GW閑話

ブログもGW休みを頂きます。最近どうも不調で、先日お休みを頂きましたが、もう一つ波に乗れません。ちょうどGWになりますから、思い切って長期休暇を取らせて頂きます。そういう訳で休み前の恒例になりつつある閑話を提供しておきます。

今日のお題はサッカーです。日本のサッカーも強くなったもので、驚くべき事にワールドカップに出場しています。実は私が小学校ぐらいの時にもそれなりにサッカーブームがありました。サッカーブームが起こった引き金はメキシコ五輪銅メダルです。釜本が不動のスーパースターとして君臨してかなりの人気と注目を集めていたのは間違いありません。

しかし日本のサッカーはメキシコ五輪から延々と長期低落を続けることになります。それでもまだ子どもたちは「赤き血のイレブン」に熱狂し、ドロップシュートが本当に撃てると信じて練習に励んだものです。そんな日本のかつてのサッカーブームの余韻が残っていた昭和40年代の終わり頃のお話です。


フォーメーションとポジショニング

サッカーにはフォーメーションがあります。今の日本代表も3バックか4バックかなんて話でもめているようですが、一番最初のフォーメーションは0-10であったとされます。つまりは全員がFWでゴールを目指すスタイルです。これには訳があって、当時のサッカーのルールが前にいる者にパスをしてはならないとされていたからです。

ラグビーに似ていますが、ラグビーが昔のサッカールールを受け継いでいると言った方がむしろ正しく、前にパスが出来ないラグビーの基本フォーメーションは今でもグラウンド一杯に横に並びます。これは19世紀前半のお話ですが、サッカーが前にいる選手にパスが出来る様になったのは1866年の事とされます。それに伴い整備されたルールがオフサイドで、当時は守備側選手が3人以上必要とされました。

3人制オフサイドに対応してバックスと言う概念が生まれたとされます。当時できあがったフォーメーションが2-3-5であるとされます。オフサイドルールは1925年に現行の2人制に変更されます。オフサイド人数が減ると攻撃もしやすくなりますが、同じに激しい攻撃にも曝される事になります。フォーメーションは攻撃と防御の両方の側面がありますが、守備に傾きながら進化を続けることになります。

フォーメーションの確立はポジションごとの専門プレーヤーの誕生も促します。点を取るFW、守備の人DFから、さらに中盤と言う概念が成立してMFが出てきます。これらのプレイヤーに求められる役割は異なるため、ポジション専用のプレイヤーを育成しようとの考え方です。これは現在であっても手法として容易であるために基本的に受け継がれています。

私の古い記憶に頼るので危ないところがあるのですが、昭和40年代のサッカーはポジション別の分業がかなり強固に行なわれていたと思います。それこそFWは攻撃を受けてもセンターライン付近に留まりパスを待ち、DFも攻撃に転じてもセンターラインを越すような事は殆んど無かったと記憶しています。フォーメーションで守って、攻めていますから、自分の受け持ち範囲を超えて動く事は固く戒められていたと思います。

言い方は悪いですが、当時のサッカーはフォーメーションで定められたポジションに縛り付けられていたと考えています。


フランツ・アントン・ベッケンバウアー

そこに独りの伝説的プレーヤーが出現します。「皇帝」ベッケンバウアーです。ベッケンバウアーは'45ミュンヘン生れ、決してサッカースクールで英才教育を受けたわけではなく、ストリートサッカーで技術を磨き、弱小クラブチーム(SC1906)で頭角を現し、有力チーム(バイエルン・ミュンヘン)に入団していくという叩き上げのサッカー人生です。今もって史上最高のDFと呼ばれ、その神業のようなボールさばき、どんな局面でもそれを打開するサッカーセンス、さらにひとくせもふたくせもある一流選手を有無を言わせず従わせる抜群の統率力。サッカー史上最高の選手であるかどうかには異論があるにしろ、ドイツサッカー史上最高の選手であることには異論は少ないでしょう。

ベッケンバウアーが創出したプレースタイルがリベロです。リベロのポジション自体は当時もあり、イタリア代表の伝統戦術であるカテナチオでは、1-4-3-2のシステムで、4人のDFのさらに後ろにリベロがいるというスタイルです。リベロと言うよりスイーパーと言うほうがピッタリ来るのですが、ポジションが横に対して自由であるとの観点からリベロと呼ばれたようです。

ベッケンバウアーリベロは本家イタリアの左右だけではなく前後も自由にした所に革新的な意味があります。つまりDFの攻撃への積極参加を行ったのが驚異的だったのです。当時のDFとは「相手の攻撃を確実に防ぐ」のみに存在しており、とくにフルバックの選手の攻撃参加などは非常識と考えられ、攻撃とはFWがするもので、MF(当時はハーフバックと呼ばれていました)ぐらいまでが攻撃に参加する選手であるのがサッカーの戦術である固く信じられていたのでした。

今でこそDFの選手のオーバーラップによる攻撃参加なんか珍しくも無く、むしろこれをしない選手のほうが「積極性が無い」と評価されてしまいますが、当時のポジションの考え方からすると驚天動地のものであったと記録されています。ベッケンバウアーがさらに驚異的であったのは、現在の単なるオーバーラップ的な攻撃だけではなく、最後尾のスイーパーとしてボール奪取に成功すれば、キーパーを除く9人の選手を操る司令塔として攻撃の基点に変わるものです。

その求められる運動量と技術は膨大なもので、もともと本来の業務であるDFは当然の事として確実に果たし、中盤の要としてのMFの業務を華麗なテクニックとともに遂行し、FWとして鋭い得点感覚を爆発させなければなりません。つまりFWとしてシュートを放ってもカウンター攻撃を受ければすぐさま最後尾のスイーパーまで素早く戻りDFとしての仕事をこなし、また攻撃に転じれば敵ゴールまで怒涛のように攻め込む事が要求されます。

まさに自由人=リベロとしてフィールドを縦横無尽に駆け回るポジションですが、これほどの運動量、テクニックを併せ持つ事はベッケンバウアーをもってのみ可能なことであり、彼はリベロの確立者、完成者であるとされていますが、今もって彼をしのぐリベロは存在しないとされています。


ホスト国西ドイツ

ベッケンバウアーの晴れ舞台は'74のワールドカップ西ドイツ大会になります。ただし代表チームが義務づけられているもは優勝の2文字だけです。西ドイツは言うまでも無くサッカー強国であり、母国開催での優勝は何があっても絶対とされていました。優勝を義務づけられたホスト国西ドイツの監督はヘルムート・シェーン、主将はもちろんDFでありリベロであるベッケンバウアー、FWには「褐色の爆撃機」と呼ばれたゲルト・ミューラー、DFにベルティ・フォクツ、GKにゼップ・マイヤーとドイツサッカー史上に残る名手をそろえたものでした。

非常に能力の高いスペシャリストをそれぞれにふさわしいポジションに配置するという観点から立てば'74当時では最強の布陣といえます。また最強の布陣をそろえた西ドイツにはベッケンバウアーリベロという他のチームが持ち得ない強力な武器も有しています。ただわずかに惜しむらくは'72欧州選手権を制した時に活躍した稀代のMFネッツアーがベッケンバウアーとの意向により参加していないのが唯一の欠点といえるかもしれません。ネッツアー抜きの布陣にせざるを得なかったのは監督以上の存在となっていたベッケンバウアーをシェーンが抑え切れなかったためです。シェーンとベッケンバウアーの確執は1次リーグ終了後に噴出することになります。

ホスト国の宿命で予選の試練を経ていない西ドイツは1次リーグ(グループリーグ)では調子が上がらず、チリ、オーストラリアを退けたものの1次リーグ最終戦東ドイツに不覚の1敗を喫することになり1位進出を逃すことになります。この敗戦は2次リーグの組み合わせでブラジルやアルゼンチン、さらにはオランダとの組み合わせになるのを避けるための作戦的敗戦と一般に言われますが、当時の東西ドイツの対抗心、敵愾心の強さからすると必ずしもそうとは言い難いとも当時の様子から窺えます。

東ドイツ戦の敗戦は西ドイツ国民に深刻な影響を与えただけではなく、チームにも衝撃を与えることになります。シェーンの指導力に疑問を持つベッケンバウアーは監督に直言してラインナップを組み替え、以後代表チームではシェーンは名目上の監督に祭り上げられ、実質の監督権はベッケンバウアーの手に握られることになります。

全権を掌握したベッケンバウアーは素早くチームを建て直し2次リーグに挑むことになります。とにかく勝たねばならないベッケンバウアーリベロの面子をかなぐり捨ててスイーパーに徹することになります。スウェーデンユーゴスラビアを撃破しリーグ最終戦の相手はポーランド。1次リーグでポーランドと戦ったオランダは「今大会でもっとも手強い相手だった」と評価するぐらいの強豪で、おそらくポーランド史上でも最強のチームであったと言われています。しかしそのポーランドを持ってしても勢いに乗る西ドイツの進撃をとめることは出来ず、ホスト国として西ドイツは決勝に進出することになります。


ヘンドリック・ヨハネス・クライフ

クライフは'47アムステルダムに生れ、12歳の時に父をなくし、貧しさに耐えながらひたすらプロになることを目指し、ベッケンバウアー同様ストリートサッカーでテクニックを磨きアヤックスに13歳で入団、17歳でトップチームに昇格します。そのアヤックスですが、今でこそ世界の名門クラブですが、その頃はまだまだオランダの田舎サッカーの強豪レベルに過ぎませんでした。アヤックス監督のリヌス・ミケルスはクライフの異常なまでの才能を見抜き、サッカー界に革命をもたらしたとまで言われたトータルフットボール戦術をこのチームに導入します。クライフのトップチームへの昇格が'69であり、新戦術の浸透、熟成とともに、UEFAチャンピオンズ・リーグ('71、'72、'73)、ヨーロッパ・サウスアメリカンカップ('72)とたて続けに制覇し、名実ともに世界一のチームに瞬く間に変貌していきます。

トータルフットボールの構想自体は'50年代にオーストリアビリー・メイスルによって提唱された「渦巻き理論」に由来していると言われています。チームの選手一人一人が思いのままポジションチェンジをし、渦を巻くようにチームがダイナミックに機能するというものです。

たとえば試合中のある状況下においてボールを持った選手がMFとして働いて欲しいポジションにいた時、選手は本来のポジションがどこであれすぐさまMFとして機能し、また他の選手はその試合状況をすぐさま読み取りその時点でもっとも有効な役割(FW、DFなど)のポジションをとり最適のフォーメーションを瞬時に構成すると考えればよいと思います。この運動が時々刻々変化する試合状況において的確に行われれば、ゲーム中のいかなる場面においても常に味方にとって最大限有利な態勢で戦えることになります。

理論上ではそうですが、トータルフットボールを行なうには不可能に近い前提がありました。

  1. 選手全員がすべてのポジションをこなせるオールラウンドプレーヤーであるばかりではなく、フィールド全体の試合状況が常に見え、その時々の状況に対し自らが何をしなければ見抜ける高い戦術眼を持つ必要
  2. 激しく流動する試合状況を冷静に観察し、相手の攻撃戦術、守備戦術を分析しそれにあわせてチーム全体の作戦をフィールド内でコントロールできる強大な影響力を持つフィールド内の監督というべき選手を必要
正直なところ高い戦術眼を備えたオールラウンドプレーヤーを1人育成するだけでも容易ではなく、それを10人もとなると夢物語とされても不思議ありません。オールランドプレーヤーだけでも夢物語なのに、フィールド内の監督となれば天才の出現を待つしかありません。

この実現不可能とされた2条件をオランダはクリアします。この辺は調べてもよく判らなかったのですが、クライフがいたからミケルスがトータルフットボールを目指したのか、トータルフットボールを目指すうちにミケルスがクライフに巡りあえたのかは不明です。大袈裟に言えばサッカーの神がこの二つをこの時期に出会わせたとぐらいにしか言い様がありません。

当時のオランダ代表のシステムは、3-4-3のシステムが基本となります。選手がピッチ上に均等に配置され、パスを運ぶためのトライアングルが多数できているのが特徴です。実際のゲームの中ではこの多数のトライアングルがその関係を保ったまま伸び縮みして攻撃・守備を行うので、全員が攻撃・守備の両方の意識を持つことが重要となります。DFは3人で一見3-5-2と同様に見えますが、このシステムではウィングバックはサイドバックの代理までするということではないので、完全に3人で守らなければなりません。その代わり、MFは相手に早めにプレッシャーを掛けて、中盤でボールを奪うような働きが不可欠となります。つまり相手が自陣深くに攻めてきてから守るのではなく、ボールが敵陣深いところにある時から既に守備の意識は向いているということになります。

トータルフットボールの象徴である、誰もが攻め上がり、誰もが守備をする、流れるようなポジションチェンジ。例えばCFのクライフが相手ディフェンスをつれながら下がってスペースを作ると、そのスペースにレップやレンセンブリンクが走り込んでフリーな状態でボールを受け、一度ゴール前から消えたクライフが再びゴールに走り込んでパスを受けるといったプレーも、すべて約束事があってのポジションチェンジなのです。当然ディフェンスラインからオーバーラップする選手の穴は中盤の選手がカバーを行い、このカバーリングがしっかりしているため、ディフェンスラインの選手でも、チャンスとみれば積極的にロングシュートを打ちに前線へ上がっていける事になります。

当時のビデオを見るとそのトライアングル機能が見事に機能していることがわかります。前線から激しいプレスをかけ、ボール奪取に成功すると素早いパス回しから、あっという間に攻撃に切り替わる華麗なサッカーです。前線からの激しいプレス、積極的なオフサイドトラップ、DFのオーバーラップによる攻撃参加、目まぐるしいポジションチェンジによる変幻自在の攻撃など現代サッカーとなんら変わることの無いもので、当時のサッカー関係者が「未来のサッカーである」と絶賛したのが良く理解できます。

トータルフットボールの実現の要となったヨハン・クライフの卓抜したプレースタイルは、クライフ・ターンの言葉が残る華麗なドリブル術を始めとして、至上のストライカーであり、究極の司令塔であり、並ぶ者の無い統率力を持ったキャプテンであると評価されます。そのいずれかひとつでもあれば選手として超一流と称される能力をふんだんに併せ持つという奇跡が彼の上に起こったとしか言い様がありません。

クライフの敬称である「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)」は'74ワールドカップブラジル戦のゴールに由来すると言われています。ブラジルは前回大会で3度目のワールドカップ制覇を果たし、ジュール・リメ杯の永久保持を決めた文句なしの強豪です。この試合に勝ったほうが決勝進出が決まる大一番に伝説が生れます。オランダ1点リードで迎えた後半65分、クロルの左サイドから折り返されたセンタリングに反応したクライフは、走りこみながらジャンプし、右のボレーでこれに合わし、逆をつかれたGKレオンが反応できないボレーシュートを炸裂させます。「フライング・ダッチマンヨハン・クライフの誕生です。

クライフへの敬称はこの「空飛ぶオランダ人」だけではなく、「鳥人」、「スーパースター」(当時の流行していたミュージカルのジーザス・クライスト・スーパースターをもじってヨハン・クライフ・スーパースターとよく呼ばれていたそうです)やたんなる「天才」とも称されました。とくに「天才」の方はその後どんなに天才的なプレーをする選手が現れても「クライフに比べれば」の一言ですべての選手が霞んでしまうほどのインパクトを残しています。


オランダもワールドカップ

クライフ率いる10人の仲間が引き起こしたトータルフットボール旋風ですが、予選段階で代表チームを率いたファドローネはどうも普通のサッカーを行ったようです。オランダはなんと36年ぶりに予選突破を果たしたのですから、通常ならそのまま本大会もファドローネが監督をつづけそうな物ですが、オランダサッカー協会は監督をアヤックスのリヌス・ミケルスにすげかえます。

どこにも書いてないのでこの辺の事情は憶測にしか過ぎないのですが、オランダ代表の本大会出場は36年ぶりなんですが、チーム力を考えると'69にフェイエノート、'70〜'72はアヤックスUEFAチャンピオンズリーグをオランダ勢で4連覇しており、ひそかにいや確信を持って優勝を十分に狙えると協会は考えていたようです。

ところがファドローネはたしかに予選を突破をしましたが、あんな戦いぶりではとても本大会で勝ち抜くことは難しいと判断し、アヤックスリヌス・ミケルスのトータルフットボールにオランダの命運を託したと考えられます。しかしそれでもよくわからないのはそれならば最初からミケルスに代表監督をさせていればよさそうなものなのにと思うのですが、その辺のことは資料が沈黙していてよく分かりません。

チームを預かったミケルスはさっそくチームにトータルフットボールを指導します。ただこの辺のゴタゴタ騒ぎとチーム戦術の大きな変更のため大会前の下馬評はオランダは決して高いものではありませんでした。ところがミケルスは見事な手腕でチームにトータルフットボールを浸透させます。チームは当時オランダの2大強豪であったアヤックスフェイエノートの混成軍でしたが、チームの主力はアヤックスでありミケルスと2人3脚でトータルフットボールを作り上げたクライフの存在のおかげで、本大会には夢のトータルフットボールのオランダ代表チームを作り上げます。

オランダ代表の試合ぶりは1次リーグから注目の的になり、2次リーグ前には優勝候補の筆頭にあげられるほどのものになります。ただし2次リーグの組み合わせはブラジル、アルゼンチンと同組となり、ここでオランダサッカーの真価を問われることになります。アルゼンチンを4-0と快心のゲームで破った後、東ドイツを2-0と一蹴。リーグ最終戦は決勝進出をかけて前回覇者ブラジルとの決戦となりましたが、これも2-0と快勝しついに決勝に駒を進めることになります。

ブラジル戦の結果はひとつの時代の終焉を象徴したと後世伝えられる事になります。「王様」ペレに率いられたカナリア軍団は卓越した個人技の華麗なサッカーで欧州の組織サッカーを完全に圧倒していました。ところがオランダは別次元のレベルで組織されたサッカーでさらに華麗に戦いブラジルを圧倒することになります。この戦いに敗れたカナリア軍団がワールドカップを再び手にするには20年の歳月を要することになります。


決勝

「皇帝」ベッケンバウアーが率いる西ドイツは、当時も今もドイツワールドカップ代表チーム史上最強とされています。その西ドイツチームを持ってしても戦前の予想はオランダが圧倒的に有利であるとの見方がほとんどでした。それぐらいクライフ率いるオランダ代表チームのトータルフットボールはセンセーショナルな衝撃を全世界に与えていました。チームとしての完成度、個々の選手の能力の高さ、そしてそのすべてを統括し意のままにチームを操るクライフの存在により、オレンジ軍団に死角なしと誰もが考えていました。

オランダの決勝1点目のゴールもまた決勝史上例を見ないものとなります。クライフのキックオフで試合が始まりますが、鮮やかなパス回しのボールにドイツは誰一人触ることさえできず、実に14人のパスがつながれた後ボールは再びクライフの元に返り、マークにつくフォクツを振り切ってペナルティエリアになだれこみます。防御すべき手段を失った西ドイツはヘーレンがファウル、PKはニーケンスがしっかり決め、結局ドイツがボールにようやく触れたのはその後のキックオフという事になります。

この鮮やかさ過ぎる得点を見て観客の誰もがオランダの勝利を新しいトータルフットボール時代の到来を予感しました。ところが試合の流れとは不思議なもので、かえってこの1点により流れが微妙に変わってくることになります。今でこそ欧州の強豪として常に優勝候補の一角にあげられるオランダですが、この時は36年ぶり出場の新興国、無欲で決勝まで勝ち進んであっさり1点をもぎ取ったところで優勝を意識しなかったといえば嘘でしょう。

魔術を見せられるように1点を失った西ドイツでしたが、ここからがどんな逆境にも屈しないゲルマン魂の本領発揮です。オランダの戦術は目まぐるしいポジションチェンジによる変幻自在の攻撃がその身上ですが、どんなにポジションチェンジをしてもその中心になるのはやはりクライフです。クライフを押さえ込むためにベッケンバウアーはフォクツに命じて完全なマン・ツゥー・マン・ディフェンスを行わせます。最初の1点目の時には振り切られてしまったフォクツでしたが、その後は執拗かつ徹底的なマークを敢行します。その徹底さはクライフが靴ひもを締めなおすためにピッチの外に出たときでも、サイドラインに張り付いてマークをはずさないぐらい執拗なものでした。

2点目を狙って華麗に攻め上がるオランダですが、優勝を意識した重圧、決勝戦独特の雰囲気、ホスト国相手にアウェイで戦うプレッシャーに徐々にそのリズムを狂わすことになります。一方ゲームの流れを呼び込んだ西ドイツは前半25分にブライトナーがPKで同点とし、前半終了目前の43分にゲルト・ミュラーがついに勝ち越しの1点をあげます。

後半に入り同点を目指してオランダは必死の攻撃を仕掛けますが、狂った攻撃の歯車は容易に戻らず、こういう時にチーム建て直しの要となるべきクライフもフォクツの執拗なマークの前に動きを封じられ、遠い、遠い1点になってしまいます。GKマイヤー、リベロの仕事を放棄してスイーパーに徹したベッケンバウアーを中心にした西ドイツの守りはオランダの猛攻をしのぎきり優勝の栄冠は西ドイツに輝くことになります。


2人のスーパースター

ベッケンバウアーはワールドカップ獲得という「実」を得ました。しかし彼の胸に去来したものは何だったんでしょうか。もちろんホスト国として優勝という絶対の十字架を負わされたキャプテンの義務を果たした満足感はあったと思います。一方で勝負に徹するあまり、本来ベッケンバウアーが展開すべき自らがリベロとしてゲームをコントロールする創造性あふれるサッカーは出来たとは言えず、2次リーグ以降はガチガチに守り、攻撃はゴール職人ミュラーの一発に期待するという不満足なものであったところに苦味を噛みしめていたかもしれません。

クライフは「名」を取ったといえます。決勝こそ失速したものの世界にクライフの名とトータルフットボールの衝撃を存分に振りまきました。今でも'74大会を語るとき「この大会でオランダが示したトータルフットボールはサッカー界に大きな衝撃をもたらし、決勝でこそ西ドイツに敗れたものの真の主役はオランダである」との評価がなされています。もっと簡潔に「クライフの大会」まで言い切る人も少なくありません。クライフのワールドカップ出場はこの大会のみでしたが、彼の高いプライドは十分満たされたと考えます。

ベッケンバウアーは代表チームをワールドカップ優勝にもたらしただけではなく、バイエルンミュンヘンチャンピオンズリーグ優勝に導きました。長い選手生活でも最高の成績の1年であったと言って良いでしょう。しかし選手個人に与えられる栄誉である、ワールドカップ最優秀選手および年間の欧州最優秀選手(バロンドール)はともにクライフの手に落ちました。

ベッケンバウアーは間違いなく偉大な選手であり、サッカー史の中でも指折り(それも片手のうちの)の超スーパースターであることは誰しも認めています。戦術眼、統率力、ゲームコントロールの確かさは抜群で、オランダのトータルフットボールを結果として封じ込んだ手腕は驚嘆すべきものです。この年に逃したバロンドールも'72、'76と2度も獲得しており、欧州選手権チャンピオンズリーグインターコンチネンタルカップと彼が獲得していないタイトルを探す方が難しいほどです。引退後も監督としてワールドカップ制覇、チャンピオンズリーグ獲得と抜群の手腕を発揮し指導者としても超一流であることを証明しています。これだけの成績を残し、今に伝えられる名声を残しながら、私はまだベッケンバウアーの評価は低いと考えています。低いと言い方には問題が残りますので、もっともっと高くなっていたはずだと考えています。

それはリベロの完成者としての評価があまりにも低いからです。トータルフットボールの出現がもっと遅ければ、ベッケンバウアーの評価はきっとこう変わっていたと考えています。

    「それまでポジションによる役割が細分化され固定化していたのを、リベロとして自由に動き回るプレースタイルを確立することによりベッケンバウアーはサッカー戦術に新風をもたらした。このポジションにこだわらない新しいプレースタイルの流れは、やがて現代サッカーの礎となったトータルフットボールへの門を大きく開くことになり、まさに現代サッカーの創始者として偉大なプレーヤーとして讃えられる・・・・云々」
それまでのサッカー戦術の変遷の歴史を考えると本来は無秩序にボールに群がる時代からポジションの役割分担、フォーメーションの構成と進化していましたので、順当ならポジション枠にとらわれず動く役割のリベロを確立するだけで、十二分に時代の先覚者、開拓者として不滅の評価を得たはずです。その点を考えるとベッケンバウアーは競技者、指導者としてこれ以上は無い栄光を獲得していますが、それとともに永遠に語り継がれるはずであったリベロ・ポジションの完成者の名声は不当に低くなっていると私は考えます。

ベッケンバウアーが不運だったのは全く同世代にクライフという時空を越えた超人が同居したことにつきます。クライフの存在のおかげでベッケンバウアーは前世代の「王様」ペレのように孤高の世界最高峰のプレーヤーになることが出来ず、並び立つふたつの巨峰の評価に甘んじなければなりませんでした。そのうえ並び立つと言いながら、ほんのわずかだけですが常にクライフの方がベッケンバウーより高い評価があり、そのほんの紙一重の差は、現役時代から指導者に転じて誰にも文句の付けようの無い数々の素晴らしい成績を上げ続けても、どうしても乗り越えられない見えない壁としてベッケンバウアーにつきまとうことになります。

'74にバロンドールをクライフに奪われた時ベッケンバウアーへのインタビューが、ふたりのスーパースターのその後の関係を暗示しています。

    バロンドールを獲得するのに、僕がやった以上に何をすればいいのか言ってくれ。」
クライフの評価はある意味「異常」です。現在もそうですが当時はなおさらだった様です。クライフへの評価はどう読んでも人間の事であるとは思えず、まるで宇宙人がプレーする様子を書いてあるようです。宇宙人の表現は変だとしても未来人が未来のサッカーを持ち込んでプレーしている様子を記録しているとでもすれば良いのでしょうか。

トータルフットボールの理論は実現不可能な、言ってみればアニメの中だけの荒唐無稽の絵空事と世界中の誰もが信じていました。その中でクライフは自分であれば実現は可能であると確信していたようです。わずか2年でアヤックスの中で実現させ、'74にはオランダ代表チームで完成させました。その完成度も芸術的といってよく、新しい技術特有の危うさを感じさせないものです。その中に君臨するクライフのプレーも、まるで「生れる前からサッカーというのはこんな風にするのが当たり前なんだよ」とでも言いたいぐらい違和感の片鱗すらない自然なものです。

当時のビデオを見ればわかるのですが、'74ワールドカップの出場代表チームのなかでオランダだけが現在のサッカーをしているのです。もしこれを今年のオランダ代表チームであると言われても違和感を感じる人は多くないと思っています。もちろん多くの偶然や幸運が奇跡のように結集して30年も前にトータルフットボールを完成させたのであり、クライフひとりの力だけで出来たわけでありませんが、少なくともクライフ抜きではこれほどの完成度は望めず、ひとつの実験的な戦術として「未完成ではあるが多くの可能性・将来性をもった戦術」程度の評価で終わった可能性が高いと考えます。

人間的には早熟な天才にありがちな奇矯な行動、言動が数多く記録され、監督やチームメート、審判、オランダサッカー協会と絶え間ない諍いを繰り返しています。この手の人間は指導者に向かないのが通例なんですが、これも信じられないでしょうが監督としても超一流の手腕を見せつける事になります。

アヤックス監督としてカップ・ウィナーズカップを制覇した後、FCバロセルナを指揮します。FCバロセルナは低迷期にあり宿命のライバルRマドリードの後塵を長年にわたり拝し続けていました。クライフはトータルフットボールを導入し、アヤックス流の若手育成システムを持ち込むことにより、2年でFCバロセルナの黄金時代を作り上げます。

クライフの功績はたんにFCバロセルナを強化しただけではなく、FCバロセルナの成功を見たスペイン中のチームが競ってこの手法をまね、スペインサッカー自体が変容してしまいます。それまでゆったりとした流れとラフファイトを特徴としていたのが、ワンタッチプレーを多用するスピーディなテクニカルなものにかわり、そのため各チームのレギュラーポジションを得るためには自然と高度の戦術眼とオールラウンドの高い技術が必要となりました。

結果としてスペイン代表は「無敵艦隊」と恐れられる強豪に生まれ変わり、スペイン・リーグはセリアAとならぶ世界最高峰のリーグとなったのです。クライフのスペクタルな攻撃サッカーは見るものをして「私もあんなチームにしたい」、「あんなチームでプレイしたい」と惹き付ける魅力があり、「現代サッカー最高のカリスマ」の声も決して過大すぎる評価ではないと思います。

現在世界の有力クラブチーム、代表チームの多くは'74のトータルフットボールの延長線上の戦術を多かれ少なかれ採用しています。素早いプレスによる高い位置からのボール奪取、積極的なオフサイドトラップの運用、目まぐるしいポジションチェンジによるDFの攻撃参加など30年前にクライフとその仲間が完成させたプレーをまだ世界は追いかけていると言えば言い過ぎでしょうか。


サッカー界にきらめく無数のスーパースターのうちでも「超」とまで称えられるものは、まず'58、'62、'70のブラジル優勝の立役者「王様」ペレ、まさに'60年代の超スーパースターです。また'86のアルゼンチン優勝時に「5人抜きゴール」や「神の手ゴール」の伝説を残した「神に選ばれし者」ディエゴ・マラドーナ、彼は'80年代の超スーパースターと言えます。そして'70年代に君臨したのがベッケンバウアーとクライフです。

時代の先覚者「皇帝」フランツ・ベッケンバウアー、時空を超越した未来人「空飛ぶオランダ人」ヨハン・クライフ。サッカーの神はこのふたりの偉大なプレーヤーをなぜに同時代に出現させ、何をさせたかったのでしょう。我ら凡人は神の気まぐれで起された名勝負を見れたことをひたすら感謝するのみです。


あとがき

何故にベッケンバウアーとクライフなのかの疑問はあるかと思います。30年以上前の往年の名選手を引っ張り出さずとも、それ以降も名選手、好ゲームは幾らでもあるじゃないかの指摘です。その通りなんですが、後書きは言い訳をさせて頂きます。

当時あれほど興味を持ったかは記憶の彼方ですが、今から思えばアディダスの日本売り込みにベッケンバウアーが広告塔として起用されたからではないかと思っています。よほど上手くいった広告で、日本が出場せず、たぶん中継もロクロクされず、日本人がワールドカップと言う大会自体をあんまり知らなかったにも関らず、ベッケンバウアーの名前は深く刻み込まれる事になっています。

そのため当時サッカー選手の代名詞としては日本の釜本よりベッケンバウアーがもてはやされ、全国各地に「○○のベッケンバウアー」が雨後の竹の子の様に増殖する現象を起こしています。もっともベッケンバウアーが西ドイツの選手であることは知っていても、リベロどころかどこのポジションであるかを知っている人間はかなり少なかった様に思います。

それでも、それぐらいのサッカーへの関心が強くなれば、今度は「おらが国の代表チーム」がどうかが気になるところに行くのですが、これが情けないぐらいに弱かったのは書いておいて良いでしょう。

今でこそ代表強化試合となれば他国の代表と戦いますが、当時にそんな記憶は非常に薄いものしかありません。言い切ってしまえば「なかった」としても良いかと思います。それでもって対戦相手はクラブチームです。クラブチームでも強いのですが、来日した対戦相手は完全に物見遊山の観光気分です。そんな1軍半か2軍に近いようなメンバーと対戦しても、ひたすら守って押されっぱなしのゲームしか行なえませんでした。

アジアでも劣勢で、アジア大会の予選リーグの突破も難しくなり、ワールドカップにしろ五輪にしろ韓国や北朝鮮にまったく歯が立たず、晴れ舞台は遠い遠い世界になります。日本があんまり弱いので日韓定期戦が一時中止になるぐらいでした。時代が少々前後するかも知れませんが、北朝鮮のクラブチーム(実質的には代表チームとされますが・・・)が来日したときには、まさしくコテンパンに叩きのめされています。

個人的によく覚えているのはイギリスのミドルセックス・ワンダラーズが来日した時です。今は無き神戸中央球技場に見に行きましたが、開始早々にあっさり1点取られて完封負けです。スコアこそ0-1ですが、とても点が取れる雰囲気でなかったことを覚えています。このミドルセックス・ワンダラーズですがプロではありません。イギリスのアマチュアの選抜チームです。

プロ組織が発達した国ではアマチュアはプロより確実に実力は劣ります。そりゃそうで、プロになれる選手はプロを素直に目指します。このミドルセックス・ワンダラーズですが、現在でもしばしば来日しています。対戦相手はもちろん代表チームではありません。J1でもJ2でもないようです。のぢぎく県に来た時には地域リーグクラスのチームが相手であり、後は学生とか、プロのサテライトぐらいまでです。

おそらくミドルセックス・ワンダラーズのレベルは当時とさほど変わっていないと考えられますから、当時の日本代表チームのレベルがそんなものだったとの傍証になるかと考えられます。そんな状態では興味が薄れるのも致しかたなかったと思っています。私のサッカーへの興味はベッケンバウアーの時代に頂点に達し、後は急激に醒めてしまったと言う事です。次に関心が出てきたのはやはりドーハの悲劇になってしまいます。ベッケンバウアーからドーハまでの期間は正直なところ空白と言う事です。

思えば長い歳月でしたが、それでも少年時代に刻まれた記憶とは怖ろしいもので、サッカーの話を書くとなればベッケンバウアーになり、クライフになってしまいます。今年の日本代表もワールドカップ本戦での活躍は難しいかもしれませんが、ワールドカップと言う存在自体が遠い世界の夢物語の時代を知っている者にとっては、信じられないぐらいの活躍ぶりだとは思っています。

ではでは皆様、楽しいGWをお過ごし下さい。