西三河の鎌倉往還

ここまで来たら鎌倉往還を出来るだけ正確に把握したくなりました。尾張から沓掛はだいたい特定できましたから、沓掛から岡崎までやります。ほいでもって鎌倉往還なのですが、江戸期に東海道が定めれた時に外れたルートは寂れたところが少なくなかったようです。相原郷から古鳴海なんて明治期の地図でも確認できなかったぐらいです。この鎌倉往還(鎌倉街道)を研究した人物に浜田与四郎がおられるそうです。浜田は刈谷藩家老だそうで、まとめた時期は文政年間となっています。この浜田が作った「鎌倉街道之図」が鎌倉往還の特定に今でも貴重な資料だそうで、私もそれを参考にしてみます。


沓掛〜八橋

地図の大きさの関係で分割しているだけですが、

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へぇっ、てなところで池鯉鮒は通っていなかったようです。もっとも古代東海道や江戸期東海道と違って戦国期の鎌倉往還は複数の道があったり、季節で道が変動していたとする研究もあるようですから、池鯉鮒を絶対に通っていないとは言い切れない部分はあります。まあ鎌倉往還は通っていなくとも知立神社は延喜式にも載っている古社ですし、門前町から発展した町ですから鎌倉往還にも道はつながっていたのは間違いないところです。

さて桶狭間の時にも義元は池鯉鮒に進んだとなっていますが、必勝祈願もあったでしょうし、大きそうな神社ですから宿泊施設もアテにした部分はあるとは思います。ただそれだけでない気もしています。池鯉鮒からは重原から刈谷に伸びる道もあったはずです。桶狭間前に義元が緒川の水野氏を攻めた時もこの道を利用したとするのが自然でしょう。元康の大高城への兵糧輸送は海路利用を仮説して立てていますが、池鯉鮒で松平元康隊・朝比奈泰朝隊と分かれた可能性もある気がします。


重原荘

重原には重原城があって、この時期の戦略地点の一つですが、平安期に成立した荘園である重原荘の中心地であったとなっています。荘園にも大小があるので「そんなものか」ぐらいに思ってましたが、水土の礎様から図を引用しますが、

ちょっとビックリしましたが西三河の北側に位置する大きな荘園であったことがわかります。ただ豊かであったかどうかは疑問で、重原荘のあるあたりは低地が知多湾で微高地である台地は水利が悪く農地開発は遅れたそうです。西三河で開発が先行したのは矢作川下流地域の理解で良いようで、室町期になると南側の吉良荘で大規模な開発に成功したとなっています。西三河の農地開発の歴史を追うと長くなるのでこの辺にしますが、重原荘の中心が重原に置かれていたことは注目しても良い気がします。

重原荘全体からすると重原はえらい南側に偏っていますが、平安期はこの辺ぐらいしか農地に出来なかった気がします。というより、この辺が重原荘ではまとまった面積の農地があったぐらいに言い換えた方が適切かもしれません。だから緒川の水野氏が三河に勢力を伸ばすときに知多湾を渡って刈谷から重原に進出したんだろうです。また松平清康による三河平定の時にも、ここを奪うのが重視されたぐらいです。なにが言いたいかですが、西三河北部の重原城周辺が重要地域であり中心地の一つであれば、そこから北側にある古代東海道や鎌倉往還との連絡道もそれなりに整備されていたんじゃなかろうかぐらいのお話です。


尾崎〜岡崎

八橋〜尾崎もあるのですがこれは省略します。

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青色の破線が律令期の東海道であり、江戸期の東海道にもなります。こちらの方が余程自然な気がしますが、鎌倉往還は南に大きく迂回します。地形と豪族の分布と、渡河地点がの変更でもあったのでしょうか。西三河の焦点は安祥城ですが、位置的に矢作川の渡河地点から一番近い丘ぐらいに見れば良さそうです。矢作川を渡れば小豆坂合戦の古戦場になりますが、織田軍は矢作川を渡河し上和田に進出して今川軍と戦ったとなっています。小豆坂は鎌倉往還を塞ぐというより、鎌倉往還を見下ろす地点と見た方が良さそうで、織田軍来襲に対して今川軍は小豆坂の坂の上に陣を置いて戦ったぐらいの理解で良さそうです。

さて安祥城なんですが、現在の地理感覚ならそこまで信秀が進出すれば西三河をほぼ手中にした感じがしますが、当時的の面積感覚はチト違う気がします。西三河の農地は矢作川流域が主体で知多湾周辺の開発は江戸期になってからの開拓によるものです。微高地である台地の上も水利が整ったのは江戸期からで良いと思います。重箱的なお話ですが、信秀の安祥進出は大きな戦略的意味はあり、面積で言えば西三河の8割ぐらいを占領しているように見えますが、松平氏にしてみれば半分ぐらいって感覚ではなかったかと思っていますが、五十歩百歩のお話でした。