ツーリング日和23(第3話)平福へ

 前回のツーリングと同じでまずは山崎を目指す。安富で国道二十九号に入り安志峠を越え、中国道を潜れば山崎の街に入ってくる。前回はこのまま北上したけど、

「県道五十三号、千種、佐用の方に右折です」

 ここだな。ここから先は未知の領域だからワクワクする。山崎市街地が途切れてくると、

「カントリーロードです」

 そんな感じだ。加西から山崎までもカントリーロードみたいなものだけど、街は断続的に繋がっているし、なにより交通量が違う。違うと言うよりガラガラだ。こういう道はバイク乗りが好きなんだ。

「地図を見て思ったのですけど、山崎と佐用って地理的なつながりが乏しい気がしました」

 それは言える気がする。この県道五十三号も佐用方面に向かうとはなってるけど、佐用とダイレクトに繋がっているとはとても言えないんだよな。ぐるっと回って徳久の方に下りて、そこから佐用に行く経路になっている。

「今日は県道一五四号で三日月に下りて佐用の予定です」

 あそこだな。これは志文川のリバーサイドロードだけど、

「渓谷の道です」

 それは言い過ぎだ。三日月は宿場だから、山崎からならこっちの道で佐用に向かっていた気もしないでもない。今だってこれぐらいだから、江戸時代なんてもっと交通の便は良くなかった気はする。そうなったのは・・・経済圏の違いぐらいかな。

 江戸時代も下るほど広域経済圏が形成はされていた。わかりやすいものなら北前船だ。上方と江戸の航路でも良い。ただこれは海運なんだ。江戸時代の陸運はひたすらプアだったとして良いはずだ。

「馬を使ってもやっと二俵の世界です」

 一俵が六十キロとして百二十キロだから軽トラの半分以下しか運べない。人ならもっと少なくなる。だから河川を使った水運が発達している。そういう目で見ると山崎は揖保川水運だし、佐用は千種川水運だ。

「水運の経済圏で確立しているので、佐用と山崎の交通はさほど重視されなかった」

 そんな気がする。人が行き来できたら十分ぐらいの感じじゃないかな。それでもとなると、互いの経済圏で足りないもの、欲しいものがあった時とかになるけど、この辺でそこまでの特産品は無い気がする。

 遠くに運んでまで商いをする理由は、その地域に無いものを、不足するものが今でも基本だ。そういう物の需要があるのは都市部になる。

「もう少し広く商圏を考えると大坂になります」

 千種川なら坂越港、揖保川なら網干港で瀬戸内海に出れるものな。この辺は言葉にもあるみたいで、大雑把には播州弁になるのだけど、佐用と山崎では違っていたらしい。そんな話をしているうちに三日月に着き、

「ここからは美作道です」

 因幡街道でもある。

「鳥取藩ですが、智頭宿、大原宿と泊まった後の次はどこだったのでしょうか」

 どこにも書かれてないんだよな。この辺は参勤交代と言っても必ずしも毎年同じ宿場に泊まるわけでもないようなんだ。だいたいは決まっていても、それこそ天候の影響があったり、

「そのために他の大名との関係があったりです」

 そんな感じだろう。大原宿からなら距離的には千本宿ぐらいだけど、その手前の三日月宿の可能性もあるぐらいかな。その先の觜崎宿はさすがに無理だろう。三日月から佐用に出て、ここからは因幡街道本番だ。

 この辺も広々して気持ちの良い道だ。国道二十九号を北上した時もそうだけど、大型トラックが少ないのがバイク乗りにはありがたいかな。あれが前にいると視界が塞がれるからな。

「あそこです」

 道の駅ひらふくに到着だ。ここまで百二十キロで四時間だから、だいたい予定通りだ。ここはバイク用の駐輪場も整備されていて嬉しいな。とりあえず昼食にしよう。

「しかコロッケです」

 佐用名物としてるけど、こういうのもライダー飯だろ。道の駅に隣接してある平福陣屋門も見に行ったのだけど、

「どの松平ですか?」

 なんて質問をしてくれるんだ。そんなものがすぐに出て来るか! そこから平福の宿場町に。ここの見どころは、宿場町をさらに越えて佐用川を越えての眺めになる。

「これ見たことあります」

 平福の紹介写真と言えばこれだものな。

「千種川の水運を少し調べたのですか、久崎を上限とするものが多かったのですか・・・」

 それはたぶん高瀬舟と言うか、三十石船の遡上限界だったのじゃないか。だからさらに上流も水運はあったはずで、平福だって見ての通り河川交通の跡はあるだろ。イメージとしたら、

「軽トラで運んでトラックに積み替える」

 そんな感じだ。平福と久崎は今の感覚なら近いけど、これを江戸時代に陸路で運ぼうと思えば大変だったはずなんだ。たとえば米十石を運ぼうと思えば、

「二十五俵で馬なら十三頭必要になります」

 もちろん一頭ずつ馬丁がいるし、馬の飼葉代も必要になる。水路に比べると割高になる。時代的には人件費より馬代の方がかなり高かったはずだから、川があれば可能な限り水運として利用したはずだよ。

「久崎が山崎にならなかった理由は?」

 明治になり鉄路が広がった時に河川の水運は衰え消滅したのはどこも同じだけど、久崎は水運に特化し過ぎていたからじゃないかな。山崎はなんだかんだと言っても明治以降も戸倉峠を越える因幡からの物流の中間点だったはず。

「そうなると山崎もまた」

 それを言うか。ああ、そうなるかもしれない。鳥取からの物流ルートからも外れたからな。少なくとも、今後栄えるかと言われたら厳しいかも。この平福だって江戸時代は因幡街道で最大の宿場町として栄えていたそうだ。

 おそらく平福以北の物品がここに集まり、平福から久崎に水路で運ばれていたのだろ。その証拠があの蔵だ。あれだけの倉庫が必要なぐらい物品が運び込まれ、そして出て行った。その頃の平福は大賑わいだったはずだ。

「皮肉な話ですが明治になって急速に衰えたからこそ、これだけの街並みが残ったと言えます。兵庫津なんかなんにも残ってません」

 兵庫津は空襲も受けてるからとくにだろ。それともう一つエッセンスを忘れてるぞ。衰えはしたもののそれでも人が住み続けていたから残ったんだよ。無人の廃墟になっていれば残るものか。

「美玖はこういう風景は好きです」

 わかってるよ。だから一緒になったんだろ。そろそろ行くか。

「はい」