
    「あの誰にも真似できない麻吹アングルをですか」
    「そうだよ、それもコピーじゃない。自分の流儀に取り込んでいるよ。もう一つマドカに教えといてやろう。アカネのイイところは、小さくまとまろうとする気が微塵もないんだよ」

 そんなアカネ先輩がウンウン唸りながら大きな仕事に取り組まれています。これも麻吹先生に聞いたのですが、

    「アカネ先輩の仕事はなんですか」
    「ああ、及川電機のカレンダーだよ」

 これは大きい仕事です。

    「テーマとかあるのですか」
    「えっと、神戸の点景だったかな。要は神戸を題材とした風景写真だ」

 異人館とか、ポートタワーとかでしょうか。

    「それだったら、あそこまで」
    「この仕事は前任者がいてね。それに負けない仕事をするのがアカネの課題だ」
    「前任者はどなたですか」
    「加納志織だよ」
    「えっ、あの、世界の加納先生・・・」

 アカネ先輩があれだけ苦悩されてる理由がよくわかりました。でもマドカは信じてます。アカネ先輩なら必ず成功されると。その時にはアカネ先輩にどう言われようが、満身の敬意を込めて

    『アカネ先生』
 こう呼ばせて頂きます。

渋茶のアカネ:アカネ2の秘密

 相変わらず打倒! 加納志織に悪戦苦闘中なんだけど、カメラはアカネ2がメインになってきてる。同型機のはずだけど、どうにもこっちの方が良い気がしてる。どういうのかな、撮った画像のヌケが格段にイイ気がするんだ。

 どうしてだろうと思うのよね。どうしたって古い機種だから画像処理エンジンの能力は現行機より劣るんだ。ここについては、PCでロー画像を処理すればカバーできるけど、イメージセンサーだって古い。

 でもさぁ、でもさぁ、これだって必ずしもハンデにならないって今度の仕事で勉強した。そうだよあの加納先生の作品。あの作品は何年前の作品よ。このカメラが出来る前に撮られてるじゃない。そりゃ、まったく同じ力量の人が競い合ったらカメラがイイ方が有利だけど、その差なんて思うほど大きくないってこと。気になるのはアカネ2に付いてるレンズ。岡本社長に聞いたら、

    「本体しかなくて、レンズは申し訳ありませんがあり合わせのオマケです」

 でもロッコールじゃないかと言ったら、

    「ロッコールといえば高級品のイメージがあるかもしれませんが・・・」
 ロッコールのレンズといえば加納志織モデルを筆頭にとにかく高級品ぞろい。加納志織モデルの正式名はR100って言うんだけど、R80でもぶっ飛びそうな値段。普及品とされるR60でもアカネではちょっと手が出にくい感じ。

 このロッコールだけど潰れそうになった時期があったみたい。どういうのかな、ロッコールブランドを使って粗悪品を販売していた感じ。この頃はロッコール・ブランドは地に堕ちそうになってたらしく、その頃の中古品はまさに二束三文の価値しかないらしいの。だからアカネ2のオマケにくれたってお話。

 でも使うと明らかにイイ。だったらとアカネ1に付けてもやっぱりイイ。やっぱりイイけど、アカネ2の方がはるかに相性がイイのよね。もっと不思議なのは今までアカネが使っていたレンズをアカネ2に付けるとイマイチ過ぎるんだよ。


 ツバサ先生にも相談したことがあるんだけど、アカネ1と2を使い較べて、

    「サウザンド・オブ・ワンじゃない」

 なんのこっちゃと思ったけど、量産品でもやっぱり微妙に製品ムラがあるんだって。サウザンド・オブ・ワンは銃の話だそうだけど、千丁に一丁ぐらいムチャクチャ精度の良い銃が出来るところから付けられたみたい。

    「今は製品管理が良くなって少なくなったけど、かつては多かったそうよ」
 いわゆる同じ製品を買ってもアタリ・ハズレがあるってやつ。にしては極端な気がするけど、他に適当な理由が思いつくわけでもないから、今のアカネのカメラ使いは二刀流。アカネ2で出来るだけ撮ってるけど、とにかくパンケーキ・レンズ一個しかないから、他のレンズを使う時にはアカネ1を使ってる。


 カメラの方はそれでイイんだけど、カレンダーの方は完全に行き詰ってる。あの華麗で美しい加納先生の写真に太刀打ちする突破口がどうしても見つからない感じ。ずっとあちこちの風景を撮って回ってるんだけど、悔しいぐらい差があると認めざるを得ないのよ。

 そりゃ、十年先とまで言わなくても、五年先、いやせめて三年先なら話は少しは変わるかもしんないけど、この限られた期間じゃ、埋めようもない差なんだ。だから目先を変えて勝負したいんだけど、チャチな思いつき一つじゃ話になんない。

 でもね、目先を変えるのはポイントだとは思ってる。そう言えば感じが悪いけど、同じ土俵で勝負しても仕方がないぐらい。あっちが加納先生の世界なら、こっちはアカネ・ワールドで勝負するしかないって。

 どう言えば良いのかな、写真というジャンルは同じだけど、写真と言うジャンルの中でさらに違うジャンルで勝負する。この辺までは浮かんできてるんだけど、そもそもアカネのジャンルってなんなのよ。


 ひたすら撮りまくって今夜もオフォスで撮った写真のチェック。ツバサ先生も気になるのかよく顔を出してくれる。

    「おっ、写真が良くなってるじゃない」

 風景写真ばっかり朝から夜まで撮りまくってるから、ちょっとは腕も上がってるみたい。

    「この辺なんか、アカネにしたらよく撮れてる方だと思うよ」

 これも最近になって気が付いたんだけど、ツバサ先生が主に褒めるのはアカネ2で撮った写真が多い。それを言ったら、

    「道具には相性があるんだよ。アカネにはよほど相性が良かったんじゃない。こういうものは思い込みも入るから、これで上手く撮れると思えば、余計に上手く撮れることもよくある話だよ」

 ここのところツバサ先生はアカネの写真を見ても褒めることはあっても、前みたいにガンガン指摘の山を気づくことが少なくなってる。

    「あははは、だいぶ煮詰まってるようだね。ちょっと飲みに行こうか」
    「いや、そんな時間は・・・」
    「焦る気持ちはわかるけど、あんまり根を詰め過ぎると見えるものも見えなくなるよ」

 近所の居酒屋かと思ったら、なんとタクシーで三宮に。なんか裏通りみたいなとこに入り込んで、怪しげなビルの二階にすたすたと。木製の重々しそうなドアを開くと、

    『カランカラン』

 カウベルが付けてあるみたい。中は長いカウンターがあって、

    「いっらしゃいませ」

 品の良い白髪の老紳士。及川氏ぐらいかな。最近の年寄りは元気だな。カウンターの向こうがはお酒がずらりと並んでる。話に聞くバーッてやつかも。

    「なんにいたしましょう」

 何って言われたって、バーならカクテルを注文しなくちゃいけないだろうけど、メニューもないし、壁に張ってあるわけでもないし、えっと、えっと、えっと、

    「この子にはフルーツでなにか作ってあげて。そうねぇ、パイナップルにしとこうか。わたしはダークラムをロックで。後は任せるわ」
    「かしこまりました」

 うわぁ、格好イイ。あんなアバウトなオーダーが出来るんだ。まさに大人って感じだよね。しばし待つうちに。

    「お待たせしました」

 うひょ、本格的。なんかドラマのワン・シーンみたい。

    「こちらは」
    「わたしの弟子。渋茶のアカネよ」

 だから『渋茶』は余計だ。

    「へぇ、それはユニークなお名前で」

 ほっとけ。

    「カンパ~イ」

 うわ、美味しい。酎ハイより美味しいし、お酒の感じがしないもの。

    「アカネのカメラだけど」
    「どっちですか」
    「アカネ2」

 ツバサ先生は遠くを見る目をしていた。

    「あれは特別製だよ。アカネ1と違うのはアカネが感じた通り」
    「そうでしょ、そうでしょ、同じカメラとは思えませんもの」
    「そう、あれはわたしが知っているアカネ2ですらない」

 えっ、どういうこと。どうしてツバサ先生はアカネ2を知ってるんだ。

    「さすがのわたしも驚いた。小次郎もよほどアカネを気に入ったんだろうなって」
    「小次郎って」
    「ゴメンゴメン、及川さんの事だよ」

 うん、前もこんなことがあったぞ。えっと、えっと、そうだ東野の野郎ともめた時に祝部先生のことを弦一郎って呼んでた。

    「あれはね、正真正銘のルシエン。世界でたった二つだけ作られた本物のルシエンなんだ」
    「それって及川氏が作り上げたっていうプロトタイプですか」

 そこからの話は驚愕の世界だった。あの及川氏と加納先生が付き合ってた時期があったって言うのよ。

    「加納先生の旦那さんがお医者さんなのは知ってるよね」
    「ええ、旦那さんが学生時代に同棲されてて、その時にあの光の写真を会得したって」
    「でもね、同棲からそのまま結婚したわけじゃないんだ」

 加納先生の旦那さんは一浪だそうで、医者になったのは二十六歳になるけど、卒業の時に一度別れたんだって。あんなに綺麗な加納先生を振る男は存在しなだろうから捨てられたんだろうな。それがヒョンな事から再び巡り会ったんだって。

    「でもね、その時には加納先生は及川さんと付き合ってんだ。及川さんが加納先生に惚れて口説き落とした感じかな」

 及川氏は加納先生の二つ下だから、ちょうどカレンダーを初めて依頼した年になりそう。

    「ちょっと待って下さい。そうなると加納先生は及川氏を捨てて、旦那さんと結婚したのですか」
    「そうなる。及川さんはショックだったんだろうな。ついに結婚しなかったぐらいだよ」
    「えっと、でも及川さんの次の社長は娘婿だって」
    「そうだよ養女だよ」

 うわぁ、知らなかった。そうなると娘婿はもちろんだけど、娘も孫も血のつながりはないんだ。

    「その辺が及川電機の内紛に発展したで良いと思う。赤の他人だからね。そこはまあ、置いとくけど、まだ及川氏と加納先生が付き合っていた時に、ある約束をしていたんだ」
    「なんですか」
    「世界一のカメラを作ってプレゼントするって」

 なんか話がつながってきたけど、

    「及川氏はまず及川CMOSを作り上げたんだけど、さすがにカメラ本体まではなかなか手が回らなかったんだよ」
    「だから六十歳で会長になって専念したとか」
    「そうなる」

 でもさぁ、でもさぁ、加納先生は及川氏を振って捨ててるんだよ。どうしてそこまで、

    「最後のところはよくわからないけど、及川電機のカレンダー依頼は加納先生が引退するまで続いてるよ。それに加納先生は及川電機のカレンダーのすべての写真を撮られてる」

 たしかにそうだ。

    「まさか不倫関係だったとか」
    「男女の仲だから最後のところはわからないけど、たぶん無いと思うよ」

 アカネも無い気がする。加納御夫妻の仲がいかに睦まじかったかは、今でもオフィスの伝説として残ってるぐらい。

    「先ほどプロトタイプは二台あったってお話ですが」
    「及川氏は一刻も早く撮って欲しかったんだろうね。出来上がったプロトタイプを加納先生に渡したらしい」
    「もう一台は?」
    「カメラ事業を売り払われてしまった時に一緒に持っていかれたそうだよ」

 じゃあ、そのプロトタイプは加納さんのが持ってる事になるけど、十年前に亡くなった時にどうなったんだろう。

    「加納先生は亡くなる前に形見分けしてたんだ。子どももいなかったからね。わたしが使っているレンズもその時の遺産さ。どうもそのカメラも及川氏に返したらしい」
    「加納先生はそのカメラでカレンダーを撮ったのですか」
    「撮らなかった。とにかくあの騒ぎになったものだから、カメラは使われずにそのままだったでイイみたいだよ」

 アカネにとっては複雑すぎる話だけど、加納先生が結婚されてからも、どこか心の奥底でお二人は通じ合っていたんじゃないかな。強いて言えば良き異性のお友だちって感じかな。たぶんだけど四十年越しのカメラのプレゼントを喜ばれたと思うけど、及川氏があんなことになってしまって使う気にならなかったのだろうって。

    「でもアカネ2がその時のカメラの証拠はあるのですか」

 ツバサ先生はグラスを静かに傾けながら、

    「プロトタイプと後に発売されたカメラでは微妙に仕様が異なるんだ」

 たしかにちょっと違う。

    「それだけじゃない、アカネ2にはさらに改造が施されている」
    「改造ですか」
    「そう、プロトタイプのイメージセンサーは及川CMOSだけど、アカネ2のは及川の新型センサーだよ。そんな事が出来るのは及川電機の関係者以外には不可能なんだ」

 えっ、えっ。えっ、あの新型センサーが組み込まれてるって。

    「レンズもそうだよ」
    「岡本社長はロッコールの粗悪品のマシな方のオマケって言ってましたが」
    「あははは、粗悪品だって。紛れもない加納志織モデルだよ。新型センサーに組み合わせるなら、このレンズを使わないなと真価を発揮しないからね」

 なんちゅうこと。アカネ2もタダ同然で買ったようなものだけど、このレンズだけで百万円どころじゃないじゃない。カメラ本体だって新型センサーが搭載されてるのはロッコール・ワン・プロ以外ならこのカメラだけだよ。

    「及川氏にカレンダー撮影をアカネに任せたいって言ったら最初は渋ったんだ」

 そりゃ、そうだろ。

    「でもね、アカネが使ってるカメラを聞いたら目の色が変わったよ」
    「ではアカネ1で撮った方がイイのですか」
    「勘違いしたらいけないよ。及川氏は加納先生に最高のカメラをプレゼントすると言ったんだ。あの時は最高だったかもしれないけど今は違う。及川氏がアカネに贈ったのは今の最高のカメラだよ」

 ツバサ先生は次にオーダーしてたマンハッタンを飲みながら、

    「カメラにアカネの名前が彫ってあるだろう」
    「はい」
    「でもアカネ2の方はアルミ・プレートが貼ってあるだろう」

 そうなんだよな。買った時には、そこまで手が回らなかったって言ってた。

    「剥がしたらシオリの名前が刻んであるよ。及川氏も削り落とすのに忍びなかったんだろう」
    「なんかカメラ負けしそうです」
    「ほう、おかしいな。これぐらいのプレッシャーじゃ、ビクともしないように鍛えといたはずだけど」
 ツバサ先生は次から次へと飲むものだから、アカネもつられて飲んでたら酔っちゃった。でもお酒にも酔ってるけど、ツバサ先生の話の方がもっと酔ってる気がする。加納先生と及川氏とアカネのカメラの因縁話に。

 見ようかもしれないけど、これって一種の壮大なラブ・ロマンスだよね。もしかしたら、及川氏は加納先生の旦那さんが早くに亡くなるとか、喧嘩して離婚するのを待ってたのかもしれないね。とにかく加納先生はウルトラ美人の上にちっとも歳を取らないし。

 でもなにか引っかかるものが。そうなのよ、どうしてツバサ先生はそこまで知ってるんだ。ツバサ先生と加納先生の接点なんてないはずなのよ。オフォスの昔からのスタッフにしても、ここまで立ち入った話を知ってるはずがないじゃない。可能性としてはサトル先生が聞いていた可能性があるけど、加納先生がここまで話すかな。

 なにより不可解なのは間違いなくアカネ2を知ってるってこと。そりゃ、今のアカネ2に新型センサーが搭載されてて、あのレンズがロッコールの加納志織モデルであるのを見抜くのはツバサ先生なら可能だよ。

 でもその改造前のプロトタイプを実際に見て、触れていたとしか思えないもの。でもそんなことは加納先生以外に不可能じゃない。アカネ2はツバサ先生の話を信じれば、ほとんど使われなかったで良さそう。使ったとしても及川氏が取締役を解任される前ぐらいまで。

 その後はお互いの苦い思い出とともにしまい込まれていたとしか思えないもの。次に出て来るのは死期を感じた加納先生が取りだした時。贈られた及川氏が使いまくったとも思えないし。

    「ま、アカネ、頑張りな。難しく考えることないよ。アカネが今できる事をひたすら突き進めば答えはあるよ」
    「あるのですか」
    「ああ、答えって言うのは正しくないけど、アカネが進むべき道がきっと見えて来るはずだよ」
 この仕事を始めてからツバサ先生はアカネにすごい期待を寄せているのだけはわかる。きっとこの仕事でアカネがなにか掴むはずだと確信されてるんだ。とにかく明日考えよ。今日はもうなにも考えたくない。