ツーリング日和12(第18話)展望所の決闘

 展望所の駐車場にバイクを停めたぐらいの時に三台のワゴンが駐車場に入ってきた。なるほど大阪ナンバーだな。三十六計逃げるに如かずだけど、あの連中は駐車場の出口を塞ぐようにいるから、いくらバイクでも突破は難しそう。

 駐車場の周囲も広い草原になってるけど、平らそうに見えてもそれなりにギャップはあるものね。モトクロスなら走れると思うけど、

「オンロードタイプよりマシやけど、あんなとこ走らんのが吉や」

 その通り。平たく見えてもどこに穴ぼこがあるかわからないもの。それより何より道路にどうやって戻るかに困りそう。そうこうしているうちに十人ばかりの男が下りて来た。ここは隠岐の観光地だよ。TPOって感覚がないのかしら。

 まるでキタの新地で肩ひじ張って歩いてるような格好じゃない。こんな風光明媚なところだと完全に浮いているのがわかんないのかなぁ。そしたら頭株みたいなのが進んできた。コトリは、

「誰や」
「監獄の杏十郎や」

 隠岐で知ってる人なんているわけないでしょうが、

「用か?」
「三田村風香にな。そやけどあんたらも一緒に来てもらう」

 やなこった。これから展望台に行かないとならないんだよ。あんたらと遊んでるヒマなんてないの。

「行こか♪」

 展望所の柵の外に出ると地雷のように牛さんのウンコがあると思わないといけない。無暗に草むらに足を踏み入れない方がイイよね。

「道の上かって要注意やけど、こっちのほうがウンコは見つけやすいもんな」

 小高い丘の展望台まで遊歩道は整備されていて、ウンコを回避しながら到着。さすがの見晴らしだ。

「もうちょい行けそうや」

 ウンコがって思ったけど、ここまで来たら行けるとこまで進んでみるのがバイク乗りのサガだ。

「バイク乗りは関係あらへんと思うけど」

 ここで限界だ。そして目の前には知夫里島がある。こんなに近いんだ。絶景スポットを堪能してウンコ地雷につかまらずに駐車場のある展望所まで戻って来れた。ここは来るべきところだと思う。来て見てこそ価値があるところだ。ここからは、

「国賀海岸のツーリングはこれで終わりや。別府港の方に引き返すで」

 その前にお手洗。来た時の感じだとおトイレはなさそううだったもの。用を足して出発。展望所から走りだしてすぐに、

「やっぱりやっとったわ」

 あったのは黄色と黒の横縞のA型バリケード。よく工事現場で見かけるのやつね。あれで道路を塞いだ上で、

『通行止め』

 この立て看板まで添えてある。こうやって展望所に邪魔者が入って来ないようにしてたってこと。とりあえずバリケードを除けないと通れないけど、ありゃ、ご丁寧に全部片づけちゃうの。

「武士の情けや」

 コトリも優しいね。

「牛さんの邪魔にもなる」

 牛さんや馬さんに挨拶しながら、ウンコを避けながら海岸の道まで下って行く。でも島だね。舟引運河の宿から走行距離だけなら二十五キロしかないのよね。歩きも楽しんだから二時間ほどかかったけど、それでもそれぐらい。今目指してるのはコトリの趣味、

「ユッキーは行きたないんか」

 ここまで来たらそりゃ見たいよ。別府港の近くにある後醍醐天皇の行在所とされる黒木御所跡。三十分ほどで到着した。ここには黒木神社があるけど、当時の建物は残っているはずもない。黒木御所跡があるのは別府港の東側にある小さな岬とすれば良いのかな。そうだそうだ黒木って炭で燻した柱でも使ってたの。

「ユッキー、それボケかツッコミか。白木は木の皮を剥いたもんで、黒木は皮もそのままの生木って意味やろうが」

 そうだった、そうだった。引いては粗末って意味にもなるで良いと思う。それって監獄だったとか。

「そこまではしてへんから隠岐から脱出出来たんやろ」

 それでも隠岐国分寺に較べると冷遇だよね。

「後醍醐天皇は真言立川流の呪詛に励んどったと言われとる」

 そうしたくなる気持ちはわかる。それにしても同じ隠岐への島流しだけど、後鳥羽上皇と扱いに差があるような。

「幕府が傾いとる時期の重要政治犯やからやろ」

 なるほど、承久の乱の時みたいに勝者の余裕を見せられなかったぐらいか。後醍醐天皇も評価の別れる人やけど、

「なんやかんや言うて、鎌倉幕府が倒れたのは後醍醐天皇の求心力やろ」

 加えてみたいな話だけど、新たに起こった軍事勢力を味方に付けたのは大きかったとしてる。

「これも今となってはわからん。後醍醐天皇の考えなのか、側近の進言を受け入れたんかも不明やが、それでも最後は後醍醐天皇の決断なのだけは間違いあらへんからな」

 当時の筋目の武士は鎌倉御家人だ。これに対して悪党と呼ばれる新興武装集団も勢力を広げてたぐらいで良いはず。悪党は鎌倉御家人から見下ろされる存在ではあったけど、後醍醐天皇が声をかけたことで味方になったはず。楠木正成が代表格かな。

「後醍醐天皇は武家の世を貴族の世に戻そうとして失敗したとなっとるけど、新しい政権構想まで考えられへんかったんはある」

 悪党勢力は後醍醐天皇に味方したけど、悪党勢力だけで鎌倉御家人勢力に対抗するには弱かったぐらいだろうな。

「対抗させながら主導権を握るつもりやったんかもしれんが無理あるで」

 ぶっちゃけ、公家も武家も押さえつけての天皇独裁みたいなことが出来る政治力はなかったぐらいかも。

「長袖者の権威だけで君臨できる時代は終わっとってん。それも見えたかもしれんけど、だからと言って、どうしたら良いまで思いつかへんかったんやろ」

 この時代の主権者は完全に武士になっていた。そんな武士が求めていたのが仲裁機構、調節機構で良いはず。それを本来果たすべきはずの鎌倉幕府が機能不全を起こしたのが倒幕へのマグマだった。

「蒙古襲来の御褒美問題も引っ張っとるはずや」

 だから武家が求めたのは新たな仲裁機構かな。

「新たな言うより、北条家やない仲裁機構かもしれん」

 討幕の旗印に後醍醐天皇はなれたけど、武士は神輿として担ぎはしたものの、武士を統治するのは武士の意見が強く、さらに建武の新政にも失望したから尊氏に支持が集まったんだろう。

「だから太平記の時代は嫌いや言うとるやんか。ホンマに英雄がおらん時代やった」

 コトリに言わせれば時代の寵児になったはずの尊氏が、モタモタしまくったから南北朝みたいな時代が出来てしまったぐらいだ。

「尊氏の時に蒙古襲来があったら日本は滅んどるわ」

 そりゃそうかもしれないけど、尊氏もどんな統治システムにするかがわからなかったと思ってる。鎌倉幕府が成立した時の武士はまだ小勢力の集合体だったのよね。当時の軍勢の数え方は騎だったけど、あれって小領主が馬に乗り、それに下人と呼ばれる徒歩兵が付き従うスタイルなんだ。

 それが経緯はあれこれあるけど鎌倉時代後半から南北朝の時代に、領主としての武士の支配領域が広がった側面はある。それを加速させてしまったのが尊氏の政治だけど、あれは尊氏の失策と言うより時代の流れとして良いはず。

「つうか武士が守護大名として成長してもたのを呑み込んで、室町幕府にしてもたんやろ」

 コトリはホントに尊氏が嫌いだけど、尊氏を戦国期の信長や家康と較べたらいけない気がする。尊氏だってしょせんは旗頭の地位しかなかったと見た方が良いと思うのよ。信長や家康みたいに自分の力で他を押さえつける立場じゃなく、武士やさらに大名から担ぎ上げられる地位だった見るべき。

「その程度の存在やったから室町時代はグラグラしっぱなしや」

 室町時代と言うか、室町幕府、足利将軍のイメージはそうだものね。

「だいたいやで、将軍家より大きい大名家がゴロゴロおるような体制がイビツすぎるわ」

 そろそろ行こうか。