シオリの冒険:アカネの疑惑(1)

 これは入門した頃の話だけどサキ先輩に。

    「ツバサ先生をシオリ先生って呼ぶ人もいるのは知ってるよね」

 そうなのよね。シオリといえば故加納志織先生が思い浮かぶんだけど、

    「アカネもシオリ先生って呼んでもたぶん怒られないけど、部外者の前で呼ぶのはタブーよ。サキはなんかややこしそうだからツバサ先生としか呼ばないけど」

 アカネもそうしとこう。

    「どうしてシオリ先生って呼ばれるのですか」
    「サキも知らないけど、サトル先生や古いスタッフの人はそう呼ぶのよね」

 そういえば、

    「サトル先生は社長だし、ツバサ先生の師匠だし、年長ですけど・・・」
    「ああ、それ。あのお二人の関係も良くわかんないのよ。どう見ても逆になってるものね」
    「出来てるとか」
    「それは多分ない」

 出来て無さそうなのはアカネも同意。

    「アカネちゃんもとにかく注意しといてね」
 ツバサ先生もよくわからないところがあって、経歴を見ると大学を四年で中退してサトル先生の弟子になってるのよね。この辺はアカネも似たようなものだけど、どうして弟子になったかも不思議と言えば不思議。

 当時を知るスタッフから聞いたことがあるのだけど、ツバサ先生が入門した頃のオフィス加納は倒産寸前だったみたいなの。スタッフの給料は大幅に削られた上に遅配、遅配。この加納ビルだって何重にも抵当に入っていて、クビも回らない状態だったってさ。

 弟子がアカネも含めて三人しかいないのも、半分ぐらいは経営危機の影響と見て良さそうなの。なのにだよ、そんな潰れかけのオフィス加納にツバサ先生は弟子入りしてるのよね。よくサトル先生も弟子入りを認めたものだと思うけど、それ以前にツバサ先生がわざわざ、そんな潰れかけのスタジオの弟子になったのだろうって。


 それより驚くのはツバサ先生がブレークしたのもムチャクチャ早いのよ。入門してたったの三ヶ月だよ。三ヶ月って言えばツバサ先生に、

    『アカネも少しは回るようになったから、ギア上げるよ』

 この地獄の延長宣言を喰らって、のたうち回ってた頃なのよ。サキ先輩やカツオ先輩だってチョボチョボぐらいだったでイイと思う。じゃあ、じゃあ、サトル先生が甘いかって言えば、弟子のカツオ先輩は、

    『口調が丁寧で、優しそうなだけで、やってる事はツバサ先生とまったく同じ』

 これも『どうやら』らしいのだけど、そもそもツバサ先生は下働き時代もなかったみたいで、弟子入りしてすぐに仕事を任せられたみたいなのよ。そしてブレークしたのが、

    『光の写真』

 この写真もツバサ先生が編み出したものと思ってたけど、加納先生が駆使したテクニックみたいで、誰一人マネできないとされてたの。それをアッサリ出来てしまったから話題騒然みたいな感じかな。だって今だって、ツバサ先生以外には撮れないもの。だからブレーク当時からツバサ先生が比較され続けたのは、

    『世界の巨匠、加納志織』
 とにかく現存する写真家では、当時からそもそも比較にすらならないとさえ言われてたのよね。今じゃ、加納志織より上になってるで良いと思う。


 でもおかしいじゃない。ツバサ先生が在籍したのは学芸学部メディア創造学科だけど、そんなところで勉強した程度で、いきなりあれほどの仕事が出来るのが不思議過ぎる。そりゃ、カメラの腕だけなら天才でイイかもしれないけど、下働き技術だって完璧なのよ。

 アカネが出来なければ、ツバサ先生は手取り足取り、ガンガン説明付で教えてくれるんだけど、オフィスのどのスタッフより遥かに上手いんだ。レンズの手入れもかなり怒鳴られたけど、ツバサ先生が磨けば目を疑うぐらいに綺麗になるのよ。

 アカネにもそろそろわかって来たけど、ツバサ先生の技術の一つ一つは何十年も年季が入り倒したものとしか思えないのよ。これはサキ先輩の動きと較べても良くわかるもの。ツバサ先生の前ではサキ先輩でさえぎごちなく見えてしまうもの。アカネのことはとりあえず置いとくけど。


 それとこれは雑誌で読んだだけで、アカネじゃよくわからないところも多いんだけど、ツバサ先生の撮影法は、

    『フィルム時代の匂いがする』

 これを読んだ時に気づいたんだけど、ツバサ先生は連写をあまり使われないんだ。それだけじゃなく、連写を多用するカメラマンをあまり評価されないんだ。理由を聞いたこともあるんだけど。

    『あははは、三十六枚しかなかったから』
 なんの話かわからなかったんだけど、フィルム時代は一回に三十六枚しか撮れず、撮り切るとフィルム交換をしなければならなかったみたい。今みたいな高速連写なんかやったら一瞬でフィルムがなくなっちゃうぐらいかな。

 でもね、でもね、ツバサ先生は二十八歳なのよ。よほどの骨董趣味がなければフィルム・カメラなんか使わないだろうし、使おうとも思わないじゃない。大学の時に使っていたカメラも聞いたことがあるけど、

    『EOSのKISSよ』
 もうちょっとイイのを使っても良さそうなものだけど、そこは置いといても要はデジカメってこと。フィルム・カメラ時代の連写の上限が三十六枚なのを知識として知っているのは良いとしても、それを理由に現在の連写を否定的にとらえるのはオカシイといえばオカシイ。


 アカネの心の中に疑惑が湧いて来てるのよね。すべてのキーワードはサトル先生たちがツバサ先生を呼ばれる時の、

    『シオリ先生』
 これで説明できるんじゃないかって。加納先生は八十三歳で死ぬまで現役だったていうし、サトル先生なんて加納先生の八十歳の時の最後の弟子なんだよ。

 そうなのよ、ツバサ先生がシオリ先生の生まれ変わりなら、サトル先生を呼びつけで呼ぶのも、大学中退していきなり光の写真が撮れたのも、カメラ技術に年季が入っているのも、フィルム・カメラ時代の匂いもするのも全部説明できちゃうんだ。


 そこから気になって加納先生の事をあれこれ調べてみたんだ。加納先生も大学を中退してカメラの世界に飛び込んでいるのだけど、まず二年ぐらいで独立されてる。でも最初は失敗してるのよね。要は売れなかったってこと。

 そこからなんだけど、後の旦那さんの下宿に二年ぐらい居候してたらしいのよ。この時に光の写真を編み出したらしいけど、これもビックリするけど編み出したのは旦那さんで、加納先生は悪戦苦闘の末に習得したらしいとなってる。光の写真の誕生秘話はサトル先生でも知ってるけど、後はその写真を武器に売り出して行ったぐらいかな。

 二回目の売り出しの時もすぐさまブレークなんてことはなくて、ボロアパートの一室からオフィス加納は始まったってなってた。スタッフといってもアシスタントが一人だけ、とにかくなんでも自分でやらなきゃならなかったで良さそう。

 売込みも、取引も、交渉も、給与計算も、確定申告もなにからなにまで自分でやっておられて、当時はフィルム時代だったから、押し入れに暗室作って現像までしてたって。言うまでもないけど、炊事、洗濯だって全部そう。

 取材旅行と言ってもオンボロ軽ワゴンに機材を積み込み、コンビニお握りを買い込んで、素泊まりの商人宿みたいなところを利用してたって。食事代も事欠く時期もあったみたいで、メシも食わずに仕事してたって話もオフィスには残ってる。

 わかる? もしツバサ先生が加納先生だったら、すべてが説明できちゃうの。それだけ苦労してたら、カメラや撮影に関することだったら、なんでも出来て当然だし、年季だって半世紀以上になるじゃない。


 もう一つ加納先生とツバサ先生の共通点があるのよ。それは怖ろしいほどの美人であること。加納先生なんて、こうまで言われたらしいのよ、

    『撮られる女優やアイドルより、撮る加納志織の方が遥かに綺麗』
 それもね、若いころの話じゃなくて、八十歳を越えて死ぬまで変わらなかったとされてる。そんな事があり得るものかと思って、オフォスに残ってる加納先生の写ってる写真を調べてみたのよ。撮影旅行とか、忘年会とかのスナップ写真が中心だったけど、あれも不思議過ぎる写真だった。

 オフィスのスタッフも写ってるから比較しやすいのだけど、周囲のスタッフは、当たり前だけど年とともに老けて行くのよね。なのに加納先生だけはちっとも変わらないのよ。八十歳を越えてからのものもあったけど、若い時の写真と並べてみても、どっちが若いか区別できないなんて信じられる。

 気になってツバサ先生のも調べてみた。オフィスに入って六年分しかないけど、まったく変わっていないのよ。そりゃ、まだ六年だし、ツバサ先生も二十八歳だから、これぐらい若く見える人は他にもいるけど、アカネはツバサ先生も同じように歳を取らない気がしてきてる。


 だからといってアカネがどうなる訳じゃないし、ツバサ先生は相変わらずアカネを熱心に鍛え上げてくれてるけど、気になるのは気になる。サキ先輩に話したこともあるけど、

    『アカネちゃんは面白いこと考えるね。でもさぁ、加納先生が亡くなった時にツバサ先生はもう大学生のはずだよ』
 そうなのよね。ここは大きなネックで、生まれ変わりなら子どもの時からだろうって言われれば、何も言い返せなかったの。とにかく弟子修業が忙しくてしばらく忘れていたのだけど、最近になってしばしばお休みをくれるようになってるの。

 『くれる』というか、アカネがなんとか動けるようになって、撮影日数の延長が減って、ツバサ先生やスタッフの休日を潰さなくて済むようになっただけの事だけど、初めて休みがもらえた日は嬉しかった。その時にツバサ先生は、

    『撮ってきたら、見てやる』

 そりゃ、嬉しくて、嬉しくて、撮りまくって見てもらうのだけど、

    「あははは、素人丸出し日の丸写真。こういう場合はね・・・」
    「おっと、こういう時はだな、黄金分割を使うとイイんだよ・・」
    「これはトンネル構図に近いけどバランス悪いな、トンネル構図と言うのは・・・」
    「こういうのを放射構図って言うんだけど、だいぶ違うな・・・」
    「こりゃまた、中途半端な前ボケだな・・・」
 すべての写真に指摘の山を築かれちゃった。でも。でも、やっとカメラマンの勉強が始まった気分で最高。

シオリの冒険:ヴァチカンのユッキー

 ローマは初めだわ。シチリア時代だって対岸のタラントさえ行ってないものね。ユッキーになってからも、コトリとユダの協定があってイタリアは出入り禁止状態だもの。写真や動画で知ってるけど、やっぱり本物の迫力は凄いわ。

    「お客さん、着きましたぜ」
 タクシーで空港からやって来たのはサン・ピエトロ広場。前から来てみたかったんだ。夢が叶った感じ。もっともカソリックの連中には魔女として火炙りされそう、いや宿主はされちゃったから恨みはあるけど、人の世で四百年前の恨みを持ちだしても仕方ないか。

 今日のメインはヴァチカン美術館の見学。ヴァチカン美術館と言うけど、中は十二の美術館と五つのギャラリー、三つの礼拝堂があり、さらに広間やら回廊やら、何とかの間がゴッソリ。いわゆる『順路』で見て回るだけでも七キロメートルはあるとされる壮大なもの。

 言い方悪いけど歴代教皇がカネにあかせてかき集めたコレクションだけど、集めた理由はともかく、集まって保存されて、ここで見れると言うのは素晴らしいことだわ。ミケランジェロだとか、ラファエロだとかの作品がこれだけ見事に保存・公開されているのに感謝しなくちゃ。

 でも大きすぎるのもたしかで、歩いても歩いても終らない感じ。それも歩くのが目的じゃなくて世界遺産の団体さんみたいな芸術品の鑑賞が目的だから大変。でもこれも長年の夢だったから感激。喉も乾いたし、小腹も空いたのでカフェチェントラレで一休み。そこに一人の男がツカツカと歩み寄ってきた。ナンパなら歓迎だけどそうじゃないのよね。

    「何語にしようか」
    「シュメール語なら無難ね」

 ラフな服装をしてるけどウルジーノ枢機卿。

    「まずナルメルの件の礼を言っておく」
    「どういたしまして」
    「エレシュキガルはどうなった」
    「わからないわ。でも冥界の神々はすべて死んだで良いと思うよ」

 ウルジーノ枢機卿は信じられないって顔をして、

    「あなたがすべて始末したのか」
    「わたしや次座の女神、そしてユダでも無理なのは知っているでしょう」
    「そうだイナンナでさえ無理だった」

 そりゃ驚くよね、

    「エレシュキガルがあれで死んだかどうかはわからない。そもそもエレシュキガルに生死の概念があてはまるかどうかもわからないけど、生きてても当分は活動しないと思うわ」
    「さすがはエレギオンの女神だな」
    「そうそうユダも大変だったみたいね」
    「ああ、あれか。神も鉛玉には無力なところがあるからな」

 ユダの前宿主はエウスターキオ枢機卿。これがマフィアに襲撃されて蜂の巣になる事件が起こってる。

    「連中相手の付き合いなら計算内だ。五年ほど、ドンやって締め上げておいた」
    「ユダも好きね」
    「神によって楽しみは違うからな」

 ユダの趣味は蓄財なんだけど、マフィアから巻き上げるのが趣味。かなり巻き上げてるみたいで、おかげでマフィアの活動を牽制している部分はあるの。もちろん相手が相手だから時にドンパチに巻き込まれる。

    「わざと撃たれたんでしょ」
    「まあな、外からコントロールしにくいのが台頭したからな」

 ユダはコーヒーをオーダーして、

    「まず確認しておきたいのだが、これは協定破りか」
    「ユダがそうしたいのなら、いつでも受けて立つわよ」

 ユダにヴァチカンで話をしたいって連絡したら、電話口の向こうからでも緊張感が伝わって来たものね。これが逆のシチュエーションならわたしもそうなってたと思う。

    「こっちは遵守したいのだが」
    「わたしも出来ればそうしてもらえた方が望ましい」
    「では、なぜだ」
    「協定内容の改訂」

 ユダは苦笑いしながら、

    「目的は?」
    「そんなものイタリア観光に決まってるじゃないの」
    「では私も日本観光できるのか」
    「良ければ本社に御招待するわよ」

 考えてる、考えてる。この世で何が信用できないって、神の言葉ほど信用できないものはないもの。その神の中でも一番信用できなのはユダだけど、ユダだってこの首座の女神の言葉を同じぐらい信用してないよ。

    「イイだろう。その協定を呑む」
    「神と神の約束よ」
    「あははは、神を信じるのか」
    「他に何が信じられる」

 ユダはなにか思い切ったように、

    「どうもこちら側にメリットは少ない気がするが」
    「あらそう、こんな可愛い女の子に恩を売り付けられるじゃない」
    「売る方が怖いな。まあいい、売らせてもらおう。数日中には手配しておく」
    「助かるわ」

 目的はヴァチカンの図書館。それもローマ教皇の特別な許可が必要なところ。これはエレギオンHDを以てしても許可を取るのはまず不可能。だからユダに頼む必要があったの。教皇と言ってもユダの傀儡だからね。

    「日本でもなにか起ってるのか?」

 そこが一番気になってるよね。そうでもなければ、この首座の女神が命の危険を冒してまでヴァチカンに乗り込んで来るはずないものね。

    「イナンナがちょっとね」

 ユダの顔に緊張が走ってる。神にとって、これほどの緊急事態は他に考えられないぐらいかも。ためらうように、

    「これは伝えておいた方が良いだろう。イエスも妙なのだ」

 げっ、可能性だけはあると思ってたけど。だからユダも会う必要があると判断したか。わたしの顔色も変わってるかもしれないね。

    「ありがとう。わたしも一つ伝えておく。イナンナはローマにもうすぐ来るわよ」
    「イナンナが来るのか・・・」

 そりゃ考えるわよね。この微妙な事態の時にイナンナとイエスが接近する意味を。

    「あそこに目ぼしいものはない」
    「だったよね。ユダはあの部屋の主みたいなものだから」

 わたしも多くは期待していない。というか、ユダが許可を与えた時点で行く必要もないかもしれない。でもユダと言えども見落としている可能性はある。

    「うふふふ、お互いの破滅のカギがこんな時に接近するのはワクワクしない」
    「わははは、破滅のカギとは上手い表現だ。このイスカリオテのユダを信用せよと言っても無理があり過ぎるだろうが、まだ死にたくないのだけは信じてもらってもイイだろう」
    「それは信じるわ。死にたいなら、こんなところで油を売ったりしてないからね」
 ふぅ、ユダは行ったか。とりあえず死なずに済んだ。ユダも死にたくなかったんだろうな。このカフェの周囲に式神をビッシリ配備してやがった。コトリとコンビを組んでいるのならともかく、一人で勝てたかどうかは時の運だったよ。

 これだけ観光客が多いから、お互い連続ジャンプで逃げられないことはないけど、それでも何が起るかわからないのが神との決闘。やらずに済んで良かった。後はどこまでユダが約束を守るかだけど、イエスだけでなくイナンナも様子がおかしいと知れば、この一件が済むまでは協定を守るだろう。


 イエスはイナンナに似てるところはあるのよ。アラッタの主女神と同様に強大な力を持ち、活躍した時には慈悲の人であったのは間違いない。まず問題はユダがどうやってイエスを眠らせ、取り込んだかなのよ。

 イナンナの時は死闘の果てに弱っている一瞬のチャンスを捉えてそうしたけど、ユダ一人でそれが出来たかは大きな疑問。ユダの力は大きいけど、せいぜいわたしとチョボチョボぐらいだからね。

 それとずっと謎なのはイエスが誰かってこと。イエスがキリストとして活躍しときは慈悲の人だったけど、その前の宿主からそうだったとは思えない。あれほど強大で慈悲深い神が八千年もいたとするのは不自然過ぎる。コトリはなんらかの理由で眠っていた神が目覚めたんじゃないかとしていたけど、わたしは違うと思う。

 イエスもイナンナと同様に多面性、ぶっちゃけ多重人格的な神だった可能性が強いと考えてる。そう、イエス以前は暴虐の神であった時代もあったと考える方が自然だもの。その手の神ならゴマンといるし。

 ただだけど強大な神の数は少ないのよ。アラッタ時代は強大な神は都市の神として君臨してた。たとえばニップルにはエン・リル、エンドゥにはエン・キ、アダブとケシュにはニンフルサグ。

 でもエン・キもエン・リルもイナンナに殺され、ニンフルサグはエレシュキガルに冥界に送り込まれ、パリでコトリがトドメをさしてる。そうあの時にエンキドゥもわたしが倒した。残るのはシッパルの太陽神ウツ、ウルの月の女神ナンナぐらいが思いつくけどどうだろう。

 他ならエンメルカル。エンメルカルはギルガメシュに移ったと考えてるけど、ギルガメシュ以降は不明なのよね。ギルガメシュも多面性があるからイエスの可能性があるけど、どうだろう。

 まあエンメルカルならイナンナが反応するのは筋が通るのだけど、アラッタの時に逃げちゃってるから微妙なところ。このイナンナが反応する点を考えると、もっと恐ろしいのがいるのよね。イナンナが倒しとされる天の神アン。

 神を取り込む能力はわたしもユダにもある。でもアンの能力は別格と見て良さそう。わたしやユダだって取り込んだ神の能力の影響を受けるけど、アンの場合は自分の力にそのまま加えていた感じがする。

 エレシュキガルの能力に近い感じもするけど、やはり違う。どう見たって、倒した神をドンドン取り込んでひたすら強大化したとしか思えないもの。そうじゃなければ、神が神にひれ伏すなんてあり得ないし。

 イナンナがそれほど強大なアンを倒したのはユダの言葉を信じて良いと考えてる。生き残ってたら世界が変わっているはずだもの。イナンナがどうやってアンを倒したか不明とユダはしてたけど、イナンナが駆使したのは一撃以外に考えられない。

 一撃は力の劣る神が勝てる一発逆転の必殺技。コトリが編み出したのはそうだけど、これも、もともと使えたから編み出せたと今は考えてる。だから三座の女神さえ冥界で駆使出来たと考える方が自然だもの。

 問題はアンが本当に死んだかどうかなのよ。そう考えるのは良くないね、イナンナの一撃はアンを倒したけど、アンが抱えていた神々を全部殺せたかどうかに疑問が残るとした方が良い。

 エレシュキガルで考えるとイイかもしれない。あの時は三座の女神が夜叉となって冥界の神を全滅させてしまってるのよね。これも普段のミサキちゃんを見てると笑っちゃうけど、まず生き残っていないと思う。

 あれがもし、エレシュキガルだけ倒していたらどうなっていたかってお話。そうなればエレシュキガルの軛は消滅し、冥界の神は地上の神として復活した可能性は十分にあるのよね。

 変な喩えだけどエレシュキガルは自分の冥界に神々に軛を懸けて捕えていたけど、アンは天界に神々に軛を懸けて捕えていたと見れるんじゃないかって。そのアンをイナンナが一撃で砕いてしまったら・・・

 あらやだ、考え事をしてたらもうこんな時間。なにがなんでもシスティナ礼拝堂には行かなくっちゃ。創世記、天地創造、最後の審判・・・ミケランジェロの傑作を見逃してなるものか。命懸けでユダに会ったんだから、それぐらいの御褒美はもらわなくっちゃね。

シオリの冒険:渋茶のアカネ

 普段ののツバサ先生って、あっけらかんと言うとフランクというか、あまり細かい事にこだわらないというか、なんでも笑いにしちゃう感じ。弟子になった頃にお茶を出したことがあるんだけど、

    「おっ、ありがとう」

 実はこの後が大変で、

    「ぐぇ、渋い」

 濃いのがイイと思って出したら濃すぎたみたい。

    「う~ん、ここまで渋いのはサトル向けだな。誰かサトルを呼んできて」

 呼ばれたサトル先生に、

    「これはアカネがサトルのために特別に淹れてくれたんだ」
    「へえ、そうなんだ・・・ぐぇ、渋い」
    「だから言っただろう。サトルの写真の渋みがより増すように、アカネが心を込めて淹れたスペシャルだよ」
    「ちがうでしょ、渋すぎて飲めないから押し付けたんでしょ」
    「バレたか。お~い、みんな渋いお茶が欲しい時はアカネに頼むとイイぞ」

 これで『渋茶のアカネ』ってあだ名がついちゃった。ここでは弟子がお茶くみ専属ってわけじゃなく、手の空いてるのが気を利かすぐらいって感じかな。だってツバサ先生やサトル先生も手が空いてたら淹れてくれるもの。でもそれからアカネがお茶を淹れようとすると、

    「アカネちゃん薄目で」
    「ボクも出来るだけ薄く。色が付いてるぐらいでイイから」
    「あれだったら白湯でもイイから」

 コンチクショウと思って、出がらしの末みたいな薄いのを出してやったらツバサ先生は、

    「ぐぇ、渋い。さすがは渋茶のアカネの渋さは次元が違う」

 こんなコントみたいな日常なんだけど、仕事に入るとガラッと変わる。まずツバサ先生に言われたのが、

    「アカネはまず下働きからやってもらう。ちょっと辛いかもしれないけど、そこから始めないとアンタの腕じゃ話にならないからね。せいぜい頑張りな」

 弟子生活は『ちょっと』どころやなく辛くて厳しかった。まずは命じられた仕事をやるのだけどツバサ先生が少しでも満足できなければ、

    「こんなんじゃ話にならないよ。やり直し」

 機材の手入れも仕事の内だけど、レンズの手入れ一つだけでも、

    「それ磨いてるの。真面目にやれ。はい、やり直し」

 どれだけやり直しさせられたか。とにかくなにか失敗があれば、

    「アカネ! やり直し」
 まさしく容赦なし。ツバサ先生の基準で満足するまで際限なくやり直し。でもね、怒鳴るだけじゃないんだ。必ずどうして失敗したか、どうしたら上手く行くかをガンガン説教されるんだ。

 もっとも言われたからって、すぐに出来たら誰も苦労しないんだけど、手を変え、品を変え出来るまで説教される。最初の頃はこれだけで神経衰弱になりそうだった、いや完全になってた。とくに撮影アシスタントなんて最初の頃はどれだけ酷かったか、辛かったか。思い出すだけでもゾッとする。

 ツバサ先生の動き、意図がまったく読めなかったし、それ以前にアシスタントの技術が無さ過ぎた。おかげで撮影現場は大混乱。まるで出来の悪いコントのようにあちこちで失敗を積み重ねてたものね。そのせいで撮影が予定通り終了できずに、

    「しかたがない、明日に延期にする」

 ツバサ先生の撮影スケジュールはまさにビッシリだから、余計な日数が増えるとすぐにパンクしそうになるんだ。もう、申し訳なくて帰りに顔を上げることさえできなかったもの。でも翌日になったからって言ってアカネが急に上手くなるわけもなし、

    「だから、そうじゃない」
    「そこにいたら邪魔」
    「アシスタントが足引っ張ってどうするの」
    「もたもたしない」

 またまたコント状態で、

    「明日も続きやるよ」

 そのためにツバサ先生の休日を次々と潰すことになっちゃったのよ。いや、休日全部注ぎ込んでも足りずに、オフィスのスタッフがスケジュール調整に駆けずり回ってた。ツバサ先生の休みが無くなれば、他のスタッフの休みも無くなるわけで、もうみんなの視線が怖くて、怖くて。そこで思い余って、

    「ツバサ先生、アカネを外して下さい。このままでは、撮影スケジュールがパンクします」

 そしたらツバサ先生は猛烈に怒った。部屋の空気がビリビリするぐらい怒鳴られた。

    「寝言は聞きたくない。迷惑かけてると思うんなら、迷惑かけないようにするんだよ。こんなもんで悲鳴上げてどうするのよ。アカネはプロになるんでしょ! アカネも女なら根性見せんかい!」

 クビに縄かけても引っ張っていかれそうな勢いで、絶対に外してくれなかった。もう撮影現場は針の筵なんて生易しいものじゃない修羅場。そりゃ必死なんてものじゃなかった。ツバサ先生の説教、数えきれないぐらいの失敗を反省点にして頑張ったけど、やはり結果はコントの山、山、山。そして死刑宣告みたいな、

    「この仕事は明日も延長でやる。それでスケジュール調整しといて」

 もう悔しくて、情けなくて、申し訳なくて、毎晩泣いてた。だって現場で泣こうものなら、

    「泣くヒマがあったら動け、止まってるんじゃない」

 あれはまさに生き地獄の毎日。世の中にこんな辛いものがあったんだと思ったもの。それでもね、三ヶ月ぐらいしたら少しずつマシになってくれてコントの数も減り、ホッとしたら、

    「アカネも少しは回るようになったから、ギア上げるよ」

 まさしく、ぎょぇぇぇ。それまでは素人同然のアカネに合わせるために、かなりノンビリやってくれてたみたいだったのよ。ギアが上がった撮影現場でまたしてもアカネはコントを繰り広げる羽目になったんだ。これも、のた打ち回るようになんとか出来るようになったら、

    「今日はいつも通りでいくから」
 なんだ、なんだ、このペースは。これがツバサ先生の『いつも』なんだ。またまた七転八倒状態に逆戻り。他のスタッフの動きが全然違う、こんなペースで仕事が出来るなんて信じられない。


 これは後でサキ先輩が教えてくれたんだけど、オフォス加納では下働き用の弟子は取らないって。取るのは本気で育てる弟子だけだって。それとツバサ先生の育成方針はとにかく真剣勝負の場に放り込むみたいで良さそう。

 そこで死なないように頑張るのが一番成長も早いし、本当に血となり肉となるってお考え。確かにそうかもしれないけど、やらされてる方はたまったもんじゃなかった。

    「でもね、アカネちゃん。根性が据わって来たでしょ」
    「え、ええ、なんとなく」
    「プロは技術も大切だけど、度胸も必要なの。どんなプレッシャーにも負けない度胸がなくてはいけないの。プロ根性と言っても良いわ。それは実戦の場で鍛え上げるのが一番早道なのよ」

 ツバサ先生は撮影現場ではホントに何があっても動じないのよね。それこそ雨が降ろうと、雪が降ろうとカメラを構えるとビクともされないのよ。ある時に突然雷が近くに落ちてアカネなんて悲鳴を上げて大変だったけど、ツバサ先生は微動だにせずに撮ってて、

    「あら、なにかあったの」

 カメラを構えると、そこまで集中されてるんだと感心したもの。サキ先輩は、

    「仕事に緊張は必要だけど、それをプレシャーにしてはいけないってツバサ先生は仰ってる。プレッシャーはシャッターを狂わせるって。プレッシャーを克服するのに一番効果的なのは場数で、それも重圧がかかるほど効果的だってさ」

 古臭い昭和の修業方式とも思ったけど、度胸やプロ根性が理屈で身に付かないのはそう。生まれつき持ってる人もいるかもしれないけど、実際のところは潜った修羅場の数以外しか身に付かないとしか思えないもの。ある修羅場に立った時にクソ度胸を据えられる根拠は、

    「これぐらい、あの時に較べれば・・・」

 やっぱ、こうだもんね。そういう意味で相当付いた気がする。でもねぇ、でもねぇ、やっぱり辛かったってカツオ先輩に愚痴ったら、

    「ボクも最初は辛かったけど、ここでやらされる下働きは他のスタジオとは少し違うんだ」

 カツオ先輩は他のスタジオでも修業してサトル先生に弟子入りしてるものね、

    「アカネ君もここで認められたら、プロになれるかもしれないけど、なった瞬間にツバサ先生やサトル先生と張り合わなきゃいけないんだ。それも一人でだよ。レンズの手入れだって、アシスタントの仕事だって、荷物運びだって最初は一人でやらなきゃいけないし、弟子を取っても自分が教えなくちゃいけないんだ。ここの下働きはカメラマンに取って必要な基礎技術だけ叩き込んでくれてるんだよ」
 言われてみればそうだ。レンズの手入れ一つにしても、ツバサ先生の要求水準はシビアだけど、自分のレンズもあれぐらい磨ければ言うことないものね。アシスタントたって、アシスタントのプロが転がってる訳じゃないから、アカネみたいなド素人を鍛え上げなきゃいけないし・・・


 その時にハッと気づいたの。全部わかった気がする。ツバサ先生がいかに本気で弟子を育てようとしてるのかが。まずね、まずね、ツバサ先生は仕事に対して本当に厳しいのよ。ツバサ先生の口ぐせみたいなものだけど、

    「撮影現場は真剣勝負、シャッター一つに命ぐらい懸けて当然。外れりゃ死ぬのよ」
    「仕事しなくちゃオマンマが食えないの。これに本気にならなくて、何に本気になるってのよ。怖いと思うのならプロなんか目指さずにアマチュアで楽しく撮ってな」
 この言葉に嘘偽りは1グラムもなくて、撮影現場のツバサ先生はまさに一匹の鬼そのもの。イイ写真を撮るために、どんな努力だって惜しまれないんだ。ツバサ先生の辞書に『妥協』って二文字は無い気がしてる。

 そこまで仕事に厳しいのに、弟子の育成のために撮影日数を何日も何日も伸ばし、自分だけでなくスタッフの休日も潰し、スケジュール遅れの調製をオフィス上げてやってくれてるんだと。

 それもだよ、素人同然のアカネのためにだよ。ツバサ先生はアカネの出来ない事を怒るけど、出来るまで必ず付き合ってくれる。アカネが付いて行こうとする意志を持ち続ける限り見捨てることはないもの。

    「なんかアカネのために申し訳ないです。だってサキ先輩やカツオ先輩は、アシスタントぐらいなら最初から出来る状態で入門されてますから」

 そしたら先輩たちは顔を見合わせて、

    「カツオ君出来た」
    「サキちゃんこそどうなんだよ」

 サキ先輩は、

    「アカネちゃんが最初に経験したユックリ・ペースにサキも全然付いて行けなくて、余りの情けなさに毎晩泣いてた。他のスタジオでの経験って言っても、ここと較べたら遊んでいるのも同然なのよ。アカネちゃんは相当早いと思うよ」
    「えっ」
    「でもね、泣いてたけど感動してた。サキが見たかったのはこれだって」
    「そんなに凄いのですか」
    「当たり前じゃない。ツバサ先生の撮影現場よ。カネ出したって見たい人は幾らでもいるのよ。それを実際にお手伝いできて、直接アドバイスして頂いて、給料までもらえるのなんて夢みたいなものじゃない」

 やはりオフィス加納は日本一のスタジオ。同時に日本一、いや下手すると世界一厳しいスタジオ。ここでプロになれなければ、どこに行ってもなれないとアカネは思ったの。そんな時にツバサ先生の呼ぶ声が、

    「アカネ、手が空いてる」
    「は~い、空いてます」
    「悪いけど、お茶淹れてくれない」
    「わかりました」

 これに続いて、

    「アカネ、白湯に色が付いてる程度でイイからね」
    「ボクはそれを半分に薄めて」
    「アカネちゃん、わたしはそれをさらに半分に薄めて」
    「えっと、それをさらに半分に薄めてくれる」

 はいはい、御注文通りにお出ししますよ。

    「ぐぇ、渋い」

 思い知ったか。研究の末に編み出した渋茶のアカネ特製の極渋茶だよん。ツバサ先生は、

    「さ、さすがだ、やられた。ここまでやるとは予想外だった」
 こういう悪戯へのツバサ先生のノリは最高です。

シオリの冒険:オフィス加納

 私は泉茜。子どもの時から写真好き、カメラ好きで、高校も写真部。賞も取った事があるのよ。どうしてもプロになりたいんだけど、写真のプロのなり方がよくわからないのよねぇ。ウジウジ考えてるうちに普通の大学に入っちゃったけど、やっぱりプロの道が諦めきれないのよ。

 カメラの専門学校にでも入り直そうかとも思ったけど、卒業したからってプロになれるものじゃなさそう。なんでもそうなんだけど、一番大事なのは技量で、次はこれをどう売り出すかみたい。技量は専門学校でも上がるみたいだけど、専門学校卒ったって、写真の世界では下手すりゃ洟もひっかけられないみたいだし。

 だったら我流で腕を磨くのもあるし、それで成功してるプロもいるみたいだけど、それで成功するのはまさにレア・ケース。そうなってくると、どこかの有名写真家の弟子になるってコースが浮かんでくるわけ。

 でもさぁ、でもさぁ、今どき、弟子入りってなんなのよ。師匠と弟子となればガチガチの徒弟制度じゃない、昭和の時代じゃあるまいに。でもメリットはあるのよね。そりゃ、お手本は本当のプロだから、プロにもなれなかった連中が講師やってる専門学校よりイイだろうし、売り出しも師匠のお墨付があれば良さそうじゃない。

 この弟子入りコースだけど、神戸にはうってつけのところがあるのよ。それはオフォス加納。ここは世界の巨匠とまで呼ばれた加納志織が作ったところなんだ。加納志織は八年前に死んじゃってるけど、加納志織が健在の頃は、

    『日本一のスタジオ』
 こう呼ばれてた時代もあったそう。このスタジオも加納志織が死んでから低迷していた時期もあったみたいだけど、凄いのが出てきたのよね。そう、あの麻吹つばさ。加納志織が元気な頃は知らないけど、麻吹つばさがどれほどかは写真好きなら誰でも知ってる。写真好きじゃなくても名前ぐらいなら誰でも知ってるぐらい有名。

 麻吹つばさの写真も見たことがあるけど、確かに凄い。なにが凄いって、真似したくても出来ないぐらい凄い。写真好きなら誰でも一度はマネするけど、似ても似つかないものしか撮れないのよ。アカネも試したけど、どう撮ればああなるのかサッパリわからなかったぐらい。

 この麻吹つばさの弟子になって、認められて、オフィス加納から売り出してもらうのがプロになるには一番近道の気がするんだ。だから弟子入り希望の手紙と、これまで撮った中で一番イイ写真を添えて送ったんだ。

 ところが返事が来ないのよ。半年経っても来ないから無視されたと思ってたんだ。そしたら一年ぐらいしてやっとこさ、

    『面接をしたい』
 ようやくこんな返事が来たんで、勇んでオフィス加納に行ったんだ。ビルは五階建てで、ちょっと古い感じ。そりゃそうよね、これは加納志織時代に建てられたものだもんね。でも、中は綺麗になってた。リフォームしたのかな。受付で来意を告げると部屋に案内された。

 なんかえらい待たされて麻吹つばさともう一人が来たんだ。この男も知ってる。星野サトルって言って、渋い写真を撮るのよね。ちょっとアカネの趣味じゃないけど評価は高い。間違いなく一流のプロ、ちなみに今の社長。

    「社長の星野です」
    「麻吹つばさです」
 麻吹つばさは美人で有名だけどビックリした、ビックリした。美人なのもビックリしたけど、とにかく若く見えるのよ。たしか二十七歳のはずだけど、どう見たって二十歳過ぎぐらいにしか見えないの。

 若く見えるタイプは童顔が多いけど、麻吹つばさは全然違う。女から見てもため息が出るほどの完璧な美しさ。綺麗さもあそこまで行くとジェラシーさえ湧かないぐらい。もう神々しいレベルとでも言えば良いのかな。

 とりあえず一通りやり取りがあって、持ってこいと言われたロー画像を渡したら、二人で一枚ずつチェックしてた。

    「サトル、これは」
    「ツバサ先生、今は面接中ですよ」

 あれっ、変だな。星野サトルは社長だし、麻吹つばさの師匠のはず。それなのに麻吹つばさは星野社長を呼び捨てにしてるし、星野社長は麻吹つばさを先生付って呼ぶのは変じゃない。そしたらいきなり、

    「ちょっと撮ってみてくれる。三十分ほどあげるから、この近所の風景で良いわ」

 これは実技試験て奴だな。さすがに緊張する。あれこれ工夫したのを撮ってきたら、

    「ツバサ先生、これは」
    「う~ん、まあそうなんだけど」

 そこから麻吹つばさはしばらく考えて、

    「弟子にしてもイイよ。でも先に断っとくけど、弟子になったからと言ってプロになれるわけじゃないからね。写真でメシ食うのは甘いもんじゃないんだ。それで良ければ付いて来な」

 エラそうだな。でも弟子入りOKみたいだから、

    「よろしくお願いします」
    「これからアカネって呼ぶからね」
    「はい、麻吹先生」
 麻吹先生に弟子入りするために、大学を退学したって親に報告したら大騒ぎになっちゃった。親はせめて休学で様子を見てからにしろって頑張ってたけど、もう退学届出しちゃった。これはアカネなりの背水の陣のつもり。

 その場から弟子生活は始まったんだけど、とりあえずオフォスの他の人もそう呼ぶから、麻吹先生はツバサ先生、星野先生はサトル先生と呼ばせてもらってる。これも最初に呼ぶ時はドキドキしたんだけど、ツバサ先生はあっけらかんとしたもので、

    「なんだいアカネ」
 サトル先生も反応も同じぐらい軽くて拍子抜けしたぐらい。オフォス加納の雰囲気自体がそんな感じで、スタッフも明るい人が多いし、あれこれと親切にしてくれるし、わからない事があれば丁寧に教えてくれる。

 そうそう弟子はアカネを含めて三人だけ。入門年次が一年上だから先輩になるけど、年齢もかなり上で、アラサーぐらい、それでも兄弟子だし、こういう世界では新弟子はイジメられるものだとビクビクしてたんだけど、

    「あなたがアカネちゃん、私はサキよ。よろしく」

 サキ先輩はツバサ先生のお弟子さん。兄弟弟子というか、姉妹弟子というかだけど、姉御肌で面倒見が良くてサッパリした人。でも情熱家で入門の経緯を聞いたら、

    「なかなか弟子入りを認めてくれないから玄関でテント張って一ヶ月籠城した」

 だからか。弟子入りを考えた時にあれこれ情報集めたけど、直接押しかけるのはタブーってなってたのは。サキ先輩のが先例になっちゃうと、玄関での籠城合戦になっちゃうものね。

    「アカネ君、よろしくね」

 もう一人のお弟子さんはカツオ先輩。サトル先生のお弟子さん。最初の印象はクールで近づきにくい感じがしたのを覚えてる。でも話してみると、全然違ってホッとした。だってカツオ先輩って呼び名の由来からして笑っちゃったもの。カツオ先輩の名前は磯野哲郎なんだけど、

    『磯野だからツバサ先生に磯自慢ってあだ名にされそうになったんだけど、サトル先生が反対してくれたんだ』

 さすがはサトル先生と思ったけど、反対した理由はサトル先生が磯自慢を好物だったからみたい。とにかく麻吹先生のキャラだからあだ名を使ってコキおろしたり、笑い者にしたおすから磯自慢が不味くなっちゃうぐらいかな。

    『そしたらツバサ先生が、じゃあイソノだからカツオだって決まっちゃったんだよ。カツオの方が怒鳴りやすいからってサトル先生まで賛成しちゃって決定。だからアカネ君が呼ぶ時にもカツオでイイよ』

 なかなかさばけた人で、アカネも可愛がってくれてる。二人ともあれこれ気さくに教えてくれて、新弟子イジメなんてこのオフィスには存在しようもない感じ。そうそう面接になかなか呼ばれなかった理由も教えてもらった。

    「なんですか、この段ボールの箱の山は」
    「ツバサ先生は面倒くさがるから、サトル先生が頑張って見てるけど、どうしても溜まっちゃって」
 ひぇぇぇ、こんだけ弟子入り希望が来てるんだ。とりあえず居心地は悪くなさそうなんだけど、甘いところではないのはすぐに思い知らされる事になったの。

シオリの冒険:二人の女神

 今夜は三十階仮眠室に女神が集まる日なのですが、コトリ副社長は宿主代わりの大学院生で不在。シノブ専務は夫の佐竹専務の具合が相当悪いようで、

    「ミツルがついに私の事を忘れちゃったわ」

 シノブ専務の夫の佐竹氏は八十七歳。クレイエール社長からクレイエールHD社長を歴任されましたが、十五年前に引退されています。

    「シノブと違って女神じゃないから、居るだけで老害だよ」

 そこから主夫業をしながら悠々自適の生活を送られていましたが、三年前から認知症を発症されてしまいました。あれこれ手段を尽くしたものの症状は徐々に進行し、シノブ専務は介護に専念したいと社長に退職を申し入れたのです。

    「シノブちゃん、女神に退職は無い。あるのは死のみ」
 怖そうなセリフですが、別に脅した訳じゃなく退職を認めず休職にしただけです。シノブ専務も八十一歳ですから、佐竹氏の介護が長引けば、復職せずにそのまま宿主代わりに入られる可能性もあるかもしれません。とにかくクレイエール入社以来ずっと一緒でしたから寂しい思いを感じています。

 それでもってシオリさんですがミュンヘンで開かれるユーロ写真大賞の審査員として招かれています。シオリさんの年齢なら、審査員と言うよりまだ応募者のはずですが、誰も麻吹つばさを審査しようなんて度胸のある者はなく、既に世界でも大家扱いになっています。シオリさんは、

    「審査員は気が乗らないけど、ついでにヨーロッパで溜まってる仕事を消化して来るわ」

 当分帰って来ないようです。結果的にエレギオンHDに残ったのは社長とミサキの二人だけ。二人だからどうしようと思っていたのですが、

    「ミサキちゃん来るよね、ちゃんと準備して待ってるから必ず来てね」

 このセリフを何度言われた事か。それこそ顔を会すたびに念押しされています。ユッキー社長も寂しいようです。ミサキだって寂しいのですが、社長がどれほど寂しがり屋か良く知っていますからね。これだったらコトリ副社長の大学院進学を認めなきゃ良かったと思うのですが、

    「わたしが宿主代わりに入るぐらいの緊急事態ならともかく、たった六年ぐらいの話じゃない。認める認めない云々のレベルの話じゃないよ」

 そうは仰いますが、こんなに寂しがってるのに、よく我慢していると思います。仮眠室にはいつものようにユッキー社長の心づくしの料理が並びますが、

    「やっぱり二人じゃ、寂しいね」

 仕方がないと思います。二人となるとリビングも広すぎますし、テーブルも広すぎて寒々しい感じがします。

    「そういえばミサキちゃんとこのお孫さんも大学じゃない」

 サラも四十九歳、ケイも四十八歳になります。無事結婚してくれて、ミサキにも孫が五人いることになります。ユッキー社長はサラとケイをとても可愛がっていましたが、孫も同様です。そのために孫たちも、

    「ユッキーお姉さん大好き」

 見た目は間違いなくそうなんですが、ユッキー社長も六十二歳になられます。

    「ミサキちゃん、後十年ぐらい頑張ればひ孫も見れるかもよ」

 これについては複雑で、ミサキはひ孫どころか、そのひ孫だって見るのは可能です。でも、宿主が代われば他人になります。

    「エレギオン時代のミサキやシノブ専務はどうだったのですか」
    「今とは違うから比較できないよ」

 古代エレギオン時代では宿主が代わっても中身は同じ女神だと周知されていましたらね。

    「でも、あれはあれで複雑で、婆ちゃんがひ孫より若い子どもを産むことになるかね」

 それも複雑そう。そうだそうだ、

    「大聖歓喜天院家時代のお子様は」
    「例のリセット感覚もあるのだけど、わたしの前宿主になる母親は、わたしだけ産んで死んでるんだ。それでも従兄弟はいるのだけど、母親の死後に母の実家と縁切り状態になっちゃって、最後に会ったのは木村由紀恵が小学校に入る前なのよ」

 この辺はシノブ専務からも聞いたことがあります。

    「さらにだけど、母の実家と恵みの教え教団の教主家も絶縁状態でしょ。なんかスパって感じで切れちゃってるのよね」

 この先はどうなるかわからないけど、宿主代わりしたら割り切らないといけないのかもしれない。ダメだ、ダメだ、こんな話題じゃ社長がますます寂しがっちゃう。

    「マルコはどう?」
    「まだまだ元気ですよ」
    「でも八十歳よね」

 マルコは現役。後継者になるエレギオンの金銀細工師も生まれ、マルコの工房も安泰です。もっともマルコに言わせれば、

    「エレギオンの金銀細工師の名称は許したけど、アイツはまだ本物を十分に知らないんだ。だから甘いところがある。こればっかりは、これからの精進しかないけど」

 マルコはコトリ副社長がエレギオンから持ち帰った守りの指輪と回復のブレスレットに衝撃を受け精進を重ね、今では生ける伝説とまで呼ばれています。

    「でも燃えられないね」
    「そればっかりは年齢に勝てません」
    「そうよね」

 ダメだ、ダメだ、ダメだ。マルコ絡みのこの手の話題なら、必ずキツイ猥談に持ち込まれてたのに、社長がこんなに淡白とは。なんとか盛り上がりそうな話題に変えなきゃ、

    「そういえば社長、ちょっと変わったビールを作られてましたね」

 自家製ビール醸造計画も社長と副社長は何度も計画されてましたが、

    『発泡酒で年間六千リットル必要なのよ。月に五百リットルよ、缶ビール換算で毎日五十本ぐらい飲まないといけなくなるんだよ。他も飲まないといけないのも、いっぱいあるし』

 ちなみに発泡酒でなくビールになると六万リットルにハードルがさらに上がるみたいで、三十階での醸造計画はあきらめられています。そこで系列ビールメーカーの一角で自分たち用の特製ビールを作ってもらっています。

    「あれねぇ? 飲んでみる」

 出されたのは缶ビール。それも冷やしていないもの。

    「これはビールですか。なにかワインを飲んでるような」
    「そうよ、これは古代のビール。当時はホップも使ってなかったからね」
    「でもこれはこれで美味しいです」

 社長の話では古代エレギオン人も非常にビールを好み、たくさんの醸造所があったそうです。

    「秋の大祭の時にコトリがビール・コンテストをやったことがあってね、その時に四女神が一致して推したのがこのビールがあるのよ。それを再現してみたのがこれ」
    「そうなんですか」
    「だいぶ近い感じがしてる。私の記憶も怪しいところがあるから、コトリが帰ってきたら、確かめてもらおうと思ってる」

 聞くとユッキー社長は再現するためにかなり研究と試作を重ねたようです。

    「かなり苦労したけど、調べてみて驚いたのよ。どうもグルート・ビールに近いで良さそうなの」
    「でもグルート・ビールって中世になってからじゃないですか」
    「そうなんだけど、古代エレギオンでも作れるだけの技術基盤はあったわ」

 製法は何段階もの工程が必要ですが、確かに作れない事はなさそうです。

    「秋の大祭の大賞はこのビールだったのですか」
    「そうならなかったの。このビールはわたしとコトリの幻のビールなのよ」

 大祭の直前に戦争が起り、大祭そのものが中止になってしまったそうです。それどころか、その戦争はそれから延々と二百五十年に渡って続き、ビールの製法自体も戦乱の中で失われてしまったそうなんです。

    「このビールはね、ラウレリアのビールだったのよ。でも戦争が終わった時にはラウレリアは都市ごと消滅していたし、ラウレリア人も生き残ってなかった。戦争が終わってから何度も再現しようとしたけど無理だった」
    「なんか悲しい話ですね」
    「そうなんだけど、あの戦争が起る前がわたしもコトリも一番楽しい時代だったと思ってる。平和だったし、豊かだった。その黄金時代の最後を飾ったのがこのビールよ。だからどうしても再現したかったの。あの幸せだった頃の象徴みたいにも思ってる」

 そこから聞いたのは古代エレギオンの黄金時代のお話。四季の大祭、女神の行幸、花の園での園遊会。なにかギリシャ神話の絵巻物が目に浮かぶようです。

    「前にさ、コトリにもリセット感覚があるって言ってたじゃない」
    「はい、だからもう少し生きてもイイって」
    「あれは嬉しかったな。コトリはあの戦争の後から宿主代わりの度に神の自殺をやり始めたのよ。もう三千年以上になる」

 そんなにやってたんだ。

    「それだけやってるから成功するはずがないとは思ってるけど、やっぱり不安でね。一人残されたら、今度はわたしの番みたいなものだもの」
    「ユッキー社長・・・」
    「だから、もう二度と自殺しないように、幻のビールを作ってみたの。これ飲んだら、良かった時代を思い出してくれないかって」

 あっ、もしかして派手に繰り広げられた女神の喧嘩も良かった時代を思い出してもらうためだったとか。この仮眠室で幾度となく繰り消されたバカ騒ぎも・・・

    「ミサキちゃん、今はイイ時代だよ。わたしはね、こんな時代を見たかったのかもしれない。そりゃ、不満は言いだしたらキリないし、あの黄金時代でもあったよ。でも、戦争はないし平和じゃない。今度こそ、守り切ってみせる」

 いつもなら、グイグイと言う感じで飲まれる社長が、まるで超高級ワインを静かに楽しまれるように味わって飲んでおられます。

    「ミサキちゃんも悪いけど、守るのを手伝ってね」
    「それが女神の仕事ですね」

 社長はなにかを思い出すように、

    「女神は人あってのもの。人がいなけりゃ女神だって死ぬ。女神の能力は人の平和を守るためにあって、女神を幸せにするものじゃない」
    「それは?」
    「コトリと決めた女神のルールだよ。ミサキちゃんも良ければ守ってね」
    「もちろんです」

 さらに社長は、

    「コトリはいつも言ってた。女神の人の能力が向上する部分だけ使って暮らせたらどんなに楽しいだろうって。でも、そんな日が来るとは、あの頃は思えなかったのよ。でもね、かなり近いところまで来た気がしてる」
    「かならず実現します」

 ここでユッキー社長はニコヤカに笑われて、

    「ミサキちゃんは変わらないね。当時の三座の女神もいつもそう言ってたよ。それにどれだけ勇気づけられたことか。また一緒に仕事が出来て嬉しいわ」
 思わぬ夜になりました。ユッキー社長の別の一面を見た気がします。いや、別じゃないかもしれません。あれだけ冷徹に仕事はされますし、氷の女帝として怖れられていますが、ユッキー社長の人望は篤いのです。

 こうやってプライベートで接する四女神、いやシオリさんも入れて五女神は当然ですが、氷の女帝の面しかしらない社員たち、いやエレギオン。グループ社員からの信頼は絶大なのです。社長について行けば間違いないぐらいの気持ちでしょうか。

 これは見た目とは裏腹に、その心の温かみ、いや慈愛に溢れているのを気づいてしまうからではないかと思っています。

    「ところでミサキちゃん、ちょっと留守番してくれない」
    「お休みですか」
    「そうじゃなくてヨーロッパ視察に行きたいの」
    「ミュンヘンが気になりますか」

 ユッキー社長は少し考えて、

    「取り越し苦労で済めば良いのだけど、どうにも気になってね。とにかく今は二人しかいないから頼んだわよ」
    「かしこまりました。一週間ぐらいですか」
    「伸びたらゴメンネ」