トリアージのお話

4/27エントリーのコメント後半部分に起こった議論なんですが、片隅に埋もれさせるには惜しい内容だったのでエントリーに挙げます。

まずトリアージとはなんぞやですが、今日のエントリーではやや狭く扱います。大規模災害時に医療が必要な負傷者の需要が、医療の供給を上回り、患者の治療に優先順位をつけなければならない状態を指すと考えてください。広義のトリアージはもっと様々なシチュエーションで用いられると思いますが、今日のお話では狭めの定義を用います。具体的には阪神大震災のような桁外れのものやJR西日本の列車転覆事故が当てはまりますし、この2つでは実際にトリアージが行われていました。

トリアージが必要になる非常時とそうでない平常時の治療のどこが違うかですが、平常時ではあらゆる患者に持てる医療資源を用いて出来る限りの医療を施します。言葉が大層ですが患者一人一人に普通に全力を尽くし、治療に当たった患者の治療の是非が最重要課題になります。

一方でトリアージが必要な非常時では患者を集団で見ます。全員を公平に治療する事が不可能であるとの前提ですから、使える医療資源を勘案して集団としてみた治療効率を追求する事になります。患者一人の治療を重視するのではなく、患者の集団の中で何人に有効な治療を施せるかを重視する事になります。こう書くと非人情のようですが、そうせざるを得ない非常時であることの前提を踏まえておいて欲しいと思います。

もう少し非常時の治療を具体的に書くと、9人の重傷者と1人の超重傷者がいたとき、1人の超重傷者にすべての医療資源を注いで残りの9人の重傷者を助けられないような事を避け、1人の超重傷者の治療をあきらめ、残りの9人を治療する事で救命率を上げることのほうが優先される治療です。こういう事は平常時の治療のモラルと全く異なるため、医療従事者でも苦渋の選択の治療ではありますし、ある程度訓練されていないとなかなか出来ることではありません。

経験者から言うと阪神大震災クラスであれば速やかに社会的合意がなされます。経験者で無いと最後の実感が共有し難いところもあるかもしれませんが、街中が瓦礫の山と化し、あちこちで大火が起こり、電気も水もガスも通じないだけではなく、電話も広範囲で不通になります。病院にたどり着いても病院もまた大きな被害を受けており、そこまで見せ付けられたら負傷者もまとまな治療は受けられないと直感します。

問題となったのはJR脱線事故クラスです。あれも大きな事故でしたが、阪神大震災に較べると災害の現場規模が非常に限られています。事故現場は間違い無く修羅場で、大量に発生した負傷者の受け入れは、その搬送能力も含めて非常時ではありましたが、ものの100mも離れればごく平穏な日常生活が営まれています。何が言いたいかといえば、事故現場の人間の状況判断として非常時であることは正しいですが、周囲の人間にまで必ずしも社会的合意がなされていない可能性があるという事です。もう少し直截的に言えば、遺族にとっては必ずしも全員がトリアージが必要な非常時と見なされない可能性があるということです。

なぜこんな事を考えたかというと、私は見ていないのですが、JR事故の遺族が黒札をつけた医師を探している番組をNHKが放映したと聞いたからです。番組を見ていないのでどういう趣旨で遺族が医師を探しているかはわかりませんが、そこで大変嫌な考えが頭をよぎったからです。トリアージという言葉はそこそこ広まっていますが、トリアージ自体には明確な裏付けが無い事にです。

ここから先はNHKの遺族の方の話と別の仮定のお話です。くれぐれも誤解ないようにお願いします。トリアージの黒札とはおおよそ次の意味を持ちます

    既に死亡している者又は直ちに処置を行っても明らかに救命が不可能なものなど。
つまり黒札をつけた患者に治療を行なえば、他の助けられる可能性がある患者に手が回らなくなるから、治療はしない、もしくはよほど後回しにされるという意味です。この黒札ののうち既に死亡しているものはとりあえず置いておくとして、「直ちに処置を行っても明らかに救命が不可能」な者はまだ生きているという事になります。

遺族(NHKの遺族とは別の仮定のお話です)が黒札と判断した医師を見つけ、状況を聞いて「虫の息で手の施しようが無かった」との説明を聞かされ時に、「生きているならなぜ見殺しにした」と追求される可能性です。私は幸か不幸か阪神大震災でもトリアージを行なわなければならないような修羅場は経験しなかったので明言は出来ませんが、混乱した現場でいちいち記録(診療記録)を残しているとは思えません。

そうなると後日、黒札判断の負傷者が本当に黒札でよかったかそうでなかったかの記録は何も残っていないことになります。残っていないとなると「黒札判断が間違っていて見殺しにされた」の理屈が成立するような悪寒が出てきたのです。この点につきまずYUNYUN様からコメントを頂きました、

「非常時」の場合、例えば大災害により負傷者が多数出た場合に、トリアージが必要だということについては、わりと社会的コンセンサスが得られているのではないでしょうか。
以前に、新聞で、「阪神大震災の時と比べて、尼崎鉄道事故では病院に運ばれてからの死亡者は少なかった、阪神大震災を教訓にして救急部門がトリアージ訓練に励んだ成果が現れた」というような肯定的な評価が出ていました。(関西ローカルの記事だったかもしれません。)
そのNHKの記者は大災害の現場を見たことがないのかも。

YUNYUN様は皆様ご存知の通り法律関係者であり99.9%の確率で弁護士です。まずはこういう楽観的なコメントを頂いたのですが、次のコメントはチト厳しくなります。

> 自分がトリアージを受けるという点については理解におよんでいない

それはありますね。社会のあらゆる面に渡って。特に最近。
想像力の欠如というのでしょうか。

そのご家族の感情を慰撫するために慰めを言うとしたら、「救急の能力は非常に高くて、トリアージの結果に誤りはなかった」ということですね。一生懸命たくさん運んだから、助からない人まで運んでしまったけれど、助かる人を運び損ねたことはない。

このコメント辺りから見解に微妙な彩が生まれます。次のコメントはさらに厳しくなります。

ご遺族に対する配慮は捨象して法的な議論だけを行いますので、管理人様のご判断において不適当と思われるならば、削除してください。

> 混乱した現場で後から黒札の合理的理由を求められても証明するものがありません

生きているうちに医師が診察する機会があればカルテの作成も可能ですが、そういう機会がなければ最終的な検死報告しかありません。逆に言えば、他の人を害することなく病院に搬送することが可能であり、かつ、運んでいれば救命できたという立証は非常に困難です(損害賠償請求では立証責任は請求者たる原告側にあります)。

しかし、私見ですが、非常時トリアージについては、判断の正当性の証明を、むしろ「させてはならない」性質のものであると考えます。緊急作業に完璧を期すのは不可能であり、たとえ判断を誤ったとしても、民事刑事の法的責任を問われることはないと保障しなければならない。責任を問われるおそれがあるのでは、トリアージの任に就こうという人はいなくなってしまうからです。
現行法の解釈としては、「期待可能性がない」から責任を阻却するという理屈になろうと思います。
私は、さらに進んで、政策的に、トリアージの結果の非公開及び無問責を法により明定すべきであると考えます。

少し専門的になったので出来るだけ噛み砕いてみます。

  • 死亡者であればカルテは不要である。
  • 損害賠償請求では立証責任は請求者たる原告側にあり、立証は現実的に非常に困難
  • それでも責任を問われる可能性は困難なだけで不可能ではない
YUNYUN様の趣旨はあくまでも非常時の医療ですから、完璧を求めるのは無理があり、民事刑事の責任問題にしてはならないの立場を明確にされています。しかし現行法上では、「期待可能性がない」から責任を阻却できるはずであるとしているだけで、YUNYUN様の気持ちはわかるのですが、医師にとって現在の医療情勢では安心しきれない見解のようにも聞こえます。

最後にお弟子様からこれを受けたコメントが出ています。

他の職種はともかくトリアージを医師が行なった場合、それは診療か否か。診療だとみなされれば、遅滞なく診療に関する事項を診療録に記載しなければならない訳で。カルテに記載されていないし記載する義務も怠ったという理屈で民事で争われたら……。YUNYUN様のご指摘も含めそういった問題を、通達で済ますのか、誰か生け贄が裁判にさらされ司法の結論がでるまで皆がリスクを負わされるのか、立法で事前予防するのか。なんとなく2番目な気がするんですけどね。

私の心情と同じで、どこかで実際に訴訟になるまで宙ぶらりんで放置されそうな気がします。さすがに確実に負けそうとは思いませんが、誰かが法廷で苦心惨憺して判例として立証するまで誰も手をつけないであろうという事です。なんとも居心地の悪い議論の結論で、私は非常に寝覚めの悪い思いをしました。皆様はどう思われました。