普段ののツバサ先生って、あっけらかんと言うとフランクというか、あまり細かい事にこだわらないというか、なんでも笑いにしちゃう感じ。弟子になった頃にお茶を出したことがあるんだけど、
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「おっ、ありがとう」
実はこの後が大変で、
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「ぐぇ、渋い」
濃いのがイイと思って出したら濃すぎたみたい。
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「う~ん、ここまで渋いのはサトル向けだな。誰かサトルを呼んできて」
呼ばれたサトル先生に、
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「これはアカネがサトルのために特別に淹れてくれたんだ」
「へえ、そうなんだ・・・ぐぇ、渋い」
「だから言っただろう。サトルの写真の渋みがより増すように、アカネが心を込めて淹れたスペシャルだよ」
「ちがうでしょ、渋すぎて飲めないから押し付けたんでしょ」
「バレたか。お~い、みんな渋いお茶が欲しい時はアカネに頼むとイイぞ」
これで『渋茶のアカネ』ってあだ名がついちゃった。ここでは弟子がお茶くみ専属ってわけじゃなく、手の空いてるのが気を利かすぐらいって感じかな。だってツバサ先生やサトル先生も手が空いてたら淹れてくれるもの。でもそれからアカネがお茶を淹れようとすると、
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「アカネちゃん薄目で」
「ボクも出来るだけ薄く。色が付いてるぐらいでイイから」
「あれだったら白湯でもイイから」
コンチクショウと思って、出がらしの末みたいな薄いのを出してやったらツバサ先生は、
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「ぐぇ、渋い。さすがは渋茶のアカネの渋さは次元が違う」
こんなコントみたいな日常なんだけど、仕事に入るとガラッと変わる。まずツバサ先生に言われたのが、
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「アカネはまず下働きからやってもらう。ちょっと辛いかもしれないけど、そこから始めないとアンタの腕じゃ話にならないからね。せいぜい頑張りな」
弟子生活は『ちょっと』どころやなく辛くて厳しかった。まずは命じられた仕事をやるのだけどツバサ先生が少しでも満足できなければ、
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「こんなんじゃ話にならないよ。やり直し」
機材の手入れも仕事の内だけど、レンズの手入れ一つだけでも、
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「それ磨いてるの。真面目にやれ。はい、やり直し」
どれだけやり直しさせられたか。とにかくなにか失敗があれば、
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「アカネ! やり直し」
もっとも言われたからって、すぐに出来たら誰も苦労しないんだけど、手を変え、品を変え出来るまで説教される。最初の頃はこれだけで神経衰弱になりそうだった、いや完全になってた。とくに撮影アシスタントなんて最初の頃はどれだけ酷かったか、辛かったか。思い出すだけでもゾッとする。
ツバサ先生の動き、意図がまったく読めなかったし、それ以前にアシスタントの技術が無さ過ぎた。おかげで撮影現場は大混乱。まるで出来の悪いコントのようにあちこちで失敗を積み重ねてたものね。そのせいで撮影が予定通り終了できずに、
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「しかたがない、明日に延期にする」
ツバサ先生の撮影スケジュールはまさにビッシリだから、余計な日数が増えるとすぐにパンクしそうになるんだ。もう、申し訳なくて帰りに顔を上げることさえできなかったもの。でも翌日になったからって言ってアカネが急に上手くなるわけもなし、
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「だから、そうじゃない」
「そこにいたら邪魔」
「アシスタントが足引っ張ってどうするの」
「もたもたしない」
またまたコント状態で、
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「明日も続きやるよ」
そのためにツバサ先生の休日を次々と潰すことになっちゃったのよ。いや、休日全部注ぎ込んでも足りずに、オフィスのスタッフがスケジュール調整に駆けずり回ってた。ツバサ先生の休みが無くなれば、他のスタッフの休みも無くなるわけで、もうみんなの視線が怖くて、怖くて。そこで思い余って、
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「ツバサ先生、アカネを外して下さい。このままでは、撮影スケジュールがパンクします」
そしたらツバサ先生は猛烈に怒った。部屋の空気がビリビリするぐらい怒鳴られた。
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「寝言は聞きたくない。迷惑かけてると思うんなら、迷惑かけないようにするんだよ。こんなもんで悲鳴上げてどうするのよ。アカネはプロになるんでしょ! アカネも女なら根性見せんかい!」
クビに縄かけても引っ張っていかれそうな勢いで、絶対に外してくれなかった。もう撮影現場は針の筵なんて生易しいものじゃない修羅場。そりゃ必死なんてものじゃなかった。ツバサ先生の説教、数えきれないぐらいの失敗を反省点にして頑張ったけど、やはり結果はコントの山、山、山。そして死刑宣告みたいな、
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「この仕事は明日も延長でやる。それでスケジュール調整しといて」
もう悔しくて、情けなくて、申し訳なくて、毎晩泣いてた。だって現場で泣こうものなら、
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「泣くヒマがあったら動け、止まってるんじゃない」
あれはまさに生き地獄の毎日。世の中にこんな辛いものがあったんだと思ったもの。それでもね、三ヶ月ぐらいしたら少しずつマシになってくれてコントの数も減り、ホッとしたら、
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「アカネも少しは回るようになったから、ギア上げるよ」
まさしく、ぎょぇぇぇ。それまでは素人同然のアカネに合わせるために、かなりノンビリやってくれてたみたいだったのよ。ギアが上がった撮影現場でまたしてもアカネはコントを繰り広げる羽目になったんだ。これも、のた打ち回るようになんとか出来るようになったら、
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「今日はいつも通りでいくから」
これは後でサキ先輩が教えてくれたんだけど、オフォス加納では下働き用の弟子は取らないって。取るのは本気で育てる弟子だけだって。それとツバサ先生の育成方針はとにかく真剣勝負の場に放り込むみたいで良さそう。
そこで死なないように頑張るのが一番成長も早いし、本当に血となり肉となるってお考え。確かにそうかもしれないけど、やらされてる方はたまったもんじゃなかった。
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「でもね、アカネちゃん。根性が据わって来たでしょ」
「え、ええ、なんとなく」
「プロは技術も大切だけど、度胸も必要なの。どんなプレッシャーにも負けない度胸がなくてはいけないの。プロ根性と言っても良いわ。それは実戦の場で鍛え上げるのが一番早道なのよ」
ツバサ先生は撮影現場ではホントに何があっても動じないのよね。それこそ雨が降ろうと、雪が降ろうとカメラを構えるとビクともされないのよ。ある時に突然雷が近くに落ちてアカネなんて悲鳴を上げて大変だったけど、ツバサ先生は微動だにせずに撮ってて、
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「あら、なにかあったの」
カメラを構えると、そこまで集中されてるんだと感心したもの。サキ先輩は、
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「仕事に緊張は必要だけど、それをプレシャーにしてはいけないってツバサ先生は仰ってる。プレッシャーはシャッターを狂わせるって。プレッシャーを克服するのに一番効果的なのは場数で、それも重圧がかかるほど効果的だってさ」
古臭い昭和の修業方式とも思ったけど、度胸やプロ根性が理屈で身に付かないのはそう。生まれつき持ってる人もいるかもしれないけど、実際のところは潜った修羅場の数以外しか身に付かないとしか思えないもの。ある修羅場に立った時にクソ度胸を据えられる根拠は、
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「これぐらい、あの時に較べれば・・・」
やっぱ、こうだもんね。そういう意味で相当付いた気がする。でもねぇ、でもねぇ、やっぱり辛かったってカツオ先輩に愚痴ったら、
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「ボクも最初は辛かったけど、ここでやらされる下働きは他のスタジオとは少し違うんだ」
カツオ先輩は他のスタジオでも修業してサトル先生に弟子入りしてるものね、
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「アカネ君もここで認められたら、プロになれるかもしれないけど、なった瞬間にツバサ先生やサトル先生と張り合わなきゃいけないんだ。それも一人でだよ。レンズの手入れだって、アシスタントの仕事だって、荷物運びだって最初は一人でやらなきゃいけないし、弟子を取っても自分が教えなくちゃいけないんだ。ここの下働きはカメラマンに取って必要な基礎技術だけ叩き込んでくれてるんだよ」
その時にハッと気づいたの。全部わかった気がする。ツバサ先生がいかに本気で弟子を育てようとしてるのかが。まずね、まずね、ツバサ先生は仕事に対して本当に厳しいのよ。ツバサ先生の口ぐせみたいなものだけど、
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「撮影現場は真剣勝負、シャッター一つに命ぐらい懸けて当然。外れりゃ死ぬのよ」
「仕事しなくちゃオマンマが食えないの。これに本気にならなくて、何に本気になるってのよ。怖いと思うのならプロなんか目指さずにアマチュアで楽しく撮ってな」
そこまで仕事に厳しいのに、弟子の育成のために撮影日数を何日も何日も伸ばし、自分だけでなくスタッフの休日も潰し、スケジュール遅れの調製をオフィス上げてやってくれてるんだと。
それもだよ、素人同然のアカネのためにだよ。ツバサ先生はアカネの出来ない事を怒るけど、出来るまで必ず付き合ってくれる。アカネが付いて行こうとする意志を持ち続ける限り見捨てることはないもの。
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「なんかアカネのために申し訳ないです。だってサキ先輩やカツオ先輩は、アシスタントぐらいなら最初から出来る状態で入門されてますから」
そしたら先輩たちは顔を見合わせて、
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「カツオ君出来た」
「サキちゃんこそどうなんだよ」
サキ先輩は、
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「アカネちゃんが最初に経験したユックリ・ペースにサキも全然付いて行けなくて、余りの情けなさに毎晩泣いてた。他のスタジオでの経験って言っても、ここと較べたら遊んでいるのも同然なのよ。アカネちゃんは相当早いと思うよ」
「えっ」
「でもね、泣いてたけど感動してた。サキが見たかったのはこれだって」
「そんなに凄いのですか」
「当たり前じゃない。ツバサ先生の撮影現場よ。カネ出したって見たい人は幾らでもいるのよ。それを実際にお手伝いできて、直接アドバイスして頂いて、給料までもらえるのなんて夢みたいなものじゃない」
やはりオフィス加納は日本一のスタジオ。同時に日本一、いや下手すると世界一厳しいスタジオ。ここでプロになれなければ、どこに行ってもなれないとアカネは思ったの。そんな時にツバサ先生の呼ぶ声が、
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「アカネ、手が空いてる」
「は~い、空いてます」
「悪いけど、お茶淹れてくれない」
「わかりました」
これに続いて、
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「アカネ、白湯に色が付いてる程度でイイからね」
「ボクはそれを半分に薄めて」
「アカネちゃん、わたしはそれをさらに半分に薄めて」
「えっと、それをさらに半分に薄めてくれる」
はいはい、御注文通りにお出ししますよ。
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「ぐぇ、渋い」
思い知ったか。研究の末に編み出した渋茶のアカネ特製の極渋茶だよん。ツバサ先生は、
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「さ、さすがだ、やられた。ここまでやるとは予想外だった」