署名運動

まず大辞林では、

ある特定の問題に関する主張・意見について、多数の者から署名を集めることで、理解を広め、問題に対する意思決定に影響を与えようとする運動

ふむふむと言ったところですが大辞泉になると若干ニュアンスが変わり、

特定の問題に対し多数の署名を集めることで、理解を広め、またその結着の方向に影響を与えようとする運動。

大辞林大辞泉も当然似ていますが、大辞泉の方がやや「圧力をかける」ニュアンスが強くなっているように思います。ここで気になるのは「特定の問題」です。具体的にはどういう種類の特定の問題が署名運動に相応しいかです。そこでYahoo!百科事典を引用してみます。

 特定の問題に対して、本来その真の意思決定主体であるにもかかわらず、その意思決定過程から疎外されている一般大衆が、彼らの意見を反映する手段として署名を集め、それを当該意思決定主体に提出する運動のこと。運動論的には、これは、運動側の主張を大衆に伝え理解を広めるとともに、大量の署名を集めて当該の問題の意思決定に対して強力なプレッシャーをかけていくものである。ヨーロッパにおいては1830年代のイギリスのチャーティスト運動以来の伝統があり、日本においては1880年(明治13)における国会期成同盟の十数万に及ぶ署名運動がこの運動の実質的始まりであろう。多くの成果をあげてきているが、東京都杉並区の主婦の運動から始まった原水爆禁止の署名運動が、1000万人を超す署名を集めて原水爆禁止世界大会に結実していったのは、その典型である。ただし、運動に入りやすいものの、それ以上に展開していかず、形骸(けいがい)化してしまう危険をもつ。

百科事典だけあって詳しいのですが、特定の問題とは、

    本来その真の意思決定主体であるにもかかわらず、その意思決定過程から疎外されている一般大衆が、彼らの意見を反映する手段として署名を集め、それを当該意思決定主体に提出する運動のこと
本当はその「特定の問題」を決める立場にある一般大衆(住民でも、国民でも指し示す範囲は問題の性質により変わります)がその決定の場から排除されている時に、間接的な手段として行なう運動が署名運動であり、その時に扱われる問題が「特定の問題」となっています。

ここで具体例としてあてはめてみます。百科事典でも引用されていますが、原水爆禁止運動から見ると、

特定の問題 原水爆禁止
本来の意思決定主体 地球住民
当該意思決定主体 原水爆保有国政府


これなら署名運動を行う理由がわかります。もうひとつ明治の国会期成同盟も百科事典では挙げられています。

特定の問題 国会開設
本来の意思決定主体 国民
当該意思決定主体 明治政府


これも無理なく当てはまります。

ここで医師なら署名運動としてピンと来るのは、医師不足の病院への医師招聘のための署名運動です。頻繁に行なわれていますが、今日は6/19付京都民法Webをサンプルにしたいと思います。

与謝の海病院に医師派遣を 府立医大病院に要請

 丹後、宮津・与謝両社会保障推進協議会は18日、京都市上京区の府立医大病院を訪れ、同大学の山岸久一学長あてに、3月から休診している府立与謝の海病院脳神経外科に医師を派遣するよう要請しました。

 丹後社保協の山本忠男事務局長、宮津・与謝社保協の垣田光枝代表、日本共産党の吉田さゆみ衆院5区候補ら13人が参加。一行は、同日の緊急府市民総行動で、府に脳神経外科の再開を求める署名8500人分を提出したことを報告し、「署名を断る人がいないくらい不安は広がっている。願いにこたえてぜひ医師を派遣してほしい」「府北部に住んでいても、京都市内に住んでいても命の重みは変わらない。府民のいのちと健康を守るために大学当局もがんばってほしい」などと訴えました。

 応対した宮地徹管理課長は、「脳神経外科医がいないので厳しい。みなさんの生の声は学長に伝える」と答ました。

記事ある通り

府に脳神経外科の再開を求める署名8500人分を提出したことを報告し

署名運動が熱心に行なわれた事が書かれています。ここでなんですが、署名を渡したのは京都府であると明記していますから、署名運動の目標は京都府である事がわかります。先ほどの署名運動の構図を「一応」書いてみると、

特定の問題 脳外科医師招聘
本来の意思決定主体 住民
当該意思決定主体 京都府


特定の問題が脳外科医師の招聘であることはまあ良いとして、本来の意思決定主体は住民でよいのでしょうか。署名運動を行う「本来の意思決定主体」の定義は
    本来その真の意思決定主体であるにもかかわらず、その意思決定過程から疎外されている
ここは非常に微妙で、府立病院は京都府が住民の健康と疾病治療のために設置していますが、病院の設置が「その真の意思決定主体」による住民であったかは微妙な問題です。また脳外科医師の去就が「その真の意思決定主体」によって行なわれるものであるかは疑問です。

ちょっと話が複雑になるのですが、府立病院の医師の存在が「その真の意思決定主体」により本来行なわれるものかと言うことです。病院自体のハコモノは広い意味で「その真の意思決定主体」によって建設されるのはまだ良いとしても、そこに勤務する医師の去就まで「その真の意思決定主体」によって決定されるのが本来であるのかの問題です。

医師も日本の自由な市民ですから、自分の意志で勤務する病院を選びます。様々な条件から自分の能力を活かせる医療機関を選択する自由があります。この自由は「その真の意思決定主体」によって束縛されるものではありません。記事にある与謝の海病院に勤務するかどうかはあくまでも医師の自由な意志に基づくものであり、他の何者でも無いという事です。

何が言いたいかですが、署名運動は京都府に向かって行なわれていますが、京都府であっても脳外科医師個人の医師を左右する事は出来無いという事です。「当該意思決定主体」は京都府でもなく、京都府立病院でもなく、脳外科医師そのものであることです。

この脳外科医師の意志ですが、医局人事華やかなりし頃は教授が握っていました。ところがこれは弱体化の一方であり、とくに医局所属医師が不足しているところでは、教授とて医局所属医師に「お願い」する程度に拘束力が落ちています。この辺りは大学により、さらに医局により事情にかなり濃淡の差はありますが、かつて完全に無視されていた医局所属医師の意志は本来の「当該意思決定主体」を強くしています。


ところが署名運動の方向性は、公共施設が無いとか、道路を整備せよとか、橋を作れの様に意志無き物体を要求する様に脳外科医師を要求する体裁を取っています。本来の「当該意思決定主体」であるはずの脳外科医師の意向を全く無視しているとしても良いかと思います。もちろん住民が脳外科医師を与謝の海病院に欲しいと言う運動自体は行ってもまったく問題ありません。住民が困っているからです。

しかし住民は脳外科医師の去就の「その真の意思決定主体」ではありません。「その真の意思決定主体」も「当該意思決定主体」も脳外科医師そのものであり、住民による署名運動は脳外科医師そのものには行ないようが無いという事です。あえて脳外科医師招聘に署名運動を行うのであれば、特定の○○医師個人に対して招聘の署名運動を行うのが正しい方法になります。

小理屈をこねた様に感じる方も多いかもしれませんが、医師は署名運動による「医師よこせ」運動を非常に冷笑しています。私もまた冷ややかに感じています。理由は筋違いな方面への運動に感じてならないからです。直感的に違和感を感じた事を、非常に雑ですが理論化してみた次第です。


当然ですが「ではどうすればよいのか」の問いは出てくるかと思います。住民として脳外科医師が必要だし、これについて何とか運動したいの思いです。特定個人の脳外科医師への署名運動が本来正しいと言われても、そんなものはやりようがありません。運動の方向性は「その真の意思決定主体」であり「当該意思決定主体」でもある脳外科医師が赴任しやすい体制を整備する事です。

医療の公益性なんて話が絡むとややこしくなるのですが、企業誘致みたいなものです。その地方の産業の振興、雇用の確保のために企業を誘致したいと考えたときに、署名を自治体に提出しても効果はありません。企業に署名を渡しても効果は薄弱です。誘致する側が企業が進出しやすい条件を整えるのが基本であり、すべてと言っても良いかと思います。

「医師よこせ」の署名運動に冷笑的な医師はよく「署名するなら募金しろ」と言いますが、これは言葉は悪いですが一つの真理を言い当てています。脳外科医師が赴任する条件の一つに給与は当然ありますから、もっともわかりやすい運動の一つになります。もちろん金なんて条件の一つに過ぎず、金だけで他の悪い条件をカバーする気なら尾鷲の5500万円みたいな話にエスカレートします。

参考になるのは柏原の運動と思っています。外野から様々な声はありましたが、住民運動により医療環境を整備した事により、小児科医の招聘に成功しています。それだけでなく兵庫県もテコ入れに積極的になっていますし、有形無形の様々な手助けが増えつつあります。医師が必要であり、医師を招き寄せるのに不利な条件であるのなら、それなりの運動をしないといけない時代になっているという事です。そういう住民の意思こそ金なんかより医師の意思決定に大きな影響を与えます。

住民が医師を招きたいという熱意を、くれぐれも間違った方向に発揮しないで欲しいと思っています。