シオリの冒険:二人の女神

 今夜は三十階仮眠室に女神が集まる日なのですが、コトリ副社長は宿主代わりの大学院生で不在。シノブ専務は夫の佐竹専務の具合が相当悪いようで、

    「ミツルがついに私の事を忘れちゃったわ」

 シノブ専務の夫の佐竹氏は八十七歳。クレイエール社長からクレイエールHD社長を歴任されましたが、十五年前に引退されています。

    「シノブと違って女神じゃないから、居るだけで老害だよ」

 そこから主夫業をしながら悠々自適の生活を送られていましたが、三年前から認知症を発症されてしまいました。あれこれ手段を尽くしたものの症状は徐々に進行し、シノブ専務は介護に専念したいと社長に退職を申し入れたのです。

    「シノブちゃん、女神に退職は無い。あるのは死のみ」
 怖そうなセリフですが、別に脅した訳じゃなく退職を認めず休職にしただけです。シノブ専務も八十一歳ですから、佐竹氏の介護が長引けば、復職せずにそのまま宿主代わりに入られる可能性もあるかもしれません。とにかくクレイエール入社以来ずっと一緒でしたから寂しい思いを感じています。

 それでもってシオリさんですがミュンヘンで開かれるユーロ写真大賞の審査員として招かれています。シオリさんの年齢なら、審査員と言うよりまだ応募者のはずですが、誰も麻吹つばさを審査しようなんて度胸のある者はなく、既に世界でも大家扱いになっています。シオリさんは、

    「審査員は気が乗らないけど、ついでにヨーロッパで溜まってる仕事を消化して来るわ」

 当分帰って来ないようです。結果的にエレギオンHDに残ったのは社長とミサキの二人だけ。二人だからどうしようと思っていたのですが、

    「ミサキちゃん来るよね、ちゃんと準備して待ってるから必ず来てね」

 このセリフを何度言われた事か。それこそ顔を会すたびに念押しされています。ユッキー社長も寂しいようです。ミサキだって寂しいのですが、社長がどれほど寂しがり屋か良く知っていますからね。これだったらコトリ副社長の大学院進学を認めなきゃ良かったと思うのですが、

    「わたしが宿主代わりに入るぐらいの緊急事態ならともかく、たった六年ぐらいの話じゃない。認める認めない云々のレベルの話じゃないよ」

 そうは仰いますが、こんなに寂しがってるのに、よく我慢していると思います。仮眠室にはいつものようにユッキー社長の心づくしの料理が並びますが、

    「やっぱり二人じゃ、寂しいね」

 仕方がないと思います。二人となるとリビングも広すぎますし、テーブルも広すぎて寒々しい感じがします。

    「そういえばミサキちゃんとこのお孫さんも大学じゃない」

 サラも四十九歳、ケイも四十八歳になります。無事結婚してくれて、ミサキにも孫が五人いることになります。ユッキー社長はサラとケイをとても可愛がっていましたが、孫も同様です。そのために孫たちも、

    「ユッキーお姉さん大好き」

 見た目は間違いなくそうなんですが、ユッキー社長も六十二歳になられます。

    「ミサキちゃん、後十年ぐらい頑張ればひ孫も見れるかもよ」

 これについては複雑で、ミサキはひ孫どころか、そのひ孫だって見るのは可能です。でも、宿主が代われば他人になります。

    「エレギオン時代のミサキやシノブ専務はどうだったのですか」
    「今とは違うから比較できないよ」

 古代エレギオン時代では宿主が代わっても中身は同じ女神だと周知されていましたらね。

    「でも、あれはあれで複雑で、婆ちゃんがひ孫より若い子どもを産むことになるかね」

 それも複雑そう。そうだそうだ、

    「大聖歓喜天院家時代のお子様は」
    「例のリセット感覚もあるのだけど、わたしの前宿主になる母親は、わたしだけ産んで死んでるんだ。それでも従兄弟はいるのだけど、母親の死後に母の実家と縁切り状態になっちゃって、最後に会ったのは木村由紀恵が小学校に入る前なのよ」

 この辺はシノブ専務からも聞いたことがあります。

    「さらにだけど、母の実家と恵みの教え教団の教主家も絶縁状態でしょ。なんかスパって感じで切れちゃってるのよね」

 この先はどうなるかわからないけど、宿主代わりしたら割り切らないといけないのかもしれない。ダメだ、ダメだ、こんな話題じゃ社長がますます寂しがっちゃう。

    「マルコはどう?」
    「まだまだ元気ですよ」
    「でも八十歳よね」

 マルコは現役。後継者になるエレギオンの金銀細工師も生まれ、マルコの工房も安泰です。もっともマルコに言わせれば、

    「エレギオンの金銀細工師の名称は許したけど、アイツはまだ本物を十分に知らないんだ。だから甘いところがある。こればっかりは、これからの精進しかないけど」

 マルコはコトリ副社長がエレギオンから持ち帰った守りの指輪と回復のブレスレットに衝撃を受け精進を重ね、今では生ける伝説とまで呼ばれています。

    「でも燃えられないね」
    「そればっかりは年齢に勝てません」
    「そうよね」

 ダメだ、ダメだ、ダメだ。マルコ絡みのこの手の話題なら、必ずキツイ猥談に持ち込まれてたのに、社長がこんなに淡白とは。なんとか盛り上がりそうな話題に変えなきゃ、

    「そういえば社長、ちょっと変わったビールを作られてましたね」

 自家製ビール醸造計画も社長と副社長は何度も計画されてましたが、

    『発泡酒で年間六千リットル必要なのよ。月に五百リットルよ、缶ビール換算で毎日五十本ぐらい飲まないといけなくなるんだよ。他も飲まないといけないのも、いっぱいあるし』

 ちなみに発泡酒でなくビールになると六万リットルにハードルがさらに上がるみたいで、三十階での醸造計画はあきらめられています。そこで系列ビールメーカーの一角で自分たち用の特製ビールを作ってもらっています。

    「あれねぇ? 飲んでみる」

 出されたのは缶ビール。それも冷やしていないもの。

    「これはビールですか。なにかワインを飲んでるような」
    「そうよ、これは古代のビール。当時はホップも使ってなかったからね」
    「でもこれはこれで美味しいです」

 社長の話では古代エレギオン人も非常にビールを好み、たくさんの醸造所があったそうです。

    「秋の大祭の時にコトリがビール・コンテストをやったことがあってね、その時に四女神が一致して推したのがこのビールがあるのよ。それを再現してみたのがこれ」
    「そうなんですか」
    「だいぶ近い感じがしてる。私の記憶も怪しいところがあるから、コトリが帰ってきたら、確かめてもらおうと思ってる」

 聞くとユッキー社長は再現するためにかなり研究と試作を重ねたようです。

    「かなり苦労したけど、調べてみて驚いたのよ。どうもグルート・ビールに近いで良さそうなの」
    「でもグルート・ビールって中世になってからじゃないですか」
    「そうなんだけど、古代エレギオンでも作れるだけの技術基盤はあったわ」

 製法は何段階もの工程が必要ですが、確かに作れない事はなさそうです。

    「秋の大祭の大賞はこのビールだったのですか」
    「そうならなかったの。このビールはわたしとコトリの幻のビールなのよ」

 大祭の直前に戦争が起り、大祭そのものが中止になってしまったそうです。それどころか、その戦争はそれから延々と二百五十年に渡って続き、ビールの製法自体も戦乱の中で失われてしまったそうなんです。

    「このビールはね、ラウレリアのビールだったのよ。でも戦争が終わった時にはラウレリアは都市ごと消滅していたし、ラウレリア人も生き残ってなかった。戦争が終わってから何度も再現しようとしたけど無理だった」
    「なんか悲しい話ですね」
    「そうなんだけど、あの戦争が起る前がわたしもコトリも一番楽しい時代だったと思ってる。平和だったし、豊かだった。その黄金時代の最後を飾ったのがこのビールよ。だからどうしても再現したかったの。あの幸せだった頃の象徴みたいにも思ってる」

 そこから聞いたのは古代エレギオンの黄金時代のお話。四季の大祭、女神の行幸、花の園での園遊会。なにかギリシャ神話の絵巻物が目に浮かぶようです。

    「前にさ、コトリにもリセット感覚があるって言ってたじゃない」
    「はい、だからもう少し生きてもイイって」
    「あれは嬉しかったな。コトリはあの戦争の後から宿主代わりの度に神の自殺をやり始めたのよ。もう三千年以上になる」

 そんなにやってたんだ。

    「それだけやってるから成功するはずがないとは思ってるけど、やっぱり不安でね。一人残されたら、今度はわたしの番みたいなものだもの」
    「ユッキー社長・・・」
    「だから、もう二度と自殺しないように、幻のビールを作ってみたの。これ飲んだら、良かった時代を思い出してくれないかって」

 あっ、もしかして派手に繰り広げられた女神の喧嘩も良かった時代を思い出してもらうためだったとか。この仮眠室で幾度となく繰り消されたバカ騒ぎも・・・

    「ミサキちゃん、今はイイ時代だよ。わたしはね、こんな時代を見たかったのかもしれない。そりゃ、不満は言いだしたらキリないし、あの黄金時代でもあったよ。でも、戦争はないし平和じゃない。今度こそ、守り切ってみせる」

 いつもなら、グイグイと言う感じで飲まれる社長が、まるで超高級ワインを静かに楽しまれるように味わって飲んでおられます。

    「ミサキちゃんも悪いけど、守るのを手伝ってね」
    「それが女神の仕事ですね」

 社長はなにかを思い出すように、

    「女神は人あってのもの。人がいなけりゃ女神だって死ぬ。女神の能力は人の平和を守るためにあって、女神を幸せにするものじゃない」
    「それは?」
    「コトリと決めた女神のルールだよ。ミサキちゃんも良ければ守ってね」
    「もちろんです」

 さらに社長は、

    「コトリはいつも言ってた。女神の人の能力が向上する部分だけ使って暮らせたらどんなに楽しいだろうって。でも、そんな日が来るとは、あの頃は思えなかったのよ。でもね、かなり近いところまで来た気がしてる」
    「かならず実現します」

 ここでユッキー社長はニコヤカに笑われて、

    「ミサキちゃんは変わらないね。当時の三座の女神もいつもそう言ってたよ。それにどれだけ勇気づけられたことか。また一緒に仕事が出来て嬉しいわ」
 思わぬ夜になりました。ユッキー社長の別の一面を見た気がします。いや、別じゃないかもしれません。あれだけ冷徹に仕事はされますし、氷の女帝として怖れられていますが、ユッキー社長の人望は篤いのです。

 こうやってプライベートで接する四女神、いやシオリさんも入れて五女神は当然ですが、氷の女帝の面しかしらない社員たち、いやエレギオン。グループ社員からの信頼は絶大なのです。社長について行けば間違いないぐらいの気持ちでしょうか。

 これは見た目とは裏腹に、その心の温かみ、いや慈愛に溢れているのを気づいてしまうからではないかと思っています。

    「ところでミサキちゃん、ちょっと留守番してくれない」
    「お休みですか」
    「そうじゃなくてヨーロッパ視察に行きたいの」
    「ミュンヘンが気になりますか」

 ユッキー社長は少し考えて、

    「取り越し苦労で済めば良いのだけど、どうにも気になってね。とにかく今は二人しかいないから頼んだわよ」
    「かしこまりました。一週間ぐらいですか」
    「伸びたらゴメンネ」