かけっこ

私は遅かった。クラスの中ではドンベタとは言いませんが、ローエンドグループであることは間違いありませんでした。子供時代に足が速いというのはステータスで、この能力一つで一目置かれたものです。学校は勉強するところであり、テストの成績が一つの物指しとしてありましたが、それ以外に足が早いも大きな物指しとして子供の間に確固としてあったと思います。

勉強が出来てドン亀の子供と、勉強はうだつが上がらないが走らせればクラス代表の子供では、総合評価は足が早い子供のほうが随分高かったと思います。この辺は私が遅いというコンプレックスが多分に入り混じっていますが、実に格好良く思えたものです。足が早い上に勉強でも出来ようものならまさにスーパースターで、まさに向かうところ敵無しのように見えてしまいました。

春先の体育は陸上や器械体操が主体になる事が多かったと記憶していますが、これが実に憂鬱な時間でした。自慢じゃありませんが、器械体操もさっぱり出来なかったのです。鉄棒が出来ない子供の鉄棒の授業は干しイカのようなものですし、器械体操が出来ない授業もみじめさをクラス中にさらしているようなもので、実に陰惨で惨めな時間であったと記憶しています。まるでクラス中に「あいつは出来ない奴」のアピールをしているような時間でした。

一方で足が早いも含めて体育が出来る子供はスターダムへの階段を着々と昇ります。その頂点はもちろん運動会。まさに全校生や父兄の注目の的になります。徒競走、学級対抗リレー、地区対抗リレーとたくさんの期待と声援を一身に背負っての晴れ姿です。ドン亀の私には遠い世界のヒーローでしかありませんでした。

でもそれはそれで良かったと思います。人間は平等では無いということです。生まれ持った才能はどうしても差があるという事を噛みしめる経験になったからです。私の子供時代のとくに小学校程度では、田舎であったせいもあり、大都市部でそろそろ噂されていた塾の弊害云々も遠い世界でした。田舎でも塾はありましたが、今のような進学塾は都市部にでも行かないとなく、田舎の塾は補習塾+α程度の存在でした。運動に関しても、スポーツクラブやスイミングスクールなんてものもありませんでした。

学校しか何もなかったので、勉強も運動も生の才能がむき出しに出る世界であったという事です。つまり勉強や運動も学校という限定された量と質しかなく、同じトレーニングしか受けなければ、後は各個人の才能の差がそのまま出るということです。だから運動は出来るが勉強はもう一つの奴、逆に勉強は出来ても運動はパッとしない奴、運動も勉強ももう一つだが絵を描かせたら抜群の奴、手先のやたらと器用な奴、虫を取らせたら異能を示す奴、音楽は頭抜けた奴と、それぞれの得意分野でクラスの存在感を競い合っていたとも言えます。すなわち人はそれぞれ得意なものがあって違う人間だと自然に覚えたという事です。

なんと言っても大昔のことで、昔のことを賛美する思い入れが強い感想ではあると思います。それでも子供同士の評価として試験の成績だけが物指しでなかったと記憶しています。いろんな人間評価の物指しが並列で存在し、どれかの物指しで高い評価があれば一目置かれたと言う事です。

現在の教育は差をつけない事に腐心している教育です。もちろん子供を取り巻く環境が大きく変わっているので一概には言えませんが、それでも「どうかな」と思ってしまいます。子供の教育には適度な競争が必要じゃないかと思っています。試験の成績もそうです。かけっこの成績もそうです。競えば序列がつきます。しかし序列がつく事でガンバロウのモチベーションになる面を押し殺しすぎているような気がします。

子供の序列は大人が考えるほど単純ではありません。試験の成績だけ、かけっこの成績だけで確定し固定されるものではありません。今ならゲームがうまい、パソコンに詳しいなんかも成績評価に複雑に取り込まれます。いろんな人間評価の物指しを当てて、その状況での序列をつけていくようなものではないかと思っています。

もちろんこんな話は綺麗事です。どの分野でも高い評価を取れない子供が可哀そうじゃないかという事になります。だからこそ妙に劣等感を抱かせないようにする教育が必要だとも解説されます。しかしそんな考えの結論として出されている絶対評価にそら怖ろしいものを私は感じてしまいます。絶対評価とは総合評価です。単純に試験の成績だけではなく、子供の全生活態度、学習態度を総合して絶対の価値を評価するものです。

評価が低い時、相対評価であれば、試験の成績だけが人間を決める評価でないとの言い様もありますが、絶対評価なら成績も人間性も含めて最低と評価された事になります。「アンタはどこを取っても救いようのない人間である」との烙印を捺されたのに等しい事になります。絶対評価は人間を計る多様な物指しを強引に一本に縛り上げたものと私は感じます。

教育方針に限らず多数の人間相手の巨大システムに完璧なものは存在しないと考えています。どんなに優れていると思われるシステムでも長所の短所が存在します。これは人間の多様性がそれだけ幅広い証だと考えています。システムを評価する時、どうしても人間は短所をあげつらう事になります。短所をすべて改善する事が完璧なシステムに近づく道であると考えます。

しかし私は必ずしもそうは考えません。短所にばかりに目をやって解消に努めれば、かならず新たな短所が出てくると考えています。長所と考えられるところも、短所があって成り立っている事が多々あるのです。ある短所を解消したつもりでも、その事により長所が消え、かえって新たな短所が発生する懸念も十分高いということです。

ふとそんな事を考えた朝でした。