ツーリング日和14(第34話)旅の終り

 朝風呂と朝御飯を頂いて出発。大原から出町に出て、

「ここが鯖街道の終点となってる」

 ここに塩鯖市場があったとか、

「そこまで調べてへんけど、行商人やからお得意さんのとこに行ったんちゃうか」

 それとこれも推測でしかないとしてたけど、塩鯖を売り払った後に京都で仕入れもしてたんじゃないかって、

「当時の京都ブランドは高いなんてもんやないからな。たとえば小浜を出る時に頼まれた物を買って帰るのはありやろ」

 行きは塩鯖を売って儲けて、帰りは京都の奢侈品を小浜で売っていたはありそうだ。商売人ならそれぐらいは誰でも思いつきそう。でもさぁ、やっぱり当時でも塩鯖は贅沢品だよね。

「やったと思うで。いくら人件費が安い時代でも若狭から運び込むんやからな」

 江戸時代版のクールじゃないけど宅急便みたいなものだよね。

「ほいでも塩鯖が定着したってことは・・・」

 京都は海から遠いから新鮮と言うか、生に近い海の魚はまず食べられないし、食べようと思ったら贅沢品だったはずだって。でも運び込んだら、運び込んだだけ売れたんだろうって。

 若狭から見たら塩鯖を運べば儲かるから、鯖の行商人も増えたはず。というか、小浜の塩鯖があれだけ儲かっているのを見て、高浜の塩鯖も売り込むために西の鯖街道も出来たとして良いはず。

「そうなったら運び込む塩鯖の量が増えるやんか。増えたら値段が下がるのが市場ってやっちゃ。そやけど値段が下がる分、買える客も増えるのが市場や。そうなった結果が京都のそこそこの家でもハレの日に鯖寿司食べる習慣が出来たんやと思うわ」

 てなことを最後に話しながら向かったのは京都駅。ここで亜美さんを下ろして、

「もう北井本家の連中は心配あらへん。なんかやりよったらユリに相談したらエエ。もしユリの手に負えんかったらコトリらがなんとかしたる」
「歴史の課題も頑張ってね。コトリったら、なんとか亜美さんを歴女の世界に引っ張り込もうと懸命だったもの。少しでも参考になってくれたら嬉しいわ」

 亜美さんは新快速で敦賀に向かい、コトリさんたちは、

「亀岡から篠山まわって帰るわ」

 ユリは高速で帰る事にした。これで一連の騒動もおしまい。コトリさんたちに感謝してる。ユリだけなら北井本家をなんとかするのは無理だったもの。それにしても茅ヶ崎竜王がよく来てくれたものだ。

「あれか。まあ旅の仲間ってのもあるけど」
「竜王に指してもらうのだから誠意を見せたよ。結衣ってね、ああ見えてゼニに転びやすいのよ」
「ああ、タイトル戦の賞金が安いってボヤいとったからな。コトリも竜王戦や名人戦はともかく、他のタイトル戦の賞金聞いて笑たもんな」

 いくら払ったかは聞かない方が良さそう。そうそう亜美さんをタンデムまでしてツーリングに連れて行った理由も聞いたんだけど、

「ツーリングの楽しさを味わってもうてバイク好きを増やしたいのもあったけど」
「魔除けね」

 コトリさんたちとこれだけ親しい仲であるのを見せつけるためだって、ここまで見せつけられて亜美さんに手を出したら、北井グループが潰されたっておかしくないか。

「ユリもね」
「こっちはついでや」

 はいはい。ところでコトリさんの歴史ムックは面白かったんだけど、一つ抜けてる気がするんだよ。あれをどうして話さなかったのかな。

「時間があらへんかった。若狭の情勢の話だけでも煩雑やったのに、そこまでやったら長すぎる」
「それに全部推測の積み重ねだけの話だもの」
「またコウも交えて話するわ」

 今回は尻啖え孫市批判が多かったけど、

「歴史小説家は歴史研究家やないねん。歴史小説は史実を基にした物語やけど、別に史実の真相を追求するわけやない」
「そうよ司馬遼太郎が甫庵信長記を史実としたのを批判するのは良くないよ」

 ただ、

「やっぱり司馬遼太郎の持ち味が発揮されるのは時代小説やと思う」
「代表作はそっちに傾いている気がする」

 ヒット作が多すぎてどれが代表作かは意見が分かれると思うけど、ユリがパッと思いつくのなら龍馬が行くとか、燃えよ剣とか、峠かな、

「峠の河井継之助は渋いな」
「でもだよ。ユリが挙げた作品って、主人公の足跡が断片的にしかわかってないものなのよ。つまりは史実という点と点の間がやたらと広いのよ」

 そこに作者が思う存分、腕を発揮できるのか。

「そやけど歴史小説家というより、歴史研究家に傾いて行ったよな」
「ああなってしまうのもわかるけど、坂の上の雲は無理があったんじゃない」
「正岡子規でやめるべきやったかもな」

 坂の上の雲も代表作だけど、この頃の一連の大長編への評価は辛そう。

「重いんよ。司馬作品のホンマのおもしろさは軽やかさやと思うねん。次の展開にワクワクしながらページを突き進んでいく魅力や」

 尻啖え孫市はそうだった。

「あの辺は歴史探求に重心が移ったのもあると思うけど」
「ああ、どうしても出るやろ。いや、あれでもマシな方や」

 司馬遼太郎は従軍経験がある。そりゃ、現役陸軍少尉で終戦を迎えてるもの。敗戦の経験は大きな影響を誰にも及ぼしている。それぐらい巨大なものだったらしいけど、

「あの時代の空気は、あの時代を生きた者しか最後のとこはわからん。それが時代や」
「その時代の正しさってのがあるけど、時が過ぎればわからなくなるものよ」

 こいつらどれだけ知ってるんだ。

「戦争って重いよね」
「ああそれに絡む政治もな。あんなもんに二度と触れたないわ」
「わたしも。やっと縁が切れたものね」

ツーリング日和14(第33話)長秀と光秀

 部屋に戻って恒例の酒盛りの続き、

「おつまみにおばんざいとお味噌もらってきた」

 お味噌を舐めながらお酒を飲むみたい。まあイイけどね、

「そういうけど、もろきゅうってあるでしょ」

 ちょっと違う気もするけど、もう一つ聞いておきたいことがある。今日の話でビックリしたのは若狭でも合戦があったらしいこと。そんなものどこに証拠があるのだって話じゃない。

「あるで信長公記や」

 そんなものあったっけ、敦賀には攻め込んだ話はあったけど、若狭は通り抜けただけじゃない。そこでコトリさんが示した個所は、四月三十日の朽木越の続きで、

『是より、明智十兵衛、丹羽五郎座右衛門両人若州へ差遣はされ、武藤上野人質執り候て参るべきの旨御諚候。則ち武藤上野介母儀を人質として召し置き、その上、武藤の構破却すべし』

 なんだなんだ、敦賀からやっと逃げ帰ったばかりだと言うのに、長秀と光秀はまた若狭に派遣されたって言うの。これってブラック企業も良いところじゃない。信長ってムチャクチャな命令を出すこともあるらしいから、これもそれなのか。

「ここも取りようが二つあるんやが、一つはユリが思ったやっちゃ。その場合やけど、次のとこもセットで読んどかなあかん」

 次ってここか、

『五月六日、はりはた越にて罷上げ、右の様子言上候』

 えっとえっと、針畑越で長政も光秀も京都に戻って来て使命を果たしたと報告したぐらいになるけど、ちょっと待ってよ、京都に戻ったのが信長と一緒でも四月三十日の夕方か下手すりゃ夜じゃない。

 五月一日に京都から若狭に出発したとしても、片道十八里の往復三十六里なんだよ。針畑越だから馬で駆け抜けるなんて出来ないから、どんなに急いでも三日ぐらいかかるはず。それだったら若狭にいられるのは長くて二日ぐらいじゃない。

 その間に武藤上野介の母親を人質に取って、武藤の城を壊しちゃうなんて超人技じゃないの。長秀と光秀は空も飛べるスーパーマンだったとでも言うの!

「そういうこっちゃ、絶対に遂行不可能な命令や。だから読み方を変える必要がある。まずやけど、長秀と光秀に命令が出されたんは四月三十日とするやんか」

 だから京都で命令をもらっても実行なんか出来るはずないじゃない。

「この日やけど信長が朝までおったんは熊川宿の可能性が高いやんか」

 それはさっきやったけど、

「そこで下した命令と見るんよ」

 なるほど。それなら可能性が出てくる。でもあんな状況で、

「だから見栄張って逃げるためやろ。もともとの大義名分は武藤上野介の征伐やん。信長の別動隊が動いとったはずやけど、たぶんやけど、本隊が朝倉を追いつめて行ったら、自然に降伏するぐらいの目論見でゆるゆる動いとったんちゃうやろか」

 信長が熊川宿まで来たのが四月二十日だけど、先発隊はどうだろ、その何日か前に若狭に入って小浜方面に動いていたのかもしれない。でも信長が敦賀に攻め込んだたった三日後に事態は急変する。浅井の離反だ。

 信長は若狭に撤退して来てまだ武藤上野介のカタが付いていないことを気が付いたぐらいかもしれない。これを撤退戦の最中に遂行させるために選ばれたのが長秀と光秀だったのか。それにしてもキツイ条件だな。よくこんな状態の中で出来たものだ。

「そう見えるか。まず武藤上野介の力がどれぐらいかやったになるんやが・・・」

 若狭の四老の一人だから十万石ぐらい、

「あのな。若狭全部で八万五千石しかあらへんねんぞ」

 それぐらいの国だったのか。だったら一万石ぐらい。

「はっきりせえへんとこもあるけど三千石とか四千石ぐらいで良さそうや」

 たったの。だったら動員兵力は、

「どんなにかき集めても二百人ぐらいちゃうか。もっとも、自前だけやのうて周囲の国人衆とか、地侍の応援もあるかもしれんが、信長軍の脅威が迫る中でそんなに集まるとは思えへん」

 佐柿の粟屋越中守でも地侍二百人に百姓六百人って話もあったものね。そこに千人とか二千人で攻め寄せられたら、

「普通は勝てん。そやから信長が出したんは和睦条件や」

 信長にしてものんびり包囲戦はしたくないだろうし。でもさぁ、自分の母親を人質にして、城まで壊されちゃうんだよ。

「ここも読みようやが、武藤上野介は殺されてへんどころか、領地も取り上げられてへん。差し出す人質かって息子やのうて母親や」

 でも城は壊される。

「ここは壊す約束をすると見たいわ」

 そうなると実質の和睦条件は母親を人質に差し出すだけか。

「名を取って実は捨てるでエエと思うねん。言い出したらキリあらへんけど母親かって本物かどうかはわからん」

 これを四月三十日から五月四日ぐらいまでにまとめあげ、針畑越で京都に戻って来て信長に報告したって話なのか。この針畑越の話って、尻啖え孫市の話の筆者注にあった話のモトネタとか。

「わからん。そやけど司馬遼太郎が甫庵信長記をタネ本の一つににしてるのだけは間違いあらへん」

 秀吉が金ヶ崎に残るシーンは信長公記なら、

『金ヶ崎之城に木下藤吉郎残しをかせれ』

 たったのこれだけなのよね。だからあれこれコトリさんは想像の翼を広げたんだけど尻啖え孫市なら、

『・・・藤吉郎は末座から進み出た』

 要は秀吉が自ら進み出て金ヶ崎城に残った話にしている。これが甫庵信長記なら、

『木下藤吉郎秀吉進み出て申されけるは某残りべく申し候・・・』

 もちろん歴史小説ならこれぐらいの脚色は余裕でOKなんだけど、

「金ヶ崎に志願して残った秀吉に、自分の部隊の手練れを分けるシーンも甫庵信長記にあるねん」

 ホントだ。これってパクリとか、

「厳密にはそうなる。そりゃ、甫庵オリジナルみたいなとこやからな。そやけどちゃう気もするねん」
「そう言えば、秀吉が志願して残った点を司馬遼太郎は手放しどころでない大絶賛なのよね」

 そうだった。尻啖え孫市には、

『この言葉の重大さは、三百九十年を経て泰平の畳の上でこの本を読んでいる読者には、おそらく千万言を費やしてもわからぬであろう』

 甫庵信長記はその代わりに、義経記で佐藤忠信が奮戦する名場面を引用して褒め称えているかな。ここは読みようかもしれないけど甫庵が秀吉を絶賛したから司馬遼太郎も表現を変えて絶賛しているようにも見えるよね。

「まずやけど甫庵も信長公記をタネ本にしてるんよ。つまりやけど『金ヶ崎之城に木下藤吉郎残しをかせれ』からの甫庵の脚色や。そやけど司馬遼太郎は甫庵信長記を史実と思い込んどった気がするねん」

 全部推測に過ぎないけど、当時の歴史常識の限界だったかもしれないって。現在のように史実を推測するのに信長公記をベースにする考え方がポピュラーじゃなくて、甫庵信長記こそが史実であるとしてたぐらいかな。

「断っとくけど司馬遼太郎を責めてる訳やない。あの頃やったら、甫庵信長記を読んでタネ本にしてるだけでも十分やねん。歴史の見方は時代で変わるからな」

 だったらだったら常楽寺から刀根越で敦賀に攻め込む話も甫庵信長記がタネ本だったとか。

「あれはどこからかわからんかった。甫庵信長記でも熊川宿から佐柿やねん。強いて言うたら、三年後の越前攻めがそっちやったから、混同しとった可能性があるぐらいや」

ツーリング日和14(第32話)あの歴史的エピソードは?

 京地鶏は美山ですき焼き食べて以来だけど美味しいな。亜美さんもパクついてるものね。

「足らんかったら、なんぼでも追加するから遠慮せんでエエからな」
「食べなきゃ、大きくならないよ」

 あれだけ食べても大きくならない見本がユッキーさんだけどね。今日は朽木も訪れたのだけど、朽木と言えば金ヶ崎の退き口でも有名なエピソードがあるじゃない。信長の通過を朽木氏が渋って、松永久秀まで説得にあたったとか。でもコトリさんはなぜか触れもしなかったのよね。

「あの話ね」
「なかったんちゃうやろか」

 はぁ、あれも金ヶ崎の退き口に欠かせない話じゃない。ちなみに信長公記には、

『四月晦日、朽木越をさせられ、朽木信濃守馳走申し、京都に致つて、御人数打納れられる』

 こうだけど、

「ほら見てみい、なんも書いてあらへんやんか」

 あのねぇ、信長公記の資料性は高いのは学んだけど、書いてなければ起こっていないの意味じゃないでしょ。そこまで言うなら根拠を出しなさいよ。

「日取りや。四月三十日で確認できるんは、朽木谷を通り抜けた事とその日に京都に戻った事と読むべきやと思う」

 まあそうだけど、

「そう考えた時に四月二十九日はどこに泊ったかになる」

 コトリさんの推測なら二十八日が佐柿だから、二十九日は熊川宿ぐらい。

「コトリもそれぐらいが可能性が高いと考えとるねんけど、熊川宿から京都まで一日で行くのは遠いんよ」

 だったら朽木谷。

「泊まれるぐらいやったら、あんなエピソードは出えへんやろ」

 そうだった。やはり朽木谷は通り抜けただけだと考えるべきだ。そうなると熊川宿になるよな。だって寒風峠とか、水坂峠に野宿したとするのは無理あるし、保坂なら民家もあっただろうからマシだけど、

「そういうこっちゃ、高島郡は浅井の勢力圏内や。あの状況で野宿はしたないわ。それやったら朽木に泊るで」

 新暦で六月の話だから日は長いとしても、熊川宿から京都まで行こうと思えば時間的に余裕がないのは確かだ。

「ノンビリ交渉なんかやっとったらタイムアウトや」

 だよな。行って五分や十分で済むものじゃないものね。使者の行き返りとかの時間とか考えると一時間や二時間ぐらいはすぐに経っちゃうよね。

「前提みたいな話になるんやけど・・・」

 信長も信長軍も西近江路から今津に行き、九里半街道で若狭に行ったのは間違いない。また補給路として琵琶湖の水運を活用していただろうもわかる。でもそれとは別に京都への連絡路として若狭街道も抑えていたはずだは十二分にありうると思う。

 若狭街道でポイントになるのはやはり朽木谷。それ以南の状況はわからないけど、六角氏が滅んだ時点で信長の勢力圏になっていてもおかしくなはず。ひょっとしたら若狭街道で最大の独立勢力だったかもしれないよね。

 ただ独立勢力と言っても、朽木氏の力は小さくて、浅井や信長と単独で戦えるようなものじゃない。位置的に両巨大勢力の中間だから、どちらかに付かないと滅ばされるぐらいのはず。

「浅井と朽木の関係が決裂したんも信長の工作ちゃうか」

 浅井氏が一五六六年に高島郡を勢力圏内にした時に、朽木氏は浅井氏に人質を出して、浅井に従属するって起請文まで交わしてるらしい、

「起請文を交わしたんが一五六八年やねんけど、まもなく破棄したとなってるねん。破棄するのは浅井に喧嘩売ってるようなもんやけど、喧嘩売っても問題があらへん状況になったと見るべきやと思う」

 つまりは浅井と手を切り、信長と結んだってことよね。なのにあのエピソードが生まれたのは、

「可能性としては浅井の謀略はある」

 あれだな、噂を流すってやつ。でも状況が状況だから信長だって信じそうじゃない。

「そやけどな、もう一つのタイムスケジュールが絡んで来る」

 これはコトリさんの仮説ではあるけど、四月二十八日に信長は金ヶ崎から佐柿に遅くても十時ぐらいには到着して、そこで撤退してくる信長軍を出迎えたのじゃないかとしてた。これは激励もあるだろうし、信長健在を見せる意味もありそうだ。

「ほいでやな。佐柿に泊って翌日に熊川宿に移動するにしても余裕があるやんか」

 うん、一刻を争って逃げるって感じじゃないよな。

「信長が先頭やないと思うんや」

 あっ、そっか。金ヶ崎から佐柿へは先頭で撤退したとしても、熊川宿から京都は必ずしも先頭を切る必要はないのか。つまりは信長に先行する露払い部隊がいてもおかしくないよな。露払い部隊は朽木谷に四月二十九日に到着していたとしても不自然とは言えないもの。

 朽木氏の当時の所領ははっきりしないそうだけど、秀吉時代に九千二百三石二斗てのがあるそう。つまりは一万石程度だから総動員しても五百人ぐらいしかいないだろうって。

「たとえばやが、朽木に来た信長の露払い部隊が二千もおったら震えあがるで。朽木信濃守は熊川宿は大げさでも保坂ぐらいに出迎えてても不思議あらへん」

 それだったら朽木谷は信長軍の占領状態みたいなものじゃない。

「そやからあんな話が広がって残ったんちゃうか。そうされたんは寝返りの噂があったからやって」

 そう言えば、その後の朽木氏冷遇話は、

「あれは朽木通過がネックになったの前提の話や。そやけど普通に通しただけやったら、褒美もない代わりに罰もあらへん。そやから潰しもしとらへんやんか。それから出世せんかったんは、朽木信濃守がその程度の人物やったぐらいでエエんちゃう」
「戦国時代の褒美は戦場の勝ち戦じゃないと原則的に無いのよ。負け戦でいくら頑張ってもなんにも貰えないってこと。だから負けだすと一挙に崩れることが多いのよ」

 なるほどね。命を懸けるからには御褒美が期待できないところでは働かないってことか。金ヶ崎の退き口の御褒美ってあんまり聞かないものね。

「秀吉に黄金数十枚を与えた話があるそうやけど、あれかって怪しいもんやし、秀吉以外になると話すら残ってへん」
「とにかく防衛戦は不利だったのよ。御褒美の原資は切り取った敵の領地だもの。守ってばかりじゃジリ貧になっちゃうの」

 なるほどね。戦国経済学みたいなものか。

「秀吉は忠実すぎて朝鮮まで攻めちゃったぐらいじゃない」
「信長かって攻めるとこがのうなったら、何やったかわからんで」

 そこまではともかく、そういう活躍が朽木元網にはなかったのかもしれない。それでも将来を信長に賭ける眼力ぐらいはあったのかも。

ツーリング日和14(第31話)味噌鍋

 泊った宿はなんと温泉だ。

「京都市内では珍しいよ」
「ラドン温泉やったらあるやろうけどな」

 ラドン温泉もたまに見かけるけど、あれって普通の温泉とどこが違うんだ、

「あれはお湯の中にラドンガスを送り込んだものよ。だから人工の温泉で、天然のものはラジウム温泉って言うのよ」

 さすがは温泉小娘で即答だ。へぇ、温泉だけど民宿なんだ。妙に立派と言うか、風格を感じるけど部屋は民宿だな。いっつも思うけどホントにあのエレギオンHDの社長と副社長かと思う選択センスだよ。

「風呂だ、風呂だ、温泉だ」

 浴場は銭湯風かな。洗い場がずらっとあって奥に浴槽だけど。

「ここから出られるね」

 なるほど庭に出られて露天風呂か。

「これやな」
「おもしろ~い」

 少し上がったところにあるのは、これって五右衛門風呂とか。さすがに四人で入るには狭いから順番に。これは気持ちイイな。ツーリングの後の風呂は最高だし、それが温泉なら文句なしだ。亜美さんと二人だから、今日の話はわかったかと聞いてみたんだけど、

「なにか歴史を見る目が変った気がします」

 だろうね。金ヶ崎の退き口はそれなりに有名な出来事だけど、歴史の授業的には敦賀に攻め込んだものの、浅井氏が裏切って京都に退却したぐらいを知っていれば必要にして十分だものね。

 それが若狭の国内事情と朝倉氏の介入、そこに信長の上洛戦に、さらに義昭の陰謀なんて話も絡んで来るドラマとして聞けちゃうもの。信長の撤退作戦も大胆かつ緻密な物だって思っちゃうぐらい。

 そういうのはコウもコトリさんに叩きこまれたみたいだし、一緒に楽しみたいからユリなりに勉強してるけど、コトリさんから聞くとまた一味も、二味も違うって感じかな。でもさぁ、高校生に聞かせるにはどうかと感じたんだけど、

「教えてもらったことを全部活かせるとは思えませんけど、ユラの尻啖え孫市は叩き潰してやります」

 ならいっか。部屋に戻ったら、

「メシ行こか」

 食事は大広間みたいなところだな。

「ここは京地鶏の味噌鍋が名物やねんて。」
「味噌は自家製らしいよ」

 味噌へのこだわりがあるみたいで、広間の一角に何種類かの味噌が自由に取れるようになってる。

「こっちはおばんざいだね」
「美味そうやんか」

 鍋は自分で作るみたいだけど、どうやるのかな。

「まずこうやってあるだけの具材を鍋に放り込むやろ」

 ふむふむ、

「目いっぱい入れたら蓋を閉じてや」

 なるほど、

「大五郎、十分間待つのだぞ」
「ちゃん」

 なにかのギャグみたいだけど、古すぎるのが出てくるのが欠点だよな。それとだけど作り方が大雑把すぎると言うより雑な気が、

「味噌鍋はな、じっくり煮込んだ方が美味しいんや」
「しゃぶしゃぶじゃないからね」

 ところで味噌を適当に取って来たけど、これってどうやって食べるのだろう。味噌鍋にでも足すのかな。

「そうやってもエエんやろうけど」
「ご飯につけて食べるのよ」

 へぇ、京都ではそうやって食べるのか。

「ちゃうちゃう。本来はそうやって食べるんや」
「焼いたらもっと美味しいかな」

 信長軍の兵糧輸送の話もあったけど、少し疑問に思っていたのは、米は良いとしておかずはどうするのだろうもあったのよね。

「おかずは現地調達が基本やったぐらいで思たらエエ」
「基本を言うのだったら、味噌をおかずにご飯を食べてたの。だから味噌と塩は兵糧として運んでたの」

 そうだったのか。味噌をおかずにするバリエーションの一つに、

「そう考えてもエエかもしれんわ。具材が手に入ったら味噌鍋や」

 時代劇でもそんなシーンがあったような。おばんさいも美味しいけど、普通のおかずとは違うんだろうな。

「いや普通のおかずや」
「死語になっていたのが復活したぐらいよ」

 昭和の頃に京都の家庭料理を紹介する連載新聞コラムがあって、そこから広まったみたい。

「あえていうたら東京で惣菜と言うのに近いとこもあるらしいけど」
「要は家庭料理ってこと。そうだね、観光客用に出すのだったら京野菜とか使ってるんじゃない」

 たちまちビールを飲みほして、

「京都やったら玉乃光やな」
「これも昔は良く飲んでたね」

 でたあ、一升瓶だ。

ツーリング日和14(第30話)寂光院

 朽木からはようやく普通の走るツーリングだ。名所旧跡巡りや歴史ムックも楽しいけど、ツーリングはやっぱり走ってこそだよ。そりゃ、寄り道もするし楽しいけど、今回みたいなのはやりすぎだ。

 それでも若狭街道って歩いても歩きやすいのじゃないかな。寒風峠は厳しそうだけど、水坂峠はそれほどじゃなさそうだし、保坂まで出たら昔でも平坦な道だった気がするもの。だから鯖街道として栄えたのだろうけど

「ツーリングコースとしても人気があるそうや」

 そう言えばすれ違うバイクは多いし、道の駅朽木本陣にもバイクがいっぱい停まってたものね。だけどあんまり聞いたこと無いな。

「信号も少ないし、京都からやったら熊川宿って目的地もあるし」
「中間過ぎぐらいに朽木の道の駅はトイレ休憩に便利そうやし」
「蕎麦とか、鯖寿司も楽しみになんだけど」

 お昼の鹿カレーでも奥歯に挟まっているのかな。

「ユリもわかるやろ」
「ずっと山の中じゃない」

 良く言えば林間コースだし、安曇川に沿って走ってるからリバーサイドコースでもあるけど、

「すかっと見晴らしが良い絶景スポットがないのよ」
「こんだけ琵琶湖に近いんやから一望できるとことがあっても罰当たらんやろ」

 それは言えてる。ツーリングの楽しみは人によって変わるだろうけど、走りながら見れる風景を楽しみたいのはある。いわゆる絶景ってやつ。ツーリンゴコースとして有名なところは、どこも、これでもかの絶景が続くコースとして良いもんね。

 そんなコースがそんじょそこらに転がってないけど、せめて絶景スポットは欲しいかな。展望台とかにバイクを停めて休憩しながら風景を楽しむって感じ。ゴールが熊川宿なのは魅力的だけど、バイク乗りは景色の方が好きなところがあると思う。

「京都とか大津ぐらいの人やったら熊川宿までの日帰りツーリングにするのが多いらしいで」
「だけどね、たとえば神戸から遠征してきてまで走りたいかと言われたら考えちゃう」

 それはあんたらが下道専科やからだと言いたいけど、ユリだって琵琶湖まで来たら琵琶湖が見えるコースを走りたいものな。あれって不思議な感覚で海とか湖を見えるとそれだけでテンション上がる気がするのよね。

「海こそ生命の揺り篭」
「海こそ生命の母」

 だからDNAが叫んでるは無理があるよ。それを言いだせば、生命の起源は隕石の中のアミノ酸って説もあるじゃない。

「宇宙、それは人類に残された最後の開拓地である」
「そこには人類の想像を絶する新しい文明、新しい生命が待ち受けているにちがいない」

 なんだそれ、

「これは人類初の試みとして、五年間の調査旅行に飛び立ったU.S.S.エンタープライズ号の驚異にみちた物語である」

 ギャフン。こいつらならテレビ版の初映から余裕で見てるはず。あれまた山道になってきたけど、

「ちょっとストップ」

 なんだ、なんだ、なんにもないところだけど、

「あそこにチェーンで封鎖してある道あるやろ。あれが花折峠に行く旧道や。今でもバイクで走れるみたいやけど、マナー違反はようあらへんから、このまま花折トンネルで行くわ」

 花折峠は標高五百九十一メートルもあって若狭街道の最大の難所だったそうで、現在の花折トンネルでも標高五百メートルもあるそう。今だって結構な登りでタンデムのユリにはちょっとキツイかな。あいつらの怪物バイクのことはどうでも良い。

 ここだけど、朽木の標高が百七十メートルぐらいで、そこから川沿いに登ってるから、花折峠の麓ぐらいで標高差が四百六十メートルぐらいになってるそう。勾配はキツイけど、標高差としてそれぐらいみたいなんだ。花折トンネルを抜けるとまた下って、

「最後の難所かな」
「ここはホンマモンの鯖街道を走るで」

 それは勝手にしたら良いけど、途中ってこれが地名か。

「由緒ある地名やで」
「平安時代からのものよ」

 どうしてそんなことまで知ってるんだよ。物知りにも程があるぞ。国道はトンネルを潜るみたいだけど、

「こっちがホンマの途中越や」

 あんまり長くなくて国道に合流してくれて助かったけど、ここからは下りだ。かつての鯖の行商人も、

「信長かってホッとしたと思うで」

 なるほど途中越えを下ったところにあるのが大原なのか。大原と言えば三千院、

「そうや恋に疲れた女が一人でたたずむとこや」
「そうね。わたしのような」
「五千年早いわ」
「他人のこと言えないでしょうが」

 このまま下って行ったら三千院だ。

「古知平って書いてある方に入るで」
「なるほど、そっち方が古道かもね」

 ぐぇ、またセンターラインの無い道だ。それも進めば進むほど狭くなるじゃないの。

「バイクなら楽しめる道や」

 バイクだって狭いのが得意じゃないぞ。川沿いの道だけど、

「ちょっと待った、あれやったみたいや。ターンするで」

 ターンってこっちは二五〇ccだしタンデムなのよ。

「あら簡単よ」

 一人乗りの小型バイクに言われたないわ。もう怖々なんてものじゃないターンをなんとかして、

「まさか石柱の道標だけとはね」
「それも黒なって読みにくいやん」

 道は相変わらずだけが、なんとなく街道の雰囲気があるところを抜けて、

「あそこ入るみたいや」
「あんなものこっちから来たら見落とすじゃない」

 そこからはもう路地サイズの道になり、

「ここや、ここや」

 これは旅館? コトリさんは中に入って、

「この辺に適当に置いといたらエエみたいや」

 バイクで最後まで行かないんだ。

「行けんこともあらへんけど、ここも京都や」
「駐禁が気になるのよね」

 そこから歩き。風情のある店が建ち並ぶ、いかにも京都って感じだよな。やがて寺の門みたいなところ着き、ここって寂光院なのか。名前だけは聞いたことがあるけど、

「建礼門院の寺や」

 それは誰だ、

「清盛の娘、高倉天皇の后、安徳天皇の母や。壇ノ浦で助けられてもうて、ここで余生を過ごしたとこや」

 どうして即答で出る。

「平家物語の最後の大原御幸の舞台だよ」

 由緒ある寺のはずだけど、建物がなんとなく、

「二十世紀最後の年に放火で焼けてもてんや」
「どうして、そんなことするのかなぁ」

 それはユリも思う。

「宿帰ろか」
「お風呂、お風呂、お風呂」

 酒とメシだろうが。