日曜閑話69

今日のお題は「光秀の出自」です。実はもう1回本能寺を書こうと思い光秀の事を調べ直していたら嵌ってしまったぐらいです。


進士氏

光秀の出自を調べだすと絡んでくるのが進士氏です。進士氏は鎌倉期から記録にあり室町期には将軍家の奉公衆にも名があるそうです。それなりの名門のようですが永禄の変に関連したようで衰微したぐらいの理解で良いようです。ちなみに進士氏は食事に関係していた氏族の様でwikipediaからですが、

将軍の食膳の調理を進士氏が世襲しているのは、室町時代に、庖丁道の一つ畠山流の由来、その仕立て方、庖丁式、食事作法など膳部一切を旗本進士次郎左衛門尉へ伝えたことにより進士流という料理の流派が起こる。その後、進士氏が供御職を世襲していく。

進士流は聞いた事がありますがこういう由来だったとは知りませんでした。では美濃の進士氏がこれの直系かと言えばそうでないようです。美濃の進士氏は宝賀寿男氏の加賀国江沼郡起源の山岸氏についてによると、

 美濃の山岸氏の初代は、加賀から美濃入りした山岸新左衛門とされるが、これは『美濃国諸家系譜』にも記事がある。新左衛門は、名は光義または光頼といい、清和源氏の出で、本国は加賀国江沼郡の住人であり、暦応二年(1339)十月に一族とともに初めて美濃国に入った。このとき、脇屋義助に随い、山岸は、一族の林、富樫、小林、井上、森本などの林氏庶流とともに、越前から美濃へ落居している(「藤原姓林氏 正系図」)。その二年前に、再起した新田義貞脇屋義助兄弟は越前で活動し斯波高経と戦っており、一時はこの地域でかなりの勢威を誇ったが、『太平記』には、このとき敷地・山岸・上木が義貞兄弟とともに活動した記事が見えている。山岸氏の武士が名前を表示されるのは、「山岸新左衛門」だけであり、その実名は記されない。

  新田義貞は越前藤島合戦で討死したのが暦応元年(1338)閏七月であり、その後に脇屋義助が新田一族や南朝に味方する諸氏とともに美濃入りして、本巣郡根尾に拠ったことは史実である。義貞討死以降にあって、山岸新左衛門がこれに同行ないし追いかけで移遷したことも自然である。地理的にも、美濃の根尾谷をさかのぼり、温見峠を越えれば越前国大野郡となるからである。

進士氏でなくて山岸氏ではないかと言われそうですが、山岸氏は姓であり氏は進士であるとなっています。加賀の山岸家は進士の一族だったぐらいと私は受け取っています。南朝に味方したものの戦い敗れて美濃に流れて土着したぐらいの理解で良いかと思われます。美濃に土着した初代が新左衛門ですが二代目を弥太郎光明と言うのですがこれも宝賀氏のレポートから、

光明は、美濃守護の土岐弾正少弼頼遠の婿猶子となり、土岐氏連枝に准じて家名を外山家とも北山の豪家長江殿ともいったと同書に記される。

世は室町幕府となり守護の土岐家とも宜しい関係になったようです。このエピソードを引用したのは山岸家が長江家とも称する事があるからです。でもって山岸家(進士氏、長江家の系譜は宝賀氏の調査によると、

    山岸新左衛門 − 山岸弥太郎光明 − 山岸加賀守満頼 − 長江越前守頼慶 − 山岸(長江)勘解由左衛門貞朝 − 進士作左衛門光貞 − 進士加賀右衛門尉信連 − 進士山岸勘解由左衛門尉信周 − 進士作左衛門貞連
山岸氏の系図自体は伝えられていないらしく諸資料からの調査だそうです。そのためかその時に名乗っていたのが氏名であったり家名であったりの混乱があるようです。正直なところ全員初めて聞くような名前ですが、明智家に関わってくるのは進士作左衛門光貞ぐらいからになるようです。


進士氏と明智

これを調べるには明智氏一族宮城家相系図書(宮城系図)に頼る必要があるのですが、一般的な評価では資料的な価値が低いと見なされる面があります。これも宝賀久男氏の明智光秀の出自と系譜からなんですが

國學院大教授であった高柳光寿氏が著した吉川弘文館人物叢書明智光秀』(昭和33年〔1958〕刊行)は、光秀研究の原点ともいうべきものであるが、そこでは、「宮城系図」が悪書と評価されている。明智(三宅)弥平次秀満などの記事に誤りが多いことがその理由ではないかともみられるが、高柳教授は「宮城系図」の原典に実際に当たって詳細に検討されたのだろうかと疑問を感じざるをえない。世に伝わる系図史料で完璧なものはまず殆どないといってよいが、「宮城系図」もこの例にもれるわけではない。だからといって、同書を悪書と評価するのは極端であり、個々的に見ていくと、むしろかなりの参考になる系図だといいうるものである。

私は古典資料の常として是々非々で見たいと思います。宮城系図には進士氏と明智家の関係について、

明智進士両家之間代々重縁成

この代々って書かれていているのが明智頼弘の妹が山岸家の嫁になった時の記述です。明智氏系図もまた複雑で宝賀氏のレポートによれば、

この土岐明智兵庫頭入道玄宣と争ったのが、妻木村に関しては土岐明智上総介親子であり(『伺事記録』延徳二年〔1490〕八月三十日)、また土岐明智兵部少輔頼定であった(『土岐文書』明応四年〔1495〕三月二八日)。この土岐明智上総介の実名は頼尚で、その子が土岐明智兵部少輔頼定とみるのが年代的に自然であろう。そして、頼尚は「宮城系図」に見える民部少輔頼弘と同人であって、仕えた将軍義尚の諱をもらって頼尚と名乗ったものとみられる。こうしてみると、十五世紀の後半には妻木村や明智荘に二系統の明智氏が併存し、所領の争論をしていたことが分かる。

明智家の系統も一族の争いがあったようでwikipediaにある続群書類従明智家系図も両系統が盛り込まれている気がします。頼弘は宮城系図によれば嘉吉元年(1441年)生まれとなっています。でもって妹は文安3年(1446年)生まれとなっています。ちなみに光秀は宮城系図(通説でも)1528年となっています。この時からでもざっと80年。さらにその時点で「代々」ですから相当血の濃い関係だったらしいぐらいは言えそうです。さてなんですがこの明智頼弘の妹の旦那が宮城系図によれば

進士美濃守源光信

進士加賀右衛門尉信連母

こうなっています。この宮城系図にある進士光信が誰かが難しいところです。宝賀氏の調査にも混乱(むしろ私の方に問題があるかもしれませんが・・・)があって宝賀氏は進士光信を山岸光信と解釈し、さらに山岸光信の娘が光秀の美濃明智城時代の正室と解釈しています。しかし宮城系図を重く取ると進士光信は光秀の3世代ぐらい前の人になります。宝賀氏の調査の進士作左衛門光貞が宮城系図の進士美濃守源光信と見なす事にします。さて頼弘の妹は進士信連を産み信連は進士家の家督を継いでいるようです。これ以外に娘も生んでいます。光秀の祖父にあたる光継(宮城系図では本名を頼典としています)は

室は叔母聟進士美濃守光信女也

つまり叔母さんの娘とイトコ結婚ってわけです。さて光継の子どもが光綱(宮城系図では本名を光隆としています)なんですが、宮城系図を読みます。

母ハ進士美濃守光信女也 蓋光信ハ明智頼広ノ妹婿也 先室ハ武田大膳太夫源信時女也 其室没後再進士長江加賀右衛門尉信連ノ娘迎 以当室為 其名ヲ美佐保ノ方曰 但信連ハ光信ノ子也

光綱は二人の正室を迎えたようで

    先室:武田大膳太夫源信時
    後室:進士長江加賀右衛門尉信連ノ娘
この武田大膳太夫源信時が誰かが判らなかったのですが、個人的には若狭武田氏の可能性が高いと見ます。甲斐武田氏にも武田信時はいますが鎌倉期の人です。つうかこの時期に甲斐武田氏から明智家に嫁が来るとはチョット思えないからです。後年に光秀が若狭に居た因縁はこの辺にありそうな気もします。さてなんですが光綱と進士氏の関係は、
  1. 頼弘の妹が進士光信に嫁いだ
  2. 光信(頼弘の妹)の娘が明智光継に嫁いだ
  3. 光継の子である光綱に進士信連の娘が嫁いだ
書いていても濃い気がするのですが本当に濃い関係です。でもって光秀になるのですが、

光綱生得多病 而日頃身心不健也 因家督之一子設不 故ニ父宗善之命蒙 甥ノ光秀養 以テ家督為 光秀ハ光綱之妹婿進士勘解由左右衛門尉信周之次男也

光綱は結局子どもが出来なかったようです。そこで光継の命により進士勘解由左右衛門尉信周の次男を養子としてもらい受けたようです。でもってなんですが、進士信周は光綱の妹を嫁にしています。信周の嫁の光綱の妹ですがビックリしたのですが光綱の妹を2人嫁にしています。まず1人目ですが、

大永元年辛巳八月信周嫁 進士九郎太郎光賢 明智光秀等の実母了是也 享禄二年巳丑正月二十日卒去 年二十六歳

でもって2人目はなんですが、

享禄二年巳丑十一月信周嫁 進士作左衛門貞連安田作兵衛國継等之実母是也

1人目が正月に無くなった後に同じ年の11月に嫁として迎えている事になります。嫁(先妻)の一周忌が明けないうちに嫁の妹と結婚すると言う事は明智家が進士家をそれだけ重視していたの理解で良いのでしょうか。それにしても早いと言うのが感想です。戦国期の婚姻政策の凄まじさを垣間見た思いです。いくら読まれてもこんがらがって理解しにくいと思いますから進士氏と明智家の婚姻関係を図で示してみます。

たぶん合っていると思うのですが・・・


光秀の「光」

明智家と進士氏の関係を宮城系図から見ましたが、相当密接な血縁関係があるのだけは判ってもらえたと思います。宮城系図を見ながら不思議に思ったのは明智家の当主の諱です。元々は「頼」が片諱として使われていたようです。これは光秀の祖父にあたる光継の本名が頼典としている事で判ります。ところが頼典も途中から光継を使いだした様で、光継の子どもの光綱になると本名も光隆になっています。つまり「頼」の片諱が消え「光」の片諱に取って変わられている気がします。

ちょっと強引ですが進士信連の先代が光貞です。武家では手柄に対する褒賞の一つに主の片諱をもらうと言うのがあります。これも貰っても扱いは様々で名誉として子々孫々に伝えられる事もあれば、一代限りで伝えない事もあります。ヒョットして明智家が「光」を片諱に使い始めたのは進士氏との関係じゃなかろうかです。宝賀氏のレポートから引用しますが

進士作左衛門光貞がいる。また、進士美濃守信慶ともいい、その子には、林通家の養子となった林加賀左衛門光利がおり、娘は山内城田掃部助実通に嫁して木田掃部助実政・山内但馬守盛重(盛豊)を生んだが、後者は猪右衛門一豊の父である(こうした山内一豊の系譜は他書に見えないが、諸伝あるうち最も妥当性があるのかもしれない)。光貞は一に可児郡明智氏より養子だと伝えるが、次の「宮城家相系図書」に記す明智氏の婿というのが実態か。

信憑性はなんとも言えませんが、進士氏と明智家の関係は進士光貞の時期に一気に濃くなったのかもしれません。進士氏も明智家も西美濃十八人衆の一人となっていますが、この時期の明智家がなんらかの問題で苦境に陥りこれを手助けしたのが進士氏みたいな関係です。そのために明智家が進士氏の下風にはいり「光」の片諱をありがたく受け取ったぐらいです。全部想像ですが、そう考えておくと筋が通りやすい点が出てくるからです。たとえば進士信周に対する2人の嫁取りです。いくら政略がらみとは言え異常に気を使っている感じがするからです。何があっても婚姻関係を切りたくないの意思を感じるぐらいと言えば良いでしょうか。


明智家督の不思議

光綱は40歳で亡くなったようです。その時には先代の光継が健在だったようですが、子が出来なかった光綱のために光秀を養子に取る選択をしています。一見当然のように見えますが光秀が養子に迎えられた時期は光綱の最晩年です。そのために叔父光安(光綱の弟)が後見をするとなっていますが、そういう場合は光安が家督を継ぐ方が自然じゃあるまいかです。光秀は幼少ですし、時は戦国期の真っ只中です。家督相続は長子相続がかなり一般化しているとは言え他家からわざわざ養子を取る必然性に疑問を感じます。

光安が家督を継がなかった理由も宮城系図にあります。光継の命により光秀が十五歳で元服するまで後見せよの遺命のためとなっています。計算すると光秀が8歳ぐらいの時ですがこれを光安は守ったとなっています。なぜに光秀でないとならなかったが不思議と言えば不思議なところです。光継自身は宮城系図の上だけの情報ですが、病弱な光綱と異なり武勇に優れ茶の湯も嗜むなかなかの人物に描かれていますが、そこまで光秀にこだわる理由が正直なところ「???」です。

あえて理由を探せば光安の婚姻問題があったのかもしれません。

光安大永年中斎藤和泉守利胤ノ女妻室為 但是斎藤内蔵助利三之叔母也

後の光秀と斎藤利三の関係が判りますが、光安は斎藤家の嫁をもらったため進士氏との縁が遠くなり斎藤家寄りの人間と見なされていたのかもしれません。そういう当主が明智家の家督を継ぐとチト都合が悪いぐらいの政治的判断です。かなりの力業ですがそれぐらいしか理由が宮城系図からは思い浮かびません。でもって15歳の時に光秀が元服した時に明智家督を継いだかと言えばそうではなく、天下統一の望みがあるので城主にならず部屋住みのままで武術や軍略の勉強に勤めたとなっています。そのため光安は後見役として実質的な総領として明智城で政務を執ったとなっています。史実は道三崩れの時に明智城は落ち光安も討ち死にします。この時に光秀は28歳になっていたはずですが部屋住みのまま明智城で勉強に明け暮れていた事になりますが、かなりどころでない不自然さを感じます。


光秀は明智家の系譜から外せるんじゃなかろうか

読みにくかったのですが宮城系図を読んで光秀の部分に非常な不自然さを感じます。系図の中の登場人物は生前の活躍により記述の多寡は相当あります。たった一行程度の物もあれば、何ページも及ぶものもあると言う事です。光安の事績の記述量も相当な分量があります。

なんか読みながら信長・道三が絡む歴史小説のタネ本を読んでいる気がしましたが、なかなか読みごたえがあります。一方で光秀についてはかなり素っ気ないところがあります。前半は光秀が誰の子であるかに記述に終始し、そこから明智落城頃からの死ぬまでの記述ですが、

弘治二年丙辰九月明智落城後暫牢人 足利義昭公仕 後織田信長仕 天正十年壬午六月十三日夜於城伏見小来栖生害 年五十五歳

えっと、こんだけです。その代わり周囲の人物の事績に光秀はあちこちに出てきます。出てくるのですが殆どは光秀の出自の執拗な解説です。それでも史実と照らし合わせると

  1. 父の光綱は子が無かったようだが、弟の光安は健在でなおかつ実態的には明智家の家督を継いでいるとして良さそう
  2. 野望のために明智家を継がなかったのも不自然。そのうえ部屋住みのままで28歳まで明智城にいたのも不自然。
  3. 歴史小説でさえ光秀の明智城時代の活躍について記載できていない
つまり居なくとも差支えが無いと言う事です。では明智家とはなんの所縁も無い人間かと言えば疑問は残ります。たとえば進士信周の2番目の妻から生まれたとされる進士作左衛門貞連や安田作兵衛國継は光秀に仕え山崎でも奮戦しています。斎藤利三だってそうです。光秀が明智の姓を名乗り明智の総領として信長の下で活躍していたのは紛れもない事実です。カタリの明智であればこれらの人物はわざわざ光秀に仕えないと私は考えます。そういう意味では信長もそうです。

信長は親族であるからと言って依怙贔屓を一切しなかった人物として良いでしょう。織田家には幾多の武士が仕官を求め、仕官を望む武士は適当な出自を作っています。ですから少々の出自を主張しても信長は気にもしないでしょうが、明智はちょっと違うと思います。信長は道三にある程度以上の思い入れがあったらしいとされます。それより何より濃姫は道三の娘です。でもって濃姫の母は小見の方であり、光継の娘になります。完全なカタリに明智家を名乗らせるかはあります。それに美濃は信長の領地であり信長は旧斎藤家の家臣をかなり召し抱えています。当たり前ですが明智光安とも面識のある者もおり、明智家の事を知っている人間も少なからずいます。そういう織田家で光秀は明智で通用しています。


光秀は誰だ?

さて史実で確認できる光秀像ですがまず美濃人であったのは間違いないと考えます。理由は単純で当時の事でから訛りで美濃人であるかどうかはすぐにバレます。それと美濃人であったにしても城主クラスの息子である可能性は高いと見ます。理由は光秀の教養の深さです。信長に仕官してから最初の方のメインの仕事は京都奉行みたいな役職であったで良いと見ています。具体的には将軍家や朝廷との折衝や調停役、さらには当時でも10万はいたとされる京都の市政官です。京都の貴顕紳士とのお付き合いが必要なんですが、この連中は「超」が付くほどウルサ型です。有職故実、詩歌管弦、礼法に至るまで田舎者をトコトン見下ろしています。でもって光秀はこの厄介な役目の織田家最高の適任者であったと評価しても良いと考えています。

武勇とか軍略程度ならともかく古典的教養は馬の骨では身に付けられません。こういう教養はそれを身に付けるだけの環境が必要であり、磨き抜くには時間は必要です。当時は教養を身に付けるための書籍を手に入れるだけでも大変であり、師匠を探すにも大変でかつカネがかかります。そのうえ戦国の世ですから、そんな悠長な教養を身に付けるより生き残るためにひたすら武芸のみが求められます。あれだけの教養を身に付けられるとすれば、

  1. 城主クラスの息子である事
  2. 古い家で書籍などのたくわえがある事
  3. 次男以下の部屋住でそんな事をしていても大目に見てもらえる事
かえって嫡子であれば難しいと思います。その上で明智家の事をよく知っていないとなりません。外形的な事だけではなく、内部の人間関係とか人柄的なエピソードも含めてです。そういう人物がいるとしたらグルッと回って進士信周の息子ぐらいが適任者です。進士氏と明智家は誰を見てもお互いの従兄弟、叔父甥みたいな続き柄になっています。血統的にもどちらの苗字を名乗れるぐらいのものがあります。延長線上で日常的にも家族ぐるみ的な交友関係はあったんじゃないかと見ます。とくに光秀がまだ幼い頃には両家に遊びに行くみたいな光景があっても不思議ない気がします。

光秀は次男以下であり、妙に勉強好きの子どもであったぐらいの像を考えます。武門にしたらどうかとの声もあったでしょうが武勇も軍略も学んでいるので「ま、いっか」ぐらいの扱いです。これは想像に過ぎませんが、そういう光秀を光安は案外買っていて可愛がっていたのかもしれません。光安も伝えられるところでは結構風雅の士であるからです。時代小説で取り上げられる道三と光秀の師弟関係は光安と光秀の間であったぐらいの想像です。でもって道三崩れに伴う明智攻めの時ですが、進士氏はどうも明智家に加担しなかった形跡はあります。本当のところはわかんないのですが宝賀氏のレポートに

  弘治二年(1556)の守護斎藤氏による明智攻めの際、明智城では城将明智兵庫頭光安、弟の次左衛門光久があり、これに従う一族(太字は明智一族とみられる者)としては溝尾庄左衛門、三宅式部大輔秀朝、藤田藤次郎、肥田玄蕃家澄、池田織部正輝家、奥田宮内少輔景綱、可児才右衛門、森勘解由など一族郎党合わせ約八五〇人が籠城したと伝える。

進士も、山岸も、長江の名前も見られません。またなんですが光秀は妻帯していたの話もあります。光秀の妻と言えば歴史小説ではお槇の方が有名ですが、これはどうやら2番目の妻のようです。お槇の方の出自は「妻木勘解由左衛門範熈の女」とするのが資料的に正しそうです。妻木氏も明智の一族になります。最初の妻は

    山岸勘解由左衛門光信の女
これが誰だになります。実は宝賀氏もこの辺を詰め切れなかったようで、宝賀氏自身は進士信周については不在説を述べたり、一転して山岸勘解由左衛門尉光信と同一人物であるとしたりしています。私は素朴に別人説を取りますが、伝承では落城後に妻と子供を山岸勘解由左衛門尉光信に預けて美濃から落ち延びていったの話もあるそうです。そこの真否はともかく、個人的なポイントは山岸を名乗る豪族が明智家に加担していない点です。つまりは進士氏は明智家に加担しなかったと考えます。

推測に推測を重ねる事になりますが、明智氏の義龍への抵抗の時に進士氏は加担しませんでしたが、光秀は単独で加担したんじゃなかろうかです。光安は光秀の才を惜しみ籠城の最終段階で諭して落としてやったんじゃなかろうかです。光秀は進士氏を飛び出した形になっていますから元の家に帰るわけにもいかず牢人となって諸国を放浪する事になったぐらいです。

放浪は格好よく言えば武者修行ですが、現実的には就職活動になります。就職活動の時には出自に関する名乗りが必要です。進士氏を名乗っても良いでしょうが、全国的には明智の方が武門として通りが良かったぐらいの可能性はあります。これは落としてくれた光安への思い入れもあるでしょうが、明智家自体が滅亡しているので使いやすいのもあります。で、どうせ名乗るならデッカイ方が良いので明智家の嫡子であった話を作り上げた気がします。嘘ではありますが「そうなった」可能性もある位置に光秀はいましたから、後に織田家に仕官した時も誰もさほど不思議には思わなかったぐらいです。


感想

くたびれた。。。結構煩雑でゲンナリしました。ゲンナリした上で「だからどうした」クラスの話しかできませんでした。つうのもこの話はもともと本能寺の話の中の光秀の経歴のごく一部分のエピソードの検証に過ぎません。なおかつですが光秀は本当に明智家の嫡子であってもなかっても歴史の流れからすると基本的に関係ないあたりです。歴史で大事な事は、

    光秀は信長の下で明智を名乗り、これを万人が認めていた
これに尽きるからです。光秀が明智出身であろうが、そうでなかろうが明智光秀明智光秀であると言う事ぐらいでしょうか。