「お代わりください」
今夜は夕方から味半で独りで飲んでる。もう何杯目だったっけ。途中からわかんなくなってるよ。ここの冷酒は枡の中にコップを入れといて、一升瓶からじゃぶじゃぶ継いでくれるスタイル。一杯一合ぐらいのはず。
そう言えば龍田川やレストランテ・カナタニにはもう行けなくなったよな。そうあのバーにもね。行けばあいつがいるかもしれないし、あいつの隣に智子がいるのを見ないといけないじゃない。それはさすがにね。
それ以前に恵梨香のお給料じゃね。でもまぁ、よくあれだけ連れて行ってくれたものだよ。行ってないのは、えっと、なんて店だっけ、予約が三か月待ちのイタリアンと、目の玉が飛び出るほど高いステーキ屋。
そこだって、いつか行こうと約束してくれたし、あいつが約束したら必ず実現するはずだった。そうそう、あいつはマメな割には注文するのが億劫がって、どの店でもお任せか、その店の最高級のコースだった。
「お代わりください」
お酒だって、お勧めのまま。メニューすら見てなかった。あいつに言わせると、下手に値段が書いてあると、高いのを遠慮してしまったり、それが飲めなかった後悔が残るとか、なんとか言ってたっけ。
あれだって恵梨香に気を遣っているのが丸わかり。恵梨香は御馳走される方だから、どうしたって気になるのよね。やっぱり一番高いのは遠慮しとこうとか、こっちが本当は飲みたいけど、高いからこっちは我慢しようとか。
あいつは恵梨香にそうされるのが嫌いだったんだよ。恵梨香が本当に食べたいものを食べ、飲みたいものを飲んで幸せそうな顔を見るのが楽しみって本心だと良く分かったもの。ずらっと並んだ酒瓶から選ぶときでも、
『どうせ全部飲んじゃうから、料理に合わせて適当に』
これがサラッと言えちゃうもの。まあ、全部飲んじゃうんだけど。あいつは恵梨香が余計な気を遣うのを嫌がった。そのくせ恵梨香にどれだけ気を遣っていたことか。食べに行くのだって、ちゃんと予定を確認してくれて、ばっちりエスコートしてくれた。楽しかったな、嬉しかったな。こんな恵梨香にそこまでしてくれたなんて、今でも夢みたい。
「お代わりください」
そうそう、あいつにもらったバカラのグラスだけど、友だちが来た時に割っちゃったんだ。あれはショックだった。友だちだから怒れなかったけど、血の気が引くとはあんな感じだと思ったもの。友だちも弁償するって言ってくれたけど、そこじゃないんだよ、あいつからのプレゼントなのに意味があったものね。あいつにも謝ったんだけど、
『ほい、プレゼント』
出てきたのはレッドボックス。花のレリーフやアカンサスが金彩で描かれた華やかなワイン・グラスだったんだ。あれは恵梨香が一度は使ってみたいって言ってたのを覚えていてくれたんだよ。嬉しかったな。そんなものじゃない心が震えるぐらい感動した。
あんな日は二度となくなったんだよね。あんな日々が恵梨香にあったのが、今でも信じられないぐらい。あんな日がこれからずっと続いていくと恵梨香のバカは信じ込んでたんだよ。そんなものある訳ないじゃない。
「すみません、お代わりください」
味半には雁木があるのもお気に入りの理由の一つ。恵梨香は獺祭より雁木の方が美味しいと思うぐらい。そんな雁木が主催するのが雁木の会。まあ試飲会みたいなものだけど、有料だけど事実上の飲み放題。
あいつも連れて行ってあげたんだ。あいつも雁木が気に入ってくれて嬉しかった。あいつは恵梨香が好きなものを全部気に入ってくれた気さえしてる。もちろん全部じゃないけど、あれだけ好きなものが合う人は滅多にいないと思うよ。
いくらでも思い出しちゃうよ。この歳の二人連れだから、どこでも恵梨香は奥さん扱いだった。あいつもそう扱っていてくれた気がする。いやそうしてくれていた。恵梨香なんてその気満々だったし。
「お代わりお願い」
「恵梨香さん、飲みすぎですよ」
飲みすぎか。もうイイじゃない。ダイエットもジムでのトレーニングも、もうオシマイ。もう見て欲しい人はいなくなったものね。恵梨香を見て欲しかったのはあいつだけ、あいつに見せるのが恵梨香の生きるすべてだった。
あははは、あいつは中島みゆきが好きだったんだよね。実は恵梨香も好きだった。切なく愛する男を想う女の哀愁がね。あいつが歌う時に思い浮かべてたのは由佳かな、智子かな。恵梨香じゃないよね。心の中は土砂降り気分なんかになる日が恵梨香にも来るとはね。
まだ生きて行かなきゃならないのか。由佳はどんな気持ちで生きてるんだろ。恵梨香は由佳みたいに強くない。このまま酔い潰れて死んでしまいたい。
「お代わり」
「恵梨香さん、もうダメです」
「飲ませてお願い」
こんなものお酒以外でどうやって誤魔化せるって言うのよ。飲んだって思い出すばっかりだけど、飲まなきゃ気が狂っちゃうよ。どうせ気が狂うのなら酔いながらそうなりたいじゃないか。
「だからお代わりって」
恵梨香には酔っぱらうのも許されないって言うのかよ。それしか恵梨香の行くところはないんだよ。
「これ水じゃない」
「もうやめて下さい。恵梨香さんらしくありません。これ以上、飲んだら恵梨香さんが・・・」
あれ女将の顔があんなに心配そうに。まだ、そんなに飲んでないじゃない。
「恵梨香さん。うちも商売ですけど、大切なお客さんを潰してまで儲けようとは思っていません」
大将が出てくるなんて珍しいな。大将は女将さんと違って口下手で、いつも黙々と料理作ってるもんな。
「なにがあったかは知りませんが・・・」
飲ませてくれないなら恵梨香は帰るよ。あれっ、本当に酔ってるとか。イヤだこの店、グルグル回ってるじゃない。立ってられない、倒れそう。
『バタン』
「恵梨香さん、恵梨香さん・・・・・・」
恵梨香の意識が消えていく。これで今夜はやっと眠れそう。ここじゃ迷惑だから、悪いけどそこら辺に捨てて行ってくれ。どんなにベロベロになって、ゲロ吐きまくって、醜態さらしても、もう誰も気にする人がいなくなったんだよ。
道端にビヤ樽狸が一匹や二匹、死んでても、もう誰も振り返りもしてくれない。そのまま野垂れ死ぬのが恵梨香にお似合いだよ。恵梨香の恋も、恵梨香の夢も、恵梨香の人生もすべて終わった。