日曜閑話37

今日のお題は「長篠の合戦」です。天才信長が画期的な一斉射撃と連続射撃戦法を編み出し、当時無敵と言われた武田騎馬軍団を粉砕したと伝えられる有名な合戦です。史実して確認できる事は、

  1. 織田軍は多量の鉄砲を使用した
  2. 武田軍の有力武将が多数戦死した
実はこれだけで、現在では三段撃ち自体の存在さえ疑問視されています。この戦いも有名な割りに実際がどうであったかが不明瞭なところの多いものです。まあ不明瞭なところが多いと言うのは、考え方によっては自由に考察を膨らます事ができますから、楽しんでみます。


織田軍3000丁

合戦の参加人数さえ諸説紛々なのですが、多かったのは間違いないようです。ある試算では最低でも1500丁はあるはずだの説もあり、素直に3000丁説を取ります。今日の考察からすると重要なのは3000丁の真偽より、当時の常識を覆す鉄砲の集中使用が行われた点だけを前提にすれば必要にして十分かと思います。


武田騎馬軍団

私は織田軍3000丁より、武田騎馬軍団の実相の方がむしろ疑問を抱きます。イメージとしてはモンゴル騎馬軍団のように、何千もの騎馬武者が怒涛のように襲いかかる情景を頭に浮かべますが、よく考えれば、そんな事はほぼありえないと思われます。

武田家は名門ではありますが、名門であるだけ兵制も古いと考えます。源平鎌倉以来の日本の兵制の最小単位小領主です。小領主が何人かの従者を従えるのが最小単位で、この最小単位が旗頭の元に集まり、さらにその旗頭がさらに大きな旗頭の元に集まっていく形態です。武田家は甲斐の国主ではありますが、地位としては甲斐の総旗頭になります。

もちろん武田家も古式蒼然たる鎌倉の兵制を墨守していた訳でなく、信玄の父信虎の代に戦国式の甲斐統一を果たしています。総旗頭としての武田家の地位は重くなり、武田家の直属領もある程度大きくなってはいたとは思いますが、基本はやはり有力家臣が自分の領地から兵を動員し、その集合体が武田軍となっていたと考えるのが妥当です。

これは武田家ではなく、織田家を除くすべての戦国大名に共通していたスタイルで、兵農分離が不十分な状態では、常備軍的なものはなかなか形成できませんし、あっても規模的には限定されます。

日本の騎馬武者は騎兵ではありません。馬に乗る身分と言うのが確固としてあり、古くは小領主のみの特権に近かったですし、戦国期でも下士官クラスが最低条件であったと考えます。あくまでも馬に乗る主人が従者を引き連れるスタイルであり、これは兵農分離では先進的であった織田軍でさえそうです。騎馬軍団となるためには、騎馬武者の集団が必要であり、それも騎馬武者が従者を連れずに軍団を形成する必要があります。そんな騎馬武者の大集団が当時の軍勢の構成から成立するとは思えません。

もう一つ長篠の時の武田の当主は勝頼ですが、勝頼の父は信玄です。勝頼の率いた軍団は信玄が作り上げた軍団になりますが、信玄が騎馬軍団を多用した戦いが思い浮かびません。信玄は上杉とも北条とも徳川とも大きな合戦を行っていますが、どう思い出しても騎馬軍団が敵陣を蹂躙なんて話が思い出せません。騎馬軍団がまったくなかったとまで言いませんが、あったとしても小規模な特殊部隊であったと考えるのが妥当です。

ですから長篠でも武田軍は騎馬軍団が押し寄せたのではなく、騎馬武者に率いられた徒歩軍団があくまでも主力だったと考えます。


一斉射撃と三段撃ち

これが近年疑問視されています。従来考えられていた方式は、3人1組になり、交替で一斉射撃を行うというものです。3人が列を為して、射撃を行えば列の後方に回り、その間に銃弾を装填し、一斉射撃の連続射撃を行い武田軍を粉砕したというものです。見ようによってはリレー方式みたいなものですが、この方式の問題点として、

  1. 3人が前後運動を繰り返す事により混乱が生じる
  2. 織田徳川連合軍の設楽が原陣地は2kmに及び、そういう状況下で一斉射撃の指揮を取るのは困難
他にも当時の鉄砲は暴発が多くある程度の距離を取る必要があるとか、火縄銃の特性として10発も連続射撃を行えば過熱して使用不能に陥るもあります。装填時間も問題で、おおよそ100秒近く必要で、そうなると実戦的には射撃間隔は40秒毎ぐらいになるというのもあります。

装填時間と連続射撃の問題は難題で、射撃間隔を詰めようと思えば戦国時代後期には用いられていたとされる早合があれば短縮は可能です。射撃間隔の短縮は可能ですが、上述した40秒間隔でも10発撃ち終わるまでに20分になります。射撃間隔が短くなればもっと早く過熱問題が発生し、織田軍3000丁は使用不能状態になります。

長篠の合戦は8時間に及びます。もちろんすべて射撃戦に費やされたわけではなく、後半は連合軍の追撃時間です。それでも20分で射撃が終ってしまうと困ります。射撃間隔を長くすれば使用時間は長くなりますが、2分おきに射撃していたのなら、別に連続射撃と表現する必要がなくなります。普通に装填してもそれぐらいで射撃できるからです。


私はロマン派ですから、やっぱり連続射撃も一斉射撃も存在して欲しいと願います。ですから上記のような問題点を踏まえても、一斉射撃の連続射撃が行われた可能性を考えてみます。

まず射撃法ですが、射手が入れ替わるのではなく鉄砲が入れ替わった可能性の方が高いと考えています。射手は1発打ち終えたら、後ろの装弾手に鉄砲を渡し、装弾された鉄砲を受け取る方式です。これの方が人の移動が少なくなり混乱が小さくなります。また射撃も巧拙があり、少しでも上手い人間が射撃する方が効率的です。

射撃法は大した事はないのですが、次に一斉射撃と連続射撃の壁が立ち塞がります。この二つは連動するのですが、一斉射撃も近代戦のようなものを想定するから難関なのであって、だいたい一斉射撃なら不可能ではないと思います。どこかが射撃すればそれにつれて残りも射撃する方式です。これなら完全な一斉射撃ではありませんが、一斉射撃風にはなると思います。

最初の1発は一斉射撃風になるとしても2発目からはどうだの問題が発生します。ここが考えどころで、三段撃ちの連続射撃とは、実は3連発射撃ではなかったかと考えています。3丁1組ですから、装填した状態の鉄砲を用意しておけば3連発までは可能です。1発目を一斉射撃風で合わせておけば、残り2連発もそれなりにそろうかと思います。3連発で一旦終了し、そこから時間を置いて1発目を始めれば、一斉射撃風が再現できると言うわけです。


それと3000丁が一斉に射撃すると考えるのも不自然と思います。設楽が原の連合軍陣地は2kmに及ぶとされています。武田軍も2km全面に一斉攻撃を行なうわけではないでしょう。当然数百〜千人単位ぐらいの部隊を順繰りに突撃させると考えるのが妥当です。連合軍は5人の奉行に鉄砲隊を指揮させたとあります。単純計算で400m程度が守備範囲となります。

武田軍の先鋒部隊は任意の地点を選んで攻撃を仕掛けるのですが、連合軍が応戦するのは担当部署だけで十分になります。3000丁が5つに分かれると600丁づつですが、せいぜい千人程度の部隊に200発の3連射はかなりの打撃になると考えられます。

ここで武田軍が考える事ですが、2kmに及ぶ連合軍陣地ですから、「たまたま攻撃した場所に鉄砲隊が手厚く配置されていた」と考えるんじゃないでしょうか。最初の部隊が鉄砲射撃で潰走すれば、「他のところを攻撃しよう」です。武田軍も鉄砲は知っていましたが、まさか2kmの戦線にほぼムラなく大量の鉄砲隊が配備されているとは思わないと考えます。

武田軍が鉄砲隊の配備の薄そうなところを探して、攻撃地点を変えてくれると連続射撃の負担が軽減します。それでも3連射で潰走しなかったらどうなるかが馬防柵のアイデアかと考えます。


馬防柵

個人的にはこちらの方が信長の天才性の発露の様に思います。鉄砲は従来の弓からすると射程距離も長く、殺傷能力も高くなっています。技術の習得も容易と言うのもあります。その代わりに射撃間隔が長く、連続射撃にも問題があります。信長も鉄砲のそんな特性は熟知していたかと思われます。射撃間隔を短くするのは巷間伝えられるリレー方式でも可能ですが、連続射撃は超えられない壁になります。

そのために射撃を休む間の防御を考案したと考えます。いわゆる野戦築城です。長篠の決戦場は幅2kmぐらいなのですが、そこに長城を作ってしまおうとの発想です。それも短期間に堅固な城塞を作る発想です。あえて先例を挙げれば秀吉の墨俣一夜城の構想に近いものかと考えています。そのために大量の木材を運搬し、強固な三重の柵を設けたのだと考えます。

従来も逆茂木みたいな野戦築城は日本にありましたが、延々2kmにも及ぶ柵を三重にも張り巡らした大規模なものはなかったんじゃないかと思います。つまり信長の長篠の戦術構想は、野戦であるのに籠城戦に近い要素を持ち込んだのだと考えます。鉄砲は籠城側から攻撃側に使用するのが効果的ですし、安全とも言えるからです。


三段撃ちが5つの部署ごとによる3連射と考えましたが、柵にはさらなる工夫があったんじゃないかと考えています。なんとなく柵と言われれば横一列のものを思い浮かべますが、横だけではなく縦もあったんじゃないでしょうか。柵と鉄砲の組み合わせの防御体制ですから、攻め寄せる武田軍を効率よく鉄砲隊の射程距離内にあつめる縦の誘導柵みたいな感じです。

攻める武田軍にしてみれば、突破すべきものは横柵で、縦の誘導柵まで壊そうとはしないと考えます。そうやって縦の誘導柵で密集したところに集中射撃する戦術です。また壊そうと思っても、そこも鉄砲の射程距離内ですから、狙い撃ちの的になるとも考えられます。ポイントは横も縦も相当頑丈な柵で、壊して突破するには人数と時間が必要な事と、そこで立ち止まらざるを得ないところだと考えます。


それと3連射でも潰走しないケースもありえます。そうなると次の射撃まで100秒程度の間隔が空く危険が生じます。この100秒を耐えるためのものが三重の柵ではなかったかと考えます。言っても100秒ですから、武田軍が最初の3連射に耐え、引き続いて柵への攻撃を仕掛けても3つとも乗り越えるのはまず無理です。

武田軍が柵攻撃を行っている間に銃弾を装填し、第2波の3連射を行うときには、武田軍は鉄砲隊にさらに接近し密集している事になります。そこに第2波の3連射が炸裂すれば大きな被害が出ると想定されます。仮に第2波をさらに耐えても第3波が襲いかかります。柵を突破されない限り第10波まで3連射が可能ですから、そこまでは武田軍は耐えられないだろうという戦術です。


武田軍の有力武将が多数戦死したのは、大将を集中的に狙い撃ちしたのもあるでしょうし、執拗に攻撃を行なえば行うほど、また優秀な武将であればあるほど部下を鼓舞するために前に前に進みますから、哀れ鉄砲の餌食になってしまったんじゃないでしょうか。


もう少し俯瞰的に戦略戦術を考える

決戦以前の戦略の問題があります。長篠合戦はいきなり両軍が野戦で激突したわけでなく、長篠城の攻防戦が一つの焦点です。武田の基本戦略は長篠城を攻めることにより、徳川軍の野戦部隊を引っ張り出し、これを野外決戦で粉砕する意図があったとされます。三方ヵ原の再現です。武田軍は野戦には絶対の自信を持っていたと考えていたと思われます。

ここに信長が加担します。加担すると言っても同盟国の救援なんですが、ここで武田軍の主力を粉砕する意図を持っての救援です。三方ヵ原の時とはまったく考え方が違います。そのために動員された織田徳川連合軍は武田軍の3倍になります。実はこの時点で勝負はついているとしても良いと思います。武田軍は精強とは言え、3倍の大軍とまともに戦えば勝ち目は殆んどありません。

ここで信長の意図は武田に単に勝つのではなく、圧勝するのが意図になります。味方の損害を極力小さくし、相手の損害をより大きくする事です。勝っても辛勝なら、多方面の戦線を抱える信長にとって好ましくないとも言えます。そこで編み出したのが野戦の籠城戦術だと考えています。籠城線は攻撃側の損害が多いのは常識です。問題はいかに設楽が原の長城に武田軍を突撃させるかになります。

信長の基本戦略は設楽が原に誘い込んだ武田軍を鉄砲隊による消耗戦に持ち込み、兵力差をさらに大きくしてから接近戦に持ち込み、武田軍を壊滅させようであったと考えています。

武田軍は攻略中の長篠に抑えの兵を配置して連合軍に対峙するのですが、兵力に余裕のある連合軍は強力な別働隊を動かして、長篠城の武田軍を破るとともに挟撃の体制を取ります。後方を抑えられた武田軍は別働隊を破って帰国するか、設楽が原の主力を叩いて連合軍を潰走させるかの選択を迫られる事になります。まあ連合軍の巧みな戦術に追い込まれたと見ることが出来ます。

伝説では少々損害が大きくなっても別働隊を破って帰国の戦術を武田の重臣は進言したと言われています。しかし勝頼は織田の大軍の来援を決戦の好機と判断し主力決戦を選択したと言われています。考えれば武田のもともとの基本戦略は徳川の主力を誘い出して叩くでしたから、それに引きづられたと言えなくもありません。

結果はもともと兵力の小さい武田軍が設楽が原の柵の前で消耗戦を強いられ、前線の指揮官が多数戦死し、指揮系統も陣形も乱れたところに連合軍の攻撃を受けて潰走しています。信長快心の勝利と言って良いと思います。


勝頼にチャンスはあったか

この人物はよくわからないところがあります。愚将ではなかったとされます。勇気も才能もあったようですが、戦略眼は劣ると言う評価が定着しています。先代が先代ですから、誰がやっても難しい地位ではありますが、評価は芳しい人物とは言い難いところがあります。

ただ先代信玄より難しいと言うか、信玄時代とは全然違う環境に置かれていたのは同情しても良いと考えています。信玄時代は言ったら悪いですが、甲斐は攻撃される可能性が少ない国だったと考えています。信玄の先代の信虎の時に甲斐統一はなされており、周辺の超大国である今川や北条に劣るとは言え、攻めれば損害が大きそうな事は誰でも予想できます。誰でもと言うか、義元や氏康なら絶対わかります。

そういう損害を蒙ってまで甲斐を今川や北条が欲しいかと言えば魅力の欠ける国です。今川にすれば甲斐を攻めるより遠江三河に進出する方が容易で実りの多いものです。北条にしても関東に勢力圏を広げる方が遥かに魅力的です。つまり甲斐の見方は今川にとっても、北条にとっても敵対しない限り、後回しの戦略目標になります。

この状態を活用したのが信玄で、後方を今川や北条と結んで固め、ひたすら信濃攻略に専念できたと考えます。戦略外交を考える構図は比較的単純であったと見ることが可能です。武田の勢力拡大は今川や北条にとって好ましくはありませんが、信濃もまた地理的に遠い国で、これに干渉しようと思えば当面の課題である、今川なら遠江三河から尾張進出、北条なら関東経営を中断しなければなりません。つまり黙認状態になります。

それを存分に活用したのが信玄外交でしょう。おそらく誤算は北信まで進出してみれば、越後の上杉が対戦相手になり、これが異様に強かった事かと思います。戦略的に北信を抑えれば越後への道は開かれますから、信玄戦略は本気で越後を攻略するつもりだったじゃないかと最近考えています。

川中島を戦った頃の信玄の頭の中に、駿河の今川進攻なんて無かったとする方が妥当です。形としては越後の上杉に引っかかったになっています。しかし信玄の評価として次の勢力拡張の対象として、今川と較べれば上杉の方が「弱い」と評価していてももおかしくありません。もちろん北条と正面切って戦っても泥沼の消耗戦どころの騒ぎじゃありません。


寄り道が長かったですが、信玄外交は自らの地政学的地位を活用した、ニッチ戦略が基本でしたが、勝頼が継いだときには駿河まで武田の版図は広がっています。今川家の衰退滅亡によるものです。駿河進出をテコとして信玄は上洛戦まで試みましたが、その時点で勝頼は引き継いでいます。勝頼が考えた戦略は何であったかになります。

武田の前線は、

  • 越後の対上杉
  • 上野で対北条(上杉も含む)
  • 遠江で対徳川
上野の当時の情勢の把握が不十分で申し訳ないのですが、上杉は御館の乱で消耗し対外進出どころでなくなります。北条は氏政に代が替わり、関東維持が精一杯の状態になります。おそらく勝頼の判断として、
  1. 北条は武田を攻めるほどの気概はない
  2. 上杉は手強いが内乱で消耗しているので当分は動けない
  3. 先代同様独力で天下を狙えるはずだ
こういう判断じゃなかったかと思われます。これに従って御館の乱に介入し上杉と同盟を結び、先代信玄の進んだ道を目指そうとしたのだと思います。そう、残された道は遠江進攻です。こう考えるとある程度合理的な判断ですが、信玄時代との違いは信長の肥大化・強大化です。信玄時代でも信長は十分強大でしたが、その後さらに強大になっています。

徳川と戦うと言う事は信長とも戦う事になるのですが、勝頼の戦略構想の中に信長の評価がどの程度であったかが問題の様な気がします。ここの判断が非常に雑で、主力決戦さえ行えば必ず圧勝できるであったような気がしてならないのです。そういう目で見れば、勝頼の行動は理解しやすくなります。この辺は信長が長く信玄に行った卑屈外交の影響もあるかもしれません。

執拗に遠江進出を繰り返したのは、長篠も含めて徳川への挑発です。戦略拠点を攻めることにより、これの救援に出てくる徳川軍主力を叩くであり、出てこなければジワジワと徳川を圧迫していくです。事実、この戦略への対応に徳川は苦慮する事になります。徳川単独では武田への勝算が立たなかったからです。もし信長の存在がなければ、時間とともに徳川は圧迫され、どこかの主力決戦で惨敗していたかもしれません。

勝頼最大の判断ミスは信長軍の実力の過少評価にあったのだと考えます。先代からの老臣との確執がこの判断にどう影響を与えたかは置いておきます。


ただなんですが、勝頼が信玄死後に動かず防衛に徹していたらどうなったかの問題はあります。これは仮定の仮定ですが、防衛に徹するなら御館の乱で切れた北条との同盟を復活させるだけではなく、もう一歩進んで武田、北条、上杉の三国同盟を構築する必要があります。

これは情勢的に不可能とは言えず、上杉は外征どころではなく、するとしても謙信時代のように関東ではなく越中方面ですから、同盟に反対する理由は乏しいものがあります。北条も関東維持に満足している部分がありますから、長年苦しんだ上杉の進攻がなくなるのは基本的に歓迎のはずです。三国同盟があれば、信長も東への進出は慎重になります。

そういう状態になると武田と信長の立場は逆転します。守りに入っている武田を攻めるには地道な消耗戦が必要になりますから、信長にすれば武田の主力を引きずり出して、会戦で叩き潰したいの思惑になるかと考えます。つまり挑発すのが信長になると言うわけです。

さてその先はどうなるかです。勝頼を巧妙に誘い出してやはり長篠になるのかどうかです。な〜んとなく、結局長篠になるような気もしないでもありませんが、どんなものでしょうか。


てなあたりで今日は休題にさせて頂きます。