光秀の出自の続きです。ヒントと言うか話を広げるタネはJSJ様の
宮城家に興味を覚えました。
宮城家としては、事実かどうかということとは別に、明智光秀の係累であることに価値を見出しているのだと感じました。
にもかかわらず、明智光秀自体は目立たせたくないというか顕彰したくないというか、そういう思惑を感じます。
この二つの立場は矛盾していると思います。
宮城家がこの系図に込めた政治的意図は何だったのでしょう?
いつも「あっ!」てなところを突っ込まれるのですが今回もまたそうです。
まず宮城系図の宮城家がどこなのかが私には調べられませんでした。武家として宮城を名乗る家はググる限り2つ見つかりましたが
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豊島氏流宮城氏
大江氏流宮城氏
揖斐郡揖斐町 出口欽三氏所蔵 大正十二年謄写了
つまりはコピーと言う事です。この出口欣三氏についてもサッパリ判りませんでした。では明治期なり大正期に作られた偽書かと言えばそうとは言い切れず水戸藩の大日本史の参考資料になっています。やはり江戸期には成立していたと見れます。ここでなんですが宮城系図で生年月日が確認できる最後の人物は宮城又之丞って人で天正16年生れとなっています。弟に宮城平次郎、宮木三右衛って名前もありますが、残りの人物には生年月日が無く、来歴も宮城平次郎が事情により恵那郡阿木村に移り住み子孫はそこにいる云々となっています。そいでもって宮城又之丞には没年は無く、妻の記述もなく、さらに宮城又之丞の子どもは「武運長久」と記されて系図は終わっています。系図は書き足されていくものですが、最後の3人は現在進行形(つまり生きている)で終わっているため普通に考えると宮城又之丞が書いた可能性が高くなります。
他にも可能性はいくらでもありますが、これ以上考えても仕方がないので次に進みます。
宮城の名の起こりもよくわからずとりあえず作者と推測している宮城又之丞の来歴には
天正十六年戌子閏五月於桂生 母ハ花木外記女也 住桂村
桂村は本巣郡になります。系図上では宮城又之丞の父に当たる宗俊になります。
三宅弥惣次後改宮城弥十郎 宮城長頭 右京亮
自信はないのですが「宮城長頭」とは宮城家の始祖を意味してるんじゃなかろうかと見ます。つうのも宗俊の父は
童名岩千代 三宅弥平治 明智左馬助 本名光春
これは良くご存じの明智左馬助光春(秀満)になっているからです。つまり宮城家の先祖は光春であり、その子供が宮城を名乗ったぐらいが系図上のストーリーです。光春に遺児がいたかどうかは史書では不明なんですが、宗俊の来歴には、
永禄五年壬戌月生於大野郡結城府内 母ハ本巣郡山口住人古田吉左衛門重則妹也 或ハ宮城弥左右門娘共云々 妻ハ花木外記女也 自天正十年壬午六月移住同郡桂村 慶長十八年葵丑十二月二日没年 五十二歳
ここで気になるのは母が古田重則の娘としている点です。古田重則は実在の人で息子は伊勢松坂藩初代藩主古田重勝です。これじゃ馴染みがないと思いますから三男は古田重然で一般的には古田織部と言われるあの大茶人です。ほいじゃ重則はどうなんだになりますがこの人は秀吉の家臣で播州三木合戦で戦死しています。つまりは秀吉の家臣です。光春の正室は通説では光秀の娘となっており「???」てところです。ここはそうまともに読むのではないと考えます。そうですねぇ、実際はもう一代挟んでいる気がします。光春の息子と称する牢人者が宮城家に居ついて気に入られ、宮城弥左右門娘と結婚し宮城家を継いだぐらいでしょうか。でもって宮城弥十郎が生まれたぐらいです。宮城家に跡取りがたまたまいなかったぐらいを想像します。この一代挟んでいる根拠ですが宮城系図の光春の兄弟に宮城兵内と言う名前があります。来歴として
系図上は光春の兄にあたります。ここからは系図上切れていますが、住んでいた在所の名前を姓にするのはポピュラーですから、この宮城兵内が実質的な宮城家の始祖じゃなかろうかと見ます。家系図上は兵内ですが、宗俊(弥十郎)の妻が宮城弥左右門娘となっていますから本当は弥左右門じゃないかと推測します。ここに明智氏末裔と称する牢人が転がり込んで婿養子となったぐらいです。もちろん宮城兵内自体は遠くに明智氏(ないしは土岐氏)の血を引く家系伝説ぐらい持つ可能性ぐらいは残りますが、明智の一族と言うより明智家の兵じゃなかったかと見ます。山崎での敗戦の後に尾州宮城村に落ち延びていたぐらいです。その程度の人物であったぐらいを考えます。でもってその次が宗俊と家系図にしている宮城弥十郎ぐらいの感じです。
宮城系図の大まか構成ですが前半が明智家の遠祖の話になります。それこそ鎌倉時代まで遡ります。つうか正確にははるか清和天皇から始まっています。この前半の宮城系図の内容についてある研究者によれば他の資料と照らし合わせても十分に評価できる点が多いとしています。どうも何かの伝手で明智家の系図を手に入れたんじゃなかろうかの見解を示されています。後半ははっきり言って光秀関連の話になります。光秀自体の記述は少ないのですが、光秀に関わりそうな人物について詳細に記述されています。系図を書くに当たり宮城又之丞が主題にしたのは
これぐらいでしょうか。だから後半部では光安と光春の記述量が格段に多くなっています。ただなんですが宮城又之丞も光春の来歴を正確に知っているわけではなかったと見ます。それこそ祖父ぐらいからの伝承で、肝心の祖父も知識として相当怪しかったぐらいです。そのため後世で宝賀久男氏の明智光秀の出自と系譜にあるように、國學院大教授であった高柳光寿氏が著した吉川弘文館人物叢書『明智光秀』(昭和33年〔1958〕刊行)は、光秀研究の原点ともいうべきものであるが、そこでは、「宮城系図」が悪書と評価されている。明智(三宅)弥平次秀満などの記事に誤りが多いことがその理由ではないかともみられる
こうされたとも考えています。祖父が光春と結びつけるために話を盛っていたのをそのまま信じて書いたのかもしれません。ほいじゃ光春以前はどうかになりますが、やはりもっと怪しい気がします。前回の時に光綱から光安、さらには光秀の継承話を出しましたが、あの話は光秀が進士信周の息子からの養子で無ければスンナリつながるからです。どういう事かと言えば、
- 光秀は光綱の晩年の子であった
- 光綱は光秀が生まれて間もなく亡くなった
- 健在だった祖父の光継は家督を光安に継がせたものの「その次」は嫡孫の光秀にするように遺言して死んだ
- 光安は父の遺言を守り光秀が元服の時に家督を譲ろうとしたが光秀は固辞した(嫡子のままで留まった)
明智家の継承話は元明智兵だったので実話を下敷きにした可能性は一方で残ります。実話は私が推測した方です。ただ光秀が本流の明智家の継承者とするのは空気として憚ったぐらいです。本流は「光安 - 光春」にしたかったぐらいです。だから光秀は反逆者になり、光春は義に殉じたぐらいの話でしょうか。とはいえ光秀を明智家とは無縁の完全に余所者にするのはさすがに無理があり、姻戚関係の深い進士家からの養子にしたぐらいです。ここも私が何度か指摘していますが、
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光継(光秀の祖父)は何故に自分の息子である光安(光綱の弟)ではなく外孫の光秀への継承に固執したか?
まあ、そうは言っても宮城又之丞にしてもこの家系図を世間に曝して仕官しようなんて考えたわけではなく、どちらかと言うと子孫向け、または近隣の人々に対しての説明用に書いただけと見ています。その程度なら少々強引なストーリーでも「そうだったんだ」で終わります。当時に明智家の本当の内部事情なんて知る人も少なく、また郷士程度の家系伝説に目くじらを立てられる事もなかったぐらいです。大名家でさえ先祖伝説はかなり怪しく、怪しいを言い始めたら徳川家だって始祖伝説の怪しさは相当なものですから、称するものはそのまま認められるだったんだろうと見ています。
光秀は信長に仕え明智家を再興します。信長の軍団の中核は尾張と美濃の兵です。そういう中にあって光秀が明智光秀である事に疑問を抱いたものは信長まで含めて皆無であったと考えています。宝賀寿男氏の明智光秀の出自と系譜からですが、
- 弘治二年(1556)の守護斎藤氏による明智攻めの際、明智城では城将明智兵庫頭光安、弟の次左衛門光久があり、これに従う一族(太字は明智一族とみられる者)としては溝尾庄左衛門、三宅式部大輔秀朝、藤田藤次郎、肥田玄蕃家澄、池田織部正輝家、奥田宮内少輔景綱、可児才右衛門、森勘解由など一族郎党合わせ約八五〇人が籠城したと伝える。これら諸氏が、殆ど皆、明智一族という「宮城系図」は、話がややできすぎている感も、なきにしもあらずだが。その意味で、光秀家来衆に見える上記一族は、土岐沼田系統の明智氏の分岐と同系図に見えるものの、光秀系統の明智氏の分岐も混じるものかも知れない。このとき城兵はみな討死したわけではなく、池田織部正輝家、奥田宮内少輔景綱、三宅式部大輔秀朝、肥田玄蕃家澄などは、その後に光秀に従い、山崎合戦などに参加している。
- 光秀敗死のときの家来衆のなかには、妻木一族(藤左衛門広忠、勘解由左衛門範熈とその三子の主計頭範賢、忠左衛門範武、七郎右衛門範之)もいた。 このときの家来衆には、三宅藤兵衛(式部秀朝と同人か)・周防守業朝(式部の子という)、溝尾庄兵衛茂朝(明智勝兵衛。五宿老の一)、藤田伝五郎行政(五宿老の一)・伝兵衛秀行父子、同藤三行久(行政の弟)、可児左衛門尉、肥田玄蕃家澄、池田織部正輝家、奥田宮内少輔景綱・清三郎(庄大夫、景弘か)などがあり、その殆どが土岐明智の一族かとみられる。このほか、進士作左衛門貞連、安田作兵衛国継や堀口三之丞、伊勢三郎貞興、堀田十郎兵衛などがいた。
私が確認した範囲では進士作左衛門貞連、安田作兵衛国継は山崎の合戦後も生き残り他家に仕えている記録があります。こういう道三崩れで生き残った武将が光秀に忠誠を尽くしている点からも、光秀の出自を捻って考えるよりも光秀は明智の正嫡であったとする方が妥当と考えます。