既製メデイアとブログ

昨日のエントリーにTB頂いたみわちゃんの「猫屋敷電脳日記」を読ませて頂いて、メディアに対して言いたかった事が上手にまとめてありましたので、少し引用させて頂きます。

さて、新聞(業界紙を除く)と雑誌(一般週刊誌に話を限りましょうか)の場合、内容に求められるものは「本当であるかどうか」以上に、「読者の多数にウケるかどうか」です。もちろん完璧なウソを書くわけにはいきませんから、紙面に出たことはとりあえずウソではない可能性が高い。ウソだったら「お詫びと訂正」を出すことになりますから。しかし、紙面に出たことをつなぎ合わせたら実態になるのかというと、決してそんなことはありません。なるべく実態を示す記事を作る努力をしている記者さんたちを、私は個人的に何人か知っており、努力に敬意を払っていますけれども、その多くが社内的に微妙な立場に立たされています。この事実がすべてを語っているような気がします。

ネットの中で自分で考えて意見を発信している人には常識ですが、メディアにはファクターがかかっています。これがどんなファクターであるかは、分野によって違いますし、ファクターのかかり具合は様々です。ファクターは小さくは記事を書いた人間の思想哲学があります。記事を書くほどの人間が無味無臭であるわけではないからです。大きなものに「猫屋敷電脳日記」さんが書かれているように「読者に受けるかどうか」のファクターです。他にも深読みすれば政府の意向が反映されているんじゃないかとか、国策による情報統制があるんじゃないかも話題に上りますが、この辺の内情はメディアサイドの人間による発信を期待したいところです。

なぜ「読者に受けるかどうか」を重視するかですが、言うまでもなくメディアは購読者(視聴者)の数が商売に直結します。メディアは商売です。商売としての目的はCMをより多く獲得することです。CMは購読者(視聴者)が多いところのほうが価値が高いので、購読者(視聴者)の獲得合戦に血道を上げる事になります。これが商売の本質と言えるような気がします。

猫屋敷電脳日記さんがいみじくも書かれているように、メディアはCMを載せた媒体を売る事が目的です。CMだけしか無ければ、誰も読んだり見たりしてくれないので、それを読もう、見ようとする記事が必要になります。ここまで書いて笑いそうになったのですが、メディアとはCMを読ませるための記事を書き、報道していると受け取れます。記事とは購読者(視聴者)をCMに誘導するための広告文だとも言い換えられそうです。

商品の宣伝文みたいなもので、なるべく多くの購読者(視聴者)の関心を引き寄せるのが最大の目的となります。話をあんまり広げると収拾が付かなくなるので、医療に話を出来るだけ絞りたいと思います。メディアにとって医療ニュースの扱いはどういうものかになります。メディアが意識するのはあくまでも多数派です。ごく少数派の医師の意向を配慮する必要はさらさらありません。医師には社会的影響力が乏しく、反発を招いても痛くも痒くもないからです。

メディアにとっての医療ニュースの位置づけは「医者を叩く」です。これが大多数の読者の興味と関心を引き、一番安心して記事として載せられます。逆に医療事故関連で医者を擁護し、患者を非難するような記事を載せれば、そのメディアは強烈な社会的反発を受けることは容易に予想されます。だから記事としては「医者を叩く」スタンスから一歩も出ないことになります。これを冒す記事は書かれても編集段階で確実にボツになると思います。

文章は書きようによっていくらでも印象操作ができます。「猫屋敷電脳日記」さんも書かれているようにメディアは最低限のモラルとしてウソは書かないそうです。ウソは書かないのですが、記事に書いてある事実をつなぎあわせても実態が分かるわけではないのです。記事に書かれていることは事実でも、事実をすべて書いているわけでは無いということです。医療であれば「医者を叩く」の趣旨に都合の悪い事実は自由に伏せられるということです。「医者を叩く」に都合の悪い事実が伏せられ、都合の良いことのみを羅列すれば、読者の受けの良い「医者を叩く」記事が一丁上がりになります。

こういう「医者を叩く」記事が長年続けば、読者の意識として「医者を叩かない」記事は許さないように誘導されます。ある種の洗脳かとも見えますが、医者とは叩いて当たり前、いやまだまだ叩き方が生ぬるいとの認識が広く行き渡っているように感じてなりません。その点をいくら憤慨してもしかたが無いので今日は置いておきます。

話がそれかけましたが、ここで猫屋敷電脳日記さんのエントリーをもう一度引用します。

読者が賢明になればいいんですよ。自分の日々のむしゃくしゃとかルサンチマンだとかを晴らすためではなく、事実を知るために新聞や雑誌を買って読むようになればいいんですよ。事実がちっとも明らかにならないような報道ばかりだったら、「買わない」という選択をするなり、新聞社や雑誌社にネジ込むようになればいいんですよ。事実をなるべく正確に報道することが売り上げ増大につながるようになれば、単に営業努力としても、一般読者の「気分」を煽るような記事が出にくくなります。

これが正論だと思います。ただここで問題なのは「どうやって」記事の正確さを評価するかになります。話を医療問題にまた戻しますが、やはり専門家の意見を聞くのが常道かと思います。メディアでもその手の評論家的意見を良く載せます。ただしメディアが載せる場合には「医者を叩く」路線に合う評論家を選び、また記事にする時に相当な編集が加えられるのは良く知られていることです。だからメディアで第3者の中立の意見風に掲載されている意見も正確さをどれだけ表現しているかに注意が必要と考えます。

ここでようやく私たちブロガーの出番であると考えます。医者のブロガーも数多くいます。ここのところで2件ほど医療事件を取り上げましたが、縁も所縁も無い病院の医者の事件です。当然直接の利害関係があるわけではありませんし、医療者として第3者的評価が可能です。私の意見が絶対正しいわけではありませんが、少なくとも第3者的位置にある専門家の一つの意見であるとは言えます。

この事件を評論しているのは私だけではありません。私以外にも取り上げているブログは数多くあると思います。それらの専門家の意見を比較検討することは容易なことです。比較検討してもらえれば、現場の医者が専門家としてどういう見解を持っているかは一般の読者でも理解可能かと思います。またブログは一面として、長い時間をかけて練り上げたものでないことも多いものです。私も限られた時間で、限られた材料で書いています。あるエントリーで至らない点についてはコメントする事も可能です。コメントに対しどういう姿勢をとるかは管理人の考え方ですが、建設的な意見には多くのブロガーが積極的に対応しています。そういう議論の中で、見落としていること、考えが足らなかった点に対し、これを修正しながら意見を発展させることも可能です。

ブログは匿名であるが故に本音に近いことが書けます。ブログ普及前は医療現場の実態や医者の本音なんて誰も知ることさえ出来ないものでした。それがブログというツールにより、やる気があれば誰でも自由に発信できるようになったのです。ブログの内容も玉石混交であるのは間違いありませんが、真実ないしは本当の本音を書き出しているところは決して少なくありません。

だからメディアの記事とブログのエントリーを比較して、事件の本質や実態を考える事が可能になっていると私は思います。これまではメディアの記事だけが一方的に流され、これに対する批判や論評をする場さえなかったのに対し、医療に限らずその分野の専門家が現場の実情や実態を踏まえた上の批判や論評を自由に手に入れれる時代になっているといえます。ちょっと買い被りすぎかもしれませんが、既製メディアに対してブログがもう一方に位置している時代になっていると考えています。

読み手はそれらを比較検討して、何が真実か、何が実態かを自分で考える時代になっていると思います。ただしこれは自分でする必要があります。自分で考え、自分で判断しなければなりません。その結果、メディアが真実と思うのならそれも一つの判断ですし、ブログが正しいと思うのも一つの判断です。自分の責任で判断を下し、判断がもたらす結果もすべて自分が負うという事です。

自分が判断し正しいと思うことを主張する自由ももちろんあります。自分のブログで主張するのも一つの方法です。他者のブログにコメントするのも一つの方法です。コメントをする時に賛同意見でもOKですし、補足意見でも問題ありません。ただし反論する時には十分な配慮を忘れてはいけないと思います。

反論するという事はブログの管理者の感情を逆なですることになります。決して気持ちの良いものではありません。反論するなとは一言も言う気はありませんが、反論するからにはキチンと理性的に反論する方が望ましいと思います。これは明文化されているルールではありませんが、エチケットとか礼儀の領域の話になるかと思います。

そんなに難しい話ではなく、反論するからには論拠を明快に主張すべきだと私は個人的に考えます。また最も注意すべきことは悪意を持った感情を出来る限り抑えてするべきだと考えます。感情が剥き出しになれば次に返ってくるのは憎悪であり、憎悪がもたらすものは不毛の水掛け論です。間違っても感情を基礎に主張を構成すべしで無いということです。感情が主張の基礎であるなら、もう議論の余地は無いということです。

感情論となると理性的判断は隅の方におしやられます。ブログもコメントのやり取りも広い意味での議論であり、意見交換です。時に感情が混じるのは私のエントリーでも避け切れませんし、コメントを返すときに幾分でも混じっていないかといえば、混じってはいるでしょう。しかし文章ですからその辺はいくらでも抑制は可能ですし、時間を置いて考え直して書き直すことはできます。

異論、反論は議論を膨らますために必要なエッセンスであることは言うまでもありませんが、少なくとも私のブログは議論に勝つためだけのディベートではありませんし、ましてや感情論の叩き合いの場になることを望んでいません。

えらく長くなりましたが、これは昨日寄せられたコメントのやり取りを読んでふと感じた感想です。やや刺激的なコメントがあり展開を少し心配していたのですが、その後の展開を読むと皆様非常に理性的にコメントを続けられているのを見て感心しました。良質の読者の方が多いのにビックリしました。私のエントリーもまだまだ至らない点が数え切れないぐらいありますが、これからも的確なコメントを寄せていただければ、少しでもマシなエントリーを書く助けになりますので、今後ともよろしくお願いします。