ツーリング日和14(第29話)鹿蕎麦

「腹減った」
「そやな」

 コトリさんが向かったのが道の駅の前の蕎麦屋さん。なんとも言えない外観で、中も庶民的と言うか、なんと言うか、

「ライダーが入るにはピッタリやろ」
「気楽が一番」

 さて何を頼むかだけど、店の前にはデカデカと十割蕎麦と出てるから、

「悩むとこやな」
「二八の方が無難だよ」

 十割蕎麦と二八そばなら十割蕎麦しかないじゃないの。

「そう簡単な話やない」
「十割蕎麦はとにかく難しいのよ」

 うどんとかパスタの滑らかさとかコシを作っているのはグルテンだって。

「ぶっちゃけ小麦粉や。そやから蕎麦のコシも小麦粉で作るんや」
「でもね、蕎麦粉にはグルテンが含まれていないの」

 それなら、

「ヘタクソが作った十割蕎麦はポロポロ崩れるし」
「ボソボソなのよね」

 そもそも麺を繋ぎ合わせてるのがグルテンなんだって。でも表にあれだけアピールしているから、

「十割蕎麦でも美味いのはある」
「滅多にないけどね」

 珍しく悩んでるな。

「これもチャレンジや。鹿蕎麦、十割で大盛。焼鯖寿司も一本つけてくれるか」
「わたしも鹿蕎麦。十割で大盛。鯖寿司も一本下さい」

 あの大食いには付き合えないからユリも亜美さんもざるの十割蕎麦セットにした。

「鹿カレーも食べる」
「鹿尽くしもおもろいな」

 鹿蕎麦って鴨南蛮みたいなもんだろうと思っていたのだけど、なんと焼いた鹿肉が麺つゆに入っているざる蕎麦みたいなもの。

「こういうジビエは」
「ありそうでないのよね」

 肝心の蕎麦は、美味しいと思う。

「当たりやな」
「今日は良いことあるんじゃない」

 蕎麦セットには鯖寿司もついてるけど、これもなかなか。

「それにしても朽木産の鯖寿司ってありか」
「鯖は朽木で獲れるわけないけど、朽木で作ってるからありじゃない」

 美味しければ文句はない。

「鹿カレーもいけるな」
「でも鹿って言われないとわかんないよ」
「そんなん言い出したら鹿蕎麦の鹿肉もやろが」
「あっちはわかるよ」

 もう三回目のマスツーだから、こいつらのアホみたいな食欲はさすがに見慣れて来たけど、亜美さんは引いてるな。気持ちはわかるよ。今だってすさまじいけど、夜なんか一升瓶抱えて茶碗酒だものね。

 ウソかホントかわからないけど、いくら食べても、いくら飲んでもスタイルにも健康にも影響しないとか。スタイルが変わらないのは知ってるけど、体は本当にだいじょうぶなのかな。

「食べて飲んでこその人生やんか」
「食べられなくなったら人生終わりよ」

 そりゃ、そうなんだけど、

「だから言ったでしょ。腹八分にしてるって」
「それが美と健康の秘密や」

 どこが腹八分だ。フードファイターぐらい食べるじゃない。亜美さんが小声で、

「月夜野社長と如月副社長ですよね」

 言いたい気持ちはよくわかる。だからあれだけ暴飲暴食しても食費なんて気にもならないだろうけど、

「それいうたらユリも侯爵やんか」
「それも特命全権大使でしょ」

 それを言うな。あれは血の為せる祟りじゃ。今回は亜美さんを守るのに役に立ったけど、あれがあるばっかりに、

「晩餐会とか、舞踏会にいつでも出れる」

 出たいもんか。あんたらかって皇室園遊会とか蹴ってるやんか。

「ユリは出たんだよね」

 しょうがないでしょうが。招待状が来るんだから、

「ヒマやもんな」
「高給プータローみたいなものだもの」

 言うな。しょうもない肩書のお蔭で就職しようにも会社はどこも門前払いなんだから。でもイイの、ユリは割り切ってる。会社に就職できないなら永久就職してやるんだ。

「どんな式になるか楽しみ」
「コトリらも見に行ったるわ」
「コウの式でもあるからね」

 どうか三日三晩になりませんように。

「そやけど二回はあるもんな」

 そうだった。

ツーリング日和14(第28話)光秀の謎

 朽木谷と言えば光秀が来たエピソードがあったはず。

「国盗り物語やな」
「あれも道三編はおもしろかったけど」

 やっぱりあれもフィクションとか、

「あれは可能性を膨らませただけや」
「無いとは言い切れないよ」

 光秀が朽木谷を訪れたのは義輝の時、

「司馬遼太郎も義輝に会わせんかったんはさすがや」
「いくら落魄しても将軍だものね」

 身分差は朽木谷に来ても絶対なのか。

「なおさらのとこはあったと思うで」
「それぐらいしないと権威を保てないじゃない」

 だから義輝ではなく細川藤孝に会わせたとか。

「あれなかなかの発想だよね」
「コトリも信じ込みそうになったぐらいや」

 光秀と藤孝の交流は深いのは事実だそうで、その始まりが朽木谷での偶然の出会いとするのは秀逸だとコトリさんもしてるぐらい。

「だってやで、完全なフィクションとも言い切れへんやんか。そういうところを膨らませるのが歴史小説やと思うで」
「でも現実的にどうだったのだろう」

 戦国武将の多くは官職名の名乗りを持ってるのは知ってる。粟屋備中守とかもそうだよね、

「織田上総介も初めはそうやったはずや」

 だけどこれは自称であってニックネームみたいなものだって。だけど細川藤孝のものは朝廷からの正式のもので、

「従五位下兵部大輔いうたら堂々の官職や」
「無位無官の浪人の光秀なら土下座して直答も出来ないよ」

 そうのはずだけど朽木に落去中の設定が絶妙だそうで、

「御殿の中で畏まってばっかりおられへんから出歩いてもおかしないし」
「歩いてる時に里人に声をかけたって不自然じゃないもの」

 それでも光秀と藤孝が合うにはハードルがあったとか。やっぱり身分差?

「それは大前提やけど、余所者やからや」
「それで武士でしょ。暗殺者って疑われてしまうのがこの時代のデフォよ」

 言われてみれば。義輝もそれを恐れて朽木に逃げ込んでうものね。じゃあ、会う機会はやはりなかった。

「いや、それでもあるねん。光秀みたいに諸国を放浪しているような連中は、藤孝が欲しくてたまらんもんを持ってるねん」

 そんなものあったっけ、

「情報よ。とにかく情報伝達がプアな時代じゃない。だから、諸国の情勢をなんとか知りたいのよ。そういう話を聞かせてくれると言うだけで、食事を振舞ってくれたり、泊めてくれたりもあったのよ」

 だから光秀と藤孝が実は会っていたは完全に否定できないところがあるのか。その光秀だけど、

「謎が多すぎる人物や。出自さえわからんぐらいや」
「信長に仕える前にどうしていたかがサッパリわからない人物なのよ」

 えっと、えっと、美濃の明智家の御曹司で、道三崩れの時に・・・

「それが通説や。その証拠に明智を名乗っとるし、後の明智軍団には明智の一族も参加してるやんか」

 だったら、

「通説に沿ってもかまへんねんけど、道三崩れが一五五六年や。次の足取りが一五六六年の田中城の米田文書や。そいでもって信長の上洛が一五六八年や」

 米田文書まで十年。信長の上洛まで十二年なのか。ここが光秀の空白期間みたいなものみたいになってるとか。

「それもやで、タダの空白期間やあらへん。光秀の特技の一つは教養やけど、京都の貴顕紳士のウルサ型を感心させたのはホンマやと思う」

 光秀が最初に頭角を現したのはそこのはずで、信長もその特技を買って召し抱えた話はどこかにあったはずだもの。

「そんなもん、どうやって身に着けたかや。田舎の豪族の付け焼刃とはちゃうで」

 それが空白の十年になるとか。そう言えば米田文書では医学も身に着けていた事になるとか。通説では越前にいたとなっていたはず。えっと売れない兵法指南だったけ、、

「それは国盗り物語やけど越前にはいたとは思う。そやけど、タダいたんやない。そこであの教養を身に着け、さらに諸国を回ってるはずや。それが見聞の広さになってるはずやねん」

 越前にいてそれが可能かどうかは・・・わからないから謎だよね。

「司馬遼太郎は道三の薫陶としとったな」
「それもアリだけど」

 道三にどれほどの教養があったかも不確かなところもあるそう。というか道三も今では二代説まであって正体不明の人物のところもあるみたい。それとたとえ教養があったとしても、道三にそれを教えるヒマがあったかどうかが疑問だとか。

「あんまり注目されとらへんが、一次資料としてエエぐらいのもんがあるねん」

 遊行三十一祖 京畿御修行記って聞いたこともないけど、

「遊行言うたら時宗やんか。時宗の三十一代目の教祖が畿内に遊行した時の記録や」

 そんなものがあるとは驚いた。これは昭和になってからある時宗の寺院から発見されたものだとか、

「内容は当時の他の記録と照らし合わせても矛盾がないそうや。そやから一次資料に値すると考えとる」

 そこに光秀が出て来るらしく該当箇所は、

『惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしか、越前朝倉義景頼被申長崎称念寺門前に十ヶ年居住故念珠にて、六寮旧情に付て坂本暫留被申』

 越前の称念寺に十年も居たとなっていて、これはちょうど光秀の空白期間に重なるんだって。

「ちょい捕捉しとくが、教祖は京都で天皇に会って、それから奈良に遊行する予定やってん。奈良に行くから筒井順慶に紹介状みたいなもんを光秀に書いてもらいに使者が行くねんよ」

 教祖の使者に会った光秀は懐かしがって、坂本城に引き留めて昔話に花を咲かせたぐらいの内容だって。こんな決定的な資料があったなんて、

「時宗と言うのがエエねんよ」

 時宗は遊行を基本にする宗派で、教祖さえ例外でないから、ああいう記録が残されているらしい。時宗僧の遊行は幕府も公認となっていて、さらに全国の時宗寺院を宿泊先に使えるとなると、

「光秀の諸国巡りを説明できる」

 それと称念寺は時宗の北陸の一大拠点で、

「文化の中心みたいなもんで、今やったら大学と思うたらエエで」

 光秀のずば抜けた教養も説明出来てしまえるとか。義昭との関係は、

「同朋衆に時宗僧が選ばれることも多いのよ」
「時宗僧やったら使者に適任やんか」

 同朋衆って何かと聞いたら、将軍の側近の話し相手、遊び相手ぐらいだって。そっか、そっか、義昭の使者として信長と会ってるうちに才能を見込まれて引き抜かれたとか、

「そんな感じやと思うてる。細川藤孝とのつながりも、その頃からとちゃうか」

 辻褄は合ってるかも。これだけの資料があるのに、

「通説って重いのよ」
「一度流布して固まるとなかなか変わらへんねん。たとえば桶狭間や」

 あれって谷間で勝利に浮かれて酒宴を始めた義元を梁田政綱が見つけ、そこに信長が奇襲をかけて討ち取ったはずでしょ、

「やっぱりそうなってるよね。あれってね、江戸初期に活躍した小瀬甫庵の創作なのよ」
「甫庵は今でいうたら司馬遼太郎みたいな人気流行作家で、その後に歴史を書いた連中は甫庵の小説が事実やと信じ込んでもてんよ」

 では桶狭間の真実は、

「長うなるからさすがにここで出来へん」

 今日もノンビリだな、もうお昼だよ。

ツーリング日和14(第27話)朽木

 保坂から朽木までも十分足らずかな。保坂からすぐに谷間の道って感じだ。そういえば朽木って要害の地だよね。

「それなりにはな。そやけど真ん中に若狭街道が突っ切っとうから、交通不便の地とは言い難いな」
「朽木に入れる道は三本だから、それを塞いだら守りやすい気がするけど」
「京からはけっこう遠いで」

 朽木に入ったけど、これは盆地というより谷間の町だよ。そこからまず訪れたのが朽木陣屋。ここは予約制みたいで、

「それぐらいしか見に来るやつがおらへんってことやけどな」

 まあそうなんだけど。陣屋ってことは朽木氏は江戸時代も小大名だったのか。

「そうじゃないよ、関が原の時に一万石切ったから旗本」
「あれも、関が原の時に二万石あったのが半分以上削られて大名から旗本にされたって話になっとるのが多いんや。そやけどホンマに二万石あって大名やったかもはっきりせんとこがあるねん」

 とりあえず江戸時代は旗本なのは間違いなさそう。だけど旗本なのに大名並みの待遇を受けた部分もあったとか、

「この陣屋は三の丸まであって、多門櫓も七か所あったそうや。他にも御殿、侍所、剣術道場、馬場、倉庫とかも備わっていて大名の陣屋として良いぐらいの規模やねん」

 旗本だから江戸に住んでいて参勤交代もしないのに、

「交代寄合言うてな・・・」

 自分の領地に屋敷を構えて住む大身旗本ぐらいの意味で、交通の要衝とかの家が多かったとか。

「旗本は若年寄支配やねんけど、交代寄合の旗本は老中支配やねん。そやから上位旗本ちゅうか、旗本と大名の中間ぐらいの待遇やと思うで」

 交代の意味合いは参勤交代を行う旗本の意味なんだって、

「参勤交代って罰ゲームみたいに言われるけど、交代寄合の旗本に関しては権利みたいな扱いやったんちゃうかな」

 大名の参勤交代は一年おきの義務のはずだけど、交代寄合の参勤交代は数年おきでも良かったそう。これも義務じゃなく自発的に行ってるとされたとか。朽木氏は元網の時に江戸時代に突入しているとなってるけど、

「元網は三人の息子に領地を分けて、宣綱六千四百七十石、友綱二千十五石、稙綱千百石にてとる。さらに宣綱も次男と三男に合わせて千七百石を分けてるねん」

 どうしてそんなことを、

「元網に聞いてくれ」

 そりゃそうだけど、江戸初期の大名家ではしばしばあったとか。この頃の相続も原則は惣領制のはずだけど、

「関ヶ原の教訓もあったかもしれん。まだ大坂城に秀頼はおったし」

 天下分け目の決戦が起こった時にどちらに乗るかは家の存亡に直結するのか。ここで勝ち馬が見抜けたら良いけど、そうじゃない時は、

「両方に賭けて、勝った方で生き残る戦略や」

 そんなかんなで朽木本家は五千石足らずで明治を迎えることになり、陣屋も維新後に取り潰されてる。形式として平城よね、

「詰めの山城が別にあって、ここは麓の屋敷みたいなもんで、そこを順次拡大したとなっとる」

 だからどうしたって程度の陣屋だけど、実はタダの陣屋じゃない。だってだよ、義晴、義輝の二人の室町将軍がここに住んでいた華麗すぎる経歴があるんだよ。まあ京都から逃げて来ただけだけど、朽木氏は二人の室町将軍を庇護してたことになる。

「無理やりいうたら首都やった時期もあったことになるもんな」

 かなり無理やりだな。まあ将軍は日本の統治者だから、その将軍が住んで、そこで政治の指示を出していたなら政府、それも中央政府と言えなくもない。シケていても中央政府があることころが首都と強弁できない事もないか。

 首都と言うより亡命政権の所在地ってほうが合ってる気もするけどね。京都からの距離感が微妙な気がするけど、朽木なら京都の戦乱が避けれたのか、

「当時の政治情勢やろうけど、京から見たらよっぽど遠いイメージやってんやろな」

 あの頃の情勢は複雑怪奇らしいけど、南近江の六角氏が将軍派であることが多かったみたいで、六角氏が南近江に頑張っていると朽木まで攻め込むのが大変ぐらいの判断もあったかもしれないって。

「次は興聖寺や」

 この寺は道元禅師が佐々木信綱に頼まれて建立した由緒あるものだって。この寺の見どころが旧秀隣寺庭園。ここはもともと義晴や義輝が朽木に逃げ込んだ時に建てられた屋敷の跡で、将軍の無聊を慰めるために作られた庭園がこれだって。

「庭だけでも残ったのはたいしたもんや」

 この将軍館は秀隣寺になったんだけど、後に移転して、代わりに興聖寺が移って来て今に至るとなってるそう。だから興聖寺にあるけど旧秀隣寺庭園と呼ぶそうだ。

「この庭見ながら、京都に戻れる日を夢見てたんやろな」

 そんな気がする。

「わび住まいの朽木の生活の中で、京都の匂いを感じれる場所やったかもしれん」

 朽木は歴史も古いはずだし、江戸時代も城下町みたいなものだし、鯖街道の宿場町でもあったはず。だけど歴史的な見どころとしてはこれぐらいしかないみたい。まあ鯖街道、若狭街道って言ったって小浜から京都まで十八里しかないから、途中でどこかで一泊したら着いちゃうから朽木にはあんまり泊まらなかったのかも。

「参勤交代ルートでもあらへんかったみたいやし」

 熊川宿も立派だったけど、東海道や中山道の宿場町だったら定番のようにある本陣や脇本陣はなかったんだって。小浜藩ぐらいなら使いそうなものだけど、

「敦賀まで領地やさかい刀根越で木之元に出て、中山道なり東海道で行ったんちゃうか。今津に出ても遠回りになるだけやからな」

 なるほどね。ついでだからと訪れたのが丸八百貨店。昭和八年に開業した三階建ての建物で国の登録有形文化財となっています。

「なんか懐かしい感じがする。戦前だって大きなデパートは大都市にあったけど、地方都市にはこれぐらいのなんちゃって百貨店がわりとあったのよ」

 あのぉ、まるで見て来たような物言いじゃない、てか見てるのか。

「そやったな。その中には地方の百貨店グループに成長したり、地方スーパーになったのもあったけど、全国チェーンのスーパーの進出で潰れたところも多数やったもんな」
「潰れたところは無くなってるし、生き残ったところも建て直したり、移転してるからね」

 朽木の丸八百貨店も商店としては生き残れなかったみたいで、今はカフェとし営業してる。それでもかつての朽木には、これぐらいの百貨店が出来るぐらいには活力があったぐらいには言えるのかな。カフェでコーヒーを飲みながら、

「信長は朽木に泊ったのかな」
「泊まってへんと思うで。ここまで来たらもあるし、やっぱり裏切りは怖いやろ」

ツーリング日和14(第26話)保坂

 朝食を頂いてから宿から駐車場に戻りながら、

「熊川宿の最盛期は江戸時代の前半やろな」
「もっと短いよ、河村瑞賢の西回り航路が確立したのは家綱の時代だよ」

 西回り航路の始まりは加賀藩が年貢米を瀬戸内海経由で大坂に運んだのが始まりだとか。この航路は年を経るほど栄えて、日本海沿岸の諸藩の米も海運で運ばれるようになってしまったらしい。

「そやから琵琶湖の水運も衰えたし、琵琶湖の水運をアテにしていた九里半街道も使われんようになってもたぐらいのはずやもんな」

 西回り航路は後に北前船の隆盛にもなっていくのだけど航海術も発達して、

「小浜どころか敦賀でさえ特急の停車駅から外されてもたからな」

 敦賀も西回り航路が成立する前の一六七一年には、年間二千六百艘も寄港していたみたいだけど百年後に五百艘まで激減したそう。

「塩鯖増やしたぐらいで穴埋め出来るとは思えんからな」

 バイクに乗って今日のツーリングがスタートだ。でも走りだして五分もしないうちにトンネルの前に停まり、

「これは寒風トンネルやねんけど、九里半街道はこの上の寒風峠を越えとってん。標高六百メートルぐらいやど、九里半街道最大の難所としてエエやろ」

 へぇ、トンネルの上の山を越えてたのか。まさか旧道を走るとか、

「無理みたいや。マウンテンバイクで挑んだ動画があったけど、コトリらのバイクじゃ無理そうやった」

 走るつもりで調べてたんかい。寒風トンネルを抜けて三分もしないうちに、

「ちょっとストップ」
「ストップって一本道じゃないの」
「そうやねんけど、寒風峠は無理でも気分ぐらい味わいたいやんか」

 ナビをしばらく確認してから引き返し、

「あそこや。右に入るで」

 ありゃ、センターラインの無い道だ。あんまり嬉しくないよ。それに結構なワインディングだし結構な登りじゃないの。

「これって旧道なの」
「たぶんそうや」

 すぐに登り切ってくれたみたいで、そこからは軽いワインディングある程度の道になてくれてホッとした。相変わらずセンターラインはないけど、すれ違うクルマなんか滅多にないからラッキー。

 それにしても山の中でなんにもないな。なんにもないからクルマも走ってないのはわかるけど、今でもこれだけ何もないのなら、江戸時代はなおさらだったんだろうな。

 そんな道を五分も走っていると前の方に民家が見えてきた。熊川宿を出てからずっと山の中を走って来たようなものだから、人家が見えるとホッとした気分だよ。道は突き当たって三叉路になるみたいだけど、道路案内に左が今津市街、右が朽木となってるな、

「ちょっと停めるで」

 三叉路のところにバイクを停め、コトリさんは興味深そうに周囲を見てるけど、

「ここってそうなの」
「バス停に保坂ってなっとるやんか」

 それから集落の方の道に入って行き、

「あった、あった」
「こっちが本当の旧道だったのか」

 そこには石の道標が立っていて、

『左わかさ道 右京道 左志ゅんれいみち 今津海道 保坂村 安永四年』

 こう刻まれてるじゃない。ここはかつては若狭、朽木、今津に向かう街道が交わるところで交通の要衝だったのか。

「ここには保坂関もあってんよ」
「そうなると越えて来たのは水坂峠ね」

 こうやって街道が交わるところは栄えていそうなものだけど、

「そやからこんなところにドライブインもどきもあるんちゃうか」

 よく経営が成り立つっていると思うような店があるものね。それでもかつて栄えたところとするには無理がありそうだ。

「ここは通過点やったと思うで。今津まで二里しかあらへんからな」
「熊川宿だって二里かせいぜい三里だし、朽木だって二里ぐらいじゃない」

 保坂で泊まるより他のところを目指して行ってしまうところぐらいだったのかな。

「そりゃ、ここになんか特産品でもあって買い付けに來る用事があったらともかくやけど、なんもなさそうやんか」
「三十三か所のお寺もないし」

 それにしても歴史的な謂れとか知らなかったら、何の変哲もない田舎の三叉路だ。

「歴史ウォッチも昔からのものが残ってる方が嬉しいのんは間違いあらへん。そういうことは立派な観光地になっとるとこが多い。そやけど由緒を知っとって、自分だけで楽しむのもおもろいで」
「それをオタクって言うのよ」
「オタクやない歴女や」
「同じでしょうが」

 コトリさんが筋金入りの歴女なのはわかるけど、ユッキーさんの歴史知識だって相当なものじゃない。

「同じにしないでよね」
「そうや、ユッキーは物知りなだけで、正体は温泉小娘や」

 保坂から信長が次に目指したのは朽木だよね

「思うねんけど敦賀からの撤退戦で信長が一番懸念しとったんはこの辺ちゃうか」
「そうだと思うよ。ここを塞がれたら若狭で立ち往生になっちゃうもの」

 そんな風にも考えられるのか。金ヶ崎の退き口は、尻啖え孫市だけじゃなく、金ヶ崎から若狭への撤退がもっとも困難だったとしてるのが多いはず。

「あれも難度は高いで」
「というか、撤退戦と言うだけで難度高いものね」

 だけど醒めて見れば、木の芽峠の先鋒部隊を除けば残りの部隊は悠々と佐柿に逃げ込めそうだものね。そこを整然とやってのけたのは手腕だけど。

「信長の計算やけど・・・」

 浅井離反が四月二十六日だから、二十八日には小谷城を出陣できるとしたぐらいか。浅井軍の動きとして考えられるのは、

 ・敦賀に攻め込む
 ・保坂に出て若狭街道を抑える
 ・動かず信長軍の動向を確認する

 敦賀に浅井軍が現れていない情報は四月三十日でも知っていた可能性はあるかもしれない。そうなるとこの時点の焦点は、信長の撤退路を塞ぐために今津から保坂に出て来ることか。

 だけど小谷と今津の移動にはどんなに急いでも一日はかかるはずと読むのか。二十八日に小谷を出たら三十日には間に合ってしまう計算も出て来るけど、

「浅井かってどこに動くの情報を集めていたはずや。たとえば金ヶ崎の信長が動くか動かへんかや。動かへんのなら朝倉と連合して敦賀決戦もある。そやけど信長はトットと佐柿に引いてもたぐらいは二十九日に知ったやろう」

 なら若狭街道封鎖が良いかと言えば、

「撤退戦の状況が欲しいやんか。期待としては信長が討ち取られるまであるからな」

 なるほど金ヶ崎から佐柿に逃げても、総崩れ状態なら引き続いて若狭で追撃戦の展開も考えられるわけか。信長軍が若狭で壊滅状態になれば敦賀じゃなくて南近江を取りに行くよね。そんな信長軍が壊滅状態になるかならないかの情報は、

「二十九日に手に入るかどうかや。こういうもんは朝倉が正直に報告するかどうか怪しいもんや」

 そこから保坂を目指しても三十日には間に合わない計算が出て来るのか。そんなことまで信長は計算して、

「信長やのうても計算するわ。当時の人間の時間感覚や。そやけど信長かって浅井の動きの情報は不十分やったはずや」
「たとえばね、信長が若狭に動いた時点でひそかに高島郡に兵を動かしとくとか」

 そんな手もありなのか。それを言いだせば全軍じゃなく快速の別動隊を回す可能性もあるはずよね。なら若狭の情報を集まるのを待って、

「そうはいかん。信長かって若狭でいつまでもウロウロしとられへん。戦場でいかに情報を集めるかは勝敗を分けるが、いくら頑張っても限界がある。そういう時には手持ちの情報だけで判断して行動する果断が必要なんや」

 なるほど、金ケ崎の失敗を取り戻すにはまず京都に戻ること。さらには本拠地の岐阜に戻る事がその時の課題になるのか。史実でもそう動いてるものね。

「コトリ、距離と時間もあるけど、浅井もあれを知ってたのかな」
「実戦の経験で学んどった可能性はあるけど・・・」

 なんの話だ。史実ではすんなり保坂を抜けて朽木に進んでるけど、もし浅井が立ち塞がっていたら、熊川宿まで後退してたとか。

「ないと思うわ。そんなんしたら付け込まれるわ」
「だよね。腹を決めて強行突破のみ」

 無謀じゃない。

「とも言えん。信長が率いとる部隊は無傷に近いはずや。そんな部隊が帰師やぞ」
「帰師は遏むること勿れってこと」
「そうや帰師は阻むものやのうて追うものやねん」

 孫子から出た言葉だって。帰師とは外国に戦争に遠征して母国に帰ろうとする軍隊ぐらいの意味で良いみたいだけど、そういう軍隊は母国に帰りたい一心で死に物狂いで戦うから無暗に強いはずだから、

「向こう傷も大きいって意味や」

 保坂で信長軍を迎え撃てばそういう形になるから、浅井も避けた可能性もあるぐらいって話か。

「単純に間に合わへんの判断やったと思うけど」
「浅井の戦略的には湖東を南下して、信長の南近江回廊を脅かしたかったみたいだし」

 それが史実だものね。浅井だって無限の戦力があるわけじゃないから、どこに主力を向けるかはあるだろうし、

「あれこれ集まってくる情報から信長軍の傷は浅うて、早期の反撃は必至と判断したんやろ。京都に戻るだけやったら、若狭街道使わんでも針畑越もあるさかいな」

ツーリング日和14(第25話)若狭の情勢

 亜美さんがたまりかねたのか、

「佐柿は、いや若狭はどうなっていたのですか?」
「それやるんか。長くてつまらんで」
「でも亜美さんの質問だから仕方ないよ。コトリ、出来るだけ手短にね」

 若狭は若狭武田氏が守護だそうだけど、

「内紛いうか親子喧嘩が起こってもて、さらに国人衆が言うこと聞かんようになっとったぐらいに思うたらエエ」

 室町時代と言えば守護大名って覚えたことはあるけど、これは室町幕府創設に手柄のあった家臣を将軍が任命していたぐらいだそう。守護に任命された国で守護の一族は天下り貴族ぐらいに思ったら良いとコトリさんはしてた。

 天下りの貴族連中に対して地生えの豪族が国人になるらしい。室町時代も下るにつれて国人衆が力を付けて戦国時代に突入ぐらいかな。力を付けた国人衆は政治に口を挟んだり、守護のすげ替えまで力を持つようになっていったぐらいだそう。若狭ではとくに四老とされた、

 粟屋越中守
 熊谷直之
 武藤上野介
 逸見駿河守

 がいたんだって。若狭の四大実力者ぐらいで良いと思う。時の守護の武田義統は父である信豊との抗争と、四老が言うことを聞かないのに困り果てて朝倉家に助力を頼んでいる。その結果として起こったのが一五六三年からの国吉城攻撃につながるそうだ。

「朝倉の介入は若狭に危機感をもたらしたでエエと思うねん。そりゃ大国やからな。最前線の粟屋越中守の奮戦はとくに若狭東部の国人衆の支持を集めたぐらいや」

 この辺は国吉城が落ち、椿峠を突破されると滅ぼされるの危機感で良いと思う。これはあくまでも割り切った色分けとしてたけど、朝倉軍の介入により、四老のうち東若狭の粟屋越中守、熊谷直之が反朝倉派、西若狭の武藤上野介、逸見駿河守が親朝倉派になったぐらいに見たらわかりやすいって。ただ朝倉軍の介入も執拗で、

「粟屋越中守は佐柿の領主やけど、椿峠から関峠までも領地やったはずやねん。そやけど一五六三年から一五六七年の間に椿峠以東は朝倉の手に落ちたぐらいは言えると思う」

 朝倉軍の介入が続く中で若狭の守護は武田義統が死んで息子の元明になったんだけど、一五六八年の時についに朝倉軍が若狭の中心部に侵入して小浜の後瀬山城を囲んで、降伏して来た武田元明を一乗谷に連れ去るとこまで行ったそう。ということはついに国吉城も、

「それも確認しとうて佐柿で話を聞いたんや」

 朝倉軍はどうやら椿峠を迂回して若狭に侵入したで良さそうだって。それが坂尻からの越前坂。だけどそれがどこかははっきりしないとこがあるみたいだけど、

「地形を考えると坂尻からやから椿峠の海側の天王山のどこかを越えたとしか考えられん。おそらく朝倉軍が力業で切り開いたと見てる。朝倉が切り開いたから越前坂としたんとちゃうやろか」

 椿峠を回避して佐柿方面に侵入しているのは事実だから他に考えようがないか。侵入した朝倉軍への追撃とかは、

「出来んかったと国吉城籠城記にはなっとるわ。粟屋越中守の手勢言うても地侍二百人に百姓六百人てな記録があるぐらいやから千人前後しかおらんかったで良さそうやねん。そんだけやったら、国吉城や椿峠を守るのは出来ても、城を出ての合戦となると無理やったんちゃうかな」

 粟屋越中守ってそれだけしか軍勢はいなかったんだ。武田元明を一乗谷に連れ去った朝倉は、粟屋越中守や熊谷直之に武田元明の命令として降伏勧告をしてるけど拒否した記録もあるんだって、

「一五六八年と言うのがポイントの年でな、この年に信長が義昭担いで上洛に成功してるんよ」

 ここまでもややこしいのだけど、ここからもっと複雑な話になって、守護の武田元明を朝倉に連れ去られた反朝倉派の粟屋越中守たちは、新将軍の義昭に頼ろうとしたみたいだって。

「義昭も戦国の怪人みたい奴やんか。乗ったとみたい」

 将軍の命で武田元明を若狭に戻して若狭を正常化させるぐらいかな。これで新将軍の権威を高め、若狭を親将軍派にするぐらいの目的でも良いかもしれない。だけど義昭には権威はあっても、権威の裏付けをする軍事力が皆無だから、信長に相談ぐらいはしたはずぐらい。

 信長と義昭の関係は上洛直後は良かったけど、後は悪くなるだけだったのは史実として良いはず。一五七〇年時点でも対立関係が深まっていて、そんな義昭が後ろ盾にしようとしたのが朝倉ぐらいの構図。朝倉が義昭に付く動きを見せれば信長と対立関係になるぐらいかな。

「朝倉は滅ぼすべき敵ぐらいに信長が考えを巡らした時に、若狭が見えて来たんやと思うねん」

 朝倉を叩く、滅ぼすと言っても北近江には浅井がいて通れない。でも、ここで若狭を経由すれば一挙に朝倉に襲いかかれるぐらいの構想か。となると、

「いつからかはわからんが、若狭の国人衆への工作が行われとったはずや。その結果が今津から佐柿への道を開かせたんやろ」

 いかにも戦国時代って展開だけど、若狭に信長が進めば朝倉だって、

「小細工はしとる」

 信長と義昭の対立関係はあっても、信長の実力に義昭は勝てないから大義名分として将軍命令を出させるのか。信長の若狭介入の理由は、

「守護の武田元明を追放し若狭を壟断する武藤上野介を成敗して、若狭を正常化する」

 あれっ、逸見駿河守は?

「寝返ったんやろ」

 信長の若狭での敵は武藤上野介として軍勢を送り込んだって訳か。

「それだけやない気がする。若狭の正常化のためには朝倉が抱えとる守護の武田元明を若狭に連れ戻さんとあかんやろ」

 えっ、それって、

「ある種の欺瞞作戦やが、朝倉にしたら信長はまず武藤上野介を征伐してから、朝倉との武田元明返還交渉があると見てもた気がする」

 いきなり朝倉との全面戦争はないぐらいか。あったとしても今回は若狭の確保で、その次の段階で朝倉と決戦ぐらいかな。結果としては朝倉は乗せられたことになりそう。

「そこやねんけど、さらに朝倉がそう信じる動きを信長は見せたはずや」

 なんだそれ、

「武藤上野介の石山城は高浜の山の方にあるんやけど、信長の先発隊は攻めたはずや」

 な、なんだって! 敦賀だけでじゃなくて、若狭でも合戦があったの?

「考えてみれば自然やんか。大義名分を果たすのもあるし、後方のうるさい敵を排除しとく方が都合エエと思わへんか」

 熊川宿から佐柿へのルートは信長軍にとっても生命線になるから、先発の別動隊が小浜から高浜方面の制圧をした方が良さそうよね。ん、ん、ん、それって、小浜や高浜だけじゃなく、

「当然や、佐柿にも留守部隊置いてるで。補給拠点やし。信長にしても粟屋越中守は初対面やからな。裏切らんように目を光らせとく意味もあったやろ」

 そうなると金ヶ崎の退き口とは佐柿の後方部隊との合流を目指したものだったとか。

「そうしか考えられへんやん。浅井の離反で信長が困ったのはそうやろうけど、絶体絶命の窮地とまで考えてへんかったんちゃうか。少なくとも信長にしたら金ヶ崎から佐柿まで四里退くだけやからな」

 朝倉の追撃の杜撰さを指摘する人も多いけど、

「言い過ぎと思うで、朝倉軍かって木の芽峠から敦賀に下りて来んとなんも出来へんやん。その頃には金ヶ崎とかにおった後方部隊は佐柿に逃げ込んどるから、せいぜい相手できるんは木の芽峠まで進んどった部隊ぐらいやろ」

 加えて、

「回り込もうと思うても、街道逃げる方が早いで。包囲かってそうや、もう田植えのシーズンや」

 そんな追撃状況が朝倉家記にあった、

『人数崩れけれども宗徒の者ども恙なし』

 脱落した雑兵ぐらいは討ち取れても、大将クラスは逃げられてしまったぐらいかも。ここで亜美さんが、

「信長軍が退いた後の粟屋越中守は?」

 これについては、

「金ヶ崎の退き口の後に何があったか覚えてるか?」

 亜美さんは少し考えて、

「もしかして姉川の合戦とか」
「そうや。あれも戦史に残る大決戦やが、あれが六月二十八日やから二か月後の話になる。金ヶ崎の退き口で敦賀まで来た義景は、八千ともされる大軍を北近江に送り込んどる。つまりやが若狭は放置の決定をしたでエエはずや」

 姉川の朝倉軍って、そんなに早く動いていたのか。義景もやるじゃない。

「ああそうや。信長は早期に北近江にリベンジに來ると判断したことになる。援軍としたら余裕で間に合っとるし、浅井朝倉連合軍は奮戦しとる。でも勝ったんは信長や。そこからも朝倉は対信長に目いっぱいになって若狭やっとる余裕はなくなってもたんや」

 なるほど。浅井朝倉連合が不利になって行けば、粟屋越中守も信長派でいても不思議無いか。でも義景の最後はガタガタになっていたはずだけど、

「戦争はな、勝たなあかんねん。勝ってこそ士気も上がるし、求心力も出てくる。そやけど大敗なんてやらかしたら、一遍に士気も求心力も落ちる。長篠で負けた勝頼もそうやったろ」

 シビアだけどそれが戦国時代か、

「金ヶ崎前の若狭の情勢は知っといたらおもろいけど、高校生にはまだ早いかもしれんわ」

 つうかコトリさんのムックが高校生には早すぎるでしょうが。