城崎でやらなければならないのは誰がなんて言おうが外湯めぐりだ。城崎以外でも外湯めぐりってあるのかな。
「ありますよ。野沢温泉なんて有名ですよ」
野沢温泉って野沢菜の総本山みたいなところなんだろうな。野沢温泉はさておき、城崎には七つの外湯がある。
一の湯
御所の湯
まんだら湯
地蔵湯
鴻の湯
柳湯
さとの湯
それぞれの外湯には特徴と魅力があるのだけど、さすがに七つも入れないよ。そんなことをしたら湯あたりして倒れてしまう。
「ここからならまんだら湯が一番近いですが・・・」
まんだら湯は一生一願の湯で商売繁盛、五穀豊穣だとなってるけど、なんか違うな。なんか違うと言えば柳湯の子授けの湯も子宮レスのマナミには無用の湯だ。
「種無しのボクもです。だったらですが・・・」
宿からの距離も考えておかないといけないから、まず御所の湯に行って、次に鴻の湯に入ろうかなのか。なになに御所の湯は美人の湯で良縁成就じゃないの。鴻の湯も幸せを招く湯で夫婦円満、不老長寿って最高だ。入る順番も御所の湯からにしたら、
「マナミさんとの良縁が成就して、夫婦円満になれるはずです」
それを真顔で言うか。こっちが照れ臭くなる。そりゃ、そうなりたいと思って同棲生活に励んでるのだけどね。相談もまとまってまず御所の湯だ。来るときに見たけど神社みたいな建物だな。
「神社と言うよりも平安貴族のお屋敷のイメージかもしれません」
御所の湯って名前になっているのは後堀河天皇のお姉さんの安嘉門院が入浴したらなのか。だから美人の湯なんだろうな。浴室はこんな感じか、内湯と露天風呂がシームレスになっていて、滝があるのが面白いな。
御所の湯ではしっかり体を洗っておこう。そうやってほんの少しでも美人になりたいじゃないの。いくらブサイクの自覚があっても、これでも恋する女だもの。でも気持ち良いな。今日も良く走ったもの。その締めくくりが温泉って最高だ。
御所の湯から上がったら鴻の湯だ。そのために宿の方に引き返し通り過ぎる。五分ほどで到着だけど、こっちは御所の湯にと比べたらシンプルな建物だな。ここはコウノトリが足の傷を治していたから鴻の湯なのか。コウノトリは幸せを運ぶ鳥ともいわれていたから、幸せを招く湯ってことだろうな。
ここだけどコウノトリが運ぶ幸せは子どものことなんだけど、こういう女の幸せを招く系統は子作りみたいにどこでもなってるのよね。でも良しとする。昔は子宝が女の幸せのすべてだったかもしれないけど、今はすべてじゃない。
そりゃ、結婚するからには子どもが欲しい夫婦は多いだろうし、その価値観を否定する気もない。だけださ、子宮レス、種無しの夫婦だって幸せになる時代だってことだ。文句あっか、あるのならかかって来い。ダッシュで逃げてやるから。
ここも内風呂と露天風呂があるけど、露天風呂の方は庭園露天風呂って感じだな。たぶんだけどコウノトリが足の傷を癒した温泉をイメージしている気がする。こっちも気持ち良いよ。なんか夫婦円満になれそうな気分になってきた。
外湯めぐりを満喫して宿にお帰りだ。三木屋は部屋食じゃなくてお食事処なのか。どっちでも構わないけど、ここも雰囲気があって良い感じ。さあ食べるぞ。
「冬はカニですが今の季節なら但馬牛です」
カニも好きだけどカニのシーズンに但馬にモンキーじゃ行けないよな。でもだよ、松葉ガニと但馬牛と言えば、但馬の二大美食みたいなものだ。なんの不満があるものか。他には甘えびに、ノドグロに、アワビまであるじゃない。これぞザ御馳走だ。食べて、飲んでも嬉しいな。ツーリングの数多い欠点・・・
「おいおい、そういう時は数少ないじゃないのか」
ツッコミがウルサイぞ。バイク旅なんてバイクの良いところに注目しまくり、悪いところにトコトン目を瞑れる人種にしかできないものだろうが。
「そりゃ、そうだ」
バイク旅の欠点は昼間に飲めないこと。飲むって言っても朝食からビールなんてする気もないけど、たとえば蔵元とか、ワイナリーで試飲みたいなやつ。あれって好きなんだ。とくにタダってところが。もちろん飲んだら飲酒運転になるからやらないけど。
ところでさ、瞬さんが最初に書こうとしてた純文学ってなんなの。昔からそういうジャンルがあるのは聞いてるけど、よくわからないんだよ。
「また難しい事を・・・」
純文学の定義は、
『学問のための文章でなく美的形成に重点を置いた文学作品』
なんだそれ。純文学に対比されるものとして大衆文学があるけど、そっちは娯楽性に重点が置かれてるらしい。違いが良くわかんないけど、
「この辺は歴史的経緯があれこれありまして・・・」
明治なって近代小説が確立していったそうだけど、さっきあった定義に忠実な作品が良いとされてきたみたいなんだ。一方で大衆文学は低く見られて、
純文学 〉〉 大衆文学
こんなランク付けにされたっていうのかよ。
「他で例えれば、小説とマンガみたいなものです」
それならなんとなくわかる。学校がそうだった。マンガは害悪みたいにされて、そんなものは読まずに小説を読むのが良いって何度も何度も、それこそ決まり文句のように言われ続けたもの。同じようなランク付けが、純文学と大衆文学にもされてたのか。だけど大衆文学も地位が上がったみたいで、
「芥川賞が純文学、直木賞が大衆文学です」
へぇ、そうだったのか。初めて知った。でもさぁ、でもさぁ、純文学だって娯楽性はあるじゃない。たとえば夏目漱石の坊ちゃん。あれは面白かったぞ。ちなみに調子に乗って次に読んだ吾輩は猫であるは途中で投げ出した。
「そこもなんと言いますか、純文学にも娯楽性の要素があっても構わない訳でして・・・」
そこからは本音みたいな話になったけど、小説家は本が売れて食える商売だ。本を作って売る出版社も同上だ。ここで純文学と大衆文学だったら大衆文学の方が売れるらしい、言われてみればそうで、純文学のベストセラーなんてあんまり聞かないものな。
ここももっと単純化すれば娯楽性がある作品の方が売れやすい現実だ。小説家にも純文学志向の人も、大衆文学志向の人もいるらしいけど、ガチガチの純文学なると食っていけなくなるから、娯楽性の要素を積極的に取り入れようとしたぐらいかな。
「結果として純文学と大衆文学の境目が曖昧になって来ています」
そうなるよな。芸術性と娯楽性って別にハブとマングースの関係じゃなくて、普通に並立するものだ。わざわざ二つに切り分ける方に無理があるよ。
「そのためか芥川賞も純文学の要素が強いもの、直木賞も大衆文学の傾向が強いものぐらいになっていると聞きます」
この辺はたぶんだけど、大衆文学側も芸術性とやらを取り込んだのもある気がする。だってマンガそうじゃないの。あれって、昔は今よりもっともっと地位が低かったって聞いた事がある。だから芸術性も取り込んで大人の鑑賞にも耐えられるものになったはず。
「そんな理解で良いと思います」
瞬さんは子どもの時から読者家だったみたいだから、文学と言えば純文学の思い込みが強かったぐらいなんだろうな。だから小説を書くなら純文学にしたかったんだと思う。でさぁ、今はどうなの?
「そうですね。城崎温泉のどの外湯に入っても、謳い文句はともかく温泉としての効能は同じぐらいです」
そりゃそうだ。どこも同じ城崎温泉のお湯だものね。