ツーリング日和7(第13話)ジョイント・コンサート

 ユリたちは仙台のウエスティンに直行。今日はバイオリンとのコンサートだ。二人でやるからジョイント・コンサートと銘打ってある。コウのお相手のバイオリニストだけど五藤穂乃果。若手ナンバー・ワンとも呼ばれる新進気鋭の実力者。さらに美人だから人気も高くて引っ張り凧状態のはず。よく仙台まで来たよな。

 コウは五藤さんと打ち合わせとリハーサルに行ったけどユリは身づくろい。ツーリング中だからたいした服を持ってきてないのよね。だからホテルの貸衣装を借りて、セットもしてもらう。一流ホテルでのコンサートだし、引き続いてディナーもあるからTPOだよ。

 イブニング・ドレスに身を固めて演奏会場の雅の間に。演奏が始まったけど、さすがは五藤穂乃果だ。バイオリンの音が違う。なんてったって五藤穂乃果のバイオリンは、あのストラディバリウス。世界最高峰とも呼ばれる名器の中の名器。

 もちろんいくらバイオリンが良くても、それを響かせる腕が必要だけど、さすがは五藤穂乃果だ。コウだって負けていないよ。いつも以上に気合が入っている気がする。個性と個性のぶつかり合いになるけど、決して喧嘩していない。

 お互いに立てるところは立てるし、競うところは競う。そうしながらもハーモニーは絶対に崩さないものね。コウはセッションの相手が素人でも見事に合わせるけど、相手が一流ならなおさら引き立つのよね。

 こんな素晴らしい演奏を聴けるのは幸せだ。まさにマエストロが生み出すっマスターピースだよ。二時間足らずの公演時間だったけど、あっという間に時間が過ぎて行ったもの。熱狂のフィナーレが終わるとレストランに移動。

「こっちや」

 コトリさんたちだ。ちゃんと着飾って来てるのはさすがだ。テーブルは五人分がセッテイングしてあるよ。

「今日はコウも乗りが良かったな」
「そりゃ、相手が五藤穂乃果やからやろ」

 あのバイオリンを相手にしたら気合も入るよね。コンサートの感想をあれこれ話している時にコウと五藤穂乃果が登場。お客さんの前でもう一度挨拶をしてからテーブルにやって来たんだけど五藤穂乃果の眼がパチクリ、パチクリ。

「失礼ですが、侯爵殿下ではありませんか?」

 やっぱり覚えてたか。ユリは会ったことあるのよね。ハインリッヒが来日したときの晩餐会で弾いてたのよ。演奏後に挨拶も受けたから覚えてるよね。

「またお会いできるとは光栄です」

 ちょっと固いか。でも侯爵と知って挨拶されるとこうなっちゃうじゃない。

「でもそうなると、コウさんの彼女とはユリア侯爵殿下なのですか?」
「ええ、お付き合いさせて頂いてます。それと日本ではユリでお願いします。あんな面倒なものをもらって往生していますから」

 五藤さんはさらに、

「こちらは・・・」
「おっと、そこまでや。今日はプライベートやからコトリや」
「そうよ、ユッキーよ」

 知ってたのか。そりゃ、知ってるか。五藤さんはエレギオン財団主催のチャリティー・コンサートにも出演してたものね。なんか初顔合わせのはずだけど、実は顔見知りだったでディナーはスタート。まず聞いたのはどうして五藤さんが仙台まで来られたか。

「来るに決まってるじゃないですか。お声がかかった時にどれほど嬉しかったか。コウさんとのジョイントでしたら世界中どこでも駆けつけます」

 コウは地方での演奏と言うか、地方のストリート・ピアノを巡るのが生きがいみたいな人じゃない。その代わりと言ってはなんだけど、東京とかでの公演は少ないんだよね。音楽家もメジャーになるほど大都市公演が主体になるし、大都市の大きなホールで演奏するのが目標みたいなとこがあるもの。

 この辺は歌手なんかと同じところがあって、五藤さんも三大都市とか、五大都市での活動が殆どで、神戸ですらなかなか来ないぐらい。ユリも五藤さんの生演奏を聴くのは二回目だもの。

「コウさんなら日本どころか世界中から声がかかるのに・・・」

 かかってる。コウはジュリアードを卒業してるぐらいだから英語も堪能。だから海外からのオファーもいくらでもあるけど、これがまた日本の大都市以上に行くことが少ないのよ。だってだよ、カーネギー・ホールより地方の公民館の演奏依頼を平気で優先させちゃうんだもの。コウの趣味だから仕方ないけどね。

 五藤さんは思わぬメンバーとの会食に目をシロクロさせてた。まあ、そうなるか。なにも知らなかったら、白人女と、小娘二人だけど、ユリはともかくコトリさんたちは世界のVIPみたいなもの。

 そんなものじゃないな。ツーリング中のコトリさんたちは親切で面白い人たちだけど、本業となると稀代の策士、氷の女帝として恐れられまくってるんだもの。さらに言えばプライベートは完全に伏せられていて、どこに住んでいるのかさえ誰も知らないと言われてるぐらい。

「今日はプライベートやから肩の力を抜いてや」
「そんなに緊張したら、美味しくなくなっちゃうよ」

 ユリやコウは出会いが出会いだから平気だけど五藤さんには難しいかな。

「さすがはユリア侯爵殿下です」
「だから侯爵はやめてって、一皮剥いたら庶民の娘なんだから」

 話はいつしか、毛越寺で出会ったおっさんの話に。

「ところで飛鳥井瞬って誰なのですか?」

 そしたら五藤さんが、

「えっ、あの飛鳥井瞬に会ったのですか!」

 五藤さんまで知ってるのか。コトリさんが、

「ユリならギリギリ知らんか・・・」

 ユリが生まれる頃ぐらいまで、まさに一世を風靡した大歌手だそう。歌手と言うよりボーカルで、いわゆるシンガーソング・ライターみたいな感じで良さそう。そりゃ、もうの途轍もないヒットを連発してたんだそう。

 だからユリ以外が知っているのはわかるけど、そこまでのヒット・メーカーなら今だって残っているはずじゃない。だってだよ、もっとマイナーそうな一発屋の曲だって残ってるぐらいじゃない。

「ユリがそう考えるのは当然や。飛鳥井瞬が消えたのは・・・」

 音楽界、芸能界のトップに君臨するのは華やかだけど、物凄い重圧もかかるそう。歌手なら新曲の重圧とか。その辺はなんとなくわかる。歌手が世に出るためにはとにかくヒットが必要。

 それが大ヒットになれば申し分がないはずだけど、あまりにヒットしすぎると次の新曲に物凄いプレッシャーがかかるって聞いたことがある。誰だってヒット連続にしたいし、転びたくない。大コケしたら一発屋で終わってしまうとか。

 とくに自分で曲を作るシンガーソング・ライターなら、自分で編み出さないといけないから、焦れば焦れるほどドツボに嵌ってしまうこともあるらしい。歌に限らず芸術作品は守りに入ってしまうとロクなものが出来ない。無難に作ったヒット曲なんかないと思うもの。

 メガ・ヒットを連発させた飛鳥井瞬もそんな重圧に苦しんだで良さそう。この辺は性格もあると思うけど、より深刻に受け止めるタイプだったのかもしれない。

「そこから定番や」

 プレッシャーに襲われ続けた飛鳥井瞬はまず酒に逃げたそう、

「ほとんどアル中状態やったらしい」

 そこらあたりから泥酔しての暴行事件を何度も起こしたそう。それでもドル箱だったから事務所が必死になって伏せてたみたいだけど、

「酒じゃ逃げきれんようになってヤクに手を出してもた」

 ヤク中状態になった飛鳥井瞬はトラブルを次々に引き起こし、ついには、

「大暴れの末に人が死んでもたんや」

 警察に逮捕され裁判になると、これまで伏せられていたトラブルや不祥事が掌を返すように表沙汰にされ、世間からの猛バッシングを受けたのか。よくありそうな話と言えば話だけど。

「そういうこっちゃ。飛鳥井瞬が主題歌を手掛けた映画やドラマはすべてお蔵入りになり、その賠償で破産や。この辺もあれこれトラブルの上塗りもあったんやけど、結果としては音楽界からも芸能界からも完全追放にされてる」

 裁判は暴行傷害か暴行傷害致死かで争われたそうだけど、暴行傷害致死になり実刑となって刑務所に入ったのか。この時に飛鳥井瞬はベッタリと烙印を刻まれ、今でも芸能界のタブーとして誰も触れなくなり、忘れ去られてしまったぐらいで良さそう。

「あれから二十年やから出所してるわな。そやけどムショ帰りに世間の目は冷たいからな」

 形式的には犯した罪を刑務所で服役したことにより償ってるのだけど、そんな綺麗ごとで済まされないのはユリでもわかる。そういう扱いにされてしまうのは、再犯率が高いのもあるそう。イメージとしてはユリもそうなのは白状しとく。

 飛鳥井瞬は当たり前だけど出所しても音楽界への復帰などありえない。それどころか、まともな職業にさえ就くのは容易じゃないだろうな。大きな罪を犯した代償と言えばそれまでだけど、

「死ぬまで前科者のレッテル、いや人殺しのレッテルから逃げられん」

 ずっとコトリさんの話を聞いていたコウだけど、

「飛鳥井瞬の犯した罪の大きさは知っています。それでもボクはあの歌をもう一度聴きたい。あれこそ世紀の天才にのみ許された芸術です」

 コウは熱狂的なファンだものね。コウにとっての不滅のメロディーは飛鳥井瞬のメロディーだもの。でも無理だよ、

「コウの気持ちはわからんでもない。コトリもユッキーも好きやったからな。そやけど、さすがに難しいで」

 難しいなんてものじゃないよ。いくら歳月が経ったと言っても、飛鳥井瞬が表舞台に立つとなれば、過去の悪行が蒸し返されるもの。そんなバッシングの中で誰が協力してくれるものか。

 そもそもだよ、あんなしょぼくれたおっさんにまともに歌えるとは思えないじゃない。それ以前に音楽への情熱だって、

「ユリ、飛鳥井瞬にはまた火は灯ってるよ。そうじゃなければ、毛越寺でピアノなんて弾くものか」

 コトリさんが思い出すように、

「♪最後の力が燃え尽きても、命あれば甦る」

 それって、

「代表曲の一つや。強烈な失恋に見舞われても、また立ち上がれるぐらいの歌や」

 飛鳥井瞬のピアノは上手だったけど、コウの上手さとは違う。テクニックだけならコウの方が遥かに上だけど、どこかで魂を震わせるものがあったのは認める。

「あれが飛鳥井瞬だ。だからすぐにわかった。まだ飛鳥井瞬は生きている。生きてる限り必ず甦る」

 さすがのコトリさんも考えこんじゃった。そうだよね、いくらコウの願いでも、こればっかりはウンとは言えないよな。でもコウは本気だよ。コトリさんたちに頭を下げて、

「どうか力を貸して下さい」

 コトリさんは、

「とりあえずシノブちゃんに行方を捜してもらうわ。話はそれからや。そやけどこの件はいくらコウの願いでも手強すぎるで」

ツーリング日和7(第12話)お寺のピアノ

 毛越寺まで来たのは観光のためでもあるけどピアノのためでもある。毛越寺の貫主、まあ住職さんのことだけど音楽が大好きみたいで、本堂の前に期間限定だけどピアノを置いてるんだよ。浄土寺庭園を回ってる間も時々ピアノの音がしてたものね。

「これだけのお寺とお庭をバックに弾きたいじゃない」

 こんなところにストリート・ピアノが置かれるって珍しそうだものね。それにコウの言う通り、シチュエーションとしては気持ち良さそうだもの。音響はネックだけどね。ユリたちがピアノのところに行くと何人か先客がいた。

 これもよくあることで、人気の高いストリート・ピアノなら列が出来てる事もあるもの。もちろんちゃんと並ぶよ。コウは有名人だから気づかれたら順番を譲られたりもあるけど、まずは受けない。

 どうしてもって時は連弾にしてしまうかな。コウは相手の技量を良く見てキッチリ合わせるのよね。ユリもやったことあるけど、びっくりするぐらい弾きやすくて、まるで腕が何段も上がった気がしたもの。

 コウの前の人の順番が来たのだけど、どうだろう五十歳、いや六十歳ぐらいにも見える。申し訳ないけど服もくたびれてるし、白髪混じりの髪の手入れも良くない。外見で判断するのは良くないけど、しょぼくれたおっさんって感じだ。猫ふんじゃったでも弾くのかな。そのおっさんは弾き始めたのだけど、そしたらコウが、

「まさか、そんなことが・・・」

 えっ、どういうこと。コウの知ってる人なの。でも上手いというか弾きなれてる。でも、この曲はなんだろう。聞いたことがないけど、

「ユリなら知らないか。千里の想いだよ」

 なんだその曲。でもどこか哀愁を帯びてるメロディーだな。それだけ弾いておっさんは立ち上がったのだけどコウは歩み寄って、

「一曲とはもったいない。それにあなたはピアノじゃない」

 おっさんはちょっと驚いたように、

「後も並んでいますから」

 コウは立ち去ろうとするおっさんに、

「ボクが弾くので歌ってもらえませんか」

 おっさんは背中越しに、

「歌、そんなものは忘れたよ」
「お願いします。歌が無理ならせめて聴いて行って下さい」

 コウが弾き始めたのだけど、この曲もなんだ。聴いたことがない。でもなに、聴いているとなぜか涙が。なんて美しくて、繊細なメロディー。たしかコウは歌って下さいと言ってたから、この曲には歌があるとか。

 おっさんは背中越しに聞いていた。なぜか肩が震えている気がする。それだけじゃない、小声であれは歌ってる。これってこの曲の歌なの。弾き終わったコウはおっさんに歩み寄り、

「飛鳥井さん。お会いできて光栄です」

 おっさんはうるさそうに、

「そんな人は知らん。ほっといてくれ」

 それだけ言うと歩み去っちゃった。コウも立ち尽くしてた。なんか失礼なやつ。でも誰だろう。

「あれから二十年だから、出て来ていてもおかしくない。生きてたんだ」

 ふと見るとコウの目に涙がポロポロと。そんなに良く知っている人なんだ。でも泣くほどってどういうこと。

「あの人は飛鳥井瞬、見間違えるものか。ボクが大ファンだった歌手だよ」

 それってコウが遠野で言っていた不滅のメロディーの歌手とか。

「そうだよ。ボクの耳に永遠に残る不滅のメロディー、彼こそ真の天才」

 たしかにあの曲のメロディーは良かったけど。

「あれは歌が入って完成する。それも飛鳥井瞬の歌が入ってこそだ。ボクのピアノだけじゃ、あの曲の良さを一割も伝えていない。ああ、もう一度聴きたい、あの不滅の名曲を」

 そんなに。そこまで言うとコウは唇を固く噛みしめちゃった。あのしょぼくれたおっさんが信じられないよ。そこに声をかけられた。

「やっぱりコウか」
「ユリも一緒とは珍しいね」

 あっ、まさか、こんなところでコトリさんとユッキーさんに会うなんて。聞くと一日早いフェリーだったみたいで、

「まずは八幡平のアスピーテラインを走ってやな。そこから魹ヶ埼や」

 どこだそれ。

「本州最東端なの」

 聞くと宮古の近くらしいけど、駐車場からも片道三十分ぐらい歩くそう。

「これで本州最北端の大間崎、本州最南端の潮岬に続いて制覇したことになるのよ」

 ほんじゃ本州最西端はどこかって聞いたら、下関の毘沙門ノ鼻っていうところらしい。それにしても原付二種でよく走るもんだよ。

「ほんでコウはどないしたん」

 飛鳥井瞬なる人物に出会って様子がおかしくなったって言ったら、

「ホンマにおったんか」
「わたしも会いたかった」

 えっ、知ってるの。いや、この連中なら知ってるか。下手すりゃモーツアルトの子ども時代だってリアルタイムで知ってそうだものね。

「そんなもん知っとるはずないやろ」
「そうよそうよ。モーツアルトの生まれた頃には日本に来てたもの」

 理由はそっちかい。ここから早めだけどお昼にしようって話になって、

「蕎麦でエエか」

 山門近くの御蕎麦屋さんに。

「ここは暮坪蕎麦や」

 聞くと大昔のグルメ漫画にも取り上げられた蕎麦屋さんらしくて、薬味に大根じゃなくてカブのおろしを使うのだとか。このカブが暮坪カブというらしくて、カブなのに大根みたいに細長いんだって。

「暮坪蕎麦の松」
「わたしも」

 やると思った。松は天ぷらにざる蕎麦二枚の大盛りコース。ユリとコウは竹。これはノーマルの天ざるだ。

「今からどうするんや」

 今夜のコウはお仕事。仙台のウエスティンでコンサートなんだ。だから、今から仙台に向かう予定。

「ウエスティンは気が向かへんけど、コウのコンサートを聴くのも悪ないな」
「そうだねぇ。仙台泊りが気に食わないけど。コウのコンサートは魅力だね」

 聞くとお二人は、

「昨日は吉里吉里から遠野回って花巻やってん。今日は平泉から鹽竈神社や」

 どんだけ回る気。だってだよ、この二人は原付だから高速使えないんだもの。それはともかく、ウエスティンで付き合ってくれたら嬉しいかも。だってさ、コウがピアノを弾いてる間は一人で待たないといけないもの。

「スケジュールは」

 十六時開演で十八時からディナーの予定。コンサートは二十五階の雅の間で、ディナーは二十六階のレストラン・シンフォニーに移動するってなってる。

「そういうことでコウ、頼むわ」
「ディナーもコウとユリと同じ席なら割り込めるでしょ」

 割り込みなら自分たちでなんとかせいと思ったけど、会社の名前を出すと騒ぎになるからか。コウは、

「かしこまりました」

 VIPも大変だ。

「ユリもでしょうが!」

 出るとこに出ちゃうとね。日本じゃハインリッヒが来日でもしないとまずないはずだけど。仙台のウエスティンで合流を約束してユリたちは東北道へ、コトリさんたちは、

「ツーリングの本道の下道や」

 ホントにタフだ。

ツーリング日和7(第11話)中尊寺から毛越寺

 月見坂から中尊寺拝観。やっぱり見どころは金色堂。もちろん初めて見るけど、こりゃ、本当にキンキラキンだ。でも藤原氏時代から残っているのはこれだけ。これだけでも残ったのは凄いけど、やっぱり頼朝に焼き討ちされたんだろうな。

「いやそうじゃない。泰衡は撤退する時に平泉の街は焼いてるけど、寺は焼いてない。攻めて来た頼朝も寺はむしろ保護してる」

 じゃあ、残ったんだ。

「ああ、残った」

 現在の中尊寺にも十七の子院があるんだけど、吾妻鏡には四十の堂塔と四百の僧房があったとなってるんだよ。もうちょっと具体的には、

 ・多宝寺・・・・・釈迦多宝像二基
 ・釈迦堂・・・・・百体の釈迦像
 ・両界堂・・・・・両界の曼陀羅像を配置
 ・大長寿院・・・三丈の金色阿弥陀像、丈六の脇士九体
 ・日吉社
 ・白山宮

 主なものだけでもこれだけあったと記録されてるんだよ。とくに大長寿院は二階大堂とも呼ばれて五丈あったとなってるのよね。

「金色阿弥陀像の三丈って九メートルだから、五丈つまり十五メートルぐらいの高さは必要じゃないか。でも相当な大きさだね」

 釈迦堂の釈迦像百体もミニチュアとは思えないものね。それこそ京都の三十三間堂ぐらいの規模はあったとしても不思議はないはず。そういえば金色堂の仏像は定朝が作ったとてなってるけど本当なの?

「定朝は平安時代屈指の名工で代表作は平等院の阿弥陀像になる。と言うか確実に定朝作とされてるのもこれだけだ。それだけではなく、中尊寺の上棟は一一二四年なのがわかっている。一方の定朝は一〇五七年没だから、六十七年も間がある」

 そっか、定朝の工房に依頼したぐらいね。定朝の息子の覚助でも危なくて孫の院助ぐらいかもしれないね。戦火で焼けてないのなら火事。

「まあ、そうなるけど・・・」

 寺は残ったけど、奥州藤原氏が滅亡したのが最大の原因なんだって。言われてみればだけど、寺って自活してる訳じゃないのよね。そりゃ、今のお寺は法事とか有名寺院なら観光収入があるけど、奥州藤原氏時代の寺は葬式仏教じゃないから現代の感覚の檀家はいない。もちろん観光収入もない。

「極論すれば当時の寺はパトロンの趣味みたいなものだからね」

 中尊寺には四百の僧房があるとなってるけど、そこにいる僧侶の食い扶持もパトロンである奥州藤原氏が出してたことになる。でも大パトロンがいなくなれば、そんな数の僧侶を抱えられなくなる。

「僧侶が減れば空き家が出来る。空き家が出来ればゴロツキが棲むようになるのも必然だ。それを追い出したり取り締まったりする力もなくなるからね」

 歳月ともに中尊寺は荒廃していき、とくに建武四年の失火で殆ど失われたんだって。山火事状態になったんだろうな。現在の中尊寺の建物の多くは伊達氏によるもので良さそう。これはこれで立派なものだけど、奥州藤原氏時代のものと較べるとどうしてもね。


 次は毛越寺だよ。ここは中尊寺以上のものだったみたいで、吾妻鏡によると、とりあえず堂塔四十余り、僧房五百余りになっていて主な堂塔として、

 ・金堂円隆寺・・・丈六の薬師如来、十二神将
 ・吉祥堂・・・・・・・丈六観音像
 ・千手堂・・・・・・・二十八部像
 ・嘉勝寺・・・・・・・丈六薬師如来
 ・観自在王院
 ・小阿弥陀堂

 これぐらいが記録されてる。毛越寺は当時の礎石も確認されてるから復元図もあるけど、宇治の平等院がオモチャに見えそう。秀衡が建てた無量光院でも平等院クラスって言うものね。そりゃ、パトロンがいなくなったら荒廃するだろうし、代わりが出来るパトロンもそう簡単に見つからないと思うもの。

「パトロンと言えば基衡の話を知ってるかい」

 毛越寺の金堂円隆寺の本尊は雲慶に依頼されてれうのよね。慶が付くから慶派の仏師のはず。雲慶は依頼を受けて上中下のどのクラスがお望みかと言ったけど、基衡は『中』にしてるのよね。だけどその謝礼は、

「金百両、鷲羽百尻、直径七間半もある水豹の皮六十余枚、安達絹千疋、希婦細布二千端、糠部の駿馬五十疋、白布三千端、信夫毛地摺千端ってなってるのよね」

 これが現在の価格でなんて誰も答えられんぐらいの桁外れのもの。さらにこれとは別に、

「ご機嫌伺いみたいに生美絹を船三艘贈っている」

 雲慶も仰天したんだって。これも現在の貨幣価値でいくらかなんか換算できるようなものじゃないけど、死ぬまで遊んで暮らせるぐらいは余裕のはずなんだ。でもさぁ、雲慶はうっかり練絹の方が良かったって漏らしちゃったんだよね。

「ああそうかと、練絹も船で三艘分追加で贈っている」

 この手の金持話は世の中にいくらでもあるけど、基衡の話に匹敵するのは珍しいと思うし、たぶんだけど実話のはず。と言うか、このスケールの財宝をポンポン払えるのが奥州藤原氏の栄華であり、富だったんだよね。

 それと奥州藤原氏の力は財力だけじゃない。その武力は奥州十七万騎として恐れられてたんだ。時代は源平争乱じゃない。秀衡の遺言通りに義経を御大将にして鎌倉に攻め込めば藤原幕府になっていたはず。泰衡のウスラトンカチ野郎が。

「話はそんな単純じゃないよ。まずだけど十七万騎って何人かな」

 そりゃ、十七万人。

「騎という単位は、馬に乗る小領主と従者の集団を言ってね。そうだな一騎で十人ぐらいの集団かな」

 だったら百七十万人の大軍団。頼朝なんぞ鎧袖一触だ。

「あのね、この時代の推定人口が五百五十万人ぐらいなんだよ。全人口の男の六割が奥州にいるわけないだろ」

 そんなに人口が少なかったんだ。でも十七万人ぐらいは、

「日露戦争の時の人口が四千五百万人ぐらいで、総動員兵力が百万。奉天会戦の時で二十四万人だよ。どうやって十七万人も動員するんだよ」

 たしかに。でもさぁ、でもさぁ、頼朝が攻め寄せた時に泰衡に味方しなかったとなってるじゃない。義経を殺したから人望を失なったって、

「あれも怪しいと言うか、歴史を書くのは勝者だからね」

 奥州藤原氏と源氏の決戦となったのが阿津賀志山の合戦だそう。この時の両軍の動員数はいつもの事ではっきりしないそうだけど、頼朝は関東で三十万人を動員したそう。でも阿津賀志山の源氏軍は二万五千ぐらいともされてるのよね。

「頼朝は乾坤一擲をかけて関東を総動員したはずなんだよ。三十万人は兵じゃなくて兵糧を運ぶ人夫も含めての動員数だよ。それでやっと二万五千。もちろん、当時としては雲霞の如き大軍勢になる」

 あくまでも推測だそうだけど、源平最大の決戦の一の谷でも両軍とも一万弱じゃなかったかとされてるぐらいだって。奥州は関東の北隣だから、頼朝もこれだけの動員が出来たのじゃないかぐらい。

「でも対する奥州藤原氏も二万ぐらいはいたとする説が多いんだよね。そりゃ、奥州十七万騎より少ないけど、これって奥州の軍事力を総ざらえしたと見えるのじゃないかな」

 阿津賀志山の合戦なんて日本史じゃマイナーも良いところだけど、見ようによっては日本史が始まってから空前の大軍の激突だったとか。

「話半分で万同士の決戦でもすごい規模だよ。このクラスの大合戦は戦国時代まで行われていない気がする」

 じゃあ泰衡は決して見放されていた訳じゃなかった。

「ボクにはそう見える。勝敗の機微は色々あるだろうけど、戦慣れしていた源氏軍に対して、奥州藤原氏はそうじゃなかった部分が大きかったのもあった気がする」

 結果として源氏軍は圧勝、奥州藤原氏は滅亡か。もうこのあたりになるとわからないけど、秀衡死後も泰衡にも求心力があり、阿津賀志山の合戦も奥州藤原氏が勝つ可能性さえあったのか。

「もちろん頼朝と泰衡の器量の差は歴然で、泰衡に鎌倉幕府を作るのは無理だ。歴史は次の武家社会を作る頼朝に微笑んだのだけど、奥州藤原氏の力は平家に勝った頼朝を以てしても全力が必要だったとぐらいは言いたいな」

 こういう歴史ムックはユリは大好きだし、それが出来るコウにまた惚れ直しちゃった。

ツーリング日和7(第10話)平泉幻想

 朝は露天風呂の桂の湯に入ってきた。ここは男女別にあるから他の男に裸を見られる心配はない。朝食も頂いて八時過ぎには出発だ。来た道を戻って花巻南ICから平泉前沢ICまで南下。九時には中尊寺の駐車場に到着。

 それにしてもコウがあんなに歴史に詳しいのは意外だった。遠野物語はユリは妖怪物が好きだったから良く知っていたけど、まともに話せるぐらい知ってるんだもの。

「ああそれ。全国各地を回るじゃないか・・・」

 コウのツーリングは演奏旅行でもあるけど観光旅行でもある。わざわざバイクで回っているのがそう。演奏にも関係するけど、曲目を決めるのにその土地土地の歴史を踏まえた方が喜ばれるのは間違いない。誰だって自分の生まれ育ったところは大事にするものね。

 それとこれはユリもわかるのだけど、観光旅行とは風景も楽しむけど名所旧跡巡りもある。ぶっちゃけ古い建物巡り。京都や奈良クラスなら見ただけで圧倒されそうなのがあるけど、地方じゃ単なる古いだけ。だからなんの予備知識もなしに見たらおもしろくもなんにもないのよね。

「それコトリさんの受売りじゃないのか」

 バレたか。コトリさんは歴女。ユッキーさんも変わらないぐらい良く知ってるのだけど、二人が歴史談義を始めたら、そりゃおもしろいのよ。単なる古ぼけた建物に光が差してくるって感じになるものね。だからユリもツーリングで巡りそうなところは、出来るだけ予習して臨むようにしてる。

 ここは平泉。奥州の覇者藤原氏三代の栄華が花開いたところだよ。ごく簡単には初代の清衡が中尊寺を、二台の基衡が毛越寺を、三代の秀衡が無量光院を建ててる。もちろん重なっている部分は多々あるけど省略。

 でもこうやって改めて見ると湧いてくる疑問がある。現在の東北の中心は仙台だ。古代だって多賀城もあって陸奥の中心地のはずじゃない。でもどうして平泉だったんだろう。

「それはこの地を選んだ清衡に聞いてくれ。でもね、こういう説もある・・・」

 近代までの日本の統治原則は稲作だって。田んぼで米を作るのが文化であり、そこから税金を取り立てたのが政府ぐらいかな。だから米を作らない人々は統治範囲外に置かれたとも見れるんだって。

 奥州って陸奥のことだけど、現在なら福島、宮城、岩手、青森にあたる広大な範囲だけど、米を作るには寒すぎた。今じゃ、米どころになってるけど、江戸時代でも何度も大飢饉に見舞われてるものね。でも寒いだけなら出羽だって、

「出羽と陸奥では気候が違う。出羽も雪は深いが、夏はフェーン現象で暑いんだよ。でも陸奥はヤマセで夏も気温が下がることが多い」

 ヤマセってなんだと聞いたのだけど、三陸沖で寒流の千島海流と暖流の親潮がぶつかるのだけど、寒流の影響で冷たい海からの風が吹いて、夏でも低気温に見舞われる現象らしい。夏が寒いと米は出来ないものね。

「陸奥の米の取れ高はよくわからないんだよ」

 陸奥の石高は慶長三年の記録で百六十七万石とはなってるそうだけど、

「たとえばだけど会津の上杉景勝は百二十万石で、家臣の直江兼続の米沢が別建てで三十万石なんだよね。どっちも福島だけど、そこだけで百五十万石になってしまう」

 そうだよ仙台に伊達政宗もいるものね。政宗は六十二万石で後に実高百万石とされたそうだけど、六十万石としても上杉と合わせると二百万石越えてしまう。だけど江戸期に岩手県から青森県東部まで所領にしてた南部は十万石なのよね。これも後に二十万石になったとはいえ、

「青森県西部の津軽家で七万石だよ」

 藤原三代時代でまともに稲作が出来たのは現在の福島県ぐらいじゃなかったんじゃないかとしていた。だったら藤原氏の栄華の源はなんなんだ。

「農民を平地の民とすれば、山の民もいた」

 山の民とは猟師みたいなのもいるし、そこから派生した皮革業もいただろうし、木工に従事したのもいたぐらいかな。

「傀儡子なんかも入るし、山伏なんかも入ると思うけど、奥州藤原氏の場合は鉱物採取者も支配下に置いたはずだよ。金売り吉次の話は知ってるだろう」

 そうだった奥州藤原氏と言えば黄金文化だものね。きっとザクザク黄金が取れたんだ。

「そこなんだけど・・・」

 奥州の砂金は歴史上でも有名なんだよ。奈良の大仏の金メッキも奥州の砂金が支えたとなってるらしい。だけど採れた、採れた言うてもどれぐらいだったのかは微妙なとこはあるみたい。

 日本一の金山と言えば佐渡になるけど、総産出量が七十八トン、年間の最大産出量は一九五〇年頃、つまり近代で一・五トン、それ以前になると五百キロでも多い方で、その半分以下の年がほとんどだったそう。

 金が五百キロと言ってもイメージしにくいのだけど、映画とかに出てくる大きな金の延べ棒が十二・五十キロなんだって。つまり日本一とされた佐渡で最盛期で百二十本ぐらいで、昔は四十本程度だったことになる。

 それでも平泉のあたりが砂金産地の中心地に近かったぐらいは言えるらしい。だから平泉だったになるかのなのよね。金は当時も価値ある貴金属だけど、金は持ってるだけなら意味がないのよ。金をなんらかの物資と交換してこそ価値が出る。

「それは今も同じだよ」

 交換するには相手がいるじゃない。その辺の農民相手に金を出しても高価すぎて相手にならないものね。その相手となると、

「国内なら京都だろ」

 国内で金に相応しい価値の商品なりを提供できる都市は京都ぐらいしかないよね。でも京都が金の商売相手だったら、やっぱり平泉にする必然性が乏しいと思うのよね。金の産出量と言ってもその程度だから、少しでも京都に近く、米も取れる会津ぐらいに中心を置きそう。食べ物の方が最後は優先だし、砂金は運んだら良いだけだもの。

「でもそれでも平泉を選んだ理由があると思う。たとえば・・・」

 奥州藤原氏の富は京都相手の国内交易だけで築き上げたと見ないのか。平泉と言えば中尊寺金色堂になるけど、使った金箔の調査をしたら北海道の日高産のものが混じっている報告書があるんだって。

 平泉の中尊寺と言えば奥州藤原氏のお膝元も良いところじゃない。余裕で自前の金で賄なって当たり前と思うもの。それなのにどうして北海道産の金が混じってるかなのよ。

「奥州藤原氏の栄華を支えた砂金は、陸奥産だけでなく蝦夷との交易も多かったと考えるべきかもな」

 それって。

「十三湊の存在だ」

 十三湊は津軽半島にある港。古代から交易港として開かれて有名だったそう。たとえば蝦夷相手なら食料と金の交易は成立するかもしれない。今の価値観なら詐欺みたいなものだけど、蝦夷にしても金を持っているだけじゃ飢え死にするものね。十三湊の存在まで考えると、

「大陸交易もあったはずだ」

 陸奥は南側が穀倉地帯だけど、北側は交易地帯だったと見るわけか。奥州藤原氏の繁栄のためには両輪としてどっちも欠かせないものだったとすると、

「両方の中間点の平泉だったのかもしれない」

 奥州藤原氏の栄華は、金もあったけど、その金は陸奥だけでなく北海道からも入手していた、いや量的に北海道産が主力だった可能性すらあるのか。その金を交易手段に使って大陸交易もやって、さらに富を蓄えていた可能性すらあるのか。大陸の珍品を京都にでも持って行けば大儲け出来そうだものね。

 十三湊と白河関の中間点が平泉だけど、藤原三代は南じゃなく北に繁栄の源泉を持っていたと見た方が良い気がしてきた。南は穀倉地帯として重要だから平泉に本拠地を置いたけど、あれは目いっぱい南下した形で、あくまでも南陸奥を支配する目的だったとか。

「ユリもおもしろい事を考えるね。奥州藤原氏の栄華は、他の地域の日本の繁栄と少し違うタイプだったとボクも思う」

 黄金がベースだったんだろうけど、黄金は陸奥にあっても価値はあんまりなかったぐらいで良い気がする。でも陸奥から他に持って行けば話が変わるのを知った気がしてきた。国内なら京都だけど、大陸を相手にすればスケールが変わるはず。

「妙な例えだけど、黄金だけ持っていても日常では使いにくいからね」

 金の延べ棒を持っていてもラーメン食べに行きにくいものね。使うためには今ならカネにするのが必要。奥州の金ももっと交易しやすい物品に換える必要があったんだよ。それを十三湊でガンガンやってたんじゃないのかな。

 それでも南奥州を重視したのは食糧の確保のはず。今より食べ物の確保の重要性は高いはずだもの。南奥州の食料と、北奥州の交易を考えての支配となると、中間点である平泉が自然に選ばれたんだよ。

 でもさぁ、でもさぁ、そういう好立地のところは、その後も使われ続けそうなものじゃない。いわゆる交通の要衝ってやつになるはずだもの。

「頼朝に敗れて奥州藤原氏は終焉を迎えるのだけど、頼朝の政治思想は内向きだったからね」

 頼朝の目指したのは律令体制の打破か。打破と言うより、律令体制の税収を幕府に振り向けることだものね。これはこれは偉大な業績だし、これが江戸幕府崩壊まで続くのだけど、収入の軸足を交易に置こうとした人じゃない。

 おそらく頼朝の奥州支配は米経済を中心としたもので良いはず。そうなると南奥州重視になる。十三湊だって、奥州藤原氏が物品をかき集めていたのが繁栄の要因だったはずだから、それがなくなれば衰えるだろうし、変質もするはず。

「ユリの見方は鋭いよ。十三湊がいくら良港でも、寄る理由がなければ船は来ないからね」

 あれかな、奥州藤原氏時代の十三湊は戦国時代の堺みたいな様相があったのかもしれない。大陸からの商人が珍しい商品を持ち込み、それを黄金なり陸奥特産の物品と交換してたぐらい。さらにそういう湊だから陸奥以外からも国内の船が寄って来ていた感じ。

「堺に例えるとはおもしろい。時代的には北の大輪田の泊みたいなものかもな」

 今の平泉は平凡な地方都市だけど、かつては黄金文明が花開いた夢のような都市だったんだろうな。

ツーリング日和7(第9話)鉛温泉の夜

 遠野でのリサイタルが終わると花巻に引き返し、宮沢賢治記念館と宮沢賢治童話村を巡ったのだけど、さすがにくたびれた。二日続きの超早起きも応えた感じ。ここまでの走行距離は二百二十キロぐらいだし、高速利用も多かったけど、それでもね。

「それは悪かった。宿に急ごう。たぶん三十分ぐらいだけどだいじょうぶか」

 今から三十分か。なんとかなるはず。コウは県道十二号を西に向かって走り出したんだ。コウは花巻でもストリート・ピアノを弾く予定だったはずだから悪いとは思ったけど、

「ユリが疲れて事故したら大変だ」

 今日は許してもらおう。東北道を潜ったからもう高速は使わなんだろうな。道路案内に鉛温泉、大沢温泉、志戸平温泉、松倉温泉って出てきたらその辺かな。

「今夜は鉛温泉だよ」

 向こう方に山が見えて来たけど、

「そうだよ。あの山の中にある」

 結構まだあるな。それにしても真っすぐだし、信号の少ない道だよな。この辺は花巻の郊外になると思うけど、田んぼと畑が多いな。おっ、『歓迎 花巻南温泉郷』のアーチが出て来たぞ。えっと、鉛温泉はまだ九キロか、

 旅館みたいなのが目に付き出したから、なんとか温泉なんだろうな。あそこに大きな温泉ホテルみたいなのがあるけど、ホテル志戸平って書いてるから、志戸平温泉なんだろ。だいぶ登って来てるよね。でも今日はどんな宿だろう。

「お気に召してくれたら嬉しいな」

 コウと一緒ならどこでも嬉しいけど、初めての旅行の、初めての旅館だからワクワクするな。コウがどんな宿が好みなのかもわかるもの。でもコウは凄いよな。今日こそユリとマスツーだけど、普段はソロツーじゃない。やっぱりコウはソロツーが好きなのかな。

「ユリと一緒ならどこでも楽しいよ」

 ここが大沢温泉か。どこに宿があるのだろ。その次が山の神温泉で、へぇ、鉛温泉ってスキー場もあるのか。それだったらリゾートホテル系かな。スキーセンターがあるってことは、

「みたいだね。ほらリフトが見える」

 こんなに道路に近いスキー場なんだ。

「ユリ、フジサン旅館の方に右折だ」

 フジサン? ああそう読むのか。げぇ、このコンクリートの道を走るのか。すぐに突き当たって、えっと、旅館部って方に行くんだよね。へぇ、こりゃ、旅館と言うよりホテルだね。

「違うよ。これは新館みたいなもの。ボクたちが行くのはこの奥の本館」

 こっちもこっちで立派だ。木造三階建てで総欅づくりだって。こっちの方がコウの好みなのかな。ユリにしたらどっちでもリッチで嬉しいけど、二択なら本館かな。顔に合っていないのはほっとけ。ユリは生粋の日本人なの。部屋に案内されたけど、こりゃ立派、いや立派過ぎるよ。二間続きの角部屋じゃない。

「それは侯爵殿下のお宿ですから」

 コウだって元北白川宮家の跡取りだろうが。コウにどうして本館にしたのかと聞いたら、新館はベッドだって。ベッドが悪いわけじゃないし、家ではベッドだけど、旅行に行ったら畳に布団が良いんだって。

 ここの大浴場は四つあって、白猿の湯、銀の湯、白糸の湯、露天風呂の桂の湯だ。このうち名物とされるのは白猿の湯。特徴は深さが一メートル二十五センチもあること。それとだけど、なんと混浴。

 時間帯によって女性専用と混浴時間帯があるのだけど、十七時までは混浴。どうしようかと思ったけど、ここまで来たら名物の温泉に入らないと意味ないじゃない。でもユリよりコウが渋ってた。

「ユリの体を見せたくない」

 ユリだってコウ以外に見せたくないけど、やっぱり白猿の湯にした。でも平日だったし、時間帯も早かったせいか、貸し切り状態で助かった。気持ち良くてこれで今日の疲れが取れる気がする。

 お風呂からあがってノンビリしてたらお腹が空いてきた。ここは部屋食でもお食事処でも良いみたいだけど、お食事処をコウは選んでた。う~ん、お食事処もシックで感じが良いじゃない。

「そういうけど、ユッキーさんたちとの時はもっと凄かっただろ」

 う~ん、どうだろ。あの二人の宿の選択は独特なんだよね。どう言えば良いのかな、値段とか度外視して選んでる気がする。贅沢って意味じゃないよ。自分たちが泊まりたい宿を選んでる。だから民宿だって平気だもの。

 それと飲み食いが桁外れ。それこそ牛のように酒を飲むし、馬のように食い尽くす。お酒なんか一升瓶単位でポンポン注文するんだよ。メニューの追加だって、どれだけ食べるのかと思うほど。

「ユリなら宮中晩餐会も知ってるし」

 あれはあれで凄かった。料理も凄かったけど、それより出席者がね。テレビで見た顔がテンコモリいたもの。

「エッセンドルフの晩餐会なんて凄かったんじゃない」

 出さされたからね。でも何食ったか覚えてない。だってだよ、ハインリッヒの隣で、まるで奥様みたいなホステス役をやらされたようなものじゃない。挨拶に次ぐ挨拶で食うヒマなんかなかったぐらい。

 あんな会はどうでも良い。御飯で一番大事なのは誰と食べてるかだ。目の前にコウがいて食べるのが最高に決まってるじゃない。こんな良い男が目の前にいて、ユリの彼氏で、結婚も確実で、昨夜に女にしてもらってる。これ以上のシチュエーションがこの世にあるとは思えない。

 美食を堪能して部屋に帰ったら布団が敷いてあった。二つきっちり並べてね。それ見ただけでドキドキさせられた。そうそう、今日のツーリングがへばった原因は、やっぱり寝不足。だってロストバージンの後にコウと一緒に寝たけど、興奮が醒め切らずに眠りが浅かったんだ。

 昼間は話に聞いてた違和感があったのもある。なんかまだ入ってる感じがしてしょうがなかった。そうなるって聞いてたけど、ずっと気なってしかたなかったんだ。それでもって今夜だけどコウは求めるよね。

 求められないのも困ると言うか悲しいけど、今日もやりたいかと言えば休みたい。だって痛そうじゃない。昨夜はあれだけ痛かったんだから、ユリのアソコも傷ついてるはず。一度傷ついたものが一日で治るはずがない。

 でもだよ。コウはやりたいよね。男ってそんなものだと聞いている。種馬親父は論外としてもだ。これも聞いた話だけど、男は相手が処女だったら頭に血が昇り過ぎて、一発で終わらず、二発目、三発目もやるのがいるそう。

 コウはそこまで求めなくて助かったけど、今日のこのシチュエーションで求めないはあり得ない。ひょっとすると、今日のツーリング中はそればっかり考えていたもありうる。まあ、それぐらいは思って欲しい部分もあるけど、実行は・・・するよな。

「ユリ」

 コウの目がやばい。ユリはもうコウのものだから、今夜は休んでも、これからいくらでもやれるで納得してくれないよな。コウにしたら今夜もやることが重要と思ってるはず。重要と言うか、素直にやりたいのだろう。

 こんなことなら、旅行前にやっておけば良かった。それだったら、ロスト・ヴァージンの次の週は普通にお休みに出来るじゃない。旅行なんて特殊なシチュエーションだから連夜になるし、コウも燃えるし、ユリも逃げ場がなくってるようなもの。

 後悔先に立たずとはこのことだよな。どうしよう。正直にまだ痛いって打ち明けて今夜は我慢してもらおうか。それとも、女は度胸で耐えるか。自分のためには我慢してもらうのがベターだけど、コウを喜ばすには耐えるのがベター。ユリはどっちをコウにしてげたいかだけど、やっぱりコウを喜ばせたいのがある。でも、痛いよな、絶対痛くて辛いよな。

「ユリ、もしかしてまだ痛むの」

 コウ、エラい。そう切り出してくれたらユリも助かる。

「ゴメン。こんなに痛いとはユリも思ってなかった。コウがどうしてもって言うなら、ユリだって頑張るけど」
「なにを言ってるんだよ。ユリを痛がらせてどうする。ボクもヴァージンは初めてだったから謝る。治るまでやらないよ」

 ありがとう。明日は頑張るつもり。

「ダメだ。ユリに頑張らせるつもりなんかない。ユリがOKになるまでずっと待つ」

 ありがとう。愛してる。でもこれだけはわかってね。ユリはコウを拒否する気なんてどこにもないから。ユリを愛して良いのはコウだけなんだから。でも女の体は複雑なんだよ。まだアレして良いとこまでは距離があり過ぎる。

 良くなるには回数しかないってお母ちゃんも言ってた。こんなとこでヤリマンビッチを引き合いに出したくないけど、他のユリの友だちと較べても経験が桁違いすぎる。それにとにかく実の娘に対してモロ過ぎる。

『そうねぇ、相性さえ良ければ十発ぐらいが目安かな。早ければ五発でもあるはず』

 お母ちゃんは何発かって聞いたら、二発目から確実に感じて、三発目で昇天したそう。感じすぎじゃ。それもだよ、感じ始めたら、

『女の感度はエンドレス』

 でも相手との相性であるのだけは珍しく念を押してた。でもさぁ、女のオナニーの時にも処女じゃなければバイブも使うじゃないかって聞いたんだけど、

『あれはあれでシチュエーションが違う。オナニーの時は、もっとも好ましい相手が入って来ると妄想するじゃない。ユリだってそうでしょ』

 そんなもの実の娘に同意を求めるな。まだ昨夜入れられたばっかりだし、この話の時はまだヴァージンだ。

『ヴァージンだってオナニーの時の指がそうでしょ』

 だから同意を求めるな。でもまあ、そうだよ。つうか想像するのもおぞましい相手なんか考えるはずがないだろうが、

『そういうこと。女って入れられたい男だけに感じるものよ。でもね、入れられたい男との体の相性が必ずしも良くないのもある。そこが難しいところなんだよね』

 コウは入れられたい男としてダントツだ。入れられた上での体の相性は悪くないと思っている。次でもっとはっきりわかるはず。だけどヤリマンビッチじゃないぞ。あんなものが遺伝してたまるか。