黄昏交差点:レストランテ・カナタニ

 あいつとメシ食ってるのはレストランテ・カナタニ。ここはハンター坂にある店だけど、真ん中に厨房があって、店に入って右側がテーブル席で、左側がカウンターになってるんだ。店はレストランテを名乗ってるけど、テーブル席がレストランテで、カウンターがトラットリアになってる感じとしても良いと思う。

 その証拠って程じゃないけど、テーブル席ではコース料理のみで、アラカルトで食べたい人はカウンターだけになってる。逆にカウンターでコース料理を食べようと思えば、予約していないと出てこないシステムになってるんだ。

 恵梨香はテーブル席よりカウンター席の方が好き。だからこの店に来るときはカウンター席に予約してもらってる。目の前で作っているのを見ながら食べるのが美味しく感じるし、ワインとかの注文をしやすいのもあるかな。

 恵梨香はワインも好きだけど、かつては食事に合わせてワインを楽しむのは難しかったんだよね。だってさ、ワインを飲もうと思ってもボトルで頼むか、ハウス・ワインしかない店が殆どだったもの。

 それがグラスで提供してくれる店が増えてるんだよね。この店もそうだけど、なんと料理ごとにワインをコース料理に合わせて出してくれるセットがあるんだ。うん、選ぶセンスも悪くない。料理七種に七杯でボトル一本程度らしいけど、お酒の弱い人には向かないかな。

 料理はどれも美味しいけど、えへへ、ここの生ハムはとくに好きなんだ。生ハムなんて今どきスーパーでも売ってるけど、ここのは一味違う気がする。あいつが言うには生ハム自体も特級品だろうとしていたけど、それより鮮度が違うんじゃないかって。

 生ハム自体は保存食品だけど、あれも切り出された瞬間から風味が落ちるはずだって。スーパーで売ってる奴なんて、切り出して真空パックにして、下手すりゃ何日も経ってから食べることになるから、これだけの差が出るんじゃないかとしてた。

 店の方も自信があるらしくて、出すときには生ハムだけで出すんだよ。付け合わせみたいなものは無しだし、食べる時に切ったりもしない。それをスティクで刺して一枚ベロンと食べるのよ。これで恵梨香は生ハムを見直したぐらい美味しかった。

「えっ、由佳に会ったのか・・・・・・」

 どうしようかと思ったけど話すことにした。隠し事は良くないし、あいつだって気になってると思ったから。そしたら黙り込んじゃった。横顔を見てるけど、じっと何かを考え込んでると言うか、思い出してる感じ。

 あいつの胸の内がわかる気がした。全部思い出してるんだよ。由佳との思い出を。中学時代から高校時代、そして最後に会った時。妬くけど許す。それぐらいあいつにとって由佳は特別の女なのは良く知ってるもの。

 でもね、それで良いと思ってる。由佳はあいつのことを最後に愛してた。愛されてるあいつが、せめてそれぐらい反応してくれなかったら、由佳が可哀想すぎるじゃない。恵梨香のライバルではあったけど、由佳は決して敵じゃない。由佳は恵梨香の大切なお友だちだもの。

「また一人、不幸にしてしまったかもな・・・」

 苦しいのだろうな。恵梨香に胸の丈をぶつけるわけにもいかないものね。ぶつけられたって受け止めてやる自信は・・・・・・あんまり無いけど、できたらぶつけてもらう仲になりたいよ。

 でもさぁ、あいつの責任じゃないよな。由佳が高一の時に別れたのは、あいつが悪かった訳じゃないし、最初の結婚相手を選んだのも由佳。それが思わしくないものになったのも、あいつには関係ない。

 一つだけあるとしたら、再会した時に一直線にベッドに進み彼女にして再婚に驀進すること。でもそれを後悔するにはいくらなんでもだし、結果論過ぎるよ。とは言うものの、簡単に割り切れるものでもないだろうし。

「実はリサリサもな・・・・・・」

 どうも聞いていると、こいつと泥棒猫の話をした旧友は、味半で会った墓石屋さんみたい。世間って広いようで、狭いね。でも聞いてると恵梨香の胸が苦しくなる話じゃない。味半で会った泥棒猫の様子は殺意が湧きそうだったけど、あの時に一緒にいた男にヤク漬けにされてたって言うのよ。あいつも泥棒猫の様子にタダならぬ物を感じたらしくて、墓石屋さんの家まで訪れて相談したらしい。

「修は悔しがってたよ。でも、常習者の治療は難しいなんてものじゃないんだ」

 治療法自体はシンプルで、とにかくヤクを使わせない事だそうだけど、ヤクをやめれば禁断症状に襲われて狂乱状態になるんだって。そこを乗り越えさせるのだけど、

「自傷行為があったり、薬物の影響での突然死も起こりうるから厳重な監視が必要になる」

 さらにそうやって依存症から脱却させても、再びヤクの誘惑に勝てずに手を出す者が多いんだって。いくらあいつが医者でも、どうにか出来るものではなさそう。ある意味、一番良いのは刑務所に入れられることだろうけど、誰だって昔馴染みがそうなるのは嬉しくないものね。

「それでも修はやる気だった」
「それって」
「警察への告発だよ」

 そこまで泥棒猫は追い込まれてるらしい。あいつも墓石屋さんも泥棒猫には相当な想い入れがあるで良さそう。高校時代の泥棒猫はそれぐらい輝いてたんだろうな。

「修とな、たとえリサリサがどう変わろうが、友だちであろうと誓いあったよ」

 この件は妬かないよ。もう泥棒猫はライバルじゃない。泥棒猫と呼ぶのもやめよう。リサリサは哀れな弱者だよ。弱者を叩いて喜ぶほど恵梨香は落ちぶれていないつもり。でも辛いだろうな、理由はどうあれ旧友を警察に売るようなものじゃない。

「それは修も言ってた。でも死なせたくないってな」

 なにか嫌な予感がまたする。あいつが離婚したのも大事件だけど、その後にあいつに関わった女の末路が良くないよ。由佳は自らの過去を許せず姿を消し、リサリサは既に破滅への最終段階にいる。

 まだ残っているのは恵梨香と智子になるけど、あいつは誰も選んだり、落としたりしてないのよね。だから恵梨香と智子も選ばれるのじゃなく、どちらからが脱落する気がしてならないの。

 あいつは再婚をかなり真剣に考えているとして良い。そのために最初の結婚の失敗を繰り返さないように考えてるはず。そんなものは誰でもそうするけど、あいつが何を一番重視しているかなのよ。

 あいつの再婚像はおおよそつかんでる。同年配の相手との友だち同士みたいな夫婦生活。話題も、好みも合って、ついでじゃないけど夜もしっかり愛し合えるぐらいかな。夜は置いといても、それ以外の恵梨香の評価が何故か高いのも今ならわかる。

 リサリサが現れようが、由佳が現れようが、あいつは恵梨香を手放す気配すら見せないんだもの。ただあいつは再婚に関して、もっと大きな前提条件を持っている。それはお互いを信用、信頼できること。

 当たり前すぎるけど、あいつは初婚の時にそれをこっぴどく裏切られてる。それも、ほぼ目の前で延々と聞かせ続けられてるんだよ。これがトラウマにならない人間なんてまずいないだろ。

 そう浮気や不倫をするような相手は願い下げって事になる。それだって結婚するぐらいなら当たり前すぎる条件だけど、あいつは離婚協議の時にこうまで言っている、

『寂しさを理由に不倫が免責されるなら、これからも他の理由で不倫は免責される。つまり不倫をするような人間は、これからも繰り返す』

 これを聞いた頃は、浅はかな元嫁を鼻で嗤ってたけど、なんてことはない恵梨香のことそのものになっちゃうんだ。そうなんだよ、あいつの再婚相手になる資格は、あの不倫をした時点で無くなってることになる。

 もちろん恵梨香は二度と不倫なんてする気はない。あいつに選んでもらったら、あいつしか見ないし、あいつの事しか考えない。恵梨香の残りの人生はすべてあいつのもので、あいつを幸せにする事だけで生きていく自信はある。

 あいつは違うんだ。あいつは恵梨香がやっと巡り合えた、やっと出会えた、やっと心の底から愛し抜くことが出来る相手なんだ。恵梨香はあいつと出会うために生まれて来てるし、あいつを愛するために生きて来たんだよ。

 恵梨香の不倫は黙っていればわからないはず。でもそれはあいつにウソを吐くことになるし、死ぬまで背負い続ける十字架になる。そうなんだよ、あいつが一番重視しているお互いの信用や信頼を最初から裏切ることになっちゃうのよ。

 由佳の気持ちがよくわかる。由佳があいつを思う気持ちは本物だった。それこそ痛いぐらいに恵梨香に伝わってきた。でも由佳は深く愛するが故に自分の過去を許せなかったんだよ。自分の過去があいつの重荷になってしまうことを。だからあいつとの楽しかった時間、嬉しかった時間だけ持って去って行ってしまった。


 あいつは由佳とリサリサの件で気が沈み、恵梨香は不倫の過去に怯えちゃって、今夜の会話は盛り上がらなかった。だからあれだけ覚悟を決めてきた勝負のベッドも、あいつも言いださなかったし、恵梨香も切り出せなかった。

 ずっと恵梨香はあいつの奥さんになる気で頑張って来たけど、今夜は途轍もない壁にぶち当たった気がしてる。これは壁なんてものじゃない、振り向けば破滅の淵に立ってるとしか思えない。

 歳月は人に過去を刻む。まだ刻まれていなかった時のように、ただ相手を好きになり、愛することが自由に出来なくなっている。人は前を向いて歩くべきだけど、過去は消し去れるものではない。良いことも、そして悪いことも。

 あいつの再婚への運命の歯車は確実に回っている。その中でリサリサと由佳は消えた。これが潮時、次に消えるのは恵梨香しかいないよ。イイ夢を見せてもらったのかもしれない。このビヤ樽狸の恵梨香ビッチ様が、あいつの奥さんの座にここまで迫れたんだものな。

 もう恵梨香には見える。智子に恥ずべき過去はない。だからこそ最後に残る。いや、最初から残る運命だったんだ。あいつにとって智子は初恋の人、いや智子にとってもあいつは初恋の人。

 二十五年前に魅かれ合った二人が、幾多の試練を経た末に再び巡り合い、ついに結ばれるってことだよ。智子は近いうちにあいつに連絡を取る。あいつが智子に会わない理由はどこにもない。

 会えば二人の時間は高校時代にすぐに戻り、そこから、あの日に果たせなかった夢に一緒に歩いていく。もう二人の進む道を遮るものはなにもない。あの二人の恋花は二十年の歳月を乗り越えて大輪の花を咲かせるよ。

 恵梨香も由佳に見習おう。あいつとの楽しかった時間、嬉しかった時間だけを抱えて生きていく。それがあいつを愛し、あいつに愛された女の宿命だよ。でも良い恋だったよ。恵梨香だってこんな恋をすることが出来たんだもの。

 あいつがいなければ、こんな素晴らしい恋を知ることが出来ずに老いさらばえて死んでたよ。アラフォーになって本当の初恋を知った気分かな。いや恵梨香の最後の恋、間違いなく最高の恋だった。今夜があいつとの最後の晩餐。ごちそうさまでした。そして、さようなら。