出ているとの実感が調査にあるそうです。まあ絶対あるでしょうね。塾に行かせる行かせないだけで必然的に差が生じるでしょうし、小学生なら私立中学に行かせるだけの経済力で差は出るのは間違いないでしょう。どう考えても学校だけで勉強している子供と、塾でも勉強している子供には差がつくのは当然と考えます。
今朝の朝刊にはかなり批判的な論調で書いてあり、教育評論家のコメントに「自分だけ良ければよいという考えは・・・」みたいものが副えてありました。一見正論のようなんですが、問題があるなら是正しなければならないはずなんですが、具体的にはどうせよというのでしょうか。記事にはそこまで踏み込んでいませんでしたが、考えれば幾つか出てきます。所得による教育格差を少なくするには、所得により可能な学校以外の教育機会をなくす事が必要です。例えば、
- 塾は全廃。
- 家庭教師も禁止。
- 教科書や学校で協同購入している以外の副教材の販売禁止。
少なくとも上記の設定があれば、所得による教育格差は小さくなると思います。ではこれをいつまで続けるかということです。小中9年間の義務教育は義務教育であるから続ける大義名分はありますが、高校に進学したらどうなるのでしょうか。高校からは義務教育でなくなるのでいきなりすべて解禁となる事が望ましいという事でしょうか。
所得による教育格差が問題であると取り上げるのならそれぐらいは踏み込むべきでしょう。方法論もそんなに難解な知識が必要なものではなく、誰だって思いつく程度の平易な事です。そういう教育に向けて是正しろと主張して初めて論が終始一貫します。さらに子供に格差が生じるのは教育だけではないはずです。音楽や芸術、習字やスポーツなども、学校以外で所得により格差が生じそうなものは、全面禁止にすべきであると話が当然のように広がります。中学の部活動でも所得により参加に差が出そうな物はすべて禁止にするのが筋です。なんと言っても所得による生じる格差は、子供にとって教育だけが許容されるはずがありません。
そういう世界が望ましいと結論付けるかどうかまで記事として非難するなら論じるべきです。そういう世界のメリット、デメリット、現在のメリット、デメリットを徹底比較した上でどちらをメディアの立場として主張するかは自由です。もちろん両論を比較した上で折衷案を主張しても構いません。最悪なのは「問題である」と結論らしきものを書いて終わる姿勢です。
子を持つ親は子供が幸福になって欲しいと願います。子供が幸福になるために知恵を絞り、努力します。自分の子供がどんな才能に優れ、何に興味を持ち、何を将来したいかを必死になって探り、それの手助けをしようと必死になります。これは貧富の問題ではなく、親たるものの自然の愛情です。教育評論家の「自分だけ良ければよいという考えは・・・」式の考えはどんな親でも持っています。他人の子供の失敗を喜ぶものではありませんが、自分の子供の失敗の上に他人の子供の成功があることを素直に喜ぶ親はまずいません。他人の子供の成功を喜ぶには、前提として自分の子供の成功が必須です。
別にこれは子供の問題だけではありません。社会人であっても同様です。よほどの聖人でない限り、自分の失点が他人の得点となることを称賛する人間はまずいません。自分が最低限満足する点数を上げていて初めて、他人の驚異的な点数を賛美するのです。こんなものは現代だけの風潮ではなく「衣食足りて礼節を知る」と紀元前遥か前からの言葉にもあります。
所得による教育格差を論じるなら、そもそも現在の所得格差が適正なのか、格差社会と言われている現状への視点はどうなのか、教育にまで影響する格差社会はおかしくないのか。メディアたるものそこらぐらいまでは掘り下げないと話になりません。子供は社会を映す鏡です、映った鏡を見て問題と感じるなら、それは社会に問題が生じているという事です。映っている子供だけに限定して記事を垂れ流す愚を笑います。