日曜閑話16

今日のお題は「お金」です。いちおうアメリカ発の金融恐慌に便乗したネタですが、金融恐慌とはとりあえず関係ない江戸時代のお話です。江戸の通貨といえば小判とか寛永通宝みたいなものが思い出されますが、有名なお話として江戸と大坂では通貨が異なったと言うのがあります。当時は通貨自体が価値を証明する本位制でしたが、江戸は金本位制、大坂は銀本位制でした。こういう体制を金銀複本位制と言うらしいのですが、江戸時代はさらに銭も金貨や銀貨と独立しており、さらにさらに裏で米本位制も働いている通貨制度と言えばよいのでしょうか。

金貨・銀貨・銭貨の交換も幕府が公定レートを作って交換されるわけではなく、すべて民間に任せられ、悪徳商人の権化みたいに時代劇では描かれる両替商が必要になるわけです。一本化して固定化しても良さそうなものですが、幕府は最後まで基本的にこの通貨体制で過ごし、一本化されるのは明治政府が成立してからの事になります。

交換レートは時代とともに激しく変動するのですが、一つの目安として、

  • 1両=4分金=16朱銀=4000文
  • 1両=銀60匁
  • 1両=金16.5g
  • 1貫=1000匁(1匁=3.75g)
それと1両の価値ですが、これは江戸時代を通じてほぼ一定しており「1両 = 米1石」であったとされます。1両と言う単位は米1石を買える価値と言う米本位制が裏で働いていると書いたのはそのせいです。

江戸幕府も五代綱吉頃から財政問題が常に出てくるのですが、初期は豊かでした。どの程度かと言うと、初代家康は江戸城を築城し、江戸の町を整備し(ほとんどが埋め立て工事)、関が原を戦い、大坂城を攻めていますが、それでも二代秀忠には遺産として190万両を残し、秀忠は家光に250万両を、さらに三代家光は日光東照宮の建立に60万両、30万人の供を連れての上洛を3回も行うなど濫費を行ったにもかかわらず、四代家綱にはさらに莫大な金額を残しています。

家光が残した金額は家綱の統治6年目に振袖火事と呼ばれる大火で江戸城の御金蔵が焼け落ちた時、386万3千両の金銀と44貫の金分銅20個おなじく銀分銅206個があったと記録されています。これがどの程度であるかと言えば、

  • 金銀386万3千両
  • 金分銅は1個44貫なので16500gとなり、1両が16.5gとして計算すると1万両になります。これが20個で20万両
  • 銀分銅も1個44貫なので44000匁となり1両=銀60匁として計算すると2750両となります。これが206個で56万6500両
合計で462万9500両です。現代の通貨に直したいのですが、これが非常に困難で、元禄時代の男衆の給料が年2両、女中が年1両2分の記録もあり、1両が人足の日当の60日分に当たるという記録があるところから、1両=100万円近い価値もあったとも解釈もできます。一方で初鰹1尾1両とか、芝居小屋の弁当が高給料亭で作られたものが5両もしたなんて記録を見ると、1両=100万円はいくらなんでも高すぎてやっぱり1両=20万円ぐらいが妥当とも思えます。また家綱時代の流通通貨量はおよそ2000万両と推測されており、それを基に考えると天下の財宝の1/4近くを有しているとの見方もできます。

人件費や物の値段が現在と全く異なるので正確な換算は無理なのですが、「1両 = 20万円」説で9259億円になります。一方で通貨の全量の約1/4を握っていますから数100兆円という見かたも出来ます。まあそれぐらいとしか言い様がありません。

ところがこれだけの資金が四代家綱の時代にスッカラカンになります。たしかに家綱時代は振袖火事の復興と江戸の拡大工事が行なわれましたが、家光時代と較べて、格別に出費が多かったとは言い難いところです。江戸城の御金蔵から金銀が消失した理由は、

  1. 鉱山からの金銀産出が枯渇
  2. 長崎貿易の利益が低下
  3. 年貢率の低下
この3つと言われています。直撃だったのはまず鉱山で、家光時代まではいくら使っても打ち出の小槌のように金貨、銀貨が生産されたのに家綱時代になるとゼロに近くなります。打ち出の小槌が無くなった状態で、家光時代のような出費を続ければ財政も傾くというわけです。鉱山と言う打ち出の小槌は二度と復活しない事になります。

それでも江戸幕府は歴代幕府の中でもダントツの直轄領を持っていました。俗に800万石とも言われますが、これは旗本領を含んでのものとされ、幕府の財政に寄与したのは半分の400万石と言われます。重い年貢に喘ぐ貧しい農民は時代劇の定番スタイルですが、幕府領(天領)ではそうは言えない状況が展開します。

江戸幕府も初期は七公三民の年貢率で400万石もあれば280万石(=280万両)の収入があるはずです。これが時代とともに急落し、六代家宣の時代には年貢率が2割8分9厘まで低下することになります。つまり三公七民と年貢率が半減以下になり、収入も280万石から120万石足らずに落ち込みます。金貨換算で120万両です。それでも120万両の収入があると言えそうですが、そこから知行地をもたない幕臣への給料(禄)、役職についている幕臣への給料(役料)、将軍家や大奥の生活費が絶対の固定経費として出て行き、それ以外の政治として予算に使える金額は13万8000両しか残らなかったとされます。

絶対の固定経費は収入に関係ありませんから、江戸幕府初期には政策予算として180万両近く年貢から確保していたものが、家宣時代には1/10以下の13万5000両まで減った事になります。家綱時代は家宣時代よりマシだったかもしれませんが、家綱時代の江戸拡張作業は持ち出しオンリーになり江戸幕府は財政危機を迎えることになります。

江戸城の御金蔵が空になった状態で将軍になった綱吉は、有名な元禄時代の繁栄を謳歌する事になります。金が無いのに謳歌できたのにはカラクリがあります。財政問題を丸投げされた勘定奉行の萩原重秀は画期的な通貨政策を編み出します。有名な金銀改鋳です。カラクリの種は金貨、銀貨の品質を落とし通貨を量産させる政策です。この時に産みだされた差額はなんと金貨450万両、銀貨456万両でおおよそ1000万両にものぼります。この差額で綱吉は豪奢な生活を営む事になります。


萩原重秀の金銀改鋳は後世の評価が非常に悪いものです。ただ経済学者の評価は違います。江戸幕府も初期の内は産業が農業ぐらいしかなかったのですが、綱吉の時代になると商品経済が発達してきます。商品経済の発達は多量の通貨を必要とし、鉱山からの新規の通貨供給がなくなっていますから、そういう状態で経済の発展を促すために通貨量の増大は適切な政策であったとされます。

家綱時代から江戸拡張事業と言う公共工事が行なわれ、経済が過熱状態になりつつありましたから、そこに1000万両の新たな通貨供給があり、一挙にバブル景気が花開く事になります。後世に言う元禄時代の到来です。莫大な差額を手にした幕府も、経済状況を見極めながら徐々に流通通貨を増やせばよかったのですが、貧乏人が持ちなれない大金を手にしたようにジャブジャブ使ったので景気はまさにバブル状態と言って良いかと思います。

幕府は金銀改鋳で濡れ手に粟の莫大な収入を得たのですが、一方で本業とも言うべき年貢収入は変わっていません。本業が振るわないままに、臨時収入で浪費を行なえばすぐになくなります。無くなれば新たな打ち出の小槌である金銀改鋳で収入を確保するという自転車操業が元禄バブルの裏舞台と言っても良いかもしれません。


ここで萩原重秀を不倶戴天の仇敵とみなすライバルが登場します。名前はこちらの方が遥かに有名な新井白石です。新井白石は家宣の有力ブレインとして権力を揮いましたが、とくに萩原重秀の金銀改鋳政策を口を極めて非難することになります。財政問題として当時課題とされていたのは、

  • 米価低落
  • 米価以外の物価上昇
この二つは幕府も諸藩も苦しみます。幕府も諸藩も収入の基礎は年貢であり米です。米は通貨に匹敵するほど価値はありましたが、政治を行なう上では米を通貨に換えなければなりません。この交換の時の米価が下がれば収入は下がってしまいます。さらに手にした通貨で何かを買おうとしたら、今度は物価が上ってますから買える範囲が小さくなります。つまり収入減と支出増がダブルで財政に襲い掛かっている状態になります。

新井白石はそういう状態になったのはすべて金銀改鋳が原因であるとし、これを江戸時代初期の品質の通貨にする事で解決すると強硬に主張しました。強硬に主張するだけでなく萩原重秀を追い落とし、実際にこれを行う事になります。有名な「正徳の治」です。新井白石の論法は

    「金銀改鋳により100両を200両にしても所詮は元の価値が変わる訳ではなく、昔の100両を200両と諸人がみなしているだけで実際は物価なんて上がっていない。だから金銀を再改鋳して通貨を元の値打ち、量に戻せば物価は下がるはずである」
新井白石の考えでは、金銀改鋳で1両を2両にしたから、元々1両の価値のものが2両になったのであり、2両を1両の価値にすれば物価も半分に下がるはずであると考えれば良いかと思います。現在でいえばデノミにやや近い政策ですが、これは大失敗に終わります。失敗の原因は様々に解説されますが、新井白石はあくまでも1両には1両の金の分の価値があると前提しています。つまり貨幣自体の値打ちに変化はないと考えています。

ところが当時の人間の感覚は完全でないにしろ、「金」の価値としての1両と「通貨」としての1両は価値として分離し始めていたと考えます。本位通貨制であるのは基本ですが、価値観として信用通貨に近いものを持ち始めていたとすれば良いでしょうか。また1両のもう一つの裏付けである米1石の価値ですが、これは米の生産量の増加で確実に下がります。見た目上は米1石が1両ですが、既に通貨量の増大による1両に対して1石まで下がっていたというわけです。

先ほどデノミにやや近いとしましたが、実際の効果はデノミではなく通貨供給量の低下の効果の方が強く現れます。また通貨供給量の低下は経済規模の縮小に通じます。1000両の商売規模があったとして、通貨量が500両に減れば、値段が半分になって商品数が維持されるというより、値段はそのままで商品数が半分になる現象を引き起こしたとすれば良いでしょうか。

商品は通貨が減れば買わなくとも我慢できる部分もありますが、米は主食ですから買わなければなりません。ところが買うにも通貨が減ってますから、今度は米価が下がる現象がおきます。つまり新井白石の政策は結果として物価の値下がりについては期待はずれで、米価についてはより下がるほうに作用した事になります。

このため諸藩はさらに深刻な状況に陥る事になります。現金が欲しい諸藩はとことん米をかき集め大坂に送り現金化しようとします。じゃんじゃん米を送られた大坂には現金が無いために米を安く買い叩きます。買い叩かれても現金は藩の運用に必要ですから、さらに米を根こそぎ送るみたいな悪循環が生じる事になります。

米を送っても送っても現金が足りない諸藩は藩内の現金をかき集めて、これを藩札と呼ばれる藩内限定の通貨に置き換えたりもします。置き変えるのはまあよいとしても、藩札として交換した現金もすぐに使ってしまいます。藩内の通貨は藩札の増刷で賄ったとしても、藩外との取り引き、たとえば江戸屋敷の維持には現金が必要ですから、藩内でかき集めた金も無くなれば豪商からの借金で家計を支えます。


ただこういう循環は一面で見れば現金が藩も含めた政府から、民間にどんどん流入する現象につながります。藩が豪商に借金をする大名貸しは当時の通貨量の数百倍に膨れ上がったとされますが、サブプライムローンではありませんが、これは信用の増大による通貨量の増大につながり、経済規模の拡大につながります。こういう現象は江戸期を通じて維持され、サブプライムローンのように破綻しなかったのは、貸した相手が倒産しない大名であったと言う点が大きいかと思います。

それでもツケは払う時期が来ます。明治維新版籍奉還は、諸藩の解体による中央集権政治の布石とされますが、この時に諸藩が抱えていた莫大な借金を事実上チャラにしています。チャラのツケは豪商が被る事になり、明治維新後の大坂は火の消えたような不景気に襲われたとされます。江戸期の繁栄のイメージからすると、明治初期はかなり貧しい印象もありますが、江戸期に発生した借金のツケを返却していた時期と考えると合点が行くような気がします。


この辺で今日は休題にさせて頂きます。