ツーリング日和12(第12話)中ノ島

 中ノ島はコトリの歴史趣味が大きいのだけどね。

「ユッキーも行きたい言うたやんか」

 まずは菱浦港から南に下るのだけどこれが峠道の一車線半も怪しい道。ナビにはカルデラ展望台があるってなってるけど、

「あらへんな。どうもさっきの路側帯みたいなとこみたいや」

 隠岐もカルデラがあるのはわかるけど温泉が少ないね。

「掘ったら出そうなもんやけどな」

 隠岐にある唯一の温泉は島後の北の端ぐらいで最近できたもの。それも入浴施設だけで宿は無しだものね。これもわたしの隠岐への不満かな。だいぶ街まで下りて来たけど、くにびき神話佐伎の里ってなんだ。

「ああそそれか・・・」

 出雲風土記で良いみたい。国引き神話は出雲が狭いから、あちこちから国の余りを引っ張り込んで島根半島を作って国を広げた神話になるけど、より具体的には四つの地域で、

 ・栲衾志羅紀の三埼
 ・杵築の御埼
 ・狭田の国
 ・闇見の国

 この三つを引き寄せて三穂の埼、今の美保関で縫い合わしたとなってるのよ。この四つのうちで闇見の国は、

『高志の都都の三埼』

 こうなっているから高志が『越』、都都が『珠洲』と推測されて能登半島の珠洲にあった岬だろうとされてる。栲衾志羅紀の三埼も志羅紀は『新羅』とする人も多いけど、新羅のどこになるかは論争が多すぎるぐらいかな。残りは難問で、

 ・北門の佐伎の国・・・-杵築の御埼
 ・北門の良波の国・・・狭田の国

 このうち佐伎の国は隠岐の崎だとする平城京跡の木簡が出土されたとかなんとか。

「それやったら北門の良波の国も隠岐みたいな気もするけど、こないな小さな島から引き抜かんでもエエ気がするわ」

 わたしもそう思う。その佐伎の里の隣にある鄙びた神社が三穂神社。ついでに言えばその神社の麓に広がっている漁港が崎港のはず。承久の乱で敗れた後鳥羽上皇が隠岐で上陸したところで、その夜に泊ったのが三穂神社になってる。こんな端っこに上陸したんだ。

「それはな・・・」

 この時の後鳥羽上皇の御製が残っていて、

『われこそは 新島守よおきのうみよ あらきなみ風 こころして吹け』

 ここに『あらきなみ風』ってあるから、海がかなり荒れていたから、港を見つけたから逃げ込んだぐらいで良さそうなんだ。観光的にはどうってことないところだけど、歴女にとっては欠かせないところかもしれない。

 三穂神社から次に向かったのは木路ヶ埼灯台。これもまた山の中の細い道。舗装こそしてあるけどガチの一車線だ。

「隠岐最南端の灯台や」

 ちゃんと休憩所と、道路に方位モニュメントが描かれてあるのに驚いた。ここから引き返して天川の水。日本の名水百選の一つで一日に四百トンも湧いて来るとか。飲んでみたけどミネラル・ウォーターみたいだ。

 そこから島の北側にある明屋海岸に。今日はずっと一車線から一車線半のワインディングばっかりだ。クルマが少ないのは助かるけど、

「ツーリング動画見ても中ノ島の南側や東側を走っとるのがあらへん理由がようわかったわ」

 だったらやめといたら良かったのに。まあ、これもまたツーリングの楽しみで、後であそこは走ってみたけどこうだったの自慢話と言うか、思い出話に出来るもの。それはともかく明屋海岸は女神がお産をした伝説があるそうで、あのハート形の洞窟のところかな。

「いくら女神でもこんなところでお産はやりたないな」

 御意。次は隠岐神社。ここは紀元二千六百年事業に関連して、後鳥羽上皇崩御七百年に建てられたとなってるけど、

「元はもっと古いねん」

 まず慶長十三年に飛鳥井雅賢が後鳥羽上皇の火葬場に廟殿を立て、さらに後鳥羽院神社と呼ばれた神社もあったそう。だけど明治の廃仏毀釈で廟殿があった源福寺ごと廃寺になり、後鳥羽院神社も御霊を水無瀬神社に移したために神社も取り払われたんだって。

「ここも微妙なとこあるな」

 というのも祭神は後鳥羽天皇だから本来は神社じゃなくて神宮になるはずなのよね。それでも国家事業の一環として作られただけあって立派だよ。

「この辺の風景見ながら十九年を過ごしたんやろな」

 後鳥羽上皇は隠岐の崎港に上陸して、おそらくコトリと越えたあの峠を歩いてここまで来たはず。行在所は火葬場にもなった源福寺だったのもわかってる。

「鬱屈した部分もあったとは思うけど、開き直って楽しんだ部分もあってんやろうな」

 島民は今でも『ごとばんさん』と親しんで呼ぶそうだし、隠岐の闘牛のルーツともされている。

「角を突き合わせて遊ぶ子牛を上皇が面白がったって話やな。それやったらと、上皇の前で牛を戦わせてんが始まりやとされとる」

 おそらく鎌倉幕府も安定期に入ってたから、後鳥羽上皇の扱いも穏やかやだったのかもしれない。都に戻しこそしなかったけど、暮らしとしてはそれなりに不自由しない程度だった気がする。

「島流しで十九年も生きてるさかいな。失意の果てのままやったら、数年で死んどるやろ」

 そういうケースは多いよね。

「宇喜多秀家みたいな例外もおるけど」

 関が原で敗れて一六〇六年に八丈島に流されて、亡くなったのは一六五五年で享年八十四だよ。また大名として復帰する日でも夢見てたのかな。

「わからんけど、体は丈夫やったんは間違いない」

 秀家よりは後鳥羽上皇の方がいつか都に帰れる可能性は少しは高そうだから、その日を夢見て希望を燃やし続けたのかもしれないけどね。だったら島巡りぐらいやってたかもね。

「中ノ島から出たかどうかはわからんわ。それやったらそれで、腰掛け系の伝承遺跡が残っとるはずやからな」

 それは残ってそう。それでも島後までは無理としても西ノ島ぐらいは行ってる気がする。だからと言って歴史が変るわけじゃないけど、

「これはどうでも良いような話やねんけど・・・」

 後鳥羽上皇は高倉天皇の息子で第三皇子なんだよね。第一皇子が壇ノ浦で散った安徳天皇で、第二皇子が平家の都落ちの時に皇太子扱いで連れていかれた守貞親王。第三皇子であった後鳥羽天皇は兄二人が不在だから天皇として擁立されたぐらいで良いと思う。

 後鳥羽上皇は承久の乱に敗れてその子孫も遠流になったぐらいの理解で良いのだけど、皇統はなんと後鳥羽上皇の兄である守貞親王になるんだよ。具体的には守貞親王の息子の後堀河天皇、さらに四条天皇と続くことになる、

 ところが守貞親王の系譜は四条天皇で途絶え、すったもんだの末に擁立されたのが後鳥羽上皇の孫である後嵯峨天皇になる。後嵯峨天皇は院政を敷いて後深草天皇になったのだけど、後深草天皇は病気により弟の亀山天皇に譲位になる。

「それでやな、後嵯峨は亀山の息子の後宇多天皇に皇位を継がせるんや。そやけど後深草の息子の伏見が不満をもってやな・・・」

 ああなるほど、亀山天皇の血筋が大覚寺統、後深草天皇の血筋が持明院統になったのか。この火種は鎌倉幕府でくすぶり続け、最終的に大覚寺統の後醍醐天皇の時に幕府は滅亡したことになる。血筋だけで言えば後鳥羽上皇の末裔が鎌倉幕府を滅ぼしたと見れるのか。

「血筋だけやで。そやけどみんな高倉天皇の後裔やんか。ほいでもって、高倉天皇の実母は平滋子やから女系の平氏の血が入ってる」

 でも平滋子は、

「ああそうや。桓武平氏ではあるけど高棟流の公家の方の平氏や。高望流の武家平氏とは大昔に別れとる。ほいでも高棟流平氏も平氏全盛の時に一族としてブイブイ言わせとる。まあ、こんなん言い始めたらキリあらへんねんけどな」

 平氏の血はともかく、後鳥羽上皇の血筋は今の皇室にも伝わってるのだけはわかる。日本も古い国だよ。ところで腹減ったぞ。